春浅く風も冷たく
くれは
春浅く風も冷たく
背は高い。アイロンなんかきっと持っていないんだろうな、なんて具合に皺だらけのシャツは、いつも上から一つか二つ、ボタンが外れている。
全校集会があるときだけは申し訳程度にネクタイをしている。けど、そのネクタイだって、理科教員室のロッカーに入れっぱなしのものだって、わたしは知っている。
その上から、これまた皺だらけの白衣を纏っている。
ぼさぼさの黒髪は、いつもぐしゃぐしゃで、何かあるとその大きな手で髪の毛を掻き回すせいで、落ち着いたところを見たことがない。寝癖なのか、掻き回しているせいなのか、わからない。
顎にはいつも無精髭。銀フレームの奥の目は、いつも気怠そうで、やる気がなさそうに見える。
くたびれた印象だけど、よれよれの白衣に誤魔化されずによく見れば、身体つきは意外と引き締まっている。
この学校の生物の教師。わたしの三年間の片思いの相手だ。
きっかけは、入学したばかりの頃。うっかり校舎内で迷ってしまって、立ち入り禁止の旧校舎の近くに行ってしまった時だ。
学校の旧校舎は、今は使われていない。建て直す予定はあるけど、なんらかの理由で計画が中断しているらしい。
入学したての一年生でも「何かヤバいものが封印されている」「取り壊そうとすると事故が起こるからそのままになっている」なんて面白おかしい怪談話を知っていた。
老朽化のためにいつ崩れてもおかしくない、だから近付かないように、と学校からは言われていた。それでも高校生というのは、そういうものを面白がって探検ごっこをしたり、人が近付かないのを良いことにそこでちょっとした悪さをしたり、そういうことをするものらしい。
旧校舎で煙草を吸ったりお酒を飲んだりしてる生徒がいる、という噂だって入学して一週間で、ほとんどの一年生のところに届いていた。
体育館から新校舎に戻るのに、表からじゃなくて裏口から出ると近いよ、と聞いていた。クラスメイトと行動してたのに、更衣室にスマホを忘れたせいでわたしだけ遅れて一人になってしまった。
学校の構造をあまり把握できていなかった。入学したばかりだったから。
一人で裏口から出て何も考えずに進んでいたら、向こうから男子生徒が二人、走ってきた。校舎に戻るつもりだったわたしは、それも特に不思議には思ってなかった。けど、その二人とすれ違いざま、かすかに感じたのは煙草のにおいだった。
ざわり、と風が吹いていた。午前中は良い天気だったのに、お昼になって急に生暖かい風が吹き始めて、空に厚い灰色の雲が流れていた。放課後には雨が降っているかもしれない。
進んだ先には、金網があった。その前に立っていたのが、白衣姿の先生だった。
先生は、咥え煙草で、気怠そうに髪の毛を掻き回して、地面を眺めていた。服装のせいもあって、やる気がなさそうな先生だなという第一印象だけはあったけど、担任でもなく教科の担当でもない先生のことを、その時までは意識していなかった。
だから、顔を上げた先生の、その眼鏡の奥の意外と鋭い視線に射すくめられた時、わたしは初めて、本当に初めて、先生のことを意識したんだと思う。
その時はまだ、名前だって、はっきりと覚えていなかったくらいだ。
先生はわたしの姿を認識すると、溜息をついて、咥えていた煙草を摘んで白衣のポケットに入れた。火はついていなかったらしい。
「一年生か。
「えっと……その……」
先生はもう、いつもの気怠そうな、やる気のなさそうな顔に戻っていた。でも、さっきの一瞬の鋭さに、わたしはすっかり
わたしがロクに何も言えないでいるうちに、先生はかがんで地面に落ちていた煙草の吸い殻を広い上げた。ポケットから出した携帯灰皿に入れてゆく。一つ、二つ、三つ。
その様子に、わたしはさっきすれ違った二人の男子生徒を思い出す。かすかな煙草のにおい。噂話を思い出して、もしかしたら、と思った。
そんなわたしの思考を遮るように、先生が言った。
「俺の煙草だよ」
「え……」
「学校内は禁煙だからな、ここでこっそり吸ってたんだ、俺が」
先生は体を起こすと、携帯灰皿を畳んで、白衣のポケットに突っ込んだ。そして、ポケットに手を入れたまま、わたしの方を見てにやりと笑った。
「バレると面倒なんでな、黙っててくれるか」
細めた目。わずかに上がった口角。自分は煙草に火もつけてなかったくせに。
それでもわたしは、頷くしかできなかった。
「一年生なら単なる迷子か。旧校舎はいろいろアブナイからな、近付くなよ。面倒が増える」
ざわざわと、怪しい風が通り抜ける。元々ぐしゃぐしゃの髪をさらに乱された先生は、眼鏡にかかる髪を掻き上げた。その仕草がひどく大人っぽくて、高校生になったばかりのわたしじゃ、ちっとも、これっぽっちも、太刀打ちできるものじゃなかった。
あの時から、わたしは早く大人になりたいと思うようになった。
学校は、バレンタインデーを特に禁止はしていなかった。だからみんな、思い思いにチョコレートを持ってきて、友達同士で交換したり、好きな人にあげたり、みんなで食べたりしていた。
わたしも、仲の良い子と交換してみんなで食べて、それ以外にも先生にあげるためのチョコレートを用意した、一年目には。
先生のために選んだ、装飾は少なく、でも少し高価で高級な、大人っぽく上品なチョコレート。
結果を先に言えば、それは受け取ってもらえなかった。
「あのなあ、教師が生徒個人とプレゼントをやりとりするようなことができるわけないだろ。問題になる」
「でも……受け取ってもらうだけで良くて、それ以上は」
「意図は関係ない。そういった事実があるだけでマズイんだよ」
人のいない旧校舎、立ち入り禁止の看板がかかった金網に寄り掛かって、先生は溜息をついた。
「まあ、大人の事情だよ、こんなもの。でも、そういうのは案外大事なもんなんだ。子供から見たら、滑稽で、面倒で、馬鹿らしく見えるかもしれないけどな」
そう言って、先生はポケットから煙草を出して咥えた。咥えて、それから少し押し黙って、やがて火を付けることもせずにまた、ポケットに戻す。
「俺に教師を続けさせてくれよ」
そんな言い方をされたら、わたしはもう、何もできない。わたしは、チョコレートの箱を胸の前で抱きしめる。
ひどく寒い日だった。吐く息は白くて、上着も着ないで来たから、体はすっかり冷えていた。
「ほら、立ち入り禁止の旧校舎に、もう用はないだろ。さっさと行けよ。ああ、それとな」
それまで、わたしと視線を合わせもしなかった先生が、不意にわたしを真っ直ぐに見た。
「俺は、チョコレートが嫌いなんだ。甘いものも。だから、バレンタインも大っ嫌いなんだよ」
ぼさぼさの黒髪と眼鏡の向こうから向けられるその視線に、その時のわたしは耐えられなくて、走り去ることしかできなかった。
二年生になっても、先生の態度は相変わらずだった。本当に、これっぽっちも、相手にされていなかったなと思う。
先生には、もしかしたら恋人がいるのかもしれない。大人なのだから。でも、そんな質問すら、先生はいつも大人らしくはぐらかして、何もわからないままだ。
二年目のバレンタイン、いつもの立ち入り禁止の金網の前で、先生は警戒する視線をわたしに向けた。
わたしは両手を上げてひらひらと振ってみせる。
「何も持ってません」
「じゃあ、何しに来た。立ち入り禁止だぞ」
「先生に……質問があって」
わたしの言葉に、先生は静かに目を細めた。
「教科書もノートも持たずにか? そういうのは、教員室にいる時にしてくれ」
「先生、いないじゃないですか、教員室に」
ちょっと口を尖らせて言えば、ふ、と笑う気配があった。
「質問てのは、なんだ?」
ちょっと首を傾けて、まるで挑発するようにわたしを見る。この人は、本当は教師なんかじゃなくて、詐欺師とか、何かそういう悪い大人なんじゃないだろうか。
わたしは、精一杯背筋を伸ばして、先生を見詰め返す。
「先生は、どういう人が好みですか?」
「その質問は教師の管轄外だな」
わたしの言葉に、先生は興味を失くしたように寒空を見上げた。その、喉仏。いつものように、シャツの隙間から鎖骨だって見えていた。
「じゃあ、どうやったら好きな人に振り向いてもらえますか?」
「そういうのは、
「先生だから聞いてるんです」
「俺を辞めさせたいのか?」
先生の言葉に、わたしは黙るしかない。
「少なくとも、
「じゃあ卒業したら……生徒じゃなくなったら、振り向いてもらえますか?」
一歩、踏み出しかけて、そうやって見上げる先生の目になんの熱もないことがわかって、わたしは立ち竦んでしまった。
その年のバレンタインも、ひどく寒い日だった。スカートから覗く膝小僧が、赤くなってしまっている。制服を着ている限り、きっとわたしは子供でしかないんだろうな、と思う。
「再来年、いや、もう来年か。俺はもうアラサーも通り越してアラフォーになるよ。せっかくの青春をこんなおじさんに費やすなよ、全くさ」
結局二年目も、わたしは走り去るしかできなかった。
それでもわたしは、高校の三年間、この恋心を諦めることができなかった。
わたしの人生の中で、あれ以上に素敵な男の人はもう、現れないんじゃないだろうか。いっそ、出会ってしまいたくなかったとすら思う。
誰を見ても、先生のことを思い出してしまう、比べてしまう。だって、先生があまりに、かっこいいから。あんなに大人っぽくてかっこいい人が、なんで学校の先生なんかやってるんだろう。
先生と生徒じゃなければ。それとも、わたしがあと十年早く生まれていたら?
馬鹿げた妄想の後に、溜息をつく。
わたしはこの三年間で、恋というのがままならないものだと、すっかり学んでしまっていた。それも全部、先生が教えてくれたことだ。
三年目のバレンタイン。それでもわたしは、先生に会いに行く。
チョコレートも持たず、それ以外の何も持たず、ただわたし一人っきりで。きっと、何を持っていっても、先生は受け取ってくれない。それでも、わたしは先生に会いたかった。先生の声を聞きたかった。
先生は、いつもの旧校舎の金網に寄りかかって、火のついてない煙草を咥えて、空を見ていた。
わたしの姿をちらと見て、それから溜息をつく。
「何の用だ」
「先生に会いに来ました」
わたしの言葉に、先生は煙草を摘んで、それをポケットに突っ込んだ。そして、空を見上げたまま口を開く。
「高校生なんてさ、まだ若いんだ。若い奴らどうしで、楽しくきゃっきゃしてたら良いだろ」
先生の言葉に、わたしは大きく首を振る。そして、それには答えずに、先生に質問を投げかける。
「先生は、どうしてバレンタインが嫌いなんですか?」
「言っただろ、甘いものは嫌いだし、チョコレートも嫌いなんだ」
「本当に、それだけ?」
「それ以外の理由が必要か?」
先生が、視線をわたしに向ける。気怠げな視線が、一瞬、何かを思い出すように、ためらうように彷徨った。
「バレンタインの日に、チョコレートをもらったんだ、昔な。その相手に返事する前に、死なれて……それ以来だな」
思いがけない告白に、わたしは息を呑んだ。そのわたしの表情を見た先生が、ふ、と笑った。
「随分と素直な反応だな。まあ、そんな理由なら、納得もしてくれるか?」
そう言って、口元に手を当てて、くくっと笑う。からかわれたのだと知って、わたしは唇を噛んだ。
「怒れよ。大人ってのは、意地が悪くて、嘘吐きで、狡いんだ。真剣な子供に対して、平気で嘘を吐く。そうやって、真面目な気持ちを踏みにじってくる卑怯な大人のことなんか、泣いて、怒って、嫌いになって、忘れてしまえ」
先生の言葉に、わたしは涙を堪える。
泣いたら、この恋が終わってしまう。わたしは、そんなふうに傷付いた子供になりたいわけじゃない。
「絶対に忘れません。嫌いにも、なりません。それに、来月は卒業だから」
「子供が成長して大人になるのと同じだけ、大人は年寄りになってくんだよ」
先生はそう言って、ポケットから煙草を出してまた咥えた。もう、お喋りは終わりだと言うように。
そして、また空を見上げる。天気は良いのに、ひどく寒い、まだ冬の空。
わたしは結局、三年間で、ただ先生の前から立ち去ることしかできなかった。
それでもわたしはまだ、この恋を諦められない。きっと、この思いが通じることはないと、わかっているのに。
大人になりたい。先生の隣に立てるような。
でも、この気持ちを失ってしまうくらいなら、わたしはこのまま、子供のままでも構わない。
卒業式の日、先生は珍しくシャツのボタンを上まで止めて、ネクタイを締めて、ジャケットすら羽織っていた。友達と写真を撮り合う中で、こっそりと珍しい先生の姿を写しておく。
写してから、やっぱりいつもの姿の方が好きだなと、ずいぶんと前に撮った白衣姿の写真も眺めたりした。
先生はどうやら、わたしを避けていた。わたしだけじゃなくて、卒業生の誰のことも、同じように避けているみたいだった。
最後に一緒に写真を撮ることも、挨拶をすることもできなかった。ただの生徒としてすら。
それでも、もしかしたらと、帰り際に友人たちに適当な理由を告げて無理矢理一人になって、いつもの旧校舎の金網のところに向かう。
いつものように先生はいなくて、立ち入り禁止の看板の前に一人で立つ。ふと、煙草のにおいがして、ああ、ついさっきまで先生がここにいたんだな、と思った。
天気は良くて日差しは暖かかったけれど、風はまだ冷たい。
高校を卒業してもまだ、わたしは大人にはなれないでいる。
春浅く風も冷たく くれは @kurehaa
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