第4話「折り紙」「忘れる」

 最悪な気分だ──────


「え?どうされましたか?」


 口から洩れていたようだ。


「あ……いえ、なんでもありません」


 セラピストはそうですか、とだけ言い、カルテに書き込みを続けた。


 別にそういった感情が今あるわけではないのに。忘れてはいけない感情のように、いや、という表現が正しい。そう、その”気分”は病室で目覚めた時からずっと覚えている。


 目が覚めたのは一昨日だった。まだら模様の淡い青色の天井と点いていない蛍光灯が一番最初に見えた。はっとして首だけ少し上げると、胸の少し下まできっちり布団が掛けられていたほかに、左手の指には脈を検出するための指クリップ、右手首には点滴用の針が刺さっていた。どすっと頭を落とすと硬い枕の感触。


 なんだここは……


 その問いしか出てこなかったほどに頭が回らなかった。幾度考えても答えは出てこない。悶々としているうちにカラカラカラと誰かがカートを引っ張って、部屋に入ってきた。


「あ!起きてる!」


 五十路に差し掛かろう女看護師は口に手を当て驚いていた。声をかける間もなく、すぐに医者を呼びに走って、若い男の医者がやってきた。僕のベッドの横にある来客用の椅子に腰かけ、何か痛いところとか違和感はありませんか、声をかけた。首を横に振ると、医者が状況説明をし始める。


「”たかはら けんじ”さん、ですね?5日前、旅館であなたが血まみれで倒れていたのを女将が発見して、この病院まで来ました」


「ちょ、ちょっと待ってください。誰ですかそいつは」


 身に覚えがない名前で呼ばれて僕は戸惑う。


「あ、失礼しました。お名前が違いましたか。本当のお名前を教えていただけますか?」


「ええ。僕は……」


 するりと口から出てこない。


 あれ? 名前? 僕の名前は?


 僕が虚空を見つめたまま動けなくなると、医者が助け舟を出した。


「あ……もしかして名前が思い出せませんか?年齢とご職業って覚えてたりします?」


「歳もちょっと……」


 僕の反応をみた医師の対応と診断は早かった。


 どうやら僕は逆行性健忘症、俗にいう記憶喪失であると診断された。病院に運ばれた時点で頭部に”硬い何か”によって大きな衝撃を受けていたらしく、何かしらの後遺症があるかもとは思っていたそうだ。

 名前に関しては旅館に残されていた名簿と、部屋にかけられていたコートの内側に刺繍されていた名前を照合して判明したと言っていた。身元はというと、どうやらカバンや財布は丸ごと部屋から無くなっており、何もわからないそうだ。

 かなり事件性が高いため、警察にも連絡は済まされているそうだが、記憶を失って名前すらも怪しい人間の捜索は非常に難しく、誰かが捜索願を出していないと動けないとのことだ。旅館の女将はお連れの女性と宿泊していたと証言しているが、なんせ小さな旅館だったので監視カメラ等はなく、女性の身元もわかっていない。


 そんなこんなで今、僕はセラピストと他愛ない会話をさせられている。必ずとは言えないが高い確率で思いだせる、という医者の言葉を信じて過ごしているが、未だに進展はない。


 カウンセリングルームから出て部屋に戻ると、髪の長い少女が僕のベッドの机に何かを置いていた。


「何してるんだい?」


 やさしく声をかけた。

 すると少女はぱっと顔を上げ、嬉しそうに近寄ってきた。四歳くらいかな。


「あのね、あのね、はじめて人がきたからね、おともだちになりたくてね」


 どうやら僕の隣の部屋で入院している子どもらしかった。僕が目覚めるのを待って、話しかけようとしていたみたいだ。長い間病院にいるものの同世代の友達どころか、看護師さんくらいしか話相手がおらず、退屈していたらしい。


「それでね、これをあげるからね、おともだちになってほしくて」


 少女が差し出したのはいくつかの折り紙だった。毎日看護師さんに教えてもらっているらしい。

 

 すると廊下で名前を呼ぶ声がした。


「あ、もういかないと!じゃあねおじさん!」


 手を振りながらトテトテとドアへ走っていく少女。


「ああ、またおいで。お話しよう」


 僕も手を振り返した。どうせ僕も暇をしていた人間なんだ。相手になってくれる人がいて助かるくらいだ。

 ベッドに入って掛布団をかけ、彼女が置いていった色鮮やかな折り紙を手に取る。


「果物、かな。これがブドウでこっちがバナナ。オレンジと……赤いからリンゴかと思ったら、黒い点々がついているからイチゴか」


 イチゴ?


 はっとして息が詰まり、目が大きく見開いた。頭に電撃が走るとはこのことを言うんだろう。次々に頭の中の大量のイチゴに関する記憶が蘇ってきた。


「僕はイチゴの研究をしていたんだ」


溢れ出る記憶から導き出された言葉が口から洩れる。「イチゴの結実時に起こる外的要因と帯化現象の関係」。そうだ、僕はこんなテーマで論文を書いていた。じゃあ、一体どこで研究していたんだ?


「……思い出せない」


 頭が痛くなってきた。急に働かせたからオーバーヒートしているんだ。ズキンズキンと響く頭はこれ以上の労働を突っぱねていた。

 僕はおとなしく目をつぶるほかなかった。


───────────────


 翌日になり、質素な朝食を済ませてセラピストの部屋へ行く。そこでイチゴの研究をしていたのを思い出したと言うと、セラピストは嬉しそうな顔で、


「非常に大きな一歩です。記憶というのは一本のつるのようなもので、一つ思い出せば芋づる式に記憶が戻るかもしれません。いい兆候です」


 と、僕を励ました。


 部屋に帰って一人で昼のワイドショーを見ていると、誰かががドアを叩いた。どうぞ、というと昨日の少女がおさげカバンを持って入ってきた。


「こんにちは」


「こんにちは!」


 元気に挨拶を返してくれる。最近は防犯がどうのって挨拶もさせない親がいるらしいが、この子はどうやら違ったようだ。

 ベッドの横の椅子に座ると、少女から他愛ない話を聞いた。最近幼稚園にいってないけど1か月に一度くらいみんなからお手紙をもらうこと、お父さんはいなくてお母さんは仕事で忙しいこと、遠い所に住んでいるおばあちゃんが週に一度服を持ってきてくれること。

 セラピストは仕事でやっているという感じがして会話が面白くないが、この子との会話は楽しかった。元々子どもは苦手な方だったが、触れ合ってみると案外良いものだ。


 そんな話の中、少女は思い出したように折り紙をカバンから取り出した。


「きょうもね、さっきね、おりがみをおしえてもらったの!」


「へー、何を覚えてきたんだい?」


「へへ、きょうは”のりもの”をおしえてもらったんだ!いまからみせてあげる!」


 少女は水色の折り紙を取り出すと、てきぱきと折り始めた。小さな手で一生懸命折っているのを微笑ましくみていると、すぐに折りあがった。コッペパンを半分に切ったような形だった。すると少女はカバンからペンを取り出し、さらさらっと絵を書き足した。


「これなーんだ!」


 少女がこちらに見せてきた。やっとわかった。


「新幹線かな?」


「せいかい!あたったからこれあげる!」


 少女は嬉しそうに僕に手渡してきた。もらった新幹線は青色の車体で特徴がよくおさえられていた。


 新幹線……か……


 何かひっかかる。何か思い出せそうな気がする。


 眉間にしわを寄せて考え始めると、廊下で少女を呼ぶ声がした。少女がはっとして顔をあげた。


「あ、いかなきゃ!じゃあねおじさん!」


「ああ、またね。ありがとう」


 元気よく少女は出ていった。


 それにしても新幹線か……乗り物……


「あ!」


 パッとひらめくものがあった。


 そうだ、僕は新幹線に乗って遠くまでやってきたんだ。そのあと少ない車両の電車に乗り換えて、辺境の旅館に行ったんだ。

 旅館の写真を見せてもらってときは何も感じなかったが、今ならわかる。僕はたしかにこの部屋で泊まったんだ。


「誰と……?」


 肝心なところでまた思い出せない。頭が痛くなってきて熱も帯びてきた。今日はもうこれ以上考えるのはやめよう。確かに記憶が戻りつつある。布団をかけ直して僕は目をつぶった。


───────────────

 ……生!先生起きてください!


 薄く目を開けると、ベッドのそばに息を荒げた女性が立っていた。


「……どちら様ですか」


 寝ぼけた声で女性に問う。まだ顔も洗ってないし水も飲みたい。今日は週に一度のカウンセリングが休みの日で、昼まで寝ている予定だった。


「本当に……本当に忘れてしまったのですね……」


 女性はひどくがっかりした様子でへなへなと椅子に座り込む。座ったとたん、目頭にハンカチを押さえて静かに泣き始めた。


「いや、あの、どちら様ですか」


 女性はぱっと顔を上げた。とろんとしている目は赤くなっていた。


「あなたは高原 健司先生で、私は○○大学の高原研究室所属の院生の小鳥遊 優子です!」


「高原研究室……てことは僕は大学の指導者だったのか」


 研究していた記憶との合点はいったが、職業自体は記憶には残っていない。


「先生が学会に行ってから大学の無断欠勤が続いていたんで、出張先で何かあったのではと思って色んな病院に連絡したら、記憶喪失の男が入院していると聞いたので飛んできたんです」


 そのとき、誰かが僕の部屋の扉を叩く音がした。どうぞ、というと隣の部屋の少女がやってきた。少女は小鳥遊さんに気づくと、気まずそうな顔をして「すぐ終わる?」と聞いてきた。すぐ終わるよ、というと少女は僕のベッドの机に既に折られた折り紙をおいて出ていった。


 かわいらしい犬が折られていた。


 今日は犬か……このデフォルメされた犬、どこかで見たな……

 なんのイラストだったっけ……


「みんな心配しています。お体に異常がないなら今から帰りましょうよ。学部生の卒論発表ももう来月に迫っています」


 小鳥遊さんの提案を僕は耳で受け流していた。少女はいつも僕の記憶の根幹に近い折り紙をもってくる。


 確か何かについていたんだ。そう、簡単に持ち運びできるものに……

 カバン?いや、違う。もっと小さい……携帯ではない。


「手帳?」


 ふと考え付いたアイディアは口から洩れるときに確信に変わった。


 手帳だ。そう、手帳。でもただの手帳じゃない。もっと大事な手帳……


 そうか。


 ああ、やっと全部つながった。


「どうしたんですか、さっきからぶつぶつ言って」


 彼女が不思議そうに見つめてくる。


「やっとね、目覚めたときからの違和感の理由がわかったんだ」


「違和感?」


 僕は手元の犬の折り紙を広げてペンを握った。そしてふっと息を吐いてこう告げる。


「君が僕を旅館で殴ったんだ。優子」


 優子の顔からは柔らかな表情は消え、腹の中から闇が這い出るのを抑えるかのような表情になった。


───────────────


「元々は君の論文が評価され、僕の論文がそれにつられて表に出てきたんだ」


 彼女に語り掛けるように話しながら、僕はベッドの上で文字を書き続ける。


「君と僕は世間一般から見ると非常に不健全な関係……不倫関係だった。そんな関係がずるずる続いているときに、僕たち二人ともが学会に呼ばれたものだから、二人で泊まろうとなった」


 優子はまたうつむいて頭を動かさない。僕は話し続けた。


「不倫関係ってことは妻がいる。ではなぜ捜索願が出されなかったか。そう、僕は妻と別居中なんだ。だから多少僕がいなくなったくらいじゃ気づかないし、捜索願も出ない。入試の忙しいときに大学が僕の捜索願をわざわざ出すわけもないしね」


 まるで講義でもするかのようにすらすら言葉が出てくる。僕はペンを置き、その折り紙で違うものを折り始める。


「あの夜、僕が寝ようとしたときに君があるものを取り出して見せてきたんだ」


 優子の身体がビクンと動いた。


「母子手帳だ。犬のケースに入った母子手帳……君は妊娠していたんだ。驚いた僕に君が言うんだ。『先生との子どもです』って」


 優子は顔をあげた。そこまで思い出したのか、というやるせない表情だった。赤い目は敵意をもって僕を見つめている。


「じゃあ……私がなんで先生を殴ったのかもわかりますか」


 優子が僕に問いかける。そのとき、隣の部屋の少女が僕の部屋をのぞいていることに気が付いた。


「あ、おーい!ちょっと入ってきてよ!」


 僕が少女を部屋に招くと、少女がとことこと入ってきた。


「ごめんね、まだちょっと時間かかりそうだからもう少し待っててね。お詫びにこれをあげる」


 僕はさっき折り直した折り紙を少女に渡す。犬から簡単な船になっていた。


「あ、いぬをこわしたのー?もー!」


 少女は不貞腐れたような顔で僕をにらむ。二人で僕を睨まないでくれ。


「ごめんごめん、部屋に戻ってもう一回折ってきてよ」


 少女はわかったとだけ言い、部屋から出ていった。


 また僕と優子の二人だけの空間。


 沈黙を破ったのは僕だ。


「僕を殴ったあと、君は旅館で死体が見つかったとニュースが流れてこないことを不思議に思ったはずだ。なぜ、死体がないのか。それは死んでなくて病院に運ばれたのでは、と考えたからだね。だからわざわざ君は警察に連絡せずに、病院に確認して僕の居場所を突き止めた」


 優子はじっと僕を見つめているが、僕は話を続ける。


「身元も忘れるレベルの記憶喪失と聞いて君は考えた。自分が行くことで思い出されたら困る。でも死なれると慰謝料もとれないし……確認するしかなかったんだ。だから来た。自分を覚えていなかったのは大いに良かったが、誤算だったのは急に全てを思い出されたことだ」


「……今から私がここで先生を殺す可能性は考えてないんですか」


 優子は吹っ切れたように僕に問いかける。


「もちろん考えている。だからさっき少女に折り紙の手紙を渡したんだ。そこには警察を呼ぶように看護師に伝えてくれ、犯人が来たと書いてある。」


 落ち着いて答える。


「なんで殴ったのかって話だったね……。多分、わかるよ。思い出した。」


 ここで一呼吸置いて僕は言う。


「君は『父親になるってどんな気分ですか』って聞いてきたんだ。それに僕が答えた回答が気に入らなくて殴ったんだ……」


「”最悪の気分だ”ってね」

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