5 白銀の星 

 朝から青空が広がっていた。

 明日の建国記念を控え、前夜祭の準備にも余念がない。離宮にいても、城内の慌ただしさや高揚感が伝わってくる。ジェラルドとて、そうだ。

 部屋の隅には、今日のためにあつらえた衣装がある。

 軍服を模した漆黒の上衣は金色の糸で縁取られ、銀糸の意匠が輝く。フォーリアの国花をアレンジしたものだ。同色の糸が胸元から垂れ下がり、動きに合わせて揺れるさまは、アーシュの髪を思い起こさせた。

 彼女にも、衣装を贈ってある。普段の扱いを鑑みても、用意がされているとは到底思えない。

 今日ばかりは城内を歩きまわらず、ジェラルドは離宮で待機する。なるべく彼女と顔を合わせないようにするためだ。もしも事前に姿を見てしまったならば、その場で飛び出してしまいかねない。

 あきらかに、気がっている。

 敵陣に斬りこんでいくときとは、違う高揚感だ。

 言うべきことを頭のなかで反復するジェラルドに、部下たちは生暖かい目を送っているが、当の本人は気づく様子もない。

 やがて陽が傾き、応じて人影も増えはじめる。城門をくぐる馬車の音が響き、馬のいななきがここまで届く。

 窓から見下ろすと、園庭を歩く客人の姿が見えた。明日の建国行事のためにやってきた、遠方の領主たちなのだろう。彼らも今夜の晩餐会に参加すると聞いている。

 ジェラルドのことは、城外には伏せられていた。フォーリアの残党狩りがいないとは限らず、国家を危険にさらすわけにはいかない気持ちは、理解できるものだ。

 公爵には、公爵なりの考えがある。

 それが、ジェラルドの心と沿うかどうかは別問題だが。


「さあ、殿下。勝負のときですよ」

「初陣ですな」

「大丈夫。骨は拾ってあげるから!」

「……縁起の悪いことを言うな」

 なんとも散々な言いようであるが、これは彼らなりの激励だろう。

 部下たちは会場には入らず、別の場所に向かう。貴人の従者たちのために、歓談しながら待機できる別部屋が用意されているからだ。

 単独で大広間へ向かったジェラルドは、扉をくぐった。

 押し寄せる熱気。

 戦場とは異なる空気は、緊張を伴う。

 黒獅子だと囁かれる声はここにはないはずだが、耳が勝手にそれらを拾い、足を止めた。

 わかっている。彼らが自分を見つめるのは、異国人だからだ。

 公国民の多くは亜麻色の髪を持っていて、階級が上がるほどそれは顕著。色素の濃い者は、基本的には平民である。

 だが、そのなかにあっても黒い髪を持つ者はいない。それは商人であったり旅行者であったりする。黒髪の男ジェラルドがこの場にいるのは、招待されているからであり、つまるところ、賓客と判断されているにすぎない。

 祖国で受けた視線を思い出す。

 あのときは、兄がいた。味方になってくれる存在があったけれど、それはもうない。

 ――好奇の目を受け流せなくて、この先どうする。

 兄の振る舞いを思い出し、ジェラルドは顔を上げた。呼気を整えて会場を見渡してみると、思ったよりもひとの数が多い。ざわめきのなかに混じる声に、目当てのものがあるだろうかと、耳をそばだてる。

 獅子の因子が持つ五感を、こんなふうに使うことになるとは思っていなかった。敵の呼吸や密談を探るのではなく、求めるのは愛しいひとりの娘。

 彼女の足音、息遣い、声。

 これまでずっと近くで感じてきたもの。

 それを覚えている。


 ――いない……?


 会場のなかに、彼女を感じない。

 ひとの波を歩きながら気配を探る。どこにいる、どこへ行った。まさか、いないのか。いや、彼女のことだ。なにか別の用を言いつけられでもして、手間取っているのかもしれない。

 十二時の鐘が鳴るとき、祈りの塔がある場所で。

 出会えなかったときのことを考えて、そう伝えてある。

 きっとあそこへ行けば、会えるはずだ。


 どよめきが起き、ひとびとの視線が一方に流れる。その先を追うと、公爵の姿があった。さほど華美な装いではないが、それでも漂うものが王者の風格というものだろうか。誰もが自然に足を止め、その場をゆずる。

 歩みを進め、天井から下がる深紅の幕を背にして、一同を見渡した。

「今年もまた、建国のときを皆で迎え、祝えることを嬉しく思う。皆の者、そのときまでゆっくり過ごしてくれ」

 朗々とした声に拍手が巻き起こり、そこからはさらに熱が生まれる。

 四方に開かれた扉からはワゴンが運ばれ、給仕たちが皿を並べていく。泡立つ琥珀色のグラスを掲げ、乾杯を交わす者、美しいドレスをまとった令嬢たちが小鳥のようにさえずり、そこかしこの宿り木を渡り歩く男も絶えない。楽団が奏でる音を背景に、歓談が進む。

 視線を巡らせるなか、ふと公爵と目が合った。ジェラルドは無言で頭を振り、相手は頷いた。

 この場での紹介は、必要ない。

 事前にそれは告げてある。

 ジェラルドは周囲に目をやり、そっと足を忍ばせて壁際へ寄る。声をかけようとするどこかの令嬢をひと睨みで黙らせて、扉の外へ向かった。静まった廊下を抜け、庭へ出る。ひとびとのさえずりが遠のくにつれ、耳に痛いほどの静寂が訪れた。夜風は、さきほどまでの熱気を攫い、思考も冴えていく。

 すでに通い慣れた道を走り、ジェラルドは塔へ向かった。しかし、そこには誰もいない。懐の懐中時計を取り出すと、日付が変わるまであとわずか。秒針の音が鼓動に重なり、否が応にも緊張が高まる。

 探しに行くか。

 だが、行き違ってしまってはなんの意味もない。

 頭を振るジェラルドの耳に、かすかな呼吸が届いた。かさりと草が揺れる音、湿り気を帯びた土を踏みしめる音、息を呑む音、常よりも多い呼気。それらすべてが近づいてくる方向に目をやり、そして息を呑んだ。

「申し訳ありません、ロイ様。あの、遅くなってしまって」

 月が照らすそこに、光輝く女神がいた。

 淡い水色のドレスは、彼女の肌をよりいっそう白く浮かび上がらせる。裾へ向かうにつれて濃い色をつくるグラデーションは、彼女の歩みに合わせて揺れて、水面に広がる波紋のようだ。長い髪はまとめられず肩を流れ、水晶をあしらったティアラが頭部を飾っている。

 黙りこむジェラルドに、アーシュがためらいがちに声をかけた。

「やはり、似合いませんか? ドレスに着られているような気がしてならないのです」

「そんなことはない。とても美しい。ドレスが、という意味ではなく、おまえ自身がだ」

「……ロイ様は、口が上手くていらっしゃいます」

「美辞麗句は苦手だ。それに、俺に近づく女性など皆無だった」

 言葉を止め、大きく息を吐く。己の想いを告げる前に、明かしておかなければならないことがある。

「アーシュ、聞いてほしいことがある。俺の、出自についてだ」

「お母さまのご身分のことは――」

「いや、そうではない。問題はそこではないのだ」

 草むらから、虫の音が聞こえてくる。夜に飛ぶ鳥の羽音、小動物が走る音。彼らの存在は、広間でさざめくひとびとより己に近しいものであることを、隠したままでいることはできない――したくない。

「女神と獣の神話だ。禁断の果実を食べた娘は、異形の子どもを産んだ。フォーリアにはその末裔が暮らしている。獣の因子を――常人が持ちえない特性を持った人間がいる。……俺も、そのひとり。獣人ビーストだ」

 風が吹いた。雲が夜空を流れて月を隠し、地面に影が落ちる。

「本来なら、こんなところにいるはずがなかった。王子などという御大層な身分についた獣は愚かにも、神話のとおり、女神に恋をした」

 落とした声に、ちいさく息を呑む音が聞こえたが、ジェラルドはかまわず続ける。胸が張り裂けんばかりに鼓動が高鳴る。息を荒げ、思いの丈をこめて言葉を吐き出す。

 獣よ。女神に焦がれた憐れな獣よ。

 おまえはきっと、こんなふうであったのだな。

 相手の気持ちなど推し量ることもできず、ただ、本能に従い己のエゴをぶつける。なんと醜い姿だろう。

 だが、この想いは止められない。欲しいのだ、彼女が。

「俺は、おまえが欲しい。これより先、俺のすべてをかけておまえを守ると誓う。だから、俺と共に生きてくれ、アーシュ」

 そよぐ風が上空の雲を払い、ふたたび月が顔を覗かせた。月光がアーシュを照らし、灰色だと自嘲する髪を、輝く白銀に染める。

 ジェラルドは導かれるように、銀の髪をすくった。さらりと手のひらから逃れようとするそれを捕まえ、口づける。

「ですが、私は……」

「愛している」

「わた、しは……」

 おとがいに手を当て、ジェラルドは囁く。

「俺は否定の言葉が聞きたいのではない」

「……ロイ様は、やはり強引な方です」

 言って、彼女は泣き笑いのような顔を浮かべる。真昼の空を思わせるアーシュの瞳に映る己の顔は、かつて見たことがないほど穏やかな笑みを湛えていた。

 ――俺は、こんな顔をしていただろうか。

 より近くで確認しようと顔を寄せ、けれどそれは叶わなかった。

 ジェラルドが見たのは、己が目蓋の裏に広がる夜空。またたく銀の光と、鼻先をくすぐる甘い香り。闇のなか、唇に感じるあたたかな風を捕まえた瞬間、建国を告げる時の鐘がおごそかに鳴り響いた。

 十二回。

 鐘の音に重ねるように交わした熱は、そのあともしばらく冷めることはなかった。



     ◆



 城から馬車に乗って数日。慣れない行程に腰を痛めないか心配していたが、アーシュは笑って否定した。

 馬は好きらしい。


 最後に立ち寄った町から半日、いまにも壊れそうな橋を前に、馬を止める。荷台を引いて渡るのは難しそうだ。

 積荷を降ろし、小分けして背負う。女の身でありながら、驚くほどに荷の少ないアーシュは、動きやすそうな皮のブーツを履いて橋の向こうを眺めている。

 なにが見えるということもない。広がっているのは森だ。それを抜けた先に集落があったらしいが、最後の住民を確認したのは何十年も前のこと。建物が残っているのかすら、定かではない。

 アーシュ姫に付与されている領地は、廃村なのだ。

「すみません、私がふがいないばかりに、皆様をこのような場所に……」

 何度目かになる謝罪には、これまでで一番憂いがこもっている。実際に訪れた場所が、予想以上の状態だったためだろう。

 しかし、アーシュは知らない。

 本来なら、それすら与えられることもなく、飼い殺しにされかねなかったことを。



 求婚をしたあと、ジェラルドは公爵のもとへ向かった。誰を選ぶのか、その答えを示すためにだ。

 アーシュの名を告げた時、公爵夫妻は目を見開いた。常より下に見ている末姫より、自身の娘が劣っていると評されたような気がしたのだろう。とくに公妃は、声高にこちらを責めたてた。

「フォーリアとの縁組は、公国の民には明らかにしていないはず。姫の尊厳が傷つくような事態にはならないのでは?」

「同じ城に住む娘たちの心はどうなるというのです」

「もとより、ここに居を構える気などない」

「あの娘がどこへ行けるというの。不毛の地しか持たぬ身。あんな場所で暮らせるわけがない」

「――そうまでして、縛りつけたいのか」

 ジェラルドが唸ると、ぴたりと声がやむ。

「この先、アーシュのような存在を作るな。巫女を支える役割をたったひとりに課すような真似を、俺は許さない」

「な、しかし、それは――」

「……俺を誰だと思っている。大陸でも名を馳せた、フォーリア騎兵団の力を知らぬと言うか?」

 いつでも相手になろう。

 酷薄の笑みを浮かべると、相手は蒼白になる。ちいさくあがった悲鳴にふたたび笑みを返し、ジェラルドは立ち上がった。

「地のはてで我らが見張っていることを、努々ゆめゆめ忘れるな」


 いまさら公国に未練はない。どこかへ旅立つのも悪くないと思っていたが、優しい彼女は祖国を見捨てるような真似はできないだろう。

 アーシュが持っている領地とやらまで向かう手段を用意させ、ジェラルドらは旅立った。

 城下に残した部下には行き先を告げ、アーシュを案じるひとへ声をかけさせている。気概のある者は、いずれやってくることだろう。

 未だ眉根を下げているアーシュに、ジェラルドは笑みをつくった。

「気にするな、すべて俺が望んだことだ」

「ですが……」

「それ以上つづけるのなら、口を塞ぐぞ」

 途端、顔を赤らめて距離を取ろうとする彼女を抱き寄せる。腕に閉じ込めたまま、仲間の顔を見渡した。

「苦労をかける」

「ゼロから国を創るもまた一興だよね」

「腕がなるわねえ」

「して、殿下。この国の名は? やはりフォーリアと」

 ゴルジの問いに、ジェラルドは首を振った。

「フォールだ」

墜ちるフォール?」

「また、なんつー名前を」

「居場所を追われた者たちの国だぞ。これ以上の名があるのか?」

「ちがいない」

 皆が笑い、ジェラルドもどこか吹っ切れたような笑みを浮かべる。

「王子だった男はもういない。ロイ・フォール。それが俺の名だ」

 フォーリアに固執する必要はない。

 兄が言っていたのは、きっと、こういうこと。

 新しく、築いていけばいい。

 大切なひとと一緒に。


「では、ロイ村長。最初のご指示を」

「森を抜け、村へ向かう。まずは野営の準備だ」



 さあ、行こう。

 この先、どんなに深い闇が訪れたとしても、きっと迷うことはない。

 黒き獅子の傍らには、いつだって白銀の星が輝いている。





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黒き獅子と白銀の星 彩瀬あいり @ayase24

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