終章 そして、精霊は

それから


 陽が天頂に登る昼時とあって、港に程近い市場は賑わいを見せ始めていた。

 朝からの仕事に一段落をつけた船乗り達が、昼飯を求めて市場を歩く。

 それを待ってましたと言わんばかりに、商い達の呼び込み声が響き渡った。




 白の鳥が屋根に舞い降りた。

 鳥と共に海街を駆けていた風が、鳥を降ろして駆け渦巻く。

 風は名残り惜しげに、鳥の頭部を飾る羽と尾羽根を撫でつけていき、透き通る空へと抜けて行った。

 白の鳥の琥珀色の瞳が、眼下の市場で賑わう通りを見下ろす。

 彼らがそろそろ通りかかるはずだ。

 琥珀色が瞬く。

 通りを行き交う人々の中に、見知った色の頭をみつけた。

 栗色の頭に赤チェック柄のバンダナを巻き、後頭部で結われた髪を揺らす。

 近頃は少女の面影が薄れつつある彼女と、その隣に寄り添うように歩く白狼の姿もある。

 時折行き交う人々に驚かれながらも、躾けられた飼い犬然としているために、大騒ぎになることもない。

 そしてふいに、その白狼がこちらを見やった。

 鳥の身体が跳ね上がる。

 白狼が少女と何事か言葉を交わすと、彼は行き交う人々の合間を縫って通りから逸れる。

 白狼を見送った少女は、今度はちらりと上へ視線を向け、小さく手を振ってからまた通りを歩き始めた。

 人々の流れに消えていく少女を鳥が見送っていると。


『ルゥっ! 久しぶりっ!』


 嬉しそうに弾んだ声と共に、白狼が屋根へと駆け上がって来た。


『久しぶりって言っても、数日置きに会ってるじゃない』


『まあ、そーなんだけどさ』


 ため息をもらす鳥、ティアの隣に尻を落とした白狼、シシィは、それでも喜びを体現するかの如く、その尾がふぁっさふぁっさと揺れ動く。

 その動きをティアは横目で捉え、呆れると同時にじんわりと嬉しさが滲んでいる自身に気付いて、誤魔化すために小さく翼をばたつかせた。


『ジルは最近どう? “精霊の隠れ家”で頑張ってる?』


『そうね、お店が回せるようにって、自分から積極的に動いてるように見えるわ。叔父さんもまだ、精霊樹とか諸々の関係で忙しくて留守も多いし』


『僕も暫くフウガさんと会ってないや。あの時以来かな? ティアがスフレさんに怒られに、精霊界へ帰るのに付き合ったきりかな』


 どこか面白みを含む視線を向けるシシィに、ティアは思わず遠い目をする。

 あの時はとにかくひとりで帰るのは嫌で、シシィを引き連れて一度精霊界へ帰ったのだ。

 あの出来事の最中、両親の気配を察知して逃げたのだ。言い訳をしに帰らないわけにはいかなかった。

 結果。母のスフレから、なぜ逃げたのか、なんで何も言ってくれなかったのか、と。怒られ、諭され、叱られて。

 そして気が付けば、いつも言葉が足りない、と父のシマキと共に説教されていたのはどうしてか。

 今思い出しても、乾いた笑いしか出ないのだった。

 と。


『――あっ』


 突として上がった、何かを思い出したらしいシシィの声で、ティアは沈んでいた思考から引き上げられる。


『そういえばさ、ジルは“魔族の集い”の活動の方も頑張ってるみたいだね。この頃はその名前を耳にすること、増えてきたよ』


 はにかむシシィに、ティアも釣られて表情を綻ばせる。


『シオと一緒に頑張ってるわよ。あとは昔仲間のグレイさんと、グレイさんの同居犬になったクッションさんも一緒に。人の国で暮らす魔族の寄辺になればって、あの子達が中心になってるみたい』


『人の国だと、どうしても魔族の立場は弱くなりがちで、居場所を見つけるのも難しいもんね。ジルらしいなと思う。一人じゃないよってこと、伝えたいんだよね。きっと』


 空を仰いで息をつき、シシィは碧の瞳を柔く細めた。


『いつかは私も“精霊の隠れ家”は回していかなきゃいけないもの。負けていられないわ』


 ばさりと翼を打ち、ティアがシシィの頭に留まる。

 同じように空を仰いで馳せた。


『あ、そっか。フウガさん、そのうち雲隠れしなきゃなんだ』


『うん、見た目の歳の変化が乏しい精霊だもん。ある程度雲隠れして、人の世代が廻った頃に、またひょっこり戻るつもりだって』


『そうじゃないと、怪しまれて面倒なことになっちゃうかもしれないしね』


 だが、人の世に紛れんでしまった精霊の駆け込む場にもなっているのが、“精霊の隠れ家”だ。

 その場に精霊が居ない状況はよくない。

 だから、フウガが隠れている間、その場を回していくのがティアの役目だ。


『けど、それももう少し先の話だけど』


 ティアがシシィの頭から降り、振り返る。


『ああ、ジルが居るからか』


 納得したシシィの頷きに、ティアも肯定の意で頷いた。

 ジルはフウガが拾ったねずみだ。

 ティアはまだ、そこまで深く考える勇気が持てなく、自分のあれこれは未定のままだが、フウガはジルを最期まで見送ってから、あれこれと動き出す準備を始めている。


『……私もこれからのこと、考えなくちゃ』


 少しだけ沈んだティアの声音に、シシィは碧の瞳を和らげた。


『でも、ジルとかシオとかセオドアとか、みんなのこと一通り見守ってから、次代シルフとして本格的に動き始めるって決めてるんでしょ?』


『それは、そうよ。それが精霊ティアとしての始まりだったし、“ルイ”との約束みたいなものだし――』


 そこで一度言葉を切る。

 ぐっと、シシィを見上げる琥珀色の瞳に力を入れて、言葉を継ぐ。


『それになにより、私がみんなこと大好きで大切だから』


 だから、最期まで。

 その想いに区切りが出来るまで。

 それまでは――。

 けれども、そのことを想像すると悲しくなる。

 潤みそうになる瞳を伏せ――かけたところで、シシィの声がして持ち上げた。


『それは僕も一緒だよ』


 碧の瞳が揺れる。


『僕もジャジィを傍で見守るって決めてるから』


 シシィも明確に言葉にするのを避けたが、それでもティアにはきちんと意味が伝わった。

 くすりと淡い笑みを浮かべる。


『やっと口説き落とせた子だもんね』


『そうなんだよ。やっと僕の言葉に頷いてくれたんだ』


 シシィの頬が朱に染まり、嬉しそうなその表情にティアも頬を緩めた。


『今はもういつでも傍に居られるし、名前も呼んでくれるしで、数年越しに通じた想いだからかな、毎日が嬉しくて楽しくて仕方ないんだ』


 先程までふぁっさふぁっさと揺れていたシシィの尾が、ぶんぶんと勢いよく振られている。

 ティアの琥珀色の瞳が半目になる。

 あれ、シシィがジャスミンとようやく結びを得られた話ではなかったか。

 呆れたように彼を見上げれば、その素晴らしい日々に想いを馳せているのか、うっとりと瞳を細めて上の空だ。

 これではまるで惚気話を聞かされたような気分になる。

 けふっとおくびがもれた。


『はいはい。結びが得られて嬉しいのはわかったわ』


『ん、そお? というか、そういうルゥはどうなの?』


『え、私?』


 思わずシシィを見上げる。


『うん。セオドアと結ぼうって思わないの?』


 窺うように首を傾げるシシィに、ティアは苦笑を滲ませた。


『私とテディはいいのよ』


『でも、傍に居たいとか、一緒に居たいとか思わないの?』


『私達はたまにお茶して、昔話をする程度でいいの』


『うーん……そーいうもの?』


『そういうもんよ』


 シシィはまだ納得出来ていないとばかりに、さらに首を傾げた。


『なんか、よくわかんないや』


 そして、考え込むのを諦めたのか、ぶるりと身をひとつ揺すった。


『私は私で楽しくやってるからいいの』


『まあ、ルゥがそれでいいならいいけどさ』


 ふふっと笑うティアを、シシィは不思議そうに見やる。

 彼女にも、シシィにはわからない繋がりがあるらしい。


『そーいえば、ジルとシオは最近どう?』


『ん? ジル達?』


 問われたティアは、そうねぇと空へ視線を投げた。

 セオドアとは時折お茶をして、昔話をする程度の仲に対し、シオとは友達のような付き合いになってきている。

 そんな中で彼女は、一生懸命に人の世で暮らすための常識に慣れようとしている。

 その姿が健気であり、ティアも自然とそれに付き合うことが多くなった。

 シオがそこまで一生懸命なのには訳がある。


『ジルとシオももう、数年の付き合いじゃない? だから、そろそろ一緒に暮らそうかってなってるみたいよ』


『えぇ!? もうそんな話になってるの!?』


 珍しく大きな驚きを見せるシシィに、ティアはくすくすと笑いで身体を揺らした。


『でも、シオについてはテディパパの許しが出ないから、今はどうやって攻略するのか話し合ってる感じね』


『ルゥはその攻略とやらに手を貸したりはしないの?』


『しないわよ。これはジルとシオの問題であって、私は関係ないもの』


 だが、彼らがどうしてもと頼ってくることがあるのならば、いつでも手を貸す心積もりではあり、それだけティアが、彼らを可愛く想っている証拠でもある。


『なんだか、ルゥが嬉しそう』


 くすりと小さく笑う声がシシィから聞こえ、ティアは慌てて緩めていた顔を引き締めた。


『そんなことないわよっ。さ、さあ、今日はもう解散よ解散』


 ぱっと身を翻し、そのまま飛び立とうとするティアを、突として伸びてきた手が引き留める。


『ちょっと早いよ、ルゥ』


『い、いきなり転じるのは驚くからやめてよ』


『驚くって、なんで驚くの』


 いつの間にやら青年の姿へと転じていたシシィに、どくんとティアの鼓動が波立つ。

 捕まった手から身をよじって逃げ出し、ティアもそのまま少女の姿へと転じて着した。

 どぎまぎして動悸を覚えるのは、シシィと離れて暮らすようになってから、久々に彼の人としての姿を目にしたからか。

 おかしい。なんかおかしい。


『ルゥ?』


 呼ばれて振り返るが、やはりおかしい。

 シシィがきらきらして見える。シシィのくせしてきらきらして見える。


『……シシィのくせに、顔はイイから』


『なんのこと……?』


 シシィが胡乱な顔になる。

 実は顔が好みなのだと、そんなこと言えない。

 今更過ぎる。


『……別になんでもないわ。ちょっと、久方の姿が刺激強めなだけだから』


 さり気なく視線を彼から逸らす。

 だが。


『そーいうなら、ルゥのその姿だって久し振りで相変わらず可愛いなって思うし、ちょっと大人っぽくなった?』


『へ?』


 逸らした視線が再びシシィを向く。


『いろいろと道を定めて、精霊としても成長してるんじゃない?』


 柔く笑い、シシィが小首を傾げる。

 精霊の持つ人の姿としての歳の見目は、精霊の精神の成長具合に影響される。

 だから、己の道を定めた影響で、精霊として少しだけ成長出来たのかもしれない。

 だが、ティアはシシィが放った可愛いの一言に照れてしまう。


『そ、そんなこと言われると、照れるじゃん』


 頬に熱が灯ったのを自覚する。


『可愛いから可愛いって言っただけだし、それに――』


『それに、な、なによっ!』


 思わず身構えてしまうティア。

 その行動がまたシシィには愛らしく映って、彼は笑みを深めた。


『いつかみたいにすれ違うのはもう嫌だから、思ったことは伝えてくって決めたから』


『でも、だからって、そういう直球もさぁ……』


『でも、回りくどく言ってすれ違うのも嫌じゃん?』


『それもそうだけどさぁ……』


 もごもごと口ごもる彼女へ向け、シシィは最後に、これだけはという言葉を口にする。


『僕、これだけはルゥに伝えておくね』


 やけに真剣な色を帯びた声に、ティアは無視出来ない響きを感じ取って顔を上げた。

 真面目な色を宿した碧の瞳が、彼女を真っ直ぐに据える。


『もう、ジャジィの次は探さない』


『――……』


 その言葉を解すのに、たっぷり数瞬の間を使った。

 黙りこくった隙間を海風が通り過ぎていく。


『――……待って、シシィ。それ、意味がわかって言ってる?』


『わかって言ってるし、ジャジィを見守ったあとは、ルゥを支えるって決めてるから』


『…………なんで、そんな……だってシシィは、あの子ともう一度廻るためにシシィとして――』


『確かに、僕のシシィとしての始まりはそうだったけど、あの子ともう一度って願ったのは、“僕”であって僕じゃないからさ』


 呆然とシシィを見つめるティアに、彼は困ったように笑った。


『僕が好きなのはルゥだよ。だから、次代としてシルフの名を継ぐってルゥが決めたなら、僕はそんなルゥを支えたいって思うのは普通でしょ? それに、王の次代にはなり得ない器でも、その血筋を引く僕なら、きっとシルフの名を継いだルゥの支えになれるはずだし、その隣に並ぶのにも劣りはないはず』


 息を吐くように笑うシシィから、ティアは目を逸らせなかった。


『ジャジィが大切なのは変わらない。だって、彼女は僕の唯一だもん。だから、今は限りのあるジャジィとの時を大切にしたい。それはジルやシオやセオドアとの時を大切にしたいルゥも一緒でしょ?』


 その点については、シシィとティアは何度も話し合いを重ねてきた。

 限りある彼らとの時間、それから、己のこれからの道とお互いの在り方。

 そして、これがいいという道を選んだのが、今は互いに離れて暮らし、それぞれの限りある時を大切にしていくこと。

 シシィはジャスミンと共に在り、ティアは“精霊の隠れ家”に残ってジルらと過ごすこと。


『今が続いた先のそれからは、僕はルゥと一緒に歩いていきたいよ。だって、僕とルゥは――』


『――番、だものね』


 シシィの続く言葉を先取ったティアは、眩しいものを見るように目を細めた。

 ティア自身も、今の先にあるそれからについて考えていないわけでもなかった。

 けれども、今をとても愛しげに過ごすシシィに、どう話をしようかとわからないでいた。

 それからの話をするということは、今が終わってしまうことを意識することだ。

 ティア自身だって、勇気がなくて未だ向き合えていなかったのを、シシィは既に考えてくれていた。

 なら、ティアもここで示しておかないといけない。


『……ねぇ、シシィ』


 碧の瞳がティアを見る。


『私もね、シシィが好きよ』


 息を呑む音が、彼の方から聞こえた。


『だから、今が続いた先のそれからでは、私はあなたと生きていきたい。あなたが好きだから、一緒に居たいって思うのは普通よね?』


 照れが多分にはらんだ顔で笑えば、顔を綻ばせたシシィが足を踏み出し、ゆっくりと距離を詰めてくる。


『もちろん、普通だよ』


 その詰められた距離に、ティアは自然と瞳を閉じた。

 天頂に届いた陽はいつの間にか傾き、影が伸び始める。

 通りからの賑わいは午後のそれへと変わり、そんな声を背景にしたふたりの影が、そっと重なった。

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