忘れ物を取りに行った屋上で

ラーさん

忘れ物を取りに行った屋上で

 忘れ物を取りに行った屋上で、彼女はいつものように夕暮れの中で眠っていた。

 あたしはそっと近づいて、スクールバッグをまくらに眠る彼女の顔を覗き込む。

 これが二人のいつもの放課後だった。


「今日も変わらないんだね」


 眠る彼女の汚れを知らない正しさのような白い肌を、夕日のオレンジがおしまいなんて忘れたみたいに穏やかな色であたたかく染めている。

 彼女はあたしの一番の親友だった。

 親の仕事の関係で、転校の多かったあたしは友達を作るのが下手だった。どうせすぐに別れてしまうからと深い関係を避ける癖がついていて、この女子高に転入して来てもあたしは休み時間や放課後をやり過ごす、人気の少ない場所を探して学校中をさまよった。

 図書室、空き教室、校舎裏――そうして屋上を訪れたとき、あたしは彼女に会ったのだ。

 今と同じように眠る彼女が、夕焼けの光と影の中で絵画に描かれたお姫様のように横たわっていた。

 あたしはそんな彼女に思わず立ち尽くしてしまったことを覚えている。

 それは孤独のようで、けれど悲しさはなく、ただ穏やかに時を過ごしていて、逃げるように追われるように、孤独をやり過ごしていた自分とは似ていて違う、近くて遠い対極のようなあり方に見えて――つまり、あたしは彼女に見惚れたのだ。


「誰? あなた」


 自分を見つめる気配に気づいたのか、彼女が覚ました目をあたしへと向けたその瞬間――あたしの中で生まれた感情が、衝動的に、刹那的に、後先もなにも考える間もなく言葉になって口から飛び出していた。


「あ――あたしも、横で寝ていいですか?」


 声に出した瞬間にこれは恥ずかしいセリフだって頭が理解して、真っ赤になったと思うあたしの顔に彼女はすぐに微笑んで、


「いいよ」


 と、手を差し出したのだ。

 それからあたしと彼女は放課後に、二人並んで夕暮れの屋上で横になる仲になった。


「お姫様?」

「笑わないでよ」


 本当に眠っているだけの日もあれば、こんな目覚めのまどろみにピロートークみたいな他愛のない会話を交わす日もあった。


「笑ってないよ。あなたがかわいいなと思っただけ」

「ぜったい笑ってる」

「あはは」


 眠っているときはお姫様のように美しい彼女は、目を覚ますととても明るく、人をからかうのが好きなかわいらしい女の子だった。

 あたしたちは仰向けに横になってオレンジの陰影に染まる雲を眺めながら、そんなやりとりに日没までの時間を潰す。

 それはあたしにとってとても幸福で、かけがえのない時間だった。


「ごめんごめん」


 彼女はいつもあたしをこうやってからかい、むくれたあたしに笑いながら謝って、あたしはそれをなあなあに許してあげる。それがあたしと彼女のいつものやりとりだった。


「でもそうか」


 けれどこの日の彼女はそこでふと何かに気づいたように真面目な顔をして、急にあたしの手を握ったのだった。


「え?」


 ドキリとして彼女の顔をまじまじと見ると、彼女の瞳のダークブラウンの虹彩にあたしのドキドキとした恥ずかしい顔がはっきりと映っていた。


「わたしがお姫様に見えたなら、あなたは王子様というわけだ」

「あ、あたしは女だよ――」

「役割の話だよ。別に性別なんて」


 そう言って笑った彼女の意地悪気な口もとが斜陽の光に赤く映えて、さらにあたしの胸を跳ねさせる。


「あ、でも一緒に眠っちゃったら、二人ともお姫様か」


 そうつぶやいて少し考える表情をした彼女は、そこで小さく歯を見せたかわいい微笑みを浮かべて、こうあたしの耳元で囁いたのだった。


「眠り姫は一人だから王子様のキスを待っていたけど、眠り姫が二人で眠っていたら二人は王子様を待ったのかな――」


 そんな放課後も、あたしの転校で終わる。知っていたことだった。わかっていたことだった。けれど――。


「いつまでも一緒に眠っていたかった」


 眠る彼女は無邪気な顔で、口をもごもごと動かしながら夢の中に沈んでいる。夕陽のオレンジがより濃く赤い色へじわじわと変わっていく。彼女の長い睫毛が、スッと伸びた鼻筋が、柔らかくも凛とした輪郭が、穏やかな寝息をこぼすふくよかな唇が――つまり彼女の清らかさが、美しさが、正しさが、そのすべてが、一日の終わりの中へと徐々に飲み込まれていく。

 もっと見たくて顔を寄せると、不意に彼女の目が開いた。


「どうしたの?」


 見つめる彼女の瞳のダークブラウンの虹彩に、動揺するあたしの顔が映り、


「忘れ物を取りに――」


 目を泳がせて、咄嗟にそうこぼした唇に、


「これのこと?」


 彼女の唇が深く触れた。

 あたしの頭を抱いて、長く熱く交わされる彼女の唇にあたしはすべての身を委ね、彼女の背を抱き締めながら、このまま夕陽が消えるとともに世界もすべて終わってしまえばいいと、ずっとずっと願い続けた。

 けれど、彼女の唇はやがて離れ、


「これで眠り姫もお目覚め――」


 赤い斜陽に染まった顔をくしゃりと歪めて笑顔をつくり、残酷にその言葉を口にした。


「忘れたままの方が良かったかもね」

「そうね――」


 この日、心にしまった忘れ物は、彼女の涙とともに忘れられず残っている。

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