第四章 Time for disasters―逢魔が刻―

「フェルディナンド?」

 キッチンの棚の下を覗き込みながら、リュールカが使い魔を呼ぶ。

 廃墟調査から戻った、明くる朝。村の多くの家々では、既に朝餉を済ませて野良仕事に出かける時分。職業的にも習性的にも夜が遅くなるリュールカは、生活時間帯が村の者と若干ズレている。

「おっかしいわね、いつもならお腹空かせてすっ飛んでくるのに」

 立ち上がったリュールカが、腰に手を当ててため息をつく。

御主人様マイスター、お店のお掃除は終わりました」

 作業服姿のブリュンヒルトが、ちり取りと箒――ヴィルベルヴィントだ――を持ってリュールカに報告に来る。掃き掃除は箒の姿でも出来るが、ちり取りの扱いは人の姿でないとどうにもならない。

「ありがとう、自分の手入れをして休んで頂戴」

 リュールカの声に会釈を返し、店の奥でブリュンヒルトは丁寧にヴィルベルヴィントの汚れを落とす。落しながら、

御主人様マイスター、ペンダントは着けてらっしゃいますか?」

 目線は上げず、大したことではないように、ブリュンヒルトは自分の主人に尋ねる。

「ペンダント?源始力マナの核なら着けてないわよ?」

 パンケーキダッチペイビーを頬張りながら、リュールカが答える。

「あら……てっきり御主人様マイスターが着けてらっしゃると思いましたが」

「……ちょっと待って、何の事?」

 何気ないブリュンヒルトの言葉に、不吉な物を感じたリュールカがナプキンで口のまわりを拭きつつキッチンから顔を出した。

 しゅるり、ヴィルベルヴィントの手入れを終えたブリュンヒルトが箒の姿、元のテーブルブラシに戻ると、カウンターの上のアクセサリースタンドにてこてこと駆け寄り、言った。

「ペンダントが、ここにございませんでしたので」


「リュールカ・ツマンスカヤの名において精霊に命ずる!この者に風を纏わせ空を舞わせよ!」

 ヘブライ語の定型の呪文に続けて、リュールカは具体的な使役の内容を精霊に命じた。続けて、

「ブリュンヒルト!主の命に従いふくろうに変じよ!」

 右手に逆手に持ったテーブルブラシに向けて、言葉と共に力を付与し、頭上に放り上げる。クルクルと回りながら宙に舞ったテーブルブラシ――ブリュンヒルトは、その頂点で急に長軸を中心に回転する紡錘形に膨らむと、その円周方向に長い翼を広げて回転を止める。翼を畳んで体をひねり、小石が落ちるように逆落としで落下したその濃い焦げ茶色の塊は、目の高さに差し出したリュールカの右の二の腕の直前で再び翼を開いて落下を止め、ふわりとその腕にまる。

「捜索範囲は、村の中でよろしいので?」

 その梟は、丸い瞳でリュールカの目を見つめて聞く。

「あの子は滅多に村の外には出ないから。一回りしたら一度戻って来て。私はヘルガに会いに行くから」

「承知しました、御主人様マイスター

 リュールカが腕を振り上げるに合わせ、梟は力強く、宙高く舞い上がる。それを見送ったリュールカは、

「ヴィルベルヴィント、ヘルガの家にやって頂戴」

 壁に立てかけた、柄の長い、エニシダの枝をまとめた庭箒を左手で握り、リュールカが声をかけると、

「はい、御主人様マイスター

 その左手で持った位置を軸にふわりと箒の穂先が持ち上がり、主をいたわるように優しく、庭箒ヴィルベルヴィントはサドルで主の腰を持ち上げつつ水平になる。サドルに横座りになったリュールカごと庭箒ヴィルベルヴィントが宙に浮く。

「参ります、お掴まりください」

 返事の代わりに自分の柄をリュールカが握りしめたのを確認すると、やや前傾したヴィルベルヴィントは小走りより速い速度で地面のすぐ上を滑るように滑空し始めた。


「ギーゼラとハナは居ないのね?」

 対応に出てきたヘルガ、リュールカの記憶に最初に登場する、当時は娘だった老婆にそう確認しながら、リュールカは玄関をくぐる。

 ヘルガが十才そこそこの娘であったのは既に五十年ほど前の事、ヘルガの娘ハナ、ハナの娘ギーゼラは、野良仕事に出た男衆の弁当を作り終えるとそのまま弁当を届けるついでに野良仕事の手伝いに農場に向かっている。居ても別に問題ではないけれど、居ない方が話が早くて好都合ね。リュールカはそう思いながら、後ろ手に玄関扉を閉めた。

「こんな朝早くにあんたが尋ねてくるなんて。こりゃ今日は洗濯しない方が良さそうだわね」

 薬缶やかんをコンロにかけながら、そう言ってヘルガは笑う。ヘルガは、リュールカの中で「自分のことを知る村人の第一世代」と分類されている年齢層の者の中で、その出会いのいきさつもあってもっとも親しく、また今となっては前の戦争と流感の影響もあって数を減らした、その第一世代のほぼ最高齢かつ最後の一握りの内の一人でもあった。

「お構いなくね、ヘルガ。多分、すぐ出ていくから。ちょっと聞きたいことがあって」

 台所のテーブルについたリュールカは、前置きなしに話を切り出した。

「禁忌の場所について、知ってること全部、教えて」

 ぎくりと腰の伸びたヘルガの後ろ姿が、深くため息をついたのが分かった。

「……あたしも、実を言うと良くは知らないんだよ。というか、どうにもぼんやりしててねえ。耄碌しちまったんだか……」

 年の割には曲がっていない腰を伸ばして、振り向いて流し台によりかかったヘルガが自嘲めいた笑顔で答えた。

「いつからか、北の森の奥に入っちゃいけないって言われる場所が出来た、それは確かさ。ただ、それがいつからで、どうしてだかは、どうにも思い出せないんだよ……あたし達の世代はその言いつけを守って誰も近づかなかったはずだけど、後の世代はどうだろうねえ、ギーゼラがこの間、兵隊さんを案内したんだろう?その程度には、今の子供達には禁忌って言ってもその程度の効力でしかない、言い伝えなんてそんなもんって事なんだねえ」

 湯の沸いた薬缶を持ち上げながら言ったヘルガは、そのまま二人分のコーヒーを入れる。

「私は、この村の近くにそんな場所があることすら知らなかった。この村のまわり、半径五十キロの事は全部知ってるつもりだったのに」

「あんただって、月の魔女さまって言ったって生身の人間なんだ、知らないことや取りこぼしたことがあったって不思議はないさね」

 熱いコーヒーの入ったカップを置きながら、ヘルガは俯き気味のリュールカに優しく声をかける。

「そうじゃないのよ。多分、いえ、間違いなく、これは誰か、私と同等か下手するとそれ以上の魔法使いの仕業よ。だって、私は、昨日も行ったはずのその場所を、思い出すことが出来ないの」

 きっと顔を上げたリュールカが、その漆黒の瞳で真正面からヘルガの優しい灰色の目を見つめた。

「ギーゼラが案内出来たり、兵隊が辿り着けたりするんだから、みんなには私ほど強くは呪いまじないの影響は出てないみたいだけど、あなたはどう?ヘルガ?あなたは、その場所を思い出せる?」

 北の森、と、先ほどヘルガは言った。だから、ヘルガはその場所をきっと覚えている。けれど、私は、おとといギーゼラと地図を見て相談したことも、森の上を飛んでその近くまで行ったことも、昨日実際にその場所の地下に行ったことも覚えているのに、今朝起きたらきれいさっぱりその場所・・の記憶が抜けている。抜けていること自体に気付きもしなかった、あの一件に気付くまでは。リュールカは、ヘルガに尋ねながらほぞを噛む。

「知ってるさ、場所はね。行った事はないけどね。そうかい、あんた相手にそんな呪いまじないが出来る魔法使いが、あんた以外にも居るってのかい。そりゃあ大事おおごとだねえ」

 そう。大事だ。何故なら。

「……その魔法使いが、フェルディナンドを操って、私のペンダントを盗み出した、らしいのよ」

 絞り出すような声で、リュールカは事の真相を告げた。

「本当かい?そりゃあ……いや、あり得ないだろう?」

 フェルディナンドと呼ばれる、人語を解する黒い仔猫がリュールカの使い魔フェアトラートである事は村の皆が知っている。使い魔と主人の関係は魔女や魔法使いそれそれによって違いがあり、そもそも使い魔を持たなかったり、持っていても互いに干渉する事を避けている例もあれば、精神的にも肉体的にも一心同体と言える関係である場合もある。リュールカとフェルディナンドの場合はどちらかというと互いに過干渉を避けるタイプであったが、少なくともリュールカからは、フェルディナンドがおおよそどこに居て何をしているかは常に把握出来ていた。だからこそ、リュールカは安心して留守を任せて店を空ける事が出来たし、フェルディナンド自身もあまり外出をしたがらず、したとしても行動半径は村の中に限られる、そうリュールカは認識していた。

 それが、今朝からは全く居場所がわからない。

 そして、源始力マナの蓄電池、源始力マナの核である水晶球のペンダントも行方が知れない。長年にわたって余剰の源始力マナを貯め込んだそれは、使い方一つでこの村はおろか、都市一つまるごときれいに更地に戻せるくらいの破壊的な呪いまじないを、一回と言わず複数回立て続けに行使出来る位の恐るべき代物に仕上がっている。

 勿論、盗み出したからと言って、おいそれと他の魔法使いに使える代物ではない。水晶球から源始力マナを引き出すにはそれなりの手順と認証が必要になる。ありていに言えば、リュールカ以外にはそこから源始力マナを引き出す事はほぼ不可能と言える。だが、問題は実はそこではない。

「あり得ないと、私も思いたいけれど。状況はそう思うしかないのよ。戸締まりした私の店から私に気付かれずに何かを持ち出せるのは、私自身を除けば、同じ波長を持つフェルディナンド以外には居ないし、そもそもあのペンダントがそこにある・・・・・事を知っているのは私とフェルディナンドだけだもの」

 物体は、有機物無機物を問わず、そこに存在するという確たる存在感を放つ事で、始めて他者に認識される。存在感のないものは目に見えていても認識されず、故に、呪いまじないによって意図的に存在感の放出を阻害すれば、その対象は誰にも「見えてはいるが認識出来ない」存在となる。ほとんどの場合は、触れたり音をたてたりすれば認識されてしまうが、非常に強力な呪いまじないであれば、五感の全てを阻害する事も出来る。リュールカがペンダントにかけた呪いまじないはまさにそのようなもので、ヘルガを含む一部の村人はそのペンダントが存在する事自体は知っているが、リュールカの「許し」がなければ存在を感じる事が出来ない、ペンダントの危険性を鑑みたリュールカはそのようにペンダントに呪いまじないをかけていた。

「だから、可能性として、ペンダントはフェルディナンドが持ち出して、その居場所はこの周囲ではその禁忌の場所しか考えられないのよ。それ以外の方法では、この状況は作り出せないの」

 呪いまじないによって仮初めかりそめの人格を与えられた箒であるブリュンヒルト及びヴィルベルヴィントと違い、フェルディナンドは仔猫としてオリジナルの人格を持ち、生物的にも仔猫そのものである。なので、箒達のように姿形を変える事は出来ず、行動半径は仔猫としての肉体に制約される。そして、仔猫が一晩歩いたとして、その移動距離はせいぜい三十キロがいいところである。正確な場所そのものはリュールカは思い出せないが、昨日やおとといの移動時間から逆算して、件の禁忌の場所がそれよりはるかに近い事は把握出来ていた。

 リュールカは、懐から手書きの地図を出してテーブルに広げ、ヘルガに頼んだ。

「だからお願い、ヘルガ、その禁忌の場所、教えて」


「村の中にフェルディナンドは見当たりませんでした、御主人様マイスター

 ヘルガの家の台所の窓ガラスを嘴で叩き、部屋の中に入れてもらった梟――ブリュンヒルトは、リュールカの左の二の腕にまってそう報告する。

「ありがとう、これではっきりしたわね」

 梟の頭を撫でながら、リュールカがブリュンヒルトをねぎらう。

「ヘルガのおかげで場所もはっきりしたし。ヴィルベルヴィント、行くわよ」

「はい、御主人様マイスター

 テーブルに立てかけられていた庭箒がきっぱりと答えて直立し、床からわずかに浮き上がって滑るようにリュールカに近づく。

御主人様マイスター、もう一つ。兵隊が移動してます」

 リュールカの二の腕から少しだけ舞い上がり、くるりと縦に回転しながらテーブルブラシの姿に戻ったブリュンヒルトが、リュールカの手のひらに収まりながら言う。

「兵隊が?」

「既に相当離れていたので詳しくは分からないのですが。昨日のトラックが北に向かって走り去るのを見ました……繋いだ・・・方がよろしかったでしょうか?」

 最後の方はおずおずと、ブリュンヒルトが付け足す。やろうと思えば、呪いまじないによって人工人格を与えられた箒であるブリュンヒルトとヴィルベルヴィントの五感をリュールカは共有する事が出来、必要とあれば箒の側からそれを要請する事も出来るが、ブリュンヒルトはこの時それをしなかった。その判断が正しかったかと、ブリュンヒルトは主人であるリュールカに尋ねているのだ。そういった判断まで出来、結果について責任を感じるほどに、ほとんど生身の人間と区別が付かないほどに、この箒達の人工人格は完成度が高い。

「大丈夫、問題は無いわ。私の話の邪魔をしたくなかったんでしょう?あなたの判断はそれでいいわ」

 その人工人格の判断を、リュールカは肯定する。この繰り返しで、リュールカは人工人格を育ててきたのだ。本来は人工生命ホムンクスルに与えるような、高度で繊細な人工人格を。

 その、自分が育てた人工人格の完成度を確認し軽い満足感を感じた時、リュールカはふと思った。何故、自分はこれほどまでに人工人格を育てようとしているのか、と。自分の手伝いをさせるだけなら、もっと単純な人格で充分なのに。

 いやいや、今はそんな事を考えている時ではない、すぐにリュールカはそう思い直す。きっと、単なる気まぐれ、せいぜいが話し相手が欲しかった程度の事だろう、そう簡単に結論して、リュールカはその事を一旦忘れる事にする。

「ありがとうヘルガ、行くわ」

「気を付けるんだよ」

 心配げな老婆に微笑みを残し、リュールカはヴィルベルヴィントに横座りになって玄関を飛び出した。


「まさかとは思ったが……」

 森の入り口で乗り捨てられている乗用車オペル・カデットを見て、スヴェン・ジンネマン曹長は唸った。

「特務少尉、お一人で来られたって事ですか?」

 ポンコツ軍用トラックオペル・ブリッツの荷台から降りながら、クルト・タンク二等兵が、皆が思っている事を代表して声に出した。

「我々以外に誰か連れてきてなきゃ、そういう事だな」

 リヒャルト・フォークト伍長が、クルトの言葉を引き継ぐ。グドルーン・ブルヴィッツ特務少尉の指揮する調査小隊の半数を占めるクランプ分隊は別地点の調査に向かっている。ジンネマン分隊の残り半分、ベー班も同様に別地点で調査中である為、ここにアー班の全員が居るという事は、グドルーンは誰一人兵を連れていない、という事になる。

「あの少尉さんが、一人で村人連れて来るとも思えないしな」

 リヒャルトが、皮肉交じりの感想を述べた。

「誰かと来たのか、一人なのか、それも問題だが」

 ジンネマンが、リヒャルトの言葉を遮るように言う。

「兵を連れずに、一体何しにここに来たか、そっちの方が問題だ。急ぐぞ」

「嫌な予感しかしやせんや……」

「全くだ」

 小銃を担ぎなおしたエルンスト・ハインケル一等兵のぼやきに、軽機関銃の負い紐スリングを締め直したリヒャルト伍長が同意した。それを聞いた下っ端二人、クルト・タンク二等兵とエドガー・シュミード二等兵は、不安を隠せない表情で小銃を握りしめ、大股で森に入るジンネマン曹長の後に続いた。


 暗闇の中で、黄金の双眸が光った。

 表はすっかり明るくなっているが、そうは言ってもまだ太陽は昇りきったわけではない。森の奥の廃墟の、さらに地面の下の穴の中にはほとんど日は差さず、地下の回廊はひたすらに暗かった。

 その回廊を、フェルディナンドはペンダントを咥えて歩く、奥の扉に向かって。

 重い引き戸を閉め損なったのか、その奥の引き戸はわずかに隙間を残していた。

 フェルディナンドは、それが当たり前であるように、その隙間をくぐる、無警戒に。

 まるで何の気配も感じさせず、そのフェルディナンドの首根っこが、何者かに掴まれた。

「あっ!」

 思わず声をあげたフェルディナンドは、その拍子に咥えていたペンダントを取り落としてしまう。必至に自分の首筋を掴むなにかから逃れようとフェルディナンドは体をひねり、もがく。が、首筋を後ろから掴まれては、猫の体は為す術を持たない。

「明かりを点けて結構ですよ」

 粋なスーツを着た男が、かがんでペンダントを拾いながら、広間の片隅に控えるグドルーン・ブルヴィッツ特務少尉に飄々と声をかける。

「離せ!返せ!この!それはリュールカの……」

「言ったとおりだったでしょう?」

 携帯用のバッテリーランタンで薄暗くはあるが不自由はない程度に照らされた広間の中で、浅黒い肌の男は白い歯を見せる。

「猫が、しゃべった……」

 青い瞳が転げ落ちそうなほどに目を見開いて、グドルーンが呟いた。

「ご覧になるのは初めてですか?まあ、初めてでしょうねえ。これが、魔法使いが使う使い魔って奴です。そして、このあたりで使い魔を持つような魔法使いと言えば?」

「まさか、あの娘が……?」

「ご明察です。さすが、『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』のエリートは察しがよくて話が早い」

「離せよ!ペンダントを返、く!」

 必至に暴れる仔猫の首筋を掴んだ手に、黒い男は力を込めた。仔猫の声が詰まり、苦悶の声が漏れる。

「お静かに願いますよ?ここからがいいところ、面白いところなんですから」

 その黒い男がグドルーンを誘い出したのは、村の者も起き出していない未明の事だった。「鍵が動いたから、扉を開けに行きましょう」そう言って男は寝起きのグドルーンを急かして支度させ、まだ夜も明けきらぬ暗い田舎道を運転させ、明け方の薄暗い森の小道を歩かせ、『鍵』の先回りをしてこの廃墟の地下回廊から繋がる広間へといざなった。息をひそめてどれくらい待っただろうか、微かな足音と共に入って来た黒い仔猫を黒い男は暗闇の中で苦もなく素手で捕まえ、その仔猫が咥えていたペンダントを反対の手でグドルーンに差し出した。

「これが、鍵です。さあ、扉に当てはめて下さい」

 ぎくしゃくと頷いて、グドルーンはペンダントを受け取った。猫が、しゃべった。使い魔。知識としては知っているがそんなものは空想の産物、過去に魔女と呼ばれた者達はいかがわしい邪教に溺れた単なる痴れ者、そう思っていたグドルーンの中の常識が、今、音をたてて崩れていた。

 現実にはあり得ないと思っていたものが、今、目の前に現実として存在する。グドルーンは頭の奥が痺れるような非現実感を感じつつも、同時にそれが事実なら認識を新たにしなければならないと、必至に受け入れようと葛藤していた。

 そして、葛藤しつつ、言われるがままにペンダントを受け取り、正面の歪んだ五芒星の中心の窪みにペンダントの核たる水晶球をあてがった。

 あてがって、一歩、二歩と無意識に後じさったグドルーンの隣に立った男は、愉快そうな声で言う。

「あなた方には読めないでしょうけれど、ここに、この印の上に、こう書いてあります。『この地にて伏せたるリュールカ、夢見るままに待ち至りけり』」

「……リュールカ?それ、あの娘の」

「下には、こうも書いてあります」

 グドルーンの声を無視するように、男は話を続けた。

「『されど我は蘇り、再び月に還るであろう』。さて、それでは、この一節を、本来の発音で読んで差し上げましょうか?」

「やめ……ろ……」

 フェルディナンドが、必死に、絶え絶えの息の下から声を出した。

「お前じゃ……ない……起こすのは……」

 男の意識が扉の文字に集中した隙に、限界まで体を丸めたフェルディナンドの後ろ足の爪が、首を握る男の手首を掻いた。

 ぶつり。重い包丁で豚肉を断ち切るような音と共に、男の手首が二の腕から離れた。

「起こすのは、リュールカの役目だ!」

 体をひねって着地したフェルディナンドが叫ぶ。その四肢の爪は、驚くほど、あり得ないほど長い。

「ひ!」

 グドルーンが息を呑む。小さなバッテリーランタンでは広間の中は照らしきれず薄暗いが、それでも男の手首が失われた事は、目の前で起きた事実は理解出来た。

「おっと。ちょっと油断しました」

 しかし、男はまるで意に介さず、痛みすら感じていないかのように飄々と言うと、フェルディナンドを一瞥しただけで扉に向き直った。

「ぐ、な!」

 いつの間にか、フェルディナンドの首を握っていた男の手は、別の何かに変じていた。変じて、手で握るより強く、フェルディナンドの首に、胴に絡みつく。

 足下の暗がりで、黒い仔猫も、黒い男の手も薄暗い闇に紛れて判別出来なかったのは、グドルーンにとっては幸運だったと言えた。

 それは、這い、うねる、この世のものならざる、混沌とした何か、だった。

「かはっ!」

 苦しげに吐く一息を残して、それきり足下の黒いものは動かなくなる。

「さて、気を取り直して、読みますよ?」

 何が起きたのか半分は理解し、半分は理解出来ない事に怯える眼差しのグドルーンにそう微笑みかけると、黒い男は、人には絶対発音出来ない言葉で、その封印の文言を読み上げた。


「ぐ!」

 森の上を滑るように飛ぶヴィルベルヴィントの上で、リュールカが呻いた。

御主人様マイスター、如何されました?」

 ヴィルベルヴィントが、声をかける。リュールカの声と姿勢の乱れ、何よりも自分の柄を強く、苦しみに爪をたてるように握りしめられた事で主の異変に気付いたのだ。

 万一に備え、ヴィルベルヴィントは空中で静止し、梢の隙間を見つけて高度を下げる。

御主人様マイスター?」

 リュールカの胸元から、ブリュンヒルトの心配そうな声も聞こえる。

「……大丈夫よ、私は、大丈夫……」

 大きく、荒い息をしながら、リュールカは吐き出すように言った。

「ヴィルベルヴィント、急いで……フェルディナンドが……まずいわ……」

「はい!御主人様マイスター!」

 ヴィルベルヴィントは、一気に上昇して急加速、梢を吹き飛ばさんばかりの猛烈な速度で廃墟に向かって再度飛び出した。

 当のリュールカのみならず、箒達の人工人格ですら理解出来たのだ。

 フェルディナンドが、断末魔の一瞬だけ、強制的にリュールカに繋いだ・・・事を。


「何だ!今のは!」

 理解を超越した感覚に襲われたジンネマンは、そう叫んでいた。

 廃墟の地下に繋がる縄ばしごを、ジンネマン曹長を先頭にエルンスト・ハインケル一等兵が下に降り、クルト・タンク二等兵が続いて地下回廊に降りようとしたところで、その風は真正面、広間に繋がる扉から吹き付けてきた。

 風?こんな所で?ジンネマンは不審に思う。この地下の回廊で、風?

 ほんの一瞬で額にびっしょりと汗を掻き、思わず膝をつきそうになって、ジンネマンは空元気を振り絞って耐えながら考える。今のは一体何だ?まるで細胞の隙間を風が通り抜けたような、冷たい手で内臓を鷲掴みにされたような違和感、嫌悪感、不快感。

「な!こいつ!」

「畜生!またこいつか!」

 上から、穴の外からリヒャルト・フォークト伍長とエドガー・シュミード二等兵の声がする。続いて、発砲音。何かとやり合っているのか。

「う、うわ!」

 背後から今度はクルト・タンク二等兵の声。振り返ったジンネマンは、恐らく自分と同じように急激な脱力感に見舞われたのだろう、縄ばしごから落ちそうになっているクルトを見た。とっさに駆け寄ろうとするが、自分のすぐ後ろでエルンストがやはり脱力してしまっている。そのエルンストが邪魔で、駆け寄れない。

 ほんの一瞬、そうこうしているうちに、クルトの両手が縄ばしごから外れ、片足も縄ばしごを踏み外した。とっさに両手を振り回すクルトだが、その手は空しく宙を掻くばかり。

「わあ!」

 ダメだ、助けられない。エルンストを力任せに跳ね飛ばしてクルトの落下地点に駆け寄ろうとするジンネマンだが、力が入りきらず体が思うように動かない。

「クルトー!」

 叫ぶしか出来ないジンネマンは、見た。落下し始めるクルトより早く、真一文字に何かが穴の中に降ってきたのを。瞬きするより早く、その何かは人の姿に変じたのを。変じて、作業服を着た、「魔女の家ヘキセン・ハウゼン」で見た覚えのある青年が、落ちてきたクルトを軽々と受け止めたのを。

 何が起こったのか理解が追いつかないジンネマンに会釈すると、その青年はクルトを優しく回廊の床に置き、続いて軽く腰を落とすと垂直に跳躍した。跳躍の途中、穴から外に出る直前でその姿はあろうことか庭箒に変じ、そのまま飛び去って行った。


「リュールカ・ツマンスカヤの名において!精霊よ!く現れ出でて我が魔法具に宿れ!我が魔法具に宿りて我に仇成す者を斬り祓う刃と化せ!」

 危機を察してヴィルベルヴィントを先行させたリュールカは、高高度からそれまでの水平速度をほとんど殺さずに落下軌道を描きながら、地上の精霊を使役する呪文を唱えた。

「ブリュンヒルト!」

「はい!」

 胸元から右手で逆テーブルブラシを取り出して逆手に持ち、リュールカは宣言する。

「我が剣に変じなさい!」

「御意!御主人様マイスター!」

 たちまちのうちに、それまでテーブルブラシだったそれ・・は、輝く刀身を持った新月刀シミターに変じる。

 まわりで渦巻く大気に負けじと声を張り上げ、さらにリュールカは呪文を重ねる。

「白痴の魔王の御名に於いて、この場にあらわれ、刀身に力を与えよ!我に仕え、我を助け、我が呪文に力を与えよ!」

 叫びながら、リュールカは左手の人差し指を新月刀シミターの刀身に滑らせる。いつの間に傷つけたのか、指先から浸み出す血糊で刀身の裏表に素早く、地上のどの文明でも使われていない文字を描く。

「力をあたえよ!力をあたえよ!!力をあたえよ!!!」

 繰り返す度、白銀に輝く刀身は黒く染まる。

「火の秘文字の刻まれた霊験あらたかなるこの剣をもって、我が命に背く諸霊を悉く震え上がらせよ!」

 右手で逆手に持った新月刀シミターの刀身が漆黒に染まる。ちらりとそれを一瞥して確認したリュールカは、真正面から突っ込んでくるそれ・・に向かって、新月刀シミターを薙いだ。

「道を空けろお!」


「大丈夫かクルト、ケガはないか?」

 目を回してはいるが、とりあえず骨折も出欠もなさそうなクルトにとにかくジンネマンは声をかける。

「あ、はい分隊長、自分は健康であります」

 今ひとつ頼りにならない返事をして、クルトは立ち上がろうとする。

「……よし、ケガはないようだな。エルンスト、お前は大丈夫か?」

「大丈夫です曹長、すいやせん、俺が邪魔しちまったみたいで」

「いや、いい、お前達にケガがなければいい。それより上だ、どうなってる?」

「ああ、そうだ分隊長!自分、見ました!奴が、あの黒いのが飛び出してきて!」

「何だと!」

「……曹長、クルトは、嘘言ってないみたいですぜ」

 クルトに話しかけてる都合で扉に背を向けているジンネマンと、ジンネマンの陰で扉が見えていないクルトに、ジンネマンの背後、つまり扉側に二歩ほど奥に進んだ位置に居るエルンストが声をかけた。

「もう一匹、出て来やした」


 それは、ほんの一瞬の出来事だった。

 エルンスト・ハインケル一等兵の言葉に振り向いたジンネマンは、その目の前でエルンストが例の黒いガーゴイルに抱きかかえられ連れ去られるのを、自分の頭上を飛び越えてそのまま穴から地上に飛び出すのを見た。見る事しか出来なかった。

「エルンスト!」

 叫び、ジンネマンはとっさに縄ばしごに飛びつく。

「あ、そ、曹長!」

 クルト・タンク二等兵は、その縄ばしごの下にしがみつき、縄ばしごが揺れないよう、ジンネマン曹長が少しでも上りやすいよう、支える。

 そのおかげか、驚くほど早く、それでも普通の梯子よりは時間を浪費して地上に顔を出したジンネマンの見たものは、落下し、地表に激突する部下の姿であり、聞いたのはその部下の絶叫であった。

「あ……ああ……」

 ジンネマンは見た。地表に叩きつけられたエルンストが痙攣するのを。エルンストからさほど離れていない地面に、同じようにリヒャルト・フォークト伍長とエドガー・シュミード二等兵も倒れているのを。

 そして。自分に向けて、奴が再び急降下してくるのを。


御主人様マイスター!周囲の森から夜鬼が離陸して来ます!」

 そこそこ落下速度の上がったリュールカに下方から接近、すくい上げるようにサドルに載せたヴィルベルヴィントが、過大な加速度が出ないように緩い軌道で上昇に転じつつ、リュールカに進言する。

「転進急降下!あっちが先よ!」

 左のペダルを蹴飛ばし、無理矢理ヴィルベルヴィントを横滑りさせて進路変更させつつ、眼下をめつけたリュールカが怒鳴る。

「御意!」

 ヴィルベルヴィントは即座に従い、逆落としに降下する。

「支えて!」

 両のペダルを踏みしめてサドルから立ち上がったリュールカが、両手で新月刀を構える。そのリュールカの足を、ペダルを変形させてヴィルベルヴィントはしっかりと固縛する。

「その人を離せ!」

 両手で握り、右後ろに深く構えた新月刀を、急上昇する夜鬼とすれ違いざまに、急降下しながらリュールカは振り抜く。そのまま通り抜けた夜鬼の胴体が、数瞬の後に袈裟懸けに切り裂かれ、分離する。

「う、うわ!」

 夜鬼に抱えられていたジンネマンは空中に放り出され、そのまま少しだけ上昇した後、無重量状態で自由落下を始める。

「わあああああ!」

 翼を持たぬ人間は、空中で放り出されては為す術がない。自分の置かれた状況を理解し、しかしジンネマンは叫ぶ事しか出来なかった。

 ああ、俺も死ぬのか。墜落して。部下達みたいに。ジンネマンは目をつぶる。覚悟するとか、観念するとか、そんな事は思い浮かばない。ただ、自分が地面にぶち当たる、その瞬間は見たくなかった。

「リュールカ・ツマンスカヤが精霊に命ずる!く現れ出でての者に翼を授けよ!」

 はるか下方で、聞き覚えのある声がした。それが意味するところは分からない、効いた事のない言葉だった。

 閉じた瞼の裏が、淡く光った。ジンネマンは、その時を待った。待った。待って、まだ来ない。まだか?思ったより遅い、止めてくれ、これじゃ生殺しだ、そう思って、地面まであとどれくらいか確認しようと、固く閉じた瞼を少しだけ、開いた。

 そして。ジンネマンは、自分が何か光る模様の上に横たわり、ゆっくり降下している事に気付いた。


 唖然として、クルトはその光景を見ていた。

 最初は、縄ばしごの上に居た分隊長が奴に連れ去られるのを見た。驚きと、焦りと、あと半分は一人でここに残される恐怖からだろう、何かわけの分からない事を絶叫しながら縄ばしごをよじ登ったクルトは、分隊長を抱えた奴が、空中でなにか黒いものとすれ違った直後に真っ二つになったのを目撃した。その黒い何かは、急降下からものすごい勢いで引き起こすと、地面ギリギリで勢いを止め、何か知らない言葉を空に向かって叫んだ。直後に、真っ二つになった奴から放り出された分隊長のまわりに何重もの輝く円が出現し、その円の中は何かの模様がびっしりと描いてあり、円の外には光る翼があって、分隊長を乗せてゆっくりと降りてくる。

「ヴィルベルヴィント、弓に変じなさい!大きい方!」

 聞き覚えのある声がする。穴から半身を出したクルトは、声の主を探す。いた。さっき急降下してきた黒い何か、魔女リュールカ・ツマンスカヤ、その人。

「御意!」

 リュールカが飛び降りるやいなや、一声ひとこえ青年の声がすると、箒だと思っていたそれが実は長弓ロングボウであった事をクルトは知った。いや、確かに箒だった、いやしかしあれはどう見ても長弓だ、クルトの頭は混乱する。

「っと、この体じゃ引き切れないか」

 矢のつがえられていない弓を天空に向けて引こうとしたリュールカが、半分も弦を引けずに独りごちる。

「リュールカの名において、一時いっとき、我が体の縛めを解く。エイボンの子リュールカよ、一時、あるべき姿を現せ!」

 クルトが聞いた事もない国の言葉をリュールカは唱えた。気が付くと、ついさっきまでリュールカのいたところに長身の女性が立っている。同じ弓を持ち、同じ眼鏡をかけ、同じ服を着た大人の女性が。

 まるで魔法だ。クルトは思った。箒が弓に、少女が大人に。瞬きするより早く、姿が変わる。これこそが魔法、これこそが、魔女。クルトは、先ほどまでの焦りも恐怖も忘れ、膝丈ほどになった黒いローブをはためかせて天空に向け弓を引き絞るその魔女の姿に魅入っていた。

「……エイボンの子リュールカが精霊に命ずる!『生ける炎』用いて我の指し示す先を射貫け!光弾よ、的を撃ち抜け!神鳴るごっど剛弓ごーがん!」

 またしても、クルトが知らない国の言葉でリュールカが何かを唱えた。リュールカの弓を持つ左手の人差し指から、まばゆく、高熱を発する光球が生じ、蜃気楼のような矢の矢尻に移動し、輝く。

「束ね撃ち!」

 リュールカの「力ある言葉」と共に、蜃気楼の矢が分裂、増殖する。一瞬で十数本にまで増えた蜃気楼の矢は、歌い上げるようなかけ声と共に撃ち放たれ、真っ直ぐに天頂を目指すと、見えなくなる寸前にそれぞれが与えられた目標を指向して分散し、淡く光る軌跡を残しつつ緩降下でさらに加速する。


 数秒後、空の彼方のあちこちから、鈍い破裂音が幾度も響いてきた。


「オムニポテンス・アエテルネ・デウス……」

 右手には新月刀を逆手に、左手には長弓を握ったまま、間を置かずリュールカは別の呪文を唱え始める。先ほどまでの、全く知らない国の言葉に比べれば、まだどこかで聞いたような発音や単語が含まれる呪文はクルトの耳になじむ。

「偉大なる魔法使いマーリーンの孫にして、大魔女エイボンの子たる我、この魔女リュールカ・ツマンスカヤの名において精霊に命ずる。遅れることなく速やかに現れ出でて、我の求めるところを成し遂げよ!」

 そのリュールカの言葉は、クルトにも聞き取れた。その次の言葉も。

「精霊よ!リュールカ・ツマンスカヤの求めに応じ、今一時いまいっとき、かの者達の魂を肉体に繋ぎ止めよ!」

 ゆっくりと、リュールカは右手の新月刀を儀式めいた動きで横に薙ぐ。その場を清めるかのように。

「リヒャルト・フォークト、エルンスト・ハインケル、エドガー・シュミード。リュールカ・ツマンスカヤの名において、今一時、そなたら死する事を禁ずる!そこな死に神!リュールカ・ツマンスカヤの懇願を聞き入れ、その手を今一時留まらせたまえ!」

 虚空を新月刀で突き示して、リュールカが声を張り上げる。懇願の形をとった使役の命令。クルトは、感じた。大気が、声に合わせて振動するのを。

「……名前、聞いといてよかったわ」

 新月刀を突き出したまま、リュールカが、眼鏡をかけた長身の魔女が独りごちた。

「半日はもつはずです。隊長さん、クルトさん、その間に、この人達をお医者に運んで下さい」

 穴から半身を覗かせるクルトと、そのクルトに近づいてきたジンネマンに振り向いたリュールカは、慈母のごとき微笑みで二人にそう命じた。


「リュールカさん、ですよね?その格好は……」

 穴から地上に出てきつつ、クルトは目の前の、さっきまでは確かにリュールカであった黒衣で長身の魔女に聞いた。

 ちょっと恥ずかしげに、あるいはバツが悪そうな顔をして、リュールカは答える。

「この姿は燃費が悪いので、普段はあの姿にしてるんです」

「燃費?」

 思わず尋ねたジンネマンに、リュールカは、

源始力マナの消費量です。余剰の分を貯めてるんですが、この体だとほとんど余らないので。本当はこれが……」

 年相応なんです、そう言おうとしたリュールカは、はたと気付いた。自分は、実際に何歳なのだっただろうか、と。

 月の魔女は、体そのものは地上の人間とほぼ変わらない。だが、時の流れそのものが違う為、地上の歳の数え方はそぐわない。それはそうなのだが、この姿が年相応だとしたら、それはつまり地上では軽く百年は経ている事を意味する。だが、リュールカには、どう数えても五十年分程度の記憶しかない。普段のあの姿は、その地上での五十年にふさわしい姿でもある。つまり、辻褄が、合わない。

 そして、もう一つ。

 何故、自分は、そんなにして余剰の源始力マナを貯め込んでいるのか。今の姿でも、魔女として暮らすのに不都合はない。源始力マナを貯める必要があるとしたら、それは、何か大きな呪いまじないの準備、その為だ。

 不自然に黙り込んでしまったリュールカの反応を、失礼な事を聞いてしまったせいかと誤解してこちらも言葉に詰まったクルトとジンネマンは、少し離れた所で上がったうめき声でハッと我に帰った。

「リヒャルト!エルンスト!」

「エドガー!」

 修羅場の最中である事を思い出し、部下と同期兵に駆け寄るジンネマンとクルトを見て、リュールカも今すぐは必要のない考察を一旦中断する事にした。


「ヴィルベルヴィント、お二人を手伝って差し上げて」

「はい、御主人様マイスター

 あり合わせの材料で担架を作り、一番重傷に見える――生きているのが不思議、と言った方がいい――エルンストを乗せて持ち上げようとしたジンネマンとクルトを見ながら、リュールカが左手の長弓に語りかけた。返事をして、すぐさま長弓は庭箒に戻る。

「その担架を、私に吊して下さい。私がトラックまで運びます、その間に、もうお二人分を担架に」

「あ、ああ」

 宙に浮いて側に寄ってきた庭箒が青年の声でそう言うのを聞いて、ジンネマンは戸惑いつつ答える。

「クルト、ロープでそっちを。俺はこっちをやる」

了解ですヤボール

 腰の高さに浮く庭箒に、二人がかりで担架を吊す。文字通り虫の息のエルンストを、リュールカが骨の位置を修正してから呪いまじないを唱える。

「致命的なところだけは手を貸します。後は、人のお医者様に。村のお医者には私が薬を卸してますからまずはそこへ」

 長身で妙齢の、しかし見慣れていたはずの少女の面影をわずかに残す黒衣の魔女の言葉に、ジンネマンは頷く。

「すまない、なんとお礼を言ったら良いか、俺の部下達を」

 怪我人に負担がかからないよう、スムーズに加速し上昇してトラックに向かう箒を見送ってから礼の言葉を述べようとしたジンネマンを、リュールカの言葉が遮る。

「私の不始末です。私こそ謝らなければなりません、こんな危険な場所を見落としていたのですから」

「やはり、危険だったのですね?」

 二つ目の担架を木の枝と自分の上着ででっち上げながら、クルトが聞いた。

「そうです……あの時何故、夜鬼が動かなかったのか。動かなかったから、油断してしまいました。申し訳ありません。私のミスです」

 エドガーに呪いまじないをかけたリュールカが、悔しげに答える。

「いや、多分だが、ウチの特務少尉殿がなんかちょっかい出したんだろう、あんたのせいじゃない、と思う」

 そのエドガーを担架に乗せながら、ジンネマンも苦々しげに言う。

「少尉殿が、我々にも何も言わずに一人でここに来たらしいんです。恐らく……」

 エドガーの折れた大腿骨に添え木を当てながら、クルトも答える。

「それでも、私の失態よ。だから、せめて、後始末はします」

 リヒャルトにも呪いまじないを掛け終えたリュールカが、立ち上がった。

「あなた達もここを離れて下さい。多分、安全を保証出来なくなります」

 ジンネマンとクルトに背を向けたまま、穴の奥を見つめたまま、リュールカは固い声で言い切る。

「ここを、更地に戻します。こんな危険な場所は、地上にあっちゃいけないの……なるべく早く、離れて下さい」

 リュールカは、振り返らずに、穴の中に身を躍らせた。


 白いスーツを粋に着こなした浅黒い肌の男が紡ぎ出すその音を聞いた時、この地上のものではない、人には発音出来ず、人が聞いてはならない呪文を聞いてしまった時、グドルーン・ブルヴィッツの脳の中で何かの留め金が外れた。

 自分は、どうしてここに居るのか。誰がこの調査を命じたのか。何を調査せよと命じたのか。そして。

 そもそも、この、浅黒い肌をした男は誰なのか。

 『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』の職員でも研究員でもない。勿論、軍人でも党員でもない。では、一体誰で、どこから来て、いつから一緒にいるのか。

 こいつは、何者なのか。

「洒落が効いてますね。よりによって、何故この呪文を選んだのか。よほど誰にも読まれたくなかったんですかね。全く、面白いです」

 歪んだ五芒星の中央、見方によっては瞳にも見える意匠の中央にはめられたペンダントの水晶球が、淡い光を放っている。

こっち・・・の方が、まだあの魔女の国の言葉より知っている人が多いですからね。まあ、その代わり、こっちはデメリットも多いですけれどね」

 面白そうに、くすくす笑いながら男が言う。その背中と、どういう仕組みか水晶球をその場に、空中に残してゆっくり左右に割れ開く扉を見ながら、グドルーンは震える自分の体を自分の腕で抱きしめる。体の芯が、凍えるほど冷たい。震えが止まらない。

「一体何を……あなたは……」

 グドルーンは、やっとの思いでそれだけの言葉を絞り出す。

「おや、正気に戻ってしまわれましたか?呪文が逆効果でしたかね?これは興味深い」

 背を向けたまま、男は楽しそうな声で答えた。

「ですが、残念ですね。夢見るままでいらした方が、心安らかであったでしょうに……」

 開ききった扉と、その向こうに見える棺とも生け贄の祭壇とも思える白い清潔な寝台に横たわる黒衣の女性を背に、その男は振り向きながら、言った。

 その、あるべき所に目鼻のない、ただ混沌とした何かが這いうねるだけの、帽子の下にある歪んだ円錐形の物体を認識してしまった時、グドルーン・ブルヴィッツの自我は、何かに握りつぶされた。

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