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家に帰り着くころには、太陽は遠い山の稜線を越え、わずかに漏れ出るその光は静かな濃紺に今にも飲まれようとしていた。
先生は戸を開けると軽く二回だけ手を叩き、家中のランプに火を灯した。
「ねえせんせー、今日のごはんは?」
「この間の熊肉が残っているはずなので、軽くソテーしようかと。時間も時間ですし」
「ほんと?珍しいじゃない、お肉なんて」
「ええ、たらふく食べてください。明日から実習ですからね」
「えー!?また実習?」
残念なことに机上論に徹していては魔術を習得できないため、先生は時おり私たちに実習を課す。
実習自体はどこでもやってることだけど、やっぱり私の先生は、頭のネジがいくつか外れて代わりに電極が刺さっている。
私の倍はあろうかというごっつい獣の狩猟から、備蓄用の大量の炭の精製まで、魔術というよりサバイバルに役立ちそうな訓練がそのほとんどを占めるのだ。
すなわち私を待っているのは、上品な魔術のお手合わせじゃなくて、返り血と煙と酸っぱい臭い、とめどない汗と少しの流血。
「だから英気を養おうって言ってるんじゃないですか。わからない子ですね」
「テイクがギブに見合ってないのよ」
たぶん力にはなっている。
たいていの場合、武器や火薬、その他文明の利器の類は使わせてもらえないから、足りないものは魔術でやりくりするしかない。
この訓練の一つ一つに意味があることはわかっている。
……そうはいっても、だ。
この重労働はそう楽しめる代物じゃない。
程度の差こそあれ、覚醒していない人間が魔術を扱う際の身体的負担は馬鹿にならない。
ちょっとでも使いすぎるとたちまち倦怠感や激しい頭痛に襲われる。
そんなデリケートな代物を、最終的な目標を見据えつつ、状況の変化に応じて適切に、かつ自分の限界を見極めながら……。
要は無理のない範囲で無理をする、その繰り返しというわけ。
「そんなに嫌なら私も無理強いはしませんがねぇ?」
丁寧に血抜きされた肉塊がなたで豪快にバラされていく。
「別に、やらないなんて言ってないでしょ。てかやんなきゃいけないんでしょ?どーせ」
「わかっているならつべこべ仰らずに」
「私にだって無意味な文句をつらつら垂れる権利はあるわよ……ねえリベル?」
「んぇ?何の話?」
見たこともない言葉で書かれた虫食いだらけの分厚い本からわざとらしく視線を上げる。
「ぜーんぶ聞いてるくせに……で?今度は何すりゃいいわけ?」
軽く熱された香辛料が鼻粘膜と胃の活動を刺激する中、先生は一呼吸置いて宣告した。
「三十日です」
「……三十日?」
「明日から三十日間、お二人には自分の力で生きていただきます」
大して驚きはしなかった。
サバイバルみたいな訓練がサバイバルに帰結するのはある意味自然なことだし、いずれそうなる気はしていた。
明日の朝、私たちは二つ隣の山の中腹に放たれる。
標高や勾配などの地形的な条件はさほど過酷ではないものの、それはヒト以外の存在にも同じことで、つまりは競争相手がちょっと多い環境となる。
目標はもちろん三十日間生き残ること。
実施期間中は意図的に麓の人間と接触してはならず、この家のものを漁ってはならず、命に関わるような無茶をしてはならない。
「本当に危ないと思ったら逃げてくださって構いませんから」
手際よく配膳を済ませつつ先生が軽く補足する。
「本当に危ない」状況下でその場から逃げられるのかはさておき、あくまでも最終的な自分の生存を優先すればいいようだ。
「……まあ、手は抜かない程度に気楽にやってくださいな。ほら、冷める前にはやくいただきましょう」
促されるままに返しのついた二股のピックを両手に取って、バカみたいな大きさの肉の塊に食らいつく。
染み出る少ない脂を垂らして力を込めて噛みちぎる。
私は肉が好きだ。
この鼻に抜ける少し生臭いフレーバーが味覚が他人より鈍い私に自分がものを食べていることを実感させてくれるから。
総じて淡白に感じることに変わりはないけど、「気持ちの問題」も無視はできまい。
おそらく味の方もいいんだろうが、その辺のレポートは兄弟子さんに任せるとして……。
そんなことを取り留めもなく考えつつ特に意味のない視線を送ると、彼は珍しく渋い顔をしていた。
彼が何か考えてるのはいつものことだけど、それがいつになく袋小路に入った様子。
食事は普通にとっているし、こういうときに声をかけても無駄だろうから放っておいた。
ただ彼の宿した胸のつかえは、その正体を知らせないまま、確かに私に伝播していた。
落ちられない。
落ちていかない。
不意にかくんと意識の落ちる瞬間が、瞼の帷を下ろしているのにいつまで経っても訪れない。
次にベッドで寝られるのは三十日後になるってのに……いやそれを意識するからいけないのかな……それにしたってこうも眠れないなんて……もしかして私、不安になってる?まさか、ありえない……。
どうでもいい考えばかりがぐるぐる回って余計に頭がさえてくる。
たまらず起き上がり、ぼさぼさの髪を掻きあげる。
「はあ……」
だいぶ目が慣れてきていて部屋の様子はおよそはっきり視認できる。
「……外の空気でも吸うかな」
一旦外に出て軽く身体を動かせば少しはすっきりするかもしれない。
目を擦りながら廊下に出ると、夜も更けつつあるというのに、隣室の明かりがまだついていた。
Sophia makizume @makizumest
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