第2話

 シュウの身体は後ずさった態勢のまま動けなくなった。突然に彼らが現れた恐怖と、それらが言葉を発したという驚愕が彼の脳内いっぱいを支配し、身体を統御する余裕がなくなったからだ。混乱する頭には何もアイデアは浮かばない。ただの肉塊として、彼はそこに立ちつくした。

「怖がるな」

「人が来るのは久しぶり」

「君は来ることになっていたよ」とまた続けざまに声がした。

シュウは囁くくらいの声量で、あ、あ、としか言えない。洞穴内に充満する冷やかな湿気が濃くなったように感じられた。

「危害を加えるつもりはない」

「男はもっと久しぶり」

「シュウ、だね」と煙たちは言った。

え、とシュウは思った。彼らは自分を知っていて、そしてここに来ることを前もってわかっていた。

 あなたたちは守護者ですか、それとも霊魂なのですか、どうして僕のことを知っているのですか、気がつくと、シュウは煙のような存在たちにそう問いかけていた。

「守護者だろうが、霊魂だろうが、そう思いたいように思えばいい」

「私たちは、あなたがたが思うような幽霊や神さまではありません」

「君の意志がこちらへ向けられた時、君の意志はここへ届いていたんだよ、だから知っているんだよ」

シュウにはまだ今起こっている事態が信じられなかったが、煙たちの声には乾いた響きがあり、厳とした現実感があった。そして、その声を聴いているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきて、強張った全身の筋肉から余計な力が抜けていくのが感じられた。

 よくわからないけど…、じゃあミチルのこともご存知なんですか、そうシュウは煙たちに尋ねた。

「知っている」

「素直な娘だということを知っています」

「いなくなった理由と行き先を知りたいんだね」

よく見てみると、煙たちは、ふわふわと宙に浮かんでいるのではなく、まるで空間に刻み込まれたかのようにそこに存在していた。どんな理由なんです、とシュウは訊いた。

「それには、三番目の声が答えるだろう」

「あのペンダントにも原因があるのです」

「彼女は素晴らしい人間の一人だよ。怯まず、真っすぐで、思慮深く、思いやりがあるね。運命が運命ならば、もっとそのまま成長できたろうに。世が世ならば、皆が目指す種類の人間であったろうに。

そしてそういう人間は、非常に残念だけど、今の時流では弾かれてしまうよ。それは人間たちがいろいろなことを忘れてしまったことが大きいよ。古来の人間たちがわかっていたことを忘れずに文明を発展させていくことはできなかったんだね。ひとつのところへ偏ってしまった。人間は振り子のようにたえず揺らめくべきだよ。揺らめいていなければ滞ってしまって腐るよ。彼女は気付くことができなかったよ、まだ若いこともあるんだろうね。時間を流れさせる役割を持つものを味方につけることができなかった。だからいなくなってしまったんだよ」

シュウは尋ねる。時間を流れさせる役割を持つものってなんですか。

「今の時代の科学の話でも哲学の話でもない。それは本来、生きるものに寄り添っているものだ。この森に住むリスにもいるし、川に生きる魚にもいるし、宙を舞う蝶にもいるのだ。逆にいえば、時間を流れさせるものに寄り添うように、生物は存在する。それをよくわかっているのは、三〇〇年以上生きているような大樹だがね」

「この地域の人間は、今の時代までの間、どんどん時間を流れさせる役割をもつものを遠ざけるようになってしまいました。そして、少しづつ代を重ねるごとに、こころの、とある部分を荒廃させていってしまっています。だけれど、時代とともにみんながその部分を荒れさせていくので、誰も自分のこころのその部分が荒れてしまってる、何かを失ってきているということに気付きにくくなっているのです」

「皮肉なものだね。時代は流れるが、実は時間は流れていっていないんだよ。流れていない時間の中で、人は死んだり生きたりしているよ」

シュウには抽象的すぎて、よく話が飲み込めなかった。最初の驚きに牽制されて混乱していた頭は、だいぶ秩序を取り戻しはしたが、煙たちの話の中身は複雑で深遠すぎるように感じた。

 具体的に教えてください、その時間を流れさせる役割を持つものを彼女が味方につければ、彼女は戻ってくるのですか。

「彼女には、特に必要だった、時間を流れさせるものは」

「もう遅すぎるかもしれない」

「今の世のルールを疑うことだよ。今の人間の世界のルールと、世界そのものの善しとするものは違うということだよ。そして、人間は世界そのものに属するものだということを忘れないことだよ。単純なところを言えば、死を悼み、痛みを癒し、悲しみは悲しみとして涙を流すこと。そういう時間を無駄だと思わない。省略するべきではない時間というものを考えてみるんだよ。彼女は戻ってこれない。でもペンダントが守っている。彼女は、ひとつかふたつ、わからないけれど、もう次元を飛び越えてしまっているよ」

彼女は戻ってこれない、その言葉にシュウの胸は刺激され、しくしくと痛んだ。同時に、次元を飛び越えているという言葉は、いったいどういう意味なのだろうと、考えてみた。この世は縦・横・奥行き・時間の四次元だとすると、たとえば時間まで飛び越えてどこかへ行ってしまったという意味なのだろうか。そして、そんなことが可能なのだろうか。そのことについて、詳しく教えてほしいと、彼は煙たちに訊ねた。ほどなくして応えが返ってくる。

「我々の言う“次元”という言葉は四次元目の“時間”を意味していない。四次元に隣接した五次元目、六次元目に関係した話になる。

そこは君ら人間には認識できない領域になるが」

「こう言えばわかりやすいのかもしれません。人の縁というものの存在をあなたも感じることがあるでしょうけれど、縁のような、運命の環のことについての次元を、我々は飛び越えたと言っているのです」

「人に限らず、いろいろな存在は、運命とか縁とかいうものの影響の下にあるよ。一生のうちに、お互い係りあう者は同じ運命の中にある。同じ次元の範疇にあるともいえる。そしてその次元を最大限に活用する人は、多くの人に影響を与えるんだよ。また、次元を飛び越えるというのは、運命の環を飛び越えてしまうことを言う。係り合う人の種類がまったく変わるんだよ。そしてそれはとても危うい。もともと持っている運命に適応するように人は生まれてくるのだけど、その本来持っている運命に適応する力の及ばないところへ行っちゃうってことなんだ。これはただ、人が変化して成長して、そのために環境が変わるというのとは違うことだよ。それはまだ運命の環の中から外れてはいないんだ。次元を飛び越えるというのは、もっと乱暴に、なんの加護もない世界に放り込まれることだよ。ただ、さっきも言ったように、彼女はペンダントに守られてはいるんだけどね」

 煙たちからそう聴いて、シュウにもミチルが今どういう状況にあるかがうっすらとわかってきた。どこへいったかはわからないが、

このままでは見つけることが不可能だということもわかった。いや、たとえ近くにいても出合えないだろうし、彼女自身は出合うことを望んでいない世界に存在していることになる。しばらく考えていると、シュウの頭は鈍い痛みと幾分の重みを感じるようになった。それを察するように、彼らは言った。

「我々とコンタクトを取るというのは、君にとって大きな負担になることだから、そろそろ終わりにしよう」

「あなたは、今は感じていないかもしれないけれど、相当な無理をしています」

「君も君で、その内面には純朴なところがあるね。それがこの、今の時流の中では生きていくうえで、ささくれのように痛みをおこさせる場合があるよ。それでも、君もわかっただろうけれど、そういうときは時間を流れさせる役割をもつものを思い出すことだよ。現代を生きる多数の人々の価値観、つまり数の論理で押し通されている価値観が善いものだとは限らないからね」

 シュウは、最後にペンダントのことを訊いた。あのペンダントがミチルを守る力を持っているとはどういうことなのか。

「本当にこれが最後だ。あのペンダント自体の本来の力は弱いものだが、彼女のペンダントに対する愛着が力を大きくさせた」

「慈しみというものも、人が忘れそうになっている行為の一つです。彼女はペンダントを長く慈しんでいました」

「そういうことだよ。それでは、ゆめゆめ疑うことなく」

そう煙たちは言葉をぽつぽつ降らせると、静かに明滅を始めた。シュウの頭はかなりの疲労感に襲われていて、鉛のように重かった。そこへ、煙たちは自らの身体から周囲に閃光を浴びせた。シュウは瞬間的に閉じた瞼の上からもかなりの光を眼に受け、まるで脳髄まで光で浸らされた気がした。そして、そのまま急激にしぼむ風船のように、意識を失ったのだった。


 しばらくして目を覚ました時、蝋燭は燃え尽きていて、あたりは遠近感をまったくつかめないくらいの真っ暗闇で、ぴとっ、ぴとっ、という水の滴る小さい音だけが聴こえていた。シュウの頭から鈍い痛みはもう消えていて、だけれど、煙たちとの会話は、忘れるとか忘れないとかという以前に、間違いのないくらい明瞭に覚えていた。

 彼は手元をまさぐって懐中電灯を見つけると、ゆっくりと起き上がり、四方を照らして位置を確認し、神棚を照らしてみたのだが

煙たちの姿はなく、茶けて黒っぽくなった木のお札しかなかった。

 彼らに念を送るように頭の中で呼びかけを行えば、もう一度人型の煙たちが現れるのではないかという期待があって、彼はそうしようかどうかと暫し躊躇したのだが思い余り、硬くて確固としてそれでいて丸くて小さな硬貨のような感謝の念だけを差し出すことにした。神社で投げる賽銭の硬貨というものは、それを投げる者の想いの確かさを象徴するようなものかもしれないとその時ふと思った。


 ミチルには本当にもう会えないのだろうか。なにか手掛かりや手段はないだろうか。

 煙たちという、自然を超越した存在を直に目にし、さらに会話して得た彼らからの情報というものの前では、会えないことは疑いのはさむ余地のないゆるぎない真実だと思えたし、その特別な体験と特別な彼らの存在というものによって、もはや信じる以外無い心境にもなっていた。

 でも、少なくとも、彼女はペンダントに守られている、という。一人で新しい世界に飛び込むことになって、最初のうちはいろいろ不便や不都合や孤独に時間やエネルギーを取られてしまうだろうけれど、少なくとも不運の連鎖のようなものからは、きっとペンダントがミチルを守るのだろう。


 とりあえず、シュウはこの洞穴と北の森から出ることにした。洞穴を出ると、森の中の空気が瑞々しくて、肺の細胞の一つ一つまでが感激するかのように呼吸が速く深く何回か続いた。

 砂利道をざりざり鳴らしながら森の出口を目指す。時折大きめの石が柔らかい靴底を刺激して足裏がぎゅうと痛くなる。空は満天のくもり空だった。これではせっかく星が流れても見ることはできないだろう。

 出口に到達するまでの間、そして森を出てからも、シュウは考え続けていた。自分はこのままミチルを忘れ去ってしまったほうがいいのだろうか。無力だ、という気持ちがシュウの頭の先からつま先までを覆っていった。社会に一人で立ち向かうことほど無力で無駄なことはないのに、それより大きな“この世のあり方”に挑まなければいけないようなミチルの案件からは、途方もない無力感しか生まれなかった。

 べたべたと、足取り鈍く、シュウは会社兼自宅へと帰路を進めた。

ただ、一縷の望みにかけているとはいえないが、運命という強大な敵にあがくように、獣のような激しさの、諦めはしないぞという気持ちをほんの少しだけそのこころに宿していた。

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