あれから
森を吹き抜ける風が、さわざわと梢を揺らして午後のひとときを彩る。
木漏れ日が揺れる下で、老婆は心地よい陽気に身を委ねて微睡んでいた。
「いけないわね。このままじゃ寝落ちてしまうわ」
背を預けていた幹から身を起こす。
絡みつく眠気を追い払うように軽く頭を振ると、すっかり白くなってしまった髪がはらりとこぼれ落ちた。
頭の上でまとめていた髪束が崩れてしまったらしい。
あれま、と老婆から笑い声がもれる。
「……よっこらせ」
座り込んでいた場から立ち上がると、彼女は大樹を見上げた。
大樹の樹皮から所々覗く水晶のようなそれは、かつての騒動の痕跡。
老婆の動作は少しばかり鈍かったが、その立ち姿は真っ直ぐで、どこか品の良さもはらむ。
「私もすっかり老いぼれになってしまったよ、おばば様」
老婆が大樹――精霊樹と呼ばれる森の主に語りかけると、風が吹いて精霊樹を揺らした。
まるで応えてくれたようで老婆は柔く笑う。
「あれから何十年と経ったね」
想いを馳せ、目元を和らげた。
陽を透かす木々の葉を見上げていると、かつての痩せた大地の、あの剥き出しになっていた地表は思い出せない。
歴史書にも残ることとなったあの騒動をきっかけに、この地は国の管理下に置かれ、人が流れて来るようになってからは、町も段々と活気に包まれ始めている。
「この地も随分と変わったでしょう? おばば様」
朗らかに笑った老婆は、視線を森の中へと向ける。
程よく陽は射し込み、土はふわと柔らかく、そして何より――森の中を光の粒が漂っている。
老婆の笑みが深くなる。
「近頃はね、ああやって精霊の姿を見かけることも多くなったんだよ」
人としては昔になりつつあの騒動も、精霊にとっては未だ最近の出来事。
だから、まだ精霊との距離はそれなりにあるが、それもいつか縮まっていけばなと、老婆は願っている。
「少し前に、国から拝命していた管理代行の地位を息子に譲ってね。あの子なら、きっといい方向に導いてくれると思ってるの」
老婆が見守る中、のんびりと漂っていた光の粒達が、突然ぶるりと身体を震わせ、明滅を激しく繰り返し始める。
あれは警戒の反応だ。
老婆は窺うようにちらりと精霊樹へ視線を投じる。
こちらの様子には気付いているはすだ。
それでも彼女が動かないのならば、あの光の粒達が警戒しているのは森に暮らす獣ではない。
「そうするときっと――」
老婆が呟きかけたとき。
「――……まぁ! ニニ様ぁ!」
老婆――ニニを呼ぶ声が森に響き渡る。
光の粒達がばびゅんっと脱兎の如く逃げ出し、何処かへと消えていく。
その様子にくすくすと笑っていると、ニニの姿をやっと見つけたらしい声の主が木々の間から姿を現した。
梢からもれる陽の光を、腰から提げる剣の柄が弾く。
「やっと見つけましたよ、ニニ様。供もなしに出歩かないでください」
渋面をつくり、肩をすくめて見せた彼女は、ニニの護衛を任されている女騎士。
幼さを少しだけ残す年若い彼女の面差しは、やはり彼女の祖母に似ている気がして、ニニは柔く微笑む。
「そうやって、エルザにもよく探させたもんだねぇ」
「その話は祖母からも、ついでに母からもよく聞かされましたよ」
「かくれんぼと追いかけっこは好きだったの」
「……管理代行の地位を賜ってからも続いて大変だったと、祖母からは飽きるくらいに聞かされました」
やれやれと首を振るかつての護衛騎士の孫に、ニニは笑みを深くした。
「あなたにも苦労をかけるね、エルリン」
「そう思ってくださるのならば、勝手にふらふら出歩かないでください」
はあと重い息を吐き出したのち、エルリンは改めて姿勢を正してニニに告げる。
「ニニ様、管理代行様がお呼びであると、管理代行護衛騎士の母から伝言です」
「あらま。あの子、まだ私に相談しないと物事一つも決断出来ないの?」
いつまでも甘えたな息子だ、と。
口では呆れながらも、その実、ニニの表情は甘やかす親のそれだった。
息子に管理代行の地位を譲ったばかりなのだ。
始めから卒なくこなせというのも無理か。
自分だって管理代行の地位を賜った際は、国から派遣されていた管理者によく頼ったものだ。
かつてニニの一族の領地だったこの地は、あの騒動以降は国に没収され、国が管理して運営する地となった。
その際に管理する者が派遣され、ニニはその者の下で管理や運営のあれこれを学ぶことになった。なにより、ニニ自身がそう強く望んだ。
この地に森を。
もう一度、あの夢で視た森の風景を見たかったから。
そこからは必死だった。
かつての領主だった兄は、理由が理由だけに酌量があるとして死罪は免れたが、流刑の罪が下った。
そんな頼れる身内もいない中で、エルザを始めとした信頼できる者に支えられ、ようやく賜った管理代行の地位。
そうして忙しい日々を送る中で、心を通わせた男性と出会い、息子を授かることもできた。
そして、その息子に地位を譲ったばかり。
すっかり大人へと成長した彼だが、管理代行としてはまだまだ若い。
それならば、もう少しだけ傍についていてやらなければならない、か。
それらしい理由を見つける自分に苦笑しながら、ニニは精霊樹を振り返って見上げた。
「そろそろ行くよ、ミント」
がさりと精霊樹の枝葉が揺れる。
そこからにょっきりと頭を生えさせたのは、くりんとした小さな瞳が愛らしいリスだった。
「はーいっなの!」
人の言葉を操ったリスは、片前足を上げて元気に応えると、とてちてと枝を駆け下り始める。
そして、跳躍をしたかと思えば、リスはニニの肩に着地を決めた。
「お待たせなの」
「ううん、待ってないよ」
そう言ったニニはリスへ柔く笑いかけ、指先で彼女の顎下を軽く撫でてやる。
リスはくすぐったそうにからからと笑い声をもらす。
「なるほど。ニニ様はお一人でふらふら出歩かれていたわけではなかったのですね」
感心したように頷くエルリンに、ニニは朗らかに笑いながら彼女を見やった。
「そうだよ。さすがの私だって、獣のいる森にふらふら出歩かないよ」
「でも、ニニはこの前ふらふら出歩いてたの」
リスの言にエルリンの視線が向けられる。
「ミント様、それはいつ頃のことなのでしょうか?」
「えーと、二、三日前くらい? お散歩しようってお誘いしに行ったら、ニニ、この精霊樹の下で眠ってたの」
「ニニさまぁ?」
じとりとエルリンがニニを
が、ニニはさっと視線を逸らすと、足を進め、エルリンの横をさっさと過ぎて行く。
「あっ! ちょっとニニ様っ!」
エルリンがニニの後ろへ付き、歩調を同じくして追従する。
しかし、背後から突き刺さる彼女の視線が痛く、堪らずニニは肩に乗るリスへと小声で言葉を落とした。
「ちょっとミント、告げ口はだめ」
「でも、嘘はだめなの。エルリンはニニのことを心配してるの」
返ってきた正論に、ニニは閉口するしかなかった。
「それは私も知ってるけども」
むぐぐと黙り込むニニを見上げ、リスはにっこりと笑みを浮かべる。
「ミント、デキルオンナだから隠し事はしないの」
ふぁさり、と。肩にかかった髪を後ろへ払う仕草をして見せるリスに、ニニはそうだったねと苦笑をもらした。
リス――ミントはニニと結ぶ精霊だ。
彼女の助けなくして、精霊樹を、この森を、支えていくことなど出来はしなかっただろう。
そしてまた、彼女という精霊が居てくれたから、この地は精霊との関係を完全に絶たれずにすんだのかもしれない。
「次にシシィ様達に会えるのはいつになるかな」
時折ミントに会いに訪れる精霊達の顔を思い浮かべながら、ニニは口元を和らげた。
木漏れ日の下、二人と精霊が歩いて行く。
そんな彼女らの後ろ姿を精霊樹が見送る。
風に揺られながらさわざわと鳴らす梢の音は、穏やかに笑う声に似ていた。
のちに精霊樹は、歴史書に記すために正式な名を与えられることとなる。
その名は――精霊樹“ソフィア”。
それはかつて、この地を癒やし続けていたという精霊の名。
これは、廻る物語。
そして、これからも紡ぎ廻っていく――命の物語。
―――――――――
これにて完結とさせていただきます。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
もう一度、会いに行ってもいいかな。 白浜ましろ @mashiro_shiro
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