第3話
翌朝は雲の少ない快晴の空模様になった。
二階の自室の窓を開けて、心地よい空気を室内にやんわりと吹き込ませる。すぐ下の道路には大型の白い犬に引っ張られながら、けつまずくように歩を進める中学生くらいの女の子が見えた。隣家の花壇ではコスモスが楽しそうにお喋りしあうかのように密生して咲き誇り、その上をトンボが、ぐるりと空中を舞ったりふわりと静止したり、ドローンでさえ叶わないかもしれない機敏さで高レベルな飛行を楽しんでいる。
あぁ、ミチル、君のいない世界が、こんなに楽しく美しく過ぎていくよ、とシュウは切ない気持ちになった。
彼にはひとつの考えがあった。もうきっと、ミチルを追うことはできない。もし追っても、それはまるで地図も無く海賊の宝を探すようにただの徒労に終わるだろう。昨日の煙たちとの邂逅。それは夢を見ているかのようだったが、決して夢などではないとシュウは強く確信していた。だからこそ、彼らが言った、時間を流れさせる役割を持つもの、だとか、次元、だとかいう言葉を冷笑的にではなく受け入れて、それを基盤にして今後の自分のあり方を考えたのだ。僕は準備をする。次元を越える準備ではない。またミチルに次元を越えて戻ってきてもらうための準備をする、そう彼は考えた。シュウは祈る。祈りという行為に力はないとは今の彼は思わない。祈る意識、想う意識、それらはきっと、世界のどこかを蝶のはばたきのように微かにでも刺激するのだ。そうして、きっと世界はめまぐるしくそんな情念の意識の力にぐるぐると掻きまわされているところがあるに違いない。そんな無数の情念の中の輝く一つの光になって、ミチルへ届いてほしい。それが彼なりの、無力感を通り越したのちの考えだった。
勤務開始の時間までに余裕があったので、シュウは近くの川べりまで散歩をしに来た。小石を拾って川面へ投げ、水切りをする。ちゃっちゃっちゃっと小石が水面を滑っていく。
どこかから若い女の子たちの弾むような話声がして、シュウはそれが聴こえてくる方向へ視線をやった。女子高生らしき二人が、離れたりくっついたりしながら歩いてくる。
そこで、シュウは、はっとする。背の低いショートカットのほうの女子高生の胸に、あのペンダントがきらめいていたからだった。驚いたことに、ミチルがしていた、あの不思議な感じのするペンダントをその女の子がしているのだった。
これは運命的だと感じて、シュウはとにかく、どこでそれを手に入れたのかを訊いてみようと、女子高生たちのほうへ駆けよって、
あの、と声をかけた。しかし、彼女たちには、何か不審な感じがしたらしく、シュウが近寄ってくると道路の反対側へとわかりやすく進路を移し、身体をちぢこませるようにして寄り添い、いつでも逃げられるような距離を保っていた。
シュウが、困ったなと思いながら、そのペンダントだけどさ……と言って指をさした瞬間、彼女たちは、キャーッとそれまでなんとか抑え込んでいた叫び声によって平静を打ち破り、一目散に駆けて逃げて行った。シュウはさすがに追いかけようとはせず、バツの悪い気持ちを抱えてその場に立ちつくしていた。
とはいえ、あの女子高生はペンダントをいったいどこで手に入れたのだろうか。まさか自分が知らないだけの、流行りものの量産品
というわけではないだろうとシュウは思う。あの子はミチルと知り合いで、何かの機会にあのペンダントを譲り受けたのだろうか。それとも、こんな疑いを挟むのは申し訳ない気がするのだが、ミチルがペンダントを落として、それを拾って自分のものにしているということも考えられないだろうか。
シュウはいろいろと想像をしてこころを揺り動かしていた。でも、またきっと、この道で彼女には会えるだろうと期待していた。それまでに、不審者と思われないような声のかけ方を考えておかなければいけない。別に、普通の人が普通に話しかけるだから、受け取り手の彼女たちが自分たちが被害者的に思うのが速すぎる、いうなれば過敏すぎるのだけれども、世間的には近頃、狡猾な犯罪も増えたように思えるし、防犯としては適った行動なのかもしれないなと納得した。
だけど、それはそれとして、シュウは、いかにも自分が無害で安全ですよということを過度なほど強調する話し方と態度を考えなければならなくなった。それも怪しくなく、だ。また、明日、トライしてみよう、そうシュウは心づもりを決めて、始業時間に間に合うように事務所へと急いだ。
あくる朝、川べりの道すがらにまたシュウはいて、水切りをしていた。きっと女子高生たちは、バス停へ行くためにまた今日もこの道をあれこれ噂話などしながら歩いてくるに違いない。その噂が自分のことだったならちょっとやるせないなとシュウは苦い思いをしていた。そんなところへ、彼女たちは昨日と同じように川上の方から歩いてきた。
どうやらシュウの存在に気付いたようで、また道路の端の方に進路を変えた。シュウは、あまりに近づきすぎてから声をかけたのでは驚かせてしまうと踏んで、適当な距離を開いたまま、適度な声の大きさで、手短に用件を述べた。昨日は驚かせてしまって申し訳ありません、一つお尋ねしたいことがあったんです、それはそのペンダントのことで、そのペンダントはどこで手に入れたんでしょうか、
僕にとってそのペンダントは重要なものなんです。彼女たちは、怪訝な表情のままひそひそと話をしてから、そのペンダントをしている茶色がかった短い髪の、背の低い方の娘が返事をした。
「……このペンダントは小さい頃に親から貰ったものですけど」
「そうだったんですか。実は行方がわからなくなった僕の大切な人がそのペンダントをしていたんです。珍しいペンダントですよね」
「そうなんですか、親からはこのペンダントはこの世に二つしかない貴重なものだと聞いていましたよ。あのう、それって何かの間違いじゃないですか。他の人が持っているなんて考えられないし」シュウはもう少し訊きたいことがあるのだが、よかったら本通りの喫茶店で君の放課後に待ち合わせできないかとお願いした。オーケーの返事だった。どうもありがとう、それじゃまた後で。そうシュウは言って軽く会釈をし、別れた。彼女の名前は、ミオ、と言った。
シュウの気はそわそわと風に揺れる木の葉のように落ち着かなかった。昼飯に食べたから揚げ弁当の味もわからないくらいに、気持ちはミオとミチルの関係に囚われていた。そして、その日は仕事を早退し、その足で本通りの喫茶『しらかば』へと向かう。
待ち合わせの午後4時半まではまだ30分余りあったが、それは自分の気持ちをできるだけ落ちつけて話に臨むためでもあった。店内にはゆったりしたビル・エヴァンス後期のジャズが流れていて、落ち着きたい気分を後押ししてくれる。待ち合わせを10分過ぎてミオは現れた。
「ごめんなさい、バスが遅れてしまったんです」
「いや、いいんですよ、よくきてくださいましたね」
そういってシュウはミオを迎えた。ミオは高校一年生で、将来は保母さんになりたいのだという、立派な目標を持ってますね、えらいなぁ、とシュウは褒めると、ミオは頬を少し赤らめて、ありがとうございます、とはにかんだ甘酸っぱい笑顔を見せた。
その笑顔がどこかミチルに似ていて、まさかの予感を彼は抱いた。ねぇ、ミオさんにお姉さんはいないの、そう訊くと
「いえ、一人っ子ですよ」
と返ってくる。ミチルは生まれて間もなく養子に出されたのだし、もしもミオがミチルの妹だとしても、よっぽどのことでもないかぎり、姉がいるなどという話は聞いていないだろう。そこは親にでも訊かない限りわからないところかもしれないと思っていると、ミオのほうから意外な言葉が発せられた。
「死んだ姉がいるとは聴いていますけど」
そう聞いてもうシュウの中では二つの点が一本の線でピーンと繋がってしまった。かなりの確度でミチルとミオは姉妹だろう、
いや、姉妹だとしか思えない。そう確信したシュウの顔を、ミオはくりくりした瞳で見つめている。
「なにか、ペンダントについて言われていることってないですか。たとえば、お守りになるだとかって」
「そうですねぇ、これはひいおじいちゃんが作ったものらしくて、それも何かがひいおじいちゃんに乗り移ったように急に部屋にこもりだして、二日間で二個作ったって聞いています。そのうち、うちの家系に女の子が生まれたらこれを渡して欲しいとおじいちゃんに遺言したんだそうで。それで、その後おじいちゃんにはお父さんしか生まれなくて、お父さんには私が生まれて、やっとペンダントは持ち主を持ったというわけなんです。ひいおじいちゃんは北の森の管理をしていたそうです。森の中のことはなんでも知っていたみたい。それと、ペンダントをどうして作ったのかってきかれたときには、“忘れられた祈りのため”って答えてたって。どういう意味なのかわからないけど」
「もうひとつのペンダントについては何か聞いていませんか」
「もうひとつは、死んだ姉のお墓の中に一緒に埋葬してあるって聴きましたよ。だから、シュウさんが見たっていうわたしのと同じペンダントっていうのは見間違いなんじゃないでしょうか」
「いや、見間違いじゃないんですよ、まったく君のと同じものを、彼女は、ミチルっていうんだけれど、ミチルはしていたんです。そして、ミチルは生まれて間もなく養子に出されていましてね、きっと、死んだことにされている君のお姉さんだと思うのだけど」
「えっ……」
ミチルの面影がやっぱりミオに感じられる。
「お姉ちゃんが生きてる……」
「でも、行方がわからない。手がかりさえないんです」
「そうなんだ、お姉ちゃん、会ってみたい……」
「それにしても、ミチルが高校を卒業してこの街にやってきたっていうのは、すごい偶然になりますね。だって、自分の実の両親や妹が住む街に、それと知らずにやってきたんだから」
「それって、きっとこのペンダントの力だと思う。二つのペンダントには陰と陽の役割があるっていわれていて、きっと、引きつけられたんだと思う」
ミオの表情が真剣になってきた。この年頃の女の子らしいといえばらしいのだが、こういう「どうせオカルトでしょ」と大人には否定され嘲笑されそうな話の流れでも真面目についてきてくれる。そういうところがもしかすると、失われていってはならない、時間を流れさせる役割を持つものに通じる何かなのかもしれない。
「北の森の大樹に頼めば、もしかするとお姉ちゃんは戻ってくるかもしれないです」
そう言うミオの瞳は真っすぐで、きっ、としていて雷が鳴ってもびくともしないくらい強かった。
「北の森の大樹って、あのしめ縄をしてあるやつ?」
「そうです、あの樹です。行ってみませんか」
また北の森か、とシュウは思った。
「うん、行きましょう。でも今日はもう時間的に無理だから、明日にしましょう。明日は土曜日だから朝から行けますよね。じゃあ、明日の朝、あの川べりで待ってますから」
「はい、よろしくお願いします」
そう言いながらミオはぺこりと頭を下げたが、頭を下げたいのはシュウのほうだった。何をどうできるかはわからないけれど、あの妖しくも聖なる感じのする北の森に働きかけるのだ。漆黒の絶望の壁にひびが入って、その亀裂から一条の希望の光が射しこんだような気がした。
次の日の朝、ミオは、よくぞあなたくらいの年頃の娘がそんな服を持っていたな、と逆に讃えたいくらいの見事な迷彩色の作業着を着て、川べりに現れた。シュウは、薄桃色のシャツに、ジーンズというようないつもの格好をしていて、それを見たミオは逆に呆気にとられているようだった。
北の森への道のりを歩いている時に、言ってなかったけど、こないだ北の森に入ったんです、と彼はミオに打ち明けた。信じられないだろうけれど、と前置きしたうえで、洞穴に入ったことと、人型の煙が出てきて彼らの話を聞いたことを包み隠さず話した。ミオは、うん、うん、と真摯に聞いてくれたうえで、
「やっぱり北の森には何かあるんですよね。だから、今日もきっと期待できる」と目を眩しいくらいに輝かせた。
大樹は、洞穴のある場所よりも15分くらい奥の場所に生えていた。表皮にはところどころ苔がむし、細いしめ縄がゆるめに巻かれていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「さて、着いたけれど、どうすればいいのかな」
そう話しかけた時、ミオは既にペンダントを両掌に挟んだ形で祈りを捧げていた。
辺りには虫の鳴き声がひっきりなしに流れている。ひんやりと湿って、濃い空気が鼻をなでていく。
ここまで来る間にミオに、昨日は言いませんでしたが、と断わりを入れられた上で聞いたのだが、北の森の大樹とミオの曽祖父とは会話ができたのだという。ペンダントを作れと言われたのも、もしかすると大樹にかもしれないと、ミオは言っていた。
もう20分近くミオは祈り続けている。そんな彼女の顔を見やると、額に汗の玉を浮かべていた。どんな祈りをしているのだろう、と思いながら、シュウは方法がよくわからなかったので祈ったりやめたりを繰り返していた。
それからしばらく経って、「やることはやりました」とミオは疲労を浮かべた笑顔をシュウに向けた。首につけなおしたペンダントは以前よりも輝きを増しているように、シュウには見えた。
それから、1週間、2週間、3週間、なんの変化もない日々が過ぎていった。シュウとミオはLINEを交換し合いたまにやりとりをするようになっていた。
その中で、ミオの両親はミオの姉が死んでいないことを認めたという内容のものもあった。きっと、ミオの家庭は北の森の件以来大変なことになったろうと思うし、その原因が自分にあることを考えると、そうやって真実を暴いたことが良かったのか、悪かったのわからなくなった。
ただ、ミオの両親は、ミチルを認めたあとに、ミチルを受け入れたいと言いだしたと、さっき届いたメッセージに書かれていて、それでシュウは救われた気持ちになった。でも、遅かったのだ、というやりきれなさは無くならなかった。
しかし、思いもしなかった時は急にやってくるのだ。
それは秋が終わりを迎える頃、寂しい季節がさらに寂しさを増していって、こころまでが冷えてしまいそうな夕方だった。
シュウの自宅兼事務所のチャイムがポーンっと鳴った。はーい、とシュウがドアに向かい、どちらさまですか、とドアを開くと、そこに深々と頭を下げたミチルの姿があった。
ミチル……。
驚きよりも喜びが勝った。ミチルじゃないか……、さあ、入って。シュウの目には温かな涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい、急にいなくなったのにまた戻ってきたりして。どうか、またここにいさせて欲しいんです」
そう言うミチルの声も涙声だった。いいよ、ミチル、君を待っていた。また前みたいに一緒に居よう。
顔を上げたミチルの頬を一筋の涙が転がり落ちていった。少し痩せたミチルだった。そして、その胸にはあのペンダントが光っていた。
帰ってきたミチルは、どうして自分がそこまで思いつめてここを出ていってしまったのか、その時の気持ちはまるで説明がつかないくらい異常と言えるようなものだったと告白した。
「よくわからないけれど、これまで歩んできた人生にはじきだされるようにしてここを出てしまったみたいなの。シュウとだって本当は別れたくなかったけれど、別れなければ何か恐ろしく自分がダメになってしまうように感じたの。シュウ、本当に、ごめんなさい、許してほしい」
「もちろん、許すよ。君にはわからないかもしれないことなんだけれど、どうやら君には気付けない理由があったようなんだ」
その夜、シュウはミチルに、北の森であったこと、ミオのこと、ペンダントのことを、ゆっくりと話して聞かせた。ミチルは最初の方こそ、ウソでしょう、といって半信半疑で聞いていたが、ミオの話をしたあたりから、のめりこむように話を聞くようになっていた。ミチルは出ていった先の街であった恐ろしかったことや寂しかったことを話した。シュウはミチルの経験を聞くにつれて辛くなり、話の最後には彼女を固く抱きしめたのだった。もう、そんな思いはしなくていいんだよ、と言いながら。
ミチルのペンダントは以前と同じように、凛として輝いていて、今や、ミチルを守り抜いたことを誇るかのようでもある。ミオの捧げた祈りは、しっかりと、届いた。きっと、ペンダントを通して、ミオからミチルへと届いたのだ。
過去から現代へ、ペンダントは忘れられた祈りを思い出させた。それはどんな因果であったかは、誰にもわからないところだが、煙たちが言った“この世の善しとするもの”に関係があったものなのだろう。
この先、シュウとミチル、そしてミオはどのように生きていくのだろうか。人の社会のルールにだけいそしむことはきっとしないだろう。そして、北の森はそんな彼らをずっと見つめ続けるに違いない。
【了】
忘れられた祈り 真宿豪々々 @mask555
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