第三章 After glow―誰そ彼刻―

「現地協力者?それは有り難いですけれど……」

 朝食後を見計らって意見具申に表れたジンネマン曹長に、グドルーン特務少尉は戸惑いがちに答えた。

 グドルーン特務少尉は、豊かな金髪、緩いウェーブのかかったセミロングのそれを掻き上げつつ、ジンネマン曹長が連れてきたその現地協力者とやら、この村で「魔女の家ヘキセン・ハウゼン」という雑貨屋を切り盛りしているという、床を擦りそうなロング丈の黒いローブを着た、眼鏡をかけた黒髪の少女をもう一度見る。

 いかにも、うさんくさい。グドルーンの、その少女への第一印象はそれであった。雑貨屋と言いつつ、占いや薬草の類いの調合などもやっている、要するに村のシャーマン的存在。土着の信仰やらなんやらの混じり合った、非科学的な、しかし切り捨てることの出来ない古い時代の名残り。

 そういうものを『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』の講義や資料でさんざん見てきたグドルーンからすれば、見るからにうさんくさいその見た目と、それでも村でその立場を護っていられるだけの何らかの力量を持っているだろう事を、どう天秤にかけて判断するか、そういう問題と理解した。

「少尉殿のご心配はまあ、分からないでもないですが。少なくとも薬学の分野については、この私が保証します」

「と言うと?」

「昨日の胃薬、実によく効きました。50ペニヒであれなら安いくらいだ」

 黒衣の少女に顔を向けたジンネマン曹長が、微笑みつつそう言った。

「お役に立って光栄です」

 短く、その少女はジンネマンに微笑み返して答えた。その声には、少女らしからぬ自信が満ちているようにグドルーンには聞こえた。

「なるほど。その格好は伊達ではないって事ね。確認させて下さい、このあたりの地理には詳しくて?」

「勿論です」

 臆することなく、少女はグドルーンの問いかけに即答する。

「いいでしょう、どのみち土地に詳しい方の協力は必須です、それがあなたでいけない理由も無いでしょう。あなた、お名前は?」

「……リュールカ。リュールカ・ツマンスカヤ、よ」

「そう。私はグドルーン・ブルヴィッツ。よろしくお願いするわ」


 その黒衣の少女が自分に向かって歩いてくるのを見て、クルト・タンク二等兵は緊張を隠せなかった。

「クルト、こちらのお嬢さんはサイドカーツンダップに乗るのをご所望だ、お前が運転エスコートしろ」

 少女について歩いてきたジンネマン分隊長が、クルトに言った。

「自分が、でありますか?」

乗用車カデットはエルンスト、トラックブリッツはエドガーだ。それともお前、少尉殿の相手したいか?」

 運転は若いのにやらせ、上位の兵が教育を兼ねて助手席に座る。ジンネマンは常に兵をそう配置する。この場合、上官である特務少尉が乗る乗用車は、より運転経験を積んでいる――上官の扱いも心得ている――エルンスト・ハインケル一等兵にやらせたほうがよかろう、ジンネマンはそう判断していた。

「い、いいえ!遠慮させていただきます!」

 思わず本音で答えてしまったクルトに、ジンネマンは吹き出す。

「いやいや、正直でよろしい。じゃあ、魔女様を頼むぞ」

「は、はい!」

 クルトの肩を叩いて、ジンネマンは乗用車の方に去る、背中越しに手を振りながら。敬礼してそれを見送ったクルトは、手を下ろしてからハッと気付く。自分が、かなり重要な任務を任されたことを。あわてて周囲を見まわしたクルトは、黒衣の少女が自分を無視して、しげしげと興味深そうにサイドカーを見聞しているのを発見する。

「あ、あの!」

 ん?声にならない返事と共に、小さな魔女が振り向いた。

「自分は、クルト・タンク二等兵であります!よろしくお願いします!」

「……リュールカよ。よろしくね」

 黒衣の魔女が、微笑み返した。その笑顔につられ、クルトは思わず口をすべらせた。

「リュールカさん、ですか。あの、昨日、助けてくれたのは、あなたですよね?」

 一瞬、目の前の少女の微笑みが消え、表情が曇ったのをクルトは見た。しまった、言うべきではなかったのか。

「昨日、ちらっとですが、見えたんです。その、箒に乗って空を横切る姿が」

 場を取り繕おうと、クルトは焦って言葉を続けた。

「えっと、誰にも言ってないです、言ったって信じてもらえないだろうし。でも、あれはあなただった、そう思えるんです。その格好も、その」

 リュールカの背中の箒に視線を移して、タンク二等兵は続ける。

「サドルとステップの付いた箒も。昨日見たのとおんなじだって。だから」

 そのクルトの唇を、リュールカは人差し指で停める。

 停めて、何も言わず、ただ、薄く微笑んで、リュールカはクルトの目を見つめた。

 クルトは、その視線の意味を知った。これは、口止めだ。多分、この瞬間に何か魔法を、呪いをかけられたんだ。クルトは、本能でそう感じる。ある意味で、それは間違いではなかった。何故なら。

 クルトは、この瞬間から、自分がこの黒衣の少女から視線を外せない、外したくないと思っている事に気付いたからだ。


「クルト!クールト!行くぞ!」

 ジンネマンの声に、クルト・タンク二等兵は我に帰った。

 あわててサイドカーのサドルに跨がり、キックペダルを踏み降ろす。

「乗って下さい」

 ヘルメットを被り直しながら、クルトはリュールカに声をかける。頷いて、ローブの裾をさばいてサイドカーの側車に収まったリュールカを確認して、クルトはクラッチを繋いだ。


「……リュールカ・ツマンスカヤ。ロシア人みたいな名前ね」

 露払いに先行するサイドカーの側車を見ながら、乗用車オペル・カデットの右後席に座るグドルーン・ブルヴィッツ特務少尉は呟いた。

「お気に召しませんか?」

 隣に座るジンネマン曹長が、尋ねる。

「そうね……まあ、こんな田舎ですもの、気にしても始まらないわね」

 けだるげに窓枠に肘をあてて頬杖をつき、グドルーンは視線を前方から横の車窓に逸らした。

 そのグドルーンをそれとなく見ながら、ジンネマンは思う。親衛隊の士官の制服を着ているものの、親衛隊も国防軍も、女性の士官はおろかそもそも女性の兵士は採用していない。特務少尉とはつまり、この任務に国防軍を当てるために無理矢理ねじ込んだ階級であり、要するに彼女は軍人でも何でもない、恐らくは『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』の研究者なのだろう。制服も、恐らくは男性用を自分で仕立て直しているのだろう。金髪に碧眼、背も高く、なるほど協会の喧伝する「アーリア人」の見本みたいな見てくれではあるし、少々高飛車で扱いづらくはあるが、まあそれほど聞き分けのない上官というわけではない。ジンネマンはグドルーンの人となりをそう判断し、協会の道楽に付き合わされるのは軍人として剛腹だが、せいぜい状況を利用して部下の教育にいそしむべし、そう方針を決定した。


「何故、車の方に乗らなかったんですか?」

 クルトが思い切ってリュールカにそう聞いたのは、走り出してから数分の後、早くも沈黙に耐えきれなくなったからだった。

 興味深げに、クルトの運転操作と、それに応じるサイドカーのメカニズムを観察していたリュールカは、水平対向二気筒の排気音に負けないよう大声を張り上げたクルトに向き直ると、何か小さく呟いてから、あくまで普通の声で答えた。

「機械の中に閉じ込められるのは、好きじゃないの」

 そのまま、とんがり帽子を押さえつつ視線を後続の乗用車に向け、

「それに、あの人、私を信用してないみたいだし」

「あの人?いえ、曹長は」

「そっちじゃ無くて。あの女の人よ……大声出さなくて大丈夫、ちゃんと聞こえてるわ」

 前に向き直ったリュールカがそう付け加えたのを聞いて、やっとクルトは気付いた。自分のように大声を張り上げずとも、横に座るその小さな魔女の、やや鼻にかかったアルトは明瞭に聞こえていることに。まさか、これは?

 何かに気付き、何かを聞きたげなクルトの視線に、優しく自分の視線を絡めつつ微笑んで、リュールカは頷く。

「機械の中じゃ、精霊の力は借りづらいの。それと、こういう機械にも興味はあったし……意外?」

「あ、いえ……」

 顔に出てしまっていた疑問を否定したものかどうか、クルトは一瞬迷った。

「車は村にも数台あるけど、自動二輪は初めてなの。工学的にとても興味深いわ……魔法を修める者は、すべからく総合科学の学徒なのよ?」

 そんなクルトの迷いを全く意に介せず、リュールカは諭すようにクルトに言う。

「魔法科学の総合的な結晶の一つがすなわち錬金術、現代科学の発達は錬金術にも取り込まれて大きな影響を与えているわ。医学薬学、自動車船舶に航空工学、最近では核物理学を取り込んでる錬金術師も居るのよ?」

「ちょ、ちょっと待って下さい、魔法使いって、魔女って、もしかして」

 クルトの疑問を先回りして、リュールカは頷いて答える。

「いっぱいとは言わないけど、居るところには居るわ」

 どう返事したものかわからなくなってしまったクルトから視線を離して前を向き直したリュールカは、呟くように言った。

「地上の魔女は、魔法使いは、あちこちに居るわ……私は、月の魔女、リュールカ・ツマンスカヤ。偉大なる魔法使いマーリーンの孫にして、大魔女エイボンの子。ちょっとだけ、地上の魔女とは違うの」

 その横顔を、運転に支障の無い範囲で脇見しつつ見ながら、クルトは遠慮がちに、聞いた。

「そんな事、俺に言って良いんですか?」

 顔を向けたリュールカのきょとんとした、細い黒縁の大きな眼鏡越しの視線が、クルトの丸眼鏡の奥の目を見て、微笑む。

「……黙っていて、くれるんでしょう?」


「やっぱり、夜鬼……」

 森の中の不思議な広場に残された、首から上の無い黒い人型の何かを見下ろしながら、リュールカは呟いた。

 森の入り口で乗ってきた車を降り、徒歩で森の奥に向かうこと小一時間。昨日の今日で周囲を警戒する兵士達と、昨日の一件を体験していないため緊張感に欠けるグドルーン特務少尉に背を向けてその何かを見下ろしていたリュールカは、一同に振り向き、言う。

「完全に機能停止してます、これは問題ありません」

「あなた、これが何か知ってるのね?」

 汚らわしいものを見るような目でその何かを見ていたグドルーンが、リュールカに聞いた。

「勿論。知識は魔法使いの基本ですもの……そうね、わかりやすく言うなら、これは別な世界の住人よ」

「別な、世界?」

 グドルーンの細い眼鏡の奥の碧眼が、細く、鋭くなる。その視線を真正面から、大きな黒縁眼鏡の向こうの漆黒の瞳で受け止めて、リュールカが言葉を返す。

「話せば長くなるわ。お知りになりたければ、いずれ時間を作ってゆっくり話して差し上げます。勿論、知識を得たければ相応の代償を用意していただきますけどね」

 グドルーンの胸元までほどの背丈しか無い黒衣の小娘は、しかし、堂々とそう言って胸をはる。

「ちゃっかりしたものね。でもいいわ、魔女ってふれこみ、まんざらでもないらしいのは分かったわ。分隊長さん!」

 グドルーンは口元だけで微笑んで、女同士のやりとりを離れてうかがっていたジンネマン曹長に命じた。

「これ、持って帰れるようにして下さい」


 こんな事もあろうかと、出来合いの木箱は荷台にいくつか積んできたし、足りなかったり規格外だったりした時の事も考え、その場で木箱を組む用の木材は村で調達しておいた。無論、工兵隊だから大工道具には事欠かない。

「リヒャルト!エドガー!お前達で棺桶作ってこの旦那をトラックに載せろ」

 時計を見て、ジンネマンは命令を付け足す。

「二時間で出来るか?終わったら、昼食を摂ってから追っかけてこい。俺とエルンストとクルトは少尉殿と前進、この先の調査を行う。これで、よろしいですかな?」

 流れるように指示を出したジンネマン曹長が、振り向いてグドルーン・ブルヴィッツ特務少尉に確認する。

「ありがとう、頼るべきはベテランね」

 軽く微笑んで答えるグドルーンに向けて、フリッツヘルメットの縁にちょんと指先を当ててラフな敬礼をしたジンネマンは、部下に向かって腹の底から声を出す。

「総員、かかれ!」


 泉のあった空き地からさらに奥に進むこと小一時間。長年人が入っていなかったのだろう、森の木々や下草に覆われてはいるが、注意深く観察すれば石畳の痕跡が見られる回廊跡をたどり、行き着いたそこには確かに石造りの建物が建っていた痕跡が残されていた。

「ここが昨日のお嬢ちゃんが言ってた、古城跡、って奴か?」

 辺りを見まわしながら、ジンネマン曹長が呟く。

「泉から3キロってとこですかね?」

 額の汗を拭いながら、エルンスト・ハインケル一等兵が言う。クルト・タンク二等兵と二人で歩測した結果だ。

「途中にあったアレ、ここが中心だとすりゃ同心円状にあるって事か?」

 ジンネマンも、ヘルメットを持ち上げて汗を拭く。

「魔除けだか何だか知りませんが、まあ、そういう事でしょう」

 エルンストが答え、なんとなく、クルトが護衛する黒衣の少女に目をやる。

「本当に、アレの調査はしなくてよろしいんで?」

 ジンネマンが、そこら辺の石垣だったらしき残骸に腰掛けて休憩している特務少尉殿に聞く。

 水筒の水を一気に喉に流し込んだグドルーンは、一息ついてから答えた。

「いいのよ、後でゆっくり調べるから」

 ここまで来る途中で、発見出来ただけで2箇所、泉で見つけたのと同じような彫像があるのを発見している。どれも土に埋もれ、あるいは木に飲み込まれようとしていたが、あるかも知れないと思って探せば案外見つかるものだった。クルトに録らせたメモによれば、それは回廊沿いに等間隔に置いてあった。そして、方位磁針コンパスによれば、歩いてきた回廊はほぼ南から北に一直線、ということは、同じような彫像がこれ以外にも東西北と3方向の同じ距離に置いてあっても不思議は無い。

 ジンネマン達は、その彫像にグドルーン特務少尉は真っ先に飛びついて調べ始めると予想していたが、あにはからんや、グドルーンは場所の記録だけを要求すると、写真も撮らずに先に進むことを選択した。曰く、

「今、うかつに刺激して昨日の二の舞になったら、調査どころじゃ無くなるわ。薮はつつかず、本来の目的をまず達成しましょう」

 だそうであった。


「それにしても、古城跡というより、こりゃ教会かなんかっぽいですな」

 慣れない行軍で――軍隊としては行軍とも言えない距離だが――早くもへばってきているらしい特務少尉殿をそのままにして、ざっと辺りを歩き回ってみたジンネマン達は、この廃墟をそのように値踏みした。城と言うには敷地が狭すぎる、かといって民家にしては広いし、総石造りはこんな田舎の民家には豪華すぎる。何よりも、木造の調度品は全て朽ち果てて消滅しているようだが、それでも祭壇か何かだっただろう床が一段高くなっている部分は残っていた。

「こんな田舎の、こんな森の中で教会って、それもおかしな話だわね。土着の宗教か何かかしら……ここは、魔女さんのご意見も聞きたいところね」

 やや皮肉の入った要請が、グドルーンからリュールカに飛ぶ。なるほど、この女は私が魔女だって事はまるで信じていない、せいぜい土地の風習に秀でた占い師くらいに思っているらしい。リュールカはそう判断し、軽く鼻で一つ笑ってから答える。

「パッと見ただけだから詳しくは分かりませんが、あなた方が信じる神様とやらとは違うものを奉った神殿だった、と言う意味では正解よ。まあ、あんまりお近づきにならない方が良い神様だって事は確かですね」

「……分かるの?」

 瓢箪から駒、そんな表情で、座ったまま身を乗り出したグドルーンが聞き返した。

「ここには手がかりはあえて・・・残してないみたいだけど、途中にあった夜鬼は仮死状態とは言えまだ生きてた・・・・・・し、生きてる夜鬼を四方避けに配せる程の力量の持ち主、誰かは分からないけどそう多くは無いはず。調べればきっと名前くらい分かるでしょう」

「……詳しく聞きたいわね。代償を支払う価値はありそうね」

 膝に手を置いて、グドルーンは勢いを付けて立ち上がる。

「つまり、ここは一見廃墟に見えて、実は神殿としての機能は生きている、そういう事?」

「ご名答。……面白いですね、あなた。私があなたを担いでる、でまかせを言っているとは思わないの?」

 リュールカは、グドルーンの反応に素直に感心して聞いた。自分が魔女だと信じていない割には、物分かりがよすぎると。

 苦笑しながら、グドルーンも答える。

「あなたがでまかせを言うメリットが思いつかないの。例えば、一時あたしを担いで溜飲を下げたとしても、ここを調査して何も無ければ、あれは何だったんだって事になる。その時のデメリットを考えないほどあなたは愚かには見えないわ。それにね、こう見えてもそれなりにその手のものは見てきてるの。似たような偽装の例も見たことあるわ」

 なるほど、ただの物見遊山のお嬢さんではないって事か。リュールカは思う。お高くとまっているのは鼻につくが、部下の扱いといい、中身はそこそこ有能らしい、と。

「それで?その口ぶりだと、秘密の入り口とかそういうのもあって、その場所も分かってる?」

「当ててみますか?当たったら、お代を勉強して差し上げましょう」

 腹に一物ありそうな顔で聞いて来たグドルーンに、リュールカもアルカイックスマイルで答える。面白くなってきた、リュールカは思う。この腹の探り合いは、なかなかに面白い。

「フムン。常套手段は祭壇の下よね」

 女同士の意地の張り合いに怖じ気づいて手も口も出しかねている兵達を尻目に、グドルーンは祭壇らしき段差に向けて数歩歩く。

「とはいえそれじゃあ、あまりに当たり前すぎる……入り口の床?」

 言って、グドルーンはリュールカを見る。

 ため息をついて、リュールカは肩をすくめる。

「分隊長さん!そこの床を掘って下さい」

「お、おう」

 隙を突かれて抜けた返事をしたジンネマンに急かされて、あわてて兵達は分解式の携帯ツルハシを組立て始めた。


「……本当に、あったわね……」

 兵士達がどうにかこうにか引き剥がした石畳の痕跡の下に現れた、ぽっかり空いた暗い穴蔵を見下ろしながら、グドルーンは呟いた。

「降りますか?」

 穴の底を覗き込んでいるグドルーン特務少尉に、ジンネマン曹長が声をかける。

「降りるわよ、ここまで来たんですもの」

 魅入られたように穴の底を覗き込んだまま、グドルーンは答える。

「だとしたらですな、少尉殿、意見具申いたします」

「……何?」

 視線をジンネマンに向けて、グドルーンが尋ねる。

「は。是非とも腹ごしらえしてから前進すべきと、自分は愚考するものであります」

 数回瞬きしてから、グドルーンは懐中時計を引っ張り出して時刻を確認し、小さくため息をついて、言った。

「そうね。少々早いけれど、そうしましょ」


「思ったより美味しそうね、これ」

 焚き火をおこし、厚切りのハムとライ麦パンコミスブロートを軽くあぶってバターを塗り、挟む。湯を沸かし、ジャガイモと乾燥野菜、ハムを適当に切って入れ、塩で味を調える。

 たったそれだけだが、体を動かした後であり、温かく香ばしい食事は、ただそれだけで旨い。焚き火の前で鍋の具合を見ていた、前の大戦にも一兵卒として従軍した経験を持つジンネマンには、信念があった。

 兵の士気を維持し、あるいは上げるのは、結局のところ旨い食事であると。そして。

 戦場で正気を保つのに、人間性を維持するのに必要なのも、旨いと感じる食事であると。

「少尉殿のお口に合えばいいんですがね」

 だから、機会がある度に、ジンネマンは部下に野戦料理を教えていた。基本的に糧食は後方から運ばれてくる事になっている軍において、そうは言っても最前線では、いざとなったら自前で何とかしのがなければならないことが骨身に染みていたからだ。


「どうぞ」

 兵達から少し離れて崩れた石壁に座るリュールカの前に、クルトが飯ごうコッヘルに入れたスープとパンを持って表れた。

「ありがとう」

 うっかり、昼食のことを忘れていた――本来必要ないから、ころっと失念していた――リュールカは、礼を言ってそれを受け取る。

「隣、よろしいですか?」

 クルトも、遠慮がちにその隣に腰を下ろす。自分の分の食事を持ったまま。

「……いつも、こんな食事?」

 リュールカが、呟くように食前の祈りを神に捧げていたクルトに尋ねた。

「普段の野外行動だと、普通は携帯食なんですけどね、ビスケットとか。この分隊は分隊長の方針で、可能な限り暖かいものを食えって命令されてまして」

「命令なんだ、それ」

 リュールカが言って、笑う。コッヘルの中身をスプーンですくって、すする。

「……美味しい」

「シンプルだけど、暖まります。俺、分隊長のスープ、好きです」

「良い隊長さんなのね」

「今までで一番居心地いい部隊です。何より、飯が旨い」

 言って、クルトは子供のように微笑む。

「そうね……食事が美味しいのは、良い事だわ」

 何かを思い出しているように、リュールカは薄く微笑んで遠い目をする。しばらくその横顔を見ていたクルトは、意を決して一つ、聞いてみる。

「失礼だったらすみません、さっきのアレ、本当にあそこが入り口だったんですか?」

 何となく、自分はリュールカの護衛に任命されたような気になってその後ろに控えていたため、クルトは見ていた。グドルーンが祭壇に向かうため背中を向けた隙に、リュールカが逆手に持った箒の柄で、地面に小さく、何かシンボルを描いていたのを。

 目ざといわね。リュールカは思い、しかし、全てを明かすわけには勿論いかない、適度に真実を交えてはぐらかそうと言葉を選ぶ。

「道は、求める者に拓かれるものよ。私は、その手伝いをしただけ」

 言って、クルトに目を向けたリュールカは、クルトが目を見開いて自分を見ていることに気付いた。

「……やはり、あなたは……」

 その目つきに、うっすらとだがリュールカは覚えがあった。未知なるもの、理解出来ないものに対する畏怖、あるいは恐れ。村の者も、最初はそうだった。

 だが、その次のクルトの一言は、リュールカの予想と違っていた。

「素晴らしいです。やはりあなたは、すばらしい人だ。きっと少尉殿はあなたみたいな人も探しているんでしょうけれど……教えちゃいけない気がします。俺が言うのも何だけど、軍は、あんまりそういうのを良い事には使わない気がしますから」

「……ありがとう」

 リュールカは、不思議な気持ちでそう答えた。そうか、「はにかむ」っていうのは、こういう感情を、こんな時の表情を言うのかも知れない。あまり経験したことのないその感情を、リュールカはそう評価し分類した。

 そして、思い出そうとした。村人の最初のあの目、あれは、先生レーレリンがいなくなる前の事だっけ?それとも後のことだっけ?昔のことのせいか、そのあたりの時系列がどうにも曖昧で、はっきりと思い出せなかった。


「床まで5メートル、とりあえず酸欠の心配はなさそうだな」

 敷石をどけた穴から落した焚き火の燃えさしが地下で燃え続けているのを覗き込みながら、ジンネマンが言った。

「可燃性ガスもないようだが、有毒ガスは分からんな……カナリアでも居ればよかったんだがな」

 古い穴の底は、往々にして酸欠状態だったり、動植物が腐敗してメタンガスなどの可燃性ガスが充満していたり、下手をすると硫化ガスなどの致死性のガスが噴出し溜まっている可能性もある。

「自分、志願します」

 クルトが、ガスマスクをケースから取り出しながら言った。

「装面して降ります。降りてからマスク外して、俺が倒れなければ」

「却下だ、そういう確認に部下は使えん。小鳥か兎でも捕まえて……」

「いいえ、時間を浪費したくありません。志願する勇気があるなら、やってもらいましょう」

 意見具申を即刻却下したジンネマンにかぶせるように、グドルーンが言う。

「とはいえ、人命を浪費したくもありません。体にロープを結んでゆっくり降りて、少しでも異常を感じたら上がってくるか、最悪上から引っ張り上げる、これでどうでしょう?」

 グドルーン特務少尉にそう言われ、ジンネマンは明らかに不承不承と言う表情を隠さず、肩をすくめて、

「ご命令とあらば。エルンスト、クルト、縄ばしごを降ろして、端をそこの木に結びつけろ」

 部下に命じて、昼食後に作った即席のロープ製縄ばしごを穴に垂らさせた。


 クルトに続いてエルンストが、さらにジンネマンが縄ばしごを下り、周囲のとりあえずの安全を確認した所で、長いローブをものともせずにリュールカが降りた。不安定な縄ばしごの最後の三段ほどを飛び降り、軽やかに着地する。バッテリーライトで足下を照らしていたエルンストが、思わず短く口笛を吹く。

 続けて、最後におっかなびっくりグドルーンが縄ばしごを降り始める。ロープを降りるよりは遙かにマシだが、揺れる縄ばしごは未経験者にはかなり難易度が高い。ライトで照らすエルンスト、グドルーンに足を置く位置を指示するジンネマンを見ながら、リュールカは傍に居るクルトに何気なく聞く。

「そう言えばクルトさん、皆さんのお名前も教えて下さる?」

「あ、はい、分隊長はスヴェン・ジンネマン曹長、隣がエルンスト・ハインケル一等兵、縄ばしご下りてるのは……」

「グドルーン・ブルヴィッツ。朝、聞いたわ」

「そうですか。あ、あと、後から来るのがリヒャルト・フォークト伍長とエドガー・シュミード二等兵です……しかし、何故、急に?」

「名前を知るという事は、その人の本質を知ること。本質を知れば、術をかけるのも無効化するのもやり易くなる。そういうものだって思って」

「そういうものですか」

「そう。だから、魔法使いはたいがい、自分の本名は名乗らないわ。弱点を教えるようなものだから」

「え、それじゃあ、リュールカさんの名前は」

 リュールカは、微笑んでかぶりを振る。

「私の名前はリュールカ・ツマンスカヤ、偽名など必要ないわ。だって、私は月の魔女。この地上のいかなる魔法使いとも相容れないのだから。その事を知っているのは、あなただけ。箒に乗る私の姿を見たあなただけ、そうでしょ?」

 悪戯っぽく、リュールカは笑う。そうだ、俺は呪いをかけられていたんだっけ、それを話してはいけない呪いを。クルトはその事を思い出し、そして、目の前の少女は魔女、どんなに愛くるしい少女の姿をしていようと、反キリスト的存在である事を思い出そうと努力した。


「回廊……かしら?」

 バッテリーライトで照らされた壁と扉を見まわして、グドルーンが言った。

 地下空間は奥行き五メートル強、幅二メートル強の回廊様の形状、一行の居る側の端は壁しかないが、反対側の端には扉がある。

「先に何があるのかしらね?」

 聞きたげな視線を、グドルーンはリュールカに投げる。

「残念ですが」

 肩をすくめて、リュールカはかぶりを振る。

「そう……行ってみるしかないって事ね」

 改めて、グドルーンは扉を、扉を調べているジンネマン以下の兵士を見た。

「それなんですが、少尉殿」

 ジンネマンが、振り向いて言う。

「この扉、鍵がかかってるみたいですな」

「まあ、こういう所ですからね。解錠できますか?」

「それが……」

 ジンネマンは、頭を掻きながら、言いにくそうに、言った。

「どうやら、中からかけられてるみたいですな、鍵」

「……どういう事?」

「どういう方式の鍵か、もしかしたら単なるかんぬきの類いかも知れませんが、こちら側ではなく向こう側、奥側からかけられているという事になりますか……あっちが奥側で良いんですよね?」

 ジンネマンが、扉をノックしながら言った。

「こういう場合、この奥に『宝の間』ってやつがあるんでしょうが……ここに鍵をかけた誰かは、奥に進みながら鍵をかけていった、そういう事になるんですかね?」

 ジンネマンも、確信が持てない。

「その場合、その鍵をかけた誰かは二度と出られなくない?それともどこかに通じている?ピラミッドみたいに解錠する前提のない封印って事も考えられない?」

「難しい事は分かりませんが、こっちから細工して開けようにも取り付く島がないってのは確かですな」

 あり得る可能性を羅列する研究者肌のグドルーンに対し、現場担当のジンネマンが事実のみを指摘した。

「最終的には爆破ってのもあるけど、出来ればやりたくは無いわね……魔女さん、あなたのご意見なりお力なり、借りられないかしら?」

 半分はダメ元、若干の皮肉も込めて、バッテーリライトの光芒の中からグドルーンがリュールカに振り向いて言った。

 ライトの光芒の外、扉と壁の反射で人の顔程度はかろうじて判別出来る薄明かりの中から、それでも奥の闇に溶け込みそうな黒衣を纏った魔女が、無言で光の中に進み出る。

 後ろ歩きに扉から数歩下がったグドルーンと入れ替わるように扉に近づいたリュールカは、無造作に手のひらで扉に触れる。幾何学的とも無秩序とも言える線と円が象嵌された、扉の冷たい表面は金属枠にはめられた分厚い石のそれ、こちら側からは蝶番ちょうつがいの類いは見えず、ドアノブに相当する突起もない。

「開ければ良いんですね?」

 振り向かず聞いたリュールカに、グドルーンが答える。

「なるべく扉にダメージを与えないで。何もかもが貴重な資料だわ」

 頷いて、大きく鼻息を一つフンスと吐いたリュールカは、重い石の引き戸ひきどを、借りたツルハシを隙間に突っ込み、てこの原理で渾身の力をこめて左から右に引き開けた。


 開け放たれた引き戸の奥は、十メートル四方程のちょっとした広間になっていた。バッテリーライトの照らすそこは、部屋を覗き込んだ各人にあるデジャブを起こさせる。

「ここは……」

 部屋の中を見て真っ先に思った事を、グドルーンが呟く。

「……祭壇?地上と、同じ間取り?」

「そうね」

 無造作に、無警戒に部屋の中に歩き進みながら、リュールカがその疑問に答える。

「ここは祭壇。地上にあったのはダミーで、こっちが本物ってところかしら。多分、柱の配置から何から瓜二つにしてあるはずよ。位置も含めて、ね」

「じゃあ、この部屋こそが、何らかの邪教が儀式を行う祭壇の間そのものであると言う事?」

「邪教ね……まあ、あながち間違ってはいないか。ここで儀式が行われたかどうかは私にも分かりませんが、あなた達が信じる神様・・・・・・・・・・とやらに祈りを捧げる場所ではない、って事だけは保証します。私としては、なるべく早急にここから退散することをお勧めするわ」

 部屋の四方の角に鎮座まします、泉や獣道にあったものと酷似した異形の彫像を見ながら興奮気味に数歩踏み出したグドルーンを制するようにリュールカは言い、振り向いたグドルーンに向けてさらに言葉を続ける。

「この部屋の夜鬼は生きてます、待機しているだけ。上にあったのと違って仮死状態ですらない。こいつらに待機を命じられる奴がここを作ったなら、うかつに手出しすべきじゃないわ」

「……何故そう言い切れるの?大体、夜鬼ってそもそも何?それに、そうよ、あなた、一体何を知っているの?何者?」

 目の前のお宝に手を出すことを止められて、いらだち半分、不満半分でグドルーンは矢継ぎ早に質問を投げかける。

 まあ、不満でしょうね。でも、制止を無視しなかったのは、未知なるものにうかつに手を出す事の愚はわきまえているって事かしら。リュールカはグドルーンの人格評価を上書きし、苦笑しつつ答える。

「言ったでしょ?私は魔女、この村の、魔女。知識は魔法の源、おいそれと他人に明かすことは出来ないけど、村に危険が及ぶなら制止もする、そういう事です」

 その言葉に溢れる自信を感じ取り、グドルーンは気付いた。ただの魔女気取りの占い師の、あるいは薬屋の小娘と思っていたけれど、もしかしたら、この小娘は本当にそういうもの・・・・・・なのかも知れない、と。この一帯のお宝は確かに貴重だが、それと同じくらい、この娘自身も貴重な成果になり得るのかも知れない、と。

 クルトもまた、二人のやりとりをハラハラしながら聞いていた。自分には口止めしておきながら、魔女さんは自ら、秘密を明かすような事を平気で口走っていると。何故そんな事をするのかと不思議に思ったクルトは、はたと気付いた。そうだ、この魔女さんは昨日、村の子供だけでなく、俺たち全員を助けてくれた。この魔女さんは、驚くほど優しく、そして正直なんだ、と。つまり、今、ここに居る全員を助けるためには、正しい事を教え、ここから引き下がるのが最善だと判断した、そういう事なのだろうと。それが、自分の正体を明かすことになったとしても。

 改めて、グドルーンは部屋を見まわす。部屋の四隅には黒衣の魔女が夜鬼と呼んだグロテスクな彫像、壁には幾何学的とも無秩序とも言える、何らかのサインであろう直線と曲線、見ていると平衡感覚が狂っていきそうな錯覚を覚えるそれが描かれ、扉の対面の壁側には床が一段高くなった祭壇であろう場所があり、四角く区切られた壁の一部には歪んだ星形の意匠が彫り込まれ、その中心には明らかに何かをはめ込むであろう小さな窪みがある。

「……いいわ、準備不足って意味なら確かにそうね、ご忠告を有り難く受け入れましょう」

 いかにも未練たらたらで、しかしグドルーンはそう決断し、それでも兵達に命令を出す。

「その準備不足を埋めるためにも、ありったけ写真を撮って下さい……そのくらいは大丈夫でしょう?魔女さん?」

「保証はしかねますけど、敵意がなければまあ、大丈夫でしょう」

 皮肉げな視線と一緒に投げられた質問に、ため息交じりにリュールカは答えた。


 一行が入り口から地上に戻ろうとする頃、丁度、昨日の夜鬼をトラックに積み終えたリヒャルト・フォークト伍長とエドガー・シュミード二等兵が追いついて来た。彼らの手も借りて一行は、順次地上に――例によってグドルーン特務少尉殿が一番手間がかかった――戻った。

「魔女さん、リュールカ、だったわね?あなたのこと、ここのこと、詳しい事を教えてもらいたいんだけど、後で改めて話をさせてもらえるかしら?」

 慣れない梯子上りで上がった息を整えてから、グドルーンはリュールカにそう尋ねた。

「話せることと話せないことがありますけど、それで良ければ」

 リュールカは即答する。

 それを受けて、グドルーンは、

「じゃあ村に戻ってすぐ、って言いたいところだけれど、情報を整理して質問をまとめる時間が欲しいわね」

 はやる気持ちを抑えて言った。

「私は普段は店にいます、そちらの都合の良い時で結構です」

 リュールカが返す。その答えに安堵したのか満足したのか、口角を緩めたグドルーンが言葉を重ねる。

「では、そうさせてもらうわ。分隊長さん、地上の写真と記録をお願いします、それが済んだら撤収しましょう」


「分隊長さん、あなたはあの魔女さんをどう思います?」

 帰りの車の中で、グドルーン特務少尉は隣に座るジンネマン曹長に聞いた。

「そうですなあ、薬だけじゃなくていろんな事に恐ろしく詳しい、もしかしたら見た目通りの年齢じゃないのかも、なんて思いましたが」

 いきなり話を振られたジンネマンは、あまり考えずに感じたままを答える。

「そうね、確かにそんな感じね……もしかして、本当に本物の魔女なのかも?」

 やや悪戯っぽい言い方で、グドルーンはジンネマンに聞き返す。

「まさかそんな。少尉殿は、魔女なんてものが実在するとお思いで?」

 グドルーンの態度を受ける形で、ジンネマンもややおどけて返す。

「実在するわ」

 グドルーンは、即答する。

「私は会ったことなかったけど、『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』では報告書はいくつか読んだし。それに」

 愉快そうに微笑んで、グドルーンは付け加えた。

「その方が、世の中楽しいじゃない?」


「よかったんですか?あれじゃあ……」

 帰りのサイドカーを運転しながら、クルトは横に、側車に座るリュールカに聞いた。

「まあ、仕方ないわ。村に何かあったら大変だもの」

 前を向いたまま、進行方向を見つめたまま、リュールカは抑揚のない声で答える。

「村に……?」

 自分たち、ではなくて?もう一つ事情の飲み込めていないクルトは、聞き返す。

「夜鬼、昨日あなた達が襲われたあれ、あそこに居た四体は警戒装置、いつ動き出してもおかしくなかったわ。何故動かなかったのかは分からないけれど……もし、あれが動き出して、一匹でも外に出たら?」

 クルトは、昨日のことを思い出す。あれは、自分たちの班の四人がかりで小銃弾を撃ち込んでも、大して効いているようには見えなかった。それがもし、無防備な村に入ったとしたら。クルトは、その結果を想像して背筋が寒くなる。

「私は、村を護ると決めてるの。だから、村に危険が及ぶきっかけを作るわけにはいかない。あのお嬢さんは、話は分かる人だと見たわ。だから、本当のことを話せばきっと無茶はしない。その為なら、私のことを少しくらい話しても、あの場は仕方ないって、そう思っただけ」

 クルトは、黙って聞いていた。あまり感情を露わにせず、言葉も少な目だと思っていたこの小さな魔女の、今の言葉は驚くほど熱がこもっていると感じたからだ。

「私はね、私の手の届く範囲で、誰も傷ついて欲しくない。誰も不幸になって欲しくない。魔法とは本来、奉仕の御業であって、ほんのちょっとだけ誰かの背中を押して幸せになる手助けをしてあげる、そういうものだと教わったから。だから、私は人を傷つけるものが嫌い。クルトさん、あなたには悪いけど、兵隊も、軍隊も、戦争も、大っ嫌い」

 やはり、小さな黒衣の魔女のその言葉は熱いと、クルトは感じる。運転しながら横目でうかがうその表情も、硬い。まだほんの短い時間しか一緒に過ごしてはいないが、それでも常に微笑み、余裕があるように見えたその魔女の今までの表情とは違う、クルトが初めて見る、硬い、眉根を寄せた思い詰めた表情を見て、クルトは胸の奥に硬く重い何かを感じる。

「誤解はしないでね、クルトさん。私は、あなた達個人のことは好きよ。あなたも、あの隊長さんも、あの気の強いお嬢さんも、ね。私は、全ての人が好き。だから、誰も傷ついて欲しくない。少しだけ秘密を明かせば誰も傷つかないなら、私にとってそれは安いもの、それだけの事よ」

 言葉を切って、リュールカは微笑みをクルトに向けた。その柔らかい表情につられて、クルトはつい言葉を漏らした。

「リュールカさん……あなたは、俺の知っている魔女ってのとは、全然違うんですね」

 ん?リュールカは軽く首を傾げ、言葉の先を促す。

「悪魔を崇拝する、サバトで乱痴気騒ぎをする、子供をかどわかして鍋で煮込んで食う、害獣や疫病を使役する。俺が本で読んだり、神父様から昔話で聞いたのは、そんな魔女ばっかりでした。でも、あなたは違う……」

「所詮は人のする事ですもの、そういうのが居たっておかしくはないし、実際、力に捕らわれて奉仕を忘れた魔女や魔法使いは枚挙に暇がないわ」

 情けなさそうに肩をすくめて苦笑しながら、リュールカが答えた。

「そういう人は目立つし、そうじゃない人は目立たない。善行ぜんこうは話題にならないけど、悪行あくぎょうは千里を走る。人の噂とはそういうもの、迷惑だけど、仕方のない事だわ」

「それで、いいんですか?だって、あなたは……」

 強く、クルトはリュールカに言った。この人に抗議しても意味は無い、むしろお門違いだ。だが、そうではなく、この人がそう思われるのは、どうにも我慢がならない。

 そう思ったクルトに、しかし、小さな魔女は寂しそうに微笑み、告げた。

「仕方のない事よ……地上の魔女も魔法使いも所詮は人、人が人である限りは、欲を持つ人である限りは、ね。月の魔女たる私だって……」

 私だって、欲はある。そう続けようとして、リュールカははたと気が付いた。私は、私の欲は、何だろう?私は、何の為に生きているのだろう?何かを成し遂げなければならない、その思いはあるけれど、今の今まで考えたこともなかったけれど、じゃあ一体、私は何を成し遂げようと思っているのだろう?

 言葉を途切り、俯いてしまったリュールカの横顔を見て、クルトは、それが何かはわからないが、この小さな、しかし素晴らしい魔女も、やはり苦悩しているのだと思いこみ、それ以降言葉をかけなかった。


 氷酢酸の匂いの立ちこめる中、グドルーン・ブルヴィッツは冷めたスープを口に運びながら、現像した写真を見聞していた。

 森の廃墟から村に戻り、調査班に本日の業務の終了を告げるが早いかグドルーンは自分の宿の部屋に飛び込み、部屋着に着替えて豊かな金髪を無造作にまとめてひっつめると、職場から持って来ていた簡易現像キットで今日撮った分及び昨日撮られた分の写真の現像を始めた。

 折角の貴重な資料を台無しにするわけにはいかないから、はやる気持ちを抑えて慎重に丁寧にカメラをダークバッグに入れてフィルムを取り出し、現像タンクに移して現像液を入れて規定の時間攪拌。現像液を停止液に入れ替えてまた攪拌、さらに定着液に入れ替えてまたまた攪拌。最後に、フィルムから薬剤が綺麗に無くなるまで水ですすいでから取り出し、徹底的に水滴を払ってから乾燥させる。

 すっかり部屋の中が酸っぱい臭いにおいでいっぱいになった頃に、グドルーンは宿の者がわざわざ部屋に届けてくれていた――宿の者はそれはそれはこっぴどく顔をしかめていたので、いつ来たかグドルーンに全く記憶がないのはむしろ両者にとって幸運と言えた――すっかり冷めてしまっている夕食に気付き、カーバイドランプを光源とした――この村には電気が来ていない――可搬型スライド映写機を準備しつつ、質素な、しかし村の食事としては豪華な夕食を掻き込み始めた。

「いやはや、酷い匂いですなこれは。窓、開けてもよろしいですかな?」

 いつから部屋にいたのか、浅黒い肌をしたスーツの男がグドルーンに声をかけた。

 農夫のスープアイトップフを頬張ったグドルーンが無言で頷くのを確認して、男はカーテンを引かれ雨戸も閉められて遮光されていた窓を開き、すっかり暗くなった表から夜風を部屋に招き入れた。

「面白いものを発見されたようですね?」

 氷酢酸の匂いがあらかた消え去ってから、男はグドルーンに話しかける。

「ええ、とっても興味深いわ。興味深いんだけど……」

 満腹のグドルーンは、椅子に浅く腰掛けて背もたれに寄りかかり、壁に貼ったシーツに映したスライドをとっかえひっかえしながら言う。

「……どれもこれも、まるで見覚えがないの。メジャーどころの邪法のサインは覚えているつもりだったんだけど……」

 言って、グドルーンは組んだ膝に肘を乗せて頬杖をつく。

「邪法ですか。まあ、当たらずとも遠からずと言ったところではありますが」

「あなたも、知っているの?これ」

「あなたも、とは?」

 パッと振り向いたグドルーンに問いかけられ、浅黒い肌の男は聞き返す。

「この村の魔女、魔女と名乗る小娘がいて、どうも色々と知っているらしいのよ」

「それはまた、どのような?」

「黒衣に黒髪、黒いとんがり帽子。見てくれは絵に描いたような魔女ね。名前は、リュールカ、だっけ」

「リュールカ!」

 その名前を聞いて、だしぬけに男はそこそこ大きな声でその名を繰り返した。

「な、何よ急に大声出して」

 びっくりして、グドルーンはずり落ちそうになった椅子の上で姿勢を整え直す。

「いやこれは失礼。懐かしい名前に再会したもので。そうですか、リュールカと名乗っているのですか、その魔女の娘とやらは……娘?」

「娘も娘、年端もいかない小娘よ。ただ、知識の量は凄いみたい、頭の回転も速そうだし、物言いだって見た目よりずっと大人びてるわ。まるで、私よりずっと歳とってるみたい」

「なるほど、存外、その通りかも知れませんよ?」

「どういう意味?」

「確かなことは私にも分かりかねますが……そうですね、どうでしょう、この奥」

 言いながら、男はシーツのスクリーンに映された、歪んだ五芒星を指差す。

「この奥に何があるか、もしかしたらあなたの求める答えがあるかも知れない、その娘はそれを隠している。知りたくはないですか?」

 言われて、グドルーンは即座に答える、身を乗り出して。

「知りたいわ、勿論。けど、この部屋には得体の知れないガーゴイルバッサーシュパイアーが置いてある。不用心には近付けないわ……何をどう用心したものかすら分からないのだけれど」

 ため息をついて、頬杖をつき直してグドルーンはスクリーンに目を戻す。

「この扉を開ける方法がある、と言ったら?」

 口元に微笑みをたたえながら、黒い男が言う。目元は、目深に被ったパナマ帽に隠れて見えない。

「やはりこれは扉なのね?あなたはこれが、このサインが何か知っているのね?」

 振り向いて、グドルーンはゆっくり立ち上がりながら、聞いた

「何が望み?知識の代償に、何が欲しいの?」

 代償無しに知識は得られない、知識は魔術の基本だから。あの小娘、リュールカという魔女がそう言ったのを覚えていたグドルーンは、その言葉を借りて目の前の黒い男に問いただした。

「代償など要りません。私はただ、面白いことがしたい、面白いものが見たい、それだけです」

 男の黒い顔の中に、白い歯列がくっきりと、三日月のように浮かび上がった。


「次善の策だったとは言え、それはちょっとまずかったかもね、リュールカ」

 夕飯のミルクを舐めながら、フェルディナンドはリュールカに箴言した。

「その女の人は、きっと君からいろんな事を聞き出そうとするに違いないよ」

「わかってる。きっと何かまた、よくないことに魔法を利用しようって魂胆なのよ」

 リュールカは、ミートパイフライシュシュトゥルーデルをフォークでつつきながら答える。

「私だって、前の戦争で懲りてるわ。軍隊に協力したって、結局ろくな事にならない、それは分かってる。でも、何か代償を用意してあげなければ、きっとあの場からあの人達は引かなかった。あそこは、それくらいあの人達にとって魅力的だった」

 ごつん。リュールカが叩きつけたフォークが、ミートパイを貫通して木皿にまで突き立つ。

「私は、あんな所がこの村のこんな近くにあることを、全く知らなかった。気が付かないはずが無いのに。何故?」

「ボクに聞かれたって……」

「あの数の夜鬼を召喚し使役させる、月の魔女ならともかく、地上の魔女や魔法使いにはおいそれと出来る事じゃない、荷が重すぎるわ。よほど研鑚を積んだ魔法使いが居たのか、それとも、私の他にも月の魔女がいたのか……それほど魔術に長けた者の成したことなら、私が気付かないように隠すことだって出来るでしょうけれど……誰が何の為にやったのか、ものすごく気になるし、この村の近くにあんなものがあるのを放っておくことは出来ないわ」

 木皿からフォークを引き抜き、ミートパイを持ち上げたリュールカは静かに言った。

「……出来なければ、どうするの?」

「知れたことだわ」

 乱暴にミートパイを囓り取り、リュールカは言う。

「一匹残らず夜鬼はあっち・・・に送り返して、あそこも更地に戻すまでよ」


 月のない夜、村の皆が寝静まった真夜中。暗闇の中、その闇より深い漆黒の中で、金色の光がきらめいた。

 リュールカの店、「魔女の家ヘキセン・ハウゼン」のカウンターの上。光を吸い込むかのように黒い仔猫、フェルディナンドがカウンターの上に居た。

「ごめんね、リュールカ」

 フェルディナンドは、小さく呟いた。

「でもこれが、ボクに与えられた役目なんだ」

 カウンターの上の、質素なアクセサリースタンドにかけられた水晶玉の付いたペンダントを咥えて、フェルディナンドはカウンターから飛び降りた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る