第二章 High noon―白昼―

「それで?秘密の場所とやらに、あの兵隊達を案内するって事?」

 乳鉢その他の片付け、及び周辺の掃除を作業服の助手二人に任せて、リュールカはギーゼラに聞いた。

「うん。森の中にね、古いお城の跡みたいなところがあるの」

 古城跡。そういうものであれば、確かに幽霊ゲシュペンストの一つや二つ居てもおかしくはない。リュールカはそう考えつつも、はて、しかし、そんな古城跡なんてあったかしら、と自分の記憶を改めてみる。

 リュールカは、記憶力には自信があった。この村の住人の顔と名前は、目の前のギーゼラの祖母ヘルガの代から全て覚えている。村の地理も、付近の野山を含めて把握している、つもりだった。だが、そんな古城跡に該当する建物も遺跡も、記憶の中には見当たらなかった。

「そんなの、あったかしら?」

 リュールカは、カウンターの上に丸くなっているフェルディナンドに尋ねる。

「覚えてないなぁ、僕は森の中は行かないしなぁ……」

 先ほど、兵士が来ている間は狸寝入りをしていたフェルディナンドは、いつの間にか狸寝入りがそのまま昼寝に繋がってしまったらしく、眠そうに答えた。

「ギーゼラ、どのあたり?」

 カウンターの上に、以前自分で作った村周辺の手書きの地図を広げて、リュールカはギーゼラに尋ねた。

「うーんとね……」

 あそこがこーなって、ここがこーだから、地図を読むのに慣れていないギーゼラが、苦労しながら場所を割り出そうとする。

「歩いて行くなら簡単なんだけど……」

 ギーゼラの地図を辿ろうとする指先は、どうにも要領を得ない。地面の上を歩く事しか出来ない辺境の農村の子供では、空の上から全体を鳥瞰できるリュールカとは空間把握能力に天と地程の差があることを、リュールカは再認識した。

「……いいわ。ブリュンヒルト」

「はい、御主人様マイスター。何の御用でしょうか?」

 カウンターの上に居た、乳鉢からこぼれた薬の粉を集めて、相方の男ヴィルベルヴィントの持つちり取りに掃き入れていたテーブルブラシが、さっきまでそこに居た、作業服の赤毛の女と同じ声で返事をすると、器用にその刷毛を足のように動かしながらリュールカに小走りに近寄る。ちょこちょことブラシの柄が揺れる度に、そこに埋め込まれた小さな鏡がきらめく。

「ギーゼラ、ブリュンヒルトを連れて行きなさい。ブリュンヒルト、話は聞いていたわね?その場所に着いたら教えて。あと、何かあったら逐一連絡するのよ、いい?」

「はい、御主人様マイスター

「うん、わかった、ありがとう」

 リュールカの視線が卓上のブラシ、ブリュンヒルトという魔法のブラシとギーゼラを交互に見、それに合わせてハキハキとした返事が返ってきた。


 ギーゼラが昼食を摂りに家に駆け戻るのを見送ったリュールカは、店番を黒い仔猫フェルディナンド男の姿をした箒ヴィルベルヴィントに任せて、自分の昼食を作ろうとキッチンに向かった。

 リュールカは、本来は食事を必要としない。勿論、体の構造上は地上の人間と変わらないリュールカは食物を消化し、そこから栄養を摂取する事も出来るし、魔女にとって最も大切な源始力マナをそこから生成する事も出来る。月の魔女であるリュールカは、身の回りに充満するエーテルから源始力マナを吸収し精製する事が出来、またその一部を融通すれば、食事に頼ること無く肉体を維持する事も出来た。それこそが、同じ「魔女ヘキセン」という称号を冠するこの地上の魔女達と、月の魔女たるリュールカを分ける最大の違いであった。

 だからリュールカは、ただ単純に味覚を満足させるため、平たく言えば美味しいものを口にしたいがためだけに食事をしていた。


 炒めたパン粉にリンゴやレーズンを混ぜた詰め物フュルンクを、先ほどのうたた寝をする前にこねておいた生地をのばして包み、バターを塗ってオーブンに入れる。焼き具合を確かめながら焼くこと約三十分、程好い焼き加減に見えるアップルパイアプフェルシュトゥルーデルが出来上がった、ように見える。

「さて、今回はどうかな?」

 二人分の、適度な大きさにカットしたアップルパイとコーヒーのマグカップを載せたトレーをうやうやしく持ってキッチンから出てきたリュールカは、小さな裏庭が見渡せる書斎に向かう。

 壁という壁が本棚で埋め尽くされたその書斎には、その本棚を背中に重厚な両袖のデスクと、反対側の本棚を背に古びたロッキングチェアとサイドテーブルがある。

 先にロッキングチェア側のサイドテーブルにアップルパイとコーヒーを置いてからデスクにも置いたリュールカは、デスクの椅子を引いて座ると、

「どうぞ、召し上がって下さい、先生レーレリン

 誰も座っていないロッキングチェアにそう声をかけてから、一息ついて、

「じゃあ、出来を試してみますか」

 一口、アップルパイにかぶりついた。


――まだまだ、あの味には届かないか――

 洗い物をしながら、リュールカは考える。下げてきた先生レーレリンの分のアップルパイは、後でおやつに自分で戴くように布巾を掛けてキッチンのテーブルに置いてある。何度も作って味も向上していると思ってはいるそのアップルパイアプフェルシュトゥルーデンは、しかし、リュールカが初めて口にしたその味には、まだ届いていない。

 ふう。天井を向いてため息をつき、リュールカは思い出す。あの日、誰もいないこの店、この家のこの書斎で口にした、その味を。はっきり覚えている、最初の瞬間を。


 どうしてそうなったのか、いまだにリュールカにはよく分からない。その記憶の最初にあるのは、書斎の床と、誰かの、恐らくは幼い少女のものであろう、見た覚えのない、粗末な靴。

「どうしたの?大丈夫?」

 頭上から、見知らぬ少女の声がする。

 声の主を探したリュールカは、その書斎に自分とその声の主である少女以外の誰も居ないことを、見慣れたロッキングチェアのその上に、いつも必ず居た先生レーレリンが居ない事を知った。そして、自分が床に倒れていることも、知った。

「……」

 床に転げたまま、声も出せず、リュールカは少女を見上げた。

「あ……」

 目が合ったその少女は、リュールカの表情に何かを感じたのだろう、一瞬軽く身を引くと、

「待ってて、すぐ戻るから、待っててね」

 リュールカにそう言い残し、小走りに書斎を出る。

 足音が遠ざかり、どこかから、からんころん、聞いた事のない音が聞こえ、そしてまた静かになる。

 誰も居ない、必ず居るはずの先生レーレリンの居ない、書斎。初めて感じる、部屋の広さ。自分しか居ない書斎の、空虚な虚無感。

 リュールカは、体が床に沈み込むような錯覚を覚える。大脳が痺れるような、空間が歪み、拡大し、自分が矮小化するような、錯覚。リュールカの理性はそれを錯覚と判断するが、だからといって収まることのない、感じたことのない不快感。

 どれくらいその不快感にさいなまれていただろうか、からんころん、再び聞いた事のない音が聞こえ、小走りの足音が近づいてくる。やや乱暴に書斎のドアが開き、何かを大事そうに抱えた先ほどの少女が駆け込んできた。

「お腹空いてるんでしょ?さあ、これ、食べて」

 その少女は、リュールカの口元にアップルパイアプフェルシュトゥルーデルを差し出した。


 あの時感じていた不快感は疎外感、孤独感、ありていに言えば寂しさ、哀しさであると、今のリュールカは分かっている。それと同時に、あの時口にしたアップルパイアプフェルシュトゥルーデルの味は忘れられない。さくりとした生地シュトゥルーデルの食感、甘く柔らかく、それでいて歯ごたえがあり酸味もある詰め物フュルンクの味。何度自分で作っても、あの味には届かない。あの、さっきまで店にいたギーゼラの祖母であるヘルガ、少女の頃のヘルガが家から持って来た、自分ヘルガのおやつ用の、彼女ヘルガのさらに祖母が作ったアップルパイアプフェルシュトゥルーデル、今はそっくりそのまま同じ味をヘルガも作れ、いずれはギーゼラも作れるようになるのだろう、その味には。

 あの味こそ、リュールカに味覚を、美味しいという感覚と感情を教えた、最初の食べ物だったのだから。


 先生レーレリン用に入れたコーヒーをミルクパンで温め直し、マグカップに注ぎ直したリュールカは、書斎の椅子に座ってやや酸味の増したそのコーヒーをすすりつつ、主の居ないロッキングチェアを見つめた。

 何故、あの時、先生レーレリンは居なくなったのか。リュールカは何度も考え、しかし、その答えは未だに得られていない。

 手がかりが、何も無いのだ。自分に魔法を教えてくれた師匠マイスターであり、自分を育て、慈しんでくれたシュベスターとも言える、偉大で、敬愛する、先生レーレリン

 リュールカの記憶の中のその先生レーレリンは、長身で美しい長い黒髪を持ち、いつもそのロッキングチェアに深く座り、目深まぶかにつば広のとんがり帽子を被り、しかしいつもその口元は優しく微笑み、痩せて皺の目立つ手で教え子レアリンであるリュールカの頭を優しく撫でてくれる、そんな存在だった。

 どんな時もそこに居て、知りたいことを全て教えてくれて、覚えたこと全てを褒めてくれる、そんな存在。だから、忽然とそこから居なくなったことが信じられず、リュールカは大いに哀しんだ。だから、自分が最初に知った感情は哀しみ、次が寂しさ、その次が美味しさ、嬉しさなんだろうと、リュールカは思う。今でも、あれから地上の暦で何十年も経った今でも、先生レーレリンの事を考えると胸が痛くなる、哀しくなる。

 だが、思い出そうとすればするほど、では自分は先生レーレリンとどれほどの時間一緒に居たのか、先生レーレリンはどんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか、何一つ正確に思い出せない。その事に気付いたのは、いつのことだったか。気が付いてみれば、その姿さえ薄ぼんやりした、まるで霧のかかったような儚い記憶でしかない。

 何故、それほどに儚い、淡い記憶でしかないのか。その事自体がまたリュールカを哀しませる。あれほど慕い、敬い、愛しているはずなのに。リュールカは考え、そして一つの結論を得ていた。

 それは、そういった感情は全て、先生レーレリンが去ってから身につけたものだからだ。だから、それらの感情に紐付けされていない記憶は、不鮮明なのだと。

 その結論は、リュールカにとって説得力のあるものだった。だが、その説得力故に、それはまたリュールカを哀しませ、後悔させもした。

 何故、自分は、先生レーレリンと一緒に居る間に、そう言った感情を身につけていなかったのだろうか、と。


 そうして、リュールカが感傷にふけっていた時。店の方からフェルディナンドの叫び声が聞こえ、間を置かず、血相を変えた黒猫が書斎に飛び込んできた。


「もう少し先にね、泉が湧いてるの。そこまで行けば、もうすぐだよ」

 用心のため、露払い役の兵士の後ろを歩きながら道案内をしているギーゼラが、そのすぐ後ろを歩く分隊長、ジンネマン曹長に振り向いて、言った。

「そうか。よし、泉に着いたら小休止だ」

 さらに後ろを振り向いて、後続の兵士にジンネマンは声をかける。後続の若い兵士が、笑顔を返してきた。

 「魔女の家ヘキセン・ハウゼン」で教わった食堂で、軍隊の飯よりは相当に上等な昼食をった特務小隊ジンネマン分隊アー班4名及び分隊長スヴェン・ジンネマン曹長は、腹ごなしと事前調査を兼ねて先行偵察に出ていた。

 中年の予備役兵に対する急な呼集に応じてみれば、ジンネマンは技官だと紹介された特務少尉の下でなにやらうさんくさい、オカルトめいた発掘調査をして来いという何ともつかみ所のない辞令を拝命する事になった。現役を退いて予備役となったのはそれほど昔の話ではないとは言え、こんなロートルを引っ張り出してくるとは、なんとも軍隊も人手が足りなくなったものだと嘆息したものだが、何でも、親衛隊全国指導者ライヒス・ハイニの道楽に付き合って俸給がもらえ、新兵の訓練にもなるのなら、まあ、断る理由は無い。そう考えて、見かけの割に根が真面目な予備役工兵曹長ジンネマンはその辞令を二つ返事で頂戴し、そして今ここに至っていた。


 森の入り口までは村まで乗ってきた軍用トラックオペル・ブリッツで移動し、森に入ってからは徒歩での移動。戦闘装備は最低限、あとは工兵の仕事道具である土木工具パイオニアツールのみの軽装備。現役時代の勘を取り戻すには丁度いい、などと思いつつ、無邪気に案内をしてくれる現地の寒村の少女が転けたりしないよう注意もしながら、ジンネマン曹長は調査にあてがわれた新兵を率いて森の奥へと向かっていた。

 やがて、急に視界が開け、うっそうとした森の中に、ぽっかりと空の見える空間に出た。

 不思議と大きな木が見当たらず、しかし下草は綺麗に生えそろったそこは、見れば奥の方に池とも泉ともつかない大きさの水源があり、そこからジンネマン達が来た方向とは別方向の森の中に小川が流れ出ている。池に流れ込む川は見当たらないから、なるほどそこは泉であって、湧き水が豊富に湧いているに違いない。

 ここは宿営には丁度良さそうだ、ジンネマンは考える。野営に不向きな新米特務少尉殿には村で寝泊まりしていただいて、小隊はここで宿営して調査と訓練にあたるのもまた一興、新兵の訓練には色々と都合良さそうだ。どれ、ざっと辺りの下調べだけしてみるか。『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』から派遣された、現場を知らない肩書きだけの指揮官を上手く現場仕事から切り離せそうだとほくそ笑みつつ、ジンネマンは配下の分隊アー班に指示を出す。

「よし、小休止!誰か、そこの旨そうな湧き水の味見してみろ!」


「分隊長、これ、何でありましょうか?」

 A班の新米兵士、クルト・タンク二等兵が、冷たい泉の水で顔を洗っていたジンネマンに声をかけた。勢いで言ったさっきの一言だったが、ここの水は確かに旨い。

「ん?なんだ?」

「何か、変なモノが埋まってまして……」

「変なモノ?」

 顔を拭きつつ、ジンネマンはタンク二等兵の指差す方角を視線で辿る。その先には、A班のもう一人の新米二等兵であるエドガー・シュミードが下草やら絡みついたツタやらを切り払っている姿が見える。そして。

 丁度広場の奥と森の境界線辺りに立ってマチェーテを振るうエドガーが露わにしようとしている、その対象に気付いたジンネマンは、それを、こう形容するしかなった。

「……なんだ?ありゃ……」


 それは、端的に言うなら、人型をした岩ではあった。うずくまり、膝を抱えたようなその姿は、もしかしたら自然の造形がそのように見えてしまっているだけかも知れなかったが、そうでないとしたら、誰かが何らかの意図を持ってこのような造形としたのであれば、それはあえて人間の体型のバランスを崩そうとする悪意を持っていたか、あるいはごく自然にそれを行う狂気に支配されていたとしか思えない、そのような形状であった。

ガーゴイルバッサーシュパイアー、か?」

「魔除けかなんかでしょうか……」

 その背中には、確かに羽根のようなものが付けられてるように見えなくもない。だとすれば、城などの装飾にありもののガーゴイルなのかも知れない。もし、この先にこの少女が言うような廃城があるのなら、その途上なり領域のきわなりにそのような彫像スタチューがあっても不思議は無い。なのだが。

「……こんなの、知らなかった……ちょっと怖い……」

 何事かと見に来たギーゼラが、ジンネマンの影に隠れるようにしてその彫像らしきものを見ながら、言った。確かに、微妙に崩れたバランスを持つその彫像は、まるで人体の形状をあざけるかのようであり、見ていると不安になる形状でもあった。何よりも、何かがあって欠け落ちてしまったのか、顔の部分の装飾が全く無いのが見るものを不安にさせるのだった。

「確かに気持ち悪いな、お嬢ちゃん達の遊び場にはちょっと、この彫像は向いてないな」

「この奥に進むな、って事でしょうか?」

 ジンネマンの独り言に、マチェーテを持ったエドガーが相槌を打つ。

「まあ、ガーゴイルだとして、意匠としてはありきたりだから、そう断言も出来んが……顔が落とされてるのが気にはなるな」

「少し、奥まで進んでみますか?」

 雰囲気を察して、脱いでいた長靴を履き直したエルンスト・ハインケル一等兵とリヒャルト・フォークト伍長も寄って来て、具申する。

「二人連れて行け、ただし、声が届く範囲より深入りはするな。本格調査は明日以降、少尉殿が来てからにしよう。クルト、写真を撮っておけ」

了解です、分隊長!ヤボール、ヘル グルッペフューラー

 複数の部下の返事が一斉に返って来る。すぐさま、クルト・タンク二等兵はカメラを探しに、リヒャルト・フォークト伍長はエルンスト・ハインケル一等兵とエドガー・シュミード二等兵を連れて一応の武装をしに、小休止で装備を降ろした場所に戻る。

 すぐにカメラを持ったクルト二等兵が戻ってくる。カメラを構えた彼を見ながら、ジンネマンはつい無意識に、物差しを取り出すとガーゴイルの欠け落ちた顔にあてて、その長さも一緒に写真に写そうとして、偶然、あり得ない事・・・・・・に気付いた。

「え?」

 ガーゴイルの顔に物差しを当てようと近付けたとき、物差しの先端が、欠け落ちた顔の端面に触れた、はずだった。

 だが、触れたはずの物差しは何の抵抗もなく奥へと吸い込まれ、その先端は見えなくなった。

 磨かれたかのように綺麗な顔の端面、しかしながら全く光沢の無い不思議な平面を持つその端面は、欠け落ちているのではなく、そこには、最初から何も無い・・・・のだ、その事をジンネマンの脳が理解するのに、わずかに時間を要した。


「うあっ?」

 思わず声をあげ、ジンネマンは物差しを取り落とした。ぼとり、刈り込まれているわけではないのに綺麗に生えそろっている下草の上に落ちた物差しは、ガーゴイルの顔面に吸い込まれていた分だけ先端が消滅している。

「どうかしましたか分隊長!」

 手際よく小銃その他の準備を整えていたリヒャルトとエルンストが、ジンネマンの声を聞いて駆け寄って来た。まだ経験の足りないエドガーと、やっとカメラを探し出したクルトが遅れて駆けてくる。

「用心しろ、これ、おかしいぞ」

 傍に居たギーゼラを自分の後ろに庇いながら、ガーゴイルらしき彫像から数歩後退したジンネマンが振り向かずに部下に声をかける。

「一体、何が……」

「見てろ」

 遅れて来たエドガーにギーゼラを預けて手振りで後退させながら、ジンネマンは足下から小石を探して拾い、ガーゴイルの顔に向けて投げる。

 当然、見事なつや消しの平面を見せているその表面で硬い音と共に小石が跳ね返るのを予想していた部下達は、何の音もたてずにその小石がつや消しの表面と思っていた場所を通り抜けて消え失せるのを見て唖然とする。

「曹長、これは……」

「手を出すなよ、食いちぎられるぞ」

 顔色を変えた部下に、ジンネマンは警告する。これは、まともじゃない。そう思い、これ以上の詮索はこの状況では危険と判断して、

「エルンスト、その辺の木の枝を突っ込め。クルト、写真を撮れ」

 部下に命じる。今回の調査の前に軍用ライカカメラの操作をさんざん叩き込まれたクルト・タンク二等兵は、一生懸命絞りとシャッタースピードを計算していたが、申し訳なさそうに、

「分隊長、すみません、どうにも明るさが足りないと思います。閃光電球ブリッツビルネがあれば良かったのですが……」

 まわりを囲む森の木々を見上げて、言った。人の目には十分に明るく見えるこの広場だが、写真を撮るとなると、森の木々に遮られて光量が不足するのだ。

「どうにかならんのか?」

 リヒャルトの質問に、クルトは、

「シャッタースピードを落とせば撮れないことはないはずですが、自分の力量では写真がブレてしまう可能性が高いです」

 さらに恐縮しながら答える。

「ブレた写真では意味が無いな……」

 ジンネマンは、考え込みつつ呟いた。簡単な下見のつもりで、コストのかかる高感度フィルムも閃光電球も持ってこさせてはいなかった、それは自分の失態とも言えるが、こんな事態は想定していなかった。何か明かり、閃光電球の代わりになりそうなものはないか?少し考えて、ジンネマンは思いついた。

「……銃の発射炎ではどうだ、閃光電球の代用にならないか?」

「……行けるかも知れません、やってみます」

 設定を変えて何回か試してみましょう、そう言いながら、クルトは当てずっぽうで絞りとシャッタースピードを調節する。

「よし、じゃあ……」

 ジンネマンは、リヒャルト伍長に視線で指示し、伍長は頷いて、小銃の安全装置を解除しながら腰だめに構える。その銃口は、クルトから少し後側方に離れた所からガーゴイルの顔面中央を狙っている。

「……ダメ!」

 その様子を見ていたギーゼラが、急に声をあげた。

「この森は狩りとかしちゃダメだって、お婆ちゃんから言われてるの……」

 大人達に見つめられてちょっと気後れし、尻すぼみになりながらも、それでもギーゼラは自分が知っている村の掟を異邦人たる兵隊さん達に説明する。

「お嬢ちゃん、大丈夫だ」

 膝をついて小銃を構えながら、リヒャルトがギーゼラを安心させるように、言った。

「俺たちは狩りがしたいんじゃない。明かりが欲しいだけだからな」


「もう一度言ってブリュンヒルト!何が襲ってきたって?」

 店のカウンターに、客からは見えないように置かれた鏡に向かって、リュールカは聞き返した。

「ガーゴイルのようなものです!兵隊さん達が銃で対抗してますが、あまり効果は無いようです!」

 鏡からは、リュールカがブリュンヒルトと呼んだテーブルブラシの声と、男達の怒声と散発的な銃声、そして何か大きな鳥が羽ばたくような音が聞こえてくる。

「ギーゼラは無事なのね?」

「はい、兵隊さんがまわりを囲んで護ってくれています!」

「わかった、すぐ行くわ、誘導して!」

 鏡に向かってそれだけ言ったリュールカは、振り返りざまに、店に通じる納戸の戸口から様子をうかがっている青年に向かって呼びかける。

「ヴィルベルヴィント!来なさい!」

「はい!御主人様マイスター!」

 用意周到に、既にくらあぶみをかかえて現れたオーバーオール姿の青年は、喜び勇んで返事をすると、リュールカの目の前でサドルとステップの付いた柄の長い箒、つまるところ元の姿に戻って宙に浮いた。


――おかしなものです、この土地の魔女は、籠や箒に乗って空を飛ぶのだそうです――

 かつて、先生レーレリンは自分にそう言って、可笑おかしそうにくすくす笑った。リュールカは思い出す。声も顔もはっきりとは思い出せないけれど、確かにそう言って笑ったんだ、それだけは間違いない。

――私たち月の魔女は自分で飛べるのに。地上の魔女は、なんて不便なんでしょうね――

 そう、私は道具など使わなくても空を飛べる。だが、先生レーレリンが居なくなってからの空虚な時間の手慰みに作ってみた「空飛ぶ箒」は、なるほど、自力で飛ぶより速く、楽に飛ぶことが出来た。飛ぶことに、目的に特化した道具とはつまりそういう事なのだと、リュールカは実際にやってみて納得したものだった。とはいえ、細い棒きれに跨がるのはあまり快適ではないので、自前でサドルとステップを追加したのだが。

 その空飛ぶ箒、ヴィルベルヴィントに跨がって、森の木々の上をかすめるようにしてリュールカは飛んでいた。方向は、ブリュンヒルトの居る方角。首から下げた水晶球のペンダント、決して体の大きくないリュールカが片手で握り込めてしまう大きさの水晶球の、そのペンダントの紐に付けられた小さな鏡を通して源始力マナで繋がっている方角に向かっている。リュールカの箒は、箒に限らずリュールカの使う全ての魔法具は、リュールカ自身から源始力マナを分け与えられることによって働いている。その源始力マナはリュールカ自身が周囲のエーテルから取り込み、自分で使う分と箒達に必要な分を差し引いた残りの余剰はこの水晶球に貯め込む、そういうものであり、ある意味その水晶球は源始力マナの貯水池、電池であり、もし万が一にも一度に大量の源始力マナを要する呪いまじないを成すときは、エーテルから得る分で足りなければ水晶球から汲み出して使う、そういう使い方をするものであった。

「ブリュンヒルト!周りを見なさい!」

 ヴィルベルヴィントの柄を左手だけで握り、柄から離した右手でそのペンダントの鏡を握ったリュールカは、目を閉じて鏡を通してブリュンヒルトの源始力マナをたぐり、『目』を繋ぐ。

「はい!御主人様マイスター!」

 ブリュンヒルトがもじもじと体を動かし、ギーゼラの外套のポケットから柄についた鏡を覗かせようとしている気配が伝わってくる。と、急にリュールカのまぶたの裏がパッと明るくなり、ブリュンヒルトの鏡が映す光景がリュールカの脳裏に広がる。

 そこには、ブリュンヒルト、というよりはギーゼラを中心に円陣を組んでまわりを取り囲み、散発的に銃を構え、あるいは撃っている兵士達と、そのまわりを不規則かつでたらめに飛ぶ、人に似た何かが映し出されていた。

「分隊長!弾が、もう!」

 兵士の一人が、うわずった声で叫ぶ。

「総員、隙を見て着剣!」

 別の兵士が命じた。その両者の声に、リュールカは聞き覚えがあった。

御主人様マイスター!」

「分かってる!」

 ブリュンヒルトの危機を知らせる声に答えると、リュールカはヴィルベルヴィントに命じる。

「上昇!弾道飛行の頂点で呪文詠唱、『生ける炎』の矢を放つ、いいわね!」

「はい!御主人様マイスター!」

 返事をするが速いか、ヴィルベルヴィントは四十五度ほどの角度で急上昇を始めた。


 急上昇するヴィルベルヴィントにしがみつきながら、リュールカは呪文を唱え始める。触媒や法具無しではあるが、一瞬だけ道を開き、その力を利用するだけならば問題は無い、そう判断し、実行する。

 地上のどの言語とも似ていない呪文を唱え始めると、リュールカのまわりに複数の法円が出現する。それらは瞬きをするたびに形を変え、凝視すればするほどぼやけるようなたちのそれであって、人の認識を阻み、理解を拒否するものでもあった。

 利用したい対象とが繋がったところでリュールカは短い詠唱を一旦中断し、別の呪文を唱え始める。今度は明確にヘブライ語のそれはリュールカ自身を護る為のものであり、異界から呼び寄せる力に己自身が侵されない為のものであると同時に、その禍々しい力に方向性を与えるものであった。

 常に形を変える禍々しい法円と重なるように、清浄な光に溢れる法円が出現し、同時に三対六枚の光翼をリュールカは纏う。

「ブリュンヒルト!遠隔誘導!いいわね!」

 上昇を始めて十数秒。リュールカはペンダントの鏡越しに箒に告げ、返事を待たずにヴィルベルヴィントのステップを蹴って体を離す。推力を失い、単なる箒と化したヴィルベルヴィントを左手に握ったまま、リュールカはそれまで蓄積した運動エネルギーだけで放物線を描いて上昇を続け、再度、中断した呪文の詠唱を始める。その呪文は、月の魔女であっても正しくは発音できない、地上人と同じ構造を持つ肉体では絶対に再現出来ない発音を含む呪文であり、従って術の完全再現は出来ないし、完全な制御も出来ない。その事を熟知しているリュールカは二つの呪文、召喚と退去の呪文をほんのわずかな時間差を置いて同時に詠唱し、詠唱の末節に合わせて三つ目の呪文、先の二つとまた違う言語の呪文を重ねた。

「……エイボンの子リュールカが精霊に命ずる!『生ける炎』用いて我の指し示す先を射貫け!」

 三つ目の呪文、地上では遙か昔に失われた国の言葉で綴られた呪文を目をつぶったまま唱えつつ、放物線の頂点付近でリュールカは矢をつがえた弓を引き絞るような行動をとる。その動きに合わせ、ヴィルベルヴィントが、リュールカの身長を超える長さの庭箒が弓矢の形に変じ、リュールカの右手がその弦を引く。リュールカの伸ばした左手の人差し指、弓を握るその手の指先に恐るべき熱量を持つ光球が発生し、蜃気楼の矢尻に吸い込まれるように乗り移る。

 まぶたの裏に見える光景、ブリュンヒルトの鏡に映る光景の中の、肉体美を冒涜するようなその漆黒の何かの、光すら吸い込む暗黒の顔に向けて、「力ある言葉」と共にリュールカは蜃気楼の矢を放った。

「光弾よ、的を撃ち抜け!神鳴るごっど剛弓ごーがん!」


――こんなの、聞いてないよ!――

 装填した弾薬を撃ち尽くしたことに気付かず、薬室が空のままボルトを閉塞させた小銃の撃鉄が空打ちした時、クルト・タンク二等兵はそう思った。

「分隊長!弾が、もう!」

 同僚のエドガー・シュミード二等兵が、分隊長であるジンネマン曹長に怯えた声で叫ぶ。

――少しでも前線に出たくないから、工兵を志願したのに――

 実際のところ、工兵は一般歩兵と行動を共にする事が多いし、戦闘訓練も同じように受ける。穴を掘るくらいなら一般歩兵もするから、大規模な土木工事でも発生しない限り差はないようなものだし、むしろ地雷撤去などで前に出ることさえある。だが、何の知識も持たずに徴兵された青年クルト・タンクは、そんな事は知る由もなく、ただ単に、何の知識も技術もない自分が少しでも戦闘行為から遠ざかる方法として工兵を志望した、工兵と言うからには後方で作業するのだろうと思った、それだけの事であった。

「総員、隙を見て着剣!」

 ジンネマン曹長の、落ちついた野太い声が鋭く響く。あわてて、クルトは腰に付けた銃剣をまさぐる。この時、銃剣を弾のなくなった小銃に着けようとしていたのは二人の二等兵だけであり、残りの三人は着剣するタイミングを計ってこそいたものの、皆まだ一回分のマガジンクリップを残していた事をクルトは気づきもしなかった。

――こんな、わけの分からないものを相手にしなきゃならないなんて――

 今回の調査命令が下命された時、クルトは喜んだのを覚えている。それは、退屈で辛い兵舎での日々から離れられるからでもあり、単調な訓練から離れられるからでもあり、もし万が一にも調査によって重要な発見がもたらされたならば、相応の褒美もあるという訓示を受けていたからでもあった。

「踏ん張れ!お嬢さん一人守れないようでは、国防軍の名折れだぞ!」

 ジンネマン曹長が檄を飛ばす。震える手で苦労しながら着剣しつつ、クルトはそれを聞いた。クルトの銃剣が正しく装着される頃には、そのジンネマンの小銃も撃ち尽くしていた。

――嫌だ!こんな事で、死になくなんかない!――

 その黒い、蝙蝠に似た羽の生えた人型をした何かは、何発かは銃弾が当たっているはずなのにそれを微塵も気にした様子はなく、やや距離をとって宙に浮いていた。その顔のあるべき所は真っ平らで真っ黒、いや、そもそもそこには何も無い・・・・のだから、表情を読むことなど出来る道理はないのだが、クルトには、丸眼鏡の奥のクルトの琥珀色アンバーの瞳には、その時、それ・・が笑ったかのように映った。

 その黒い、人型をパロディにしたような形態の何かは、突然にものすごい勢いで急降下を始めた。

 田舎育ちのクルトは、鷹が獲物を狙う時、同じように急降下するのを頭の隅で思い出していた。

「皆さん伏せて下さい!」

 兵士全員とギーゼラの視線がその急降下を始めた人のようなものに集中した時、クルトは聞いたことのない女性の叫びを聞いた。

「!、伏せろ!」

 その声に何かを感じたジンネマンが、兵士達に対して効力を持つ命令として、同じ言葉を繰り返した。その声、直属の上官の怒声に、脊髄反射的に兵士達はその場に身を投げ出す。

 同時に、黒い醜悪な人型は、何かを感じたのか急降下を中止してあらぬ方を仰ぎ見て一瞬空中に静止し、すぐにその場から離れようと、離れるために羽ばたこうと蝙蝠に似た翼を広げた。


 その瞬間。その何も無い・・・・顔の真ん中を、蜃気楼のように儚く、しかし焼け付くような熱を放つ何かが穿ち、その後ろ頭から突き抜けた。


 大量の源始力マナを一度に放出してしまった反動に寄る脱力感に身を任せて自由落下しつつ、リュールカはブリュンヒルトに短く尋ねた。

「無事?」

「はい、皆さん無事です」

「そう。じゃあ、後は任せるわ」

「はい、御主人様マイスター

 徐々に戻って来る体の自由を確かめるように空中で身じろぎしたリュールカは、同じように少し離れて自由落下する箒、ヴィルベルヴィントに命じた。

「帰りましょう」

「はい、御主人様マイスター

 答えたヴィルベルヴィントは、自分からリュールカをサドルの上に乗せるように姿勢を制御すると、緩いレートで落下から水平飛行に遷移していった。


「にわかには信じがたい話ですね」

 村にあるほぼ唯一の「高級な」宿屋の個室で、グドルーン・ブルヴィッツ特務少尉はジンネマン曹長からの報告を聞き、そう答えた。

 雑魚寝上等の、農家が片手間でやっているような相部屋の宿屋なら他に何軒かあるが、まともな個室がある宿屋は村中央のここしかない。料理と呼ぶに値するようなものが出るのも、だ。その意味で、さっさとここを見つけて特務少尉に個室をあてがったリヒャルト・フォークト伍長の見識は確かだったと言える。

「ですが、事実であります」

 直立不動のジンネマン曹長は、杓子定規にそれだけ答えた。

 村に帰還し、大特急でまとめた報告書に嘘は書いていない。ただ、未確認なので報告を控えている要件がいくつかある、それだけだ。そう、ジンネマンは自分の記憶を回想しつつ、思う。

 ガーゴイルらしき、顔の部分に不可解な空洞のある彫像。それだけで十分に不思議だが、それが銃声と共に動きだし、明確な攻撃の意思をもって襲いかかってきた、そこまでは報告書にしたためてある。

 その彫像は、大音響と熱波と共にその頭部を爆散させて動かなくなった。その瞬間を正確に目撃し記憶している者は、ジンネマン及び分隊A班の誰もいなかった。ジンネマンが命じて、全員が伏せていたからだ。

 ただ、背後に熱波を感じ、直後に大音響が鳴り響き、そしてその彫像は地面に墜落した。そう、報告書には書いておいた。それ自体には、嘘偽りは無い。

「フムン……自爆でもした、という事かしら?」

 ブルヴィッツ特務少尉は、報告書から目を上げると、眼鏡越しの視線をジンネマン曹長に向けて、聞いた。

「小官には何とも。頭を抱えて地に伏せておりましたので」

「……わかりました。その彫像はまだ現場にあるのね?」

 臆病者の振りをして軽くおどけて見せたジンネマンの一言をスルーして、グドルーンは事務的に聞いた。担いで持ち帰るには重すぎてとてもトラックまでも運べないと判断したジンネマンは、その彫像をその場に残して後退する決断をしていた。

「自分で歩いて立ち去らない限りは、でありますが」

「冗談にしても面白みに欠けますね」

「よく言われます」

「いいでしょう、写真は現像出来たら持って来て下さい。明日朝食後に出発、その彫像の調査と回収、その奥の捜索を行い、その結果をもって明日以降の予定を立てましょう。手が足りなそうなら、付近に散ってる他の斑を呼びましょう。今日の業務はこれにて終了、ご苦労様でした」

「は!」

 話は終わり、そうジンネマンは判断し、敬礼して部屋を出る。

 やれやれ。若い女性士官、グドルーン・ブルヴィッツ特務少尉はため息をつき、そして考える。しかし、これは幸先が良い。

 『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』の研究室から急に調査に派遣されると聞かされた時は、そりゃびっくりしたものだった。何しろ、発掘調査などの経験こそあれ、それは研究室の先生が民間の業者を雇っての事。自分が責任者で軍の一個小隊を指揮して、なんて考えただけでも震えが来るというものだ。だがまあ実際にやってみれば、便宜上与えられた出向先、一般親衛隊アルゲマイネ エスエスの特務少尉という階級もあって、兵隊の管理は二人の古参兵に任せきり、自分はアレやれコレやれの指示に徹していればよく、むしろ余計なマネジメントが無いだけ楽とも言えた。そして、運良く一発目でいかにも怪しい彫像に出っくわすとは!襲ってくるとなれば用心は必要だが、そういうのは全部軍隊に任せて自分はいかに結果をまとめて持ち帰るかに専念すればいい、そういう意味では民間を雇うよりはるかに仕事が捗るというものだ。

「何か、ご機嫌なようにも見えますね?」

 部屋の隅から声がした。グドルーンは、壁にもたれてこっちを見ている浅黒い肌の男に向き直る。

「そうね、ご機嫌といえばそうかもしれないわ。お手柄を長官に褒めていただけるかもですもの」

「ほほう、それは重畳ちょうじょう

 いかにも仕立てのよい、白いスーツを着込んだその男は、慇懃無礼にそう言った。

「良い成果が得られることを、私も期待してますよ」

 そう言って、その男は部屋を出る、一言だけ言い残して。

「その方が、私も面白いですから」


「全部、話したんですか?」

 宿屋を出て待っていたサイドカーの側車にジンネマンが乗り込むと、運転席で待っていたリヒャルト・フォークト伍長が聞いて来た。

「確実なことは全部な。不確実なことは、報告書には書けん……クルトが見たって言う、アレを貫いた光も、居ないはずの女の声も。お前も聞こえたんだろ?」

「助かります。不確かなものの事を聞かれても、答えるのに困りますから」

 キック一発でエンジンを始動し、ゴーグルを下げながらリヒャルトはジンネマンの答えに同意した。

「さあ、出してくれ。とにかく飯にしよう」

了解ですヤボール

 ジンネマンに急かされ、リヒャルトはサイドカーを発進させる。雑魚寝上等だが野営するよりははるかにマシな、女上司グドルーンの宿であるこことは別の安宿屋に向かって。


 日が暮れ、すっかり暗くなった店の中で、リュールカは腕を組んで考え込んでいた。その目前には、昼間、ギーゼラと見ていた地図がある。

「あんな所に、あんな池とかあったっけ……」

 リュールカは、首をひねる。この村の周辺は全て頭に入っているし、この地図にも書いておいた、はずだったのだが。

 リュールカは、傍らにいる黒猫、フェルディナンドに問いかける視線を移す。

「って聞かれても。ボク、そんな森の奥なんて興味無いし。リュールカが知らないことはボクも知らないよ」

「そうよねぇ……ま、いいか。明日にしましょ」

 そう言って、リュールカはカウンターに置いたオイルランプを持つと、夕食の支度をしにキッチンに向かった。

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