#3 貝殻の方舟に乗って
「にしても、今どき珍しいわよね。親同士が決めたお見合いなんて」
そう言って薄い金髪の女性は、僕のコースターの隣からガムシロップを持っていった。ガムシロップを掴むクリアカラーの美しいネイルをぼんやりと眺めながら、何も入れていない自分のアイスコーヒーをストローで掻き混ぜる。
カラン、と涼しげな音を響かせるグラスとは対照的に、僕の心はどんよりとしていた。
今どき珍しい。
自分でもそう思う。
お見合い、それも両親が決めた相手となど大正や昭和までの話だと思っていたし、現代においてでは空想の中での話だと思っていた。
「顔だって見たことないんですよ」
顔はおろか、名前だってまだ聞いていない。
正確には寝耳に水すぎて、うっかり名前を聞き漏らした。
「でもそれなら貴方。そんな大事なお見合いの前に、見ず知らずの女とこんなところでコーヒー飲んでて良いの?」
ストローを咥えながら傾げた首の傍で、薄い金色の髪が揺れる。至極真っ当な問いかけをされて、僕は膝の上で拳を握り締めた。
「……本当は良くないんでしょう。でも僕、女性となんてほとんど話したことないですし、お見合いが始まっても何を話していいのやら……だから、」
「だから、突然話しかけてきた妙な女になら、人生相談も悪くないと思った。ってところかしら?」
一瞬詰まった僕の言葉を、女性はするりと引き継いだ。おかげさまで、ズバリ言い当てられ鳩が豆鉄砲でも食らったみたいに腑抜けた顔で固まってしまった。
「……まあ、はい。そんなとこですね」
そう、図星なのだ。
初対面の、しかも顔も名前も知らない見合い相手に、何を話題にすれば良いのかなど見当がつかない。頼んだコーヒーを眼前に途方に暮れていた自分に突然話しかけてきた、この綺麗で風変わりな女性の登場は、まさに渡りに船だと思った。
「多分、僕がこの歳になってもいい人がいないから、気を揉んだ両親が勝手に決めたんだと思います」
ストローを突っ込んだまま飲むタイミングを失ったアイスコーヒーの、グラスの汗が流れていくのをただ眺めた。
「別に女性が苦手とか、嫌いというわけではないんです。でも……」
「でも、それ以上に、貴方にはやりたいことがあった?」
まるで僕の心の声が聞こえたみたいな絶妙な合いの手に、僕はゆっくりと膝の上の拳を開いた。
「……はい、そうなんです」
そう、自分にはやりたいことがあった。
◯●
ジワジワと暑苦しい声で鳴く蝉をBGMに、すぐそこの自販機で買った炭酸飲料をじっと見つめた。
ペットボトルの中で炭酸がしゅわしゅわと弾ける微かな音が拾えてしまうほど、自分たちの周りには誰もいない。
ペットボトルを通り越して、自分のパンプスのつま先、更にその先の砂粒をぼんやりと見つめる。
私は、何をしているんだろう……。
●
久しぶりの休日。
その休日以上に、久しぶりの両親との外出。
珍しく綺麗な余所行きの服に袖を通したが、直前に聞かされた行き先に足が重くなった。
せっかちな母親に急かされて到着したのは都内の小綺麗なホテルのラウンジ。約束の時間の二時間以上も前に着いてしまい、私は堪らず外へと出た。
だが、外に出たら出たでそこはサウナのように暑かった。呼吸をするのも苦しいほどの湿気と熱風。
アスファルトから立ち上る熱気に追い立てられるように、一直線に近くにある公園を目指した。地面がアスファルトより土や芝生の方がいくらか涼しいだろうと考えたからだ。
都心の片隅にある小さな公園だ。気が利くことに、入り口には自販機もある。小さなカバンの中で逃げ回る小銭入れにやきもきしながら、夏になると決まって口にする透明な炭酸飲料を買った。
ほんのりと冷たいそれを手に取れば、つい先程まで涼しい機内にあったのにあっという間に汗をかき始めた。
(ペットボトルにとっても暑いもんね)
なんて。
くだらないことを考えつつ、日陰を探してぐるりと辺りを見回す。少し離れた木の陰にベンチの脚が見えた。
ジリジリと照りつける太陽から逃げるように、唯一木陰のあるそこに避難しようとしたら先客がいた。
真っ黒の髪に真っ黒な服。
この死ぬほど暑い陽射しの下で自殺行為ではと目を疑うような格好だが、不思議とその人の顔には汗の一筋さえなく、そこだけ涼やかな風でも吹いているかのような様子だった。
いつもだったら、別のベンチや場所そのものを変えていただろう。だが、陽気が、あまりにも天気が良過ぎて、別の場所に移ることなど考えられなかった。
私は、思い切って声を掛けることにした。
「……あ、あの。お隣よろしいでしょうか?」
男性が顔を上げる。
恐ろしく綺麗に整った顔は、一種の迫力があった。
さらりと風に揺れる漆黒の髪に、抜けるように白い肌、薄い唇。そして何より目を
思わず息を呑んでその蒼い
「どうぞ」
そっけなく感じるほどの返事を、いっそありがたいと感じつつ私はその人の隣に腰を下ろした。
ベンチに投げかけられた木陰にほっと息をはく。陽射しから逃げられたことが素直に嬉しくて、へらっと微笑みながらお礼を言った。
「……そんなに陽射しが辛いのなら、涼しい屋内にいれば良いのでは?」
「え……」
「木陰に入った瞬間すごくホッとした顔をしていたので」
「それはそうなんですが……」
ぶっちゃけ、室内の冷房のキンキンに効いたラウンジの方がどれほど天国だっただろう。だが見合いの成功を期待する両親の、あのキラキラした眼差しが居た堪れなくて、約束の時間までブラつこうと思いここまで出てきた。
「この後予定してるお見合いが気まずくて、逃げてきちゃいました」
「……そ」
先程と同じ、感情の篭っていないような、そっけない返事。別に嫌だとは思わない。変に詮索されてもむしろ困る。
じわじわと鳴く蝉がうるさい。段々と耳が慣れてきて、今度は手元で弾ける炭酸がよく聞こえた。
(……なに、してるんだろ、私)
勝手に思わせぶりな発言をして、この人が深く聞いてこないことに安堵しつつ、何となくガッカリしてるなんて。……ならば。
「……あの、喉乾きませんか?」
意を決して話しかけた。想定してなかったのか、少し驚いた顔をされた。
「……え?あぁ、そうですね。暑いですからね」
サラリと流されかけて、私は食い下がった。
めげない!ただでさえそっけない反応だったんだ。ここで引いたら女が廃る。
「あのっ!良かったら私、そこでお茶買ってくるんで!……話を聞いてもらっても良いですか?」
「……お茶は自分で買ってくるよ」
玉砕。
別にこの超絶美人さんとお近づきになりたいなんて、微塵も思ってないんだけど、やはりドン引きされた。むしろ見た目に沿ったクールさで、納得さえした。
ですよねー。そうですよねぇー。お茶あげるから話聞けなんて、ただの不審人物ですよねぇ。ハッハッハ。……ハァ。
「お茶は自分で買ってくるから、話くらいなら聞く」
「へ……」
どうやらこの超絶美人さんは、見た目に反して突然話しかけてくる怪しい女にも優しいらしい。
あまりに意外すぎて、まじまじと見つめていると、整った眉根が微かに寄った。
「で?どうするの。話すの?話さないの?」
「は、話します。話します!お願いします!」
そこから先は、洗いざらい聞いてもらうことにした。ペットボトルの中身はとっくに生温くなり、滴る水滴さえ乾いた頃、ふ、と息をついた。
「変、ですよね。名前も知らない、会ったこともない人と会うのに勇気が出ないからって、初めて会った貴方とこんなところでお茶してるなんて」
同じ知らない人なのに、何故お見合い相手には腰が引けて、偶々公園で同じベンチを共有した見ず知らずの相手には問題なく会話が出来るのか。
理由は単純。
今後の自分の人生に大きく関わる可能性があるか、ないか。ただそれだけだ。
「さあ?君がそうしたいと思うならすれば良いし、別に一緒にお茶するのも僕は構わない」
それに、と黒髪黒服の男は続けた。
「幸いなことに、僕は今、人待ちをしていて暇だ」
「……そんな風に言ってもらえると、正直ありがたいです」
握りしめたペットボトルを揺らせば、微かだった炭酸が再びしゅわりと鳴いた。
「今まで親に言われたとおり、高校も大学も就職先も、自分で決めずに来てしまったんです」
「反抗はしなかったのか?」
「何度か『違うかも』って思ったことはありましたけど、面と向かって反抗はしませんでしたね。親を悲しませたくなかった、なんて良い子の回答じゃないですけど、単に自分が臆病だったんだと思います」
ふうん、と空気の抜けるような返事。
「その上、今度は結婚相手。……でも流石に今回は黙っていられなくて。それで飛び出してきたんです」
「じゃあ、今は初めての反抗期ってところか」
「……そっか。ふふ、そういえばそうですね」
言葉にすると、こんがらがった思考が少しだけスッキリする気がする。陽射しが照りつける木陰の先を見つめながら、黒服の男性はなんてことない事柄のように続けた。
「随分と大切に育てられたようだ」
「そうですね、多分、世間一般で言うところの『箱入り』なんでしょう」
『箱入り』。
自分で口にしておきながら、何とも情けない響きに聞こえた。大事に育てられたお嬢さん。世間知らずの娘。
自分自身の道を他人に委ねた結果のレッテル。何となく沈んでいく気分を感じながら、手の中のペットバトルを握り締めた。
「君はアコヤガイがその硬い殻の中で育てるものは何か知っているか?」
薮から棒の投げかけに、沈みかけた思考は途中で停止した。
アコヤガイ。確か、真珠を作る貝だっけ。
「えぇ、真珠ですよね」
「そう、真珠。ではクロチョウガイは知っているかな」
「クロ、チョウ、ガイ?」
聞いたことのない名前だった。話の脈絡から、多分貝の名前なんだろうと思うが、名前も形も知らないものだ。
「黒蝶真珠という種類の、一般人には“黒真珠”と言った方が分かるか」
「あ、黒真珠は知ってます」
大好きな洋画に出てくる伝説の船の名前で聞いたことがある。真っ黒の船体がかっこよくて、あんな船に乗ってみたいと小さい頃から夢に見た。
「そう。その黒真珠のなかで人工的に着色されていないものを“黒蝶真珠”という。その黒蝶真珠を生み出すのが、クロチョウガイだ」
何故、今、真珠の話を?
だが先ほどまでと違って饒舌になった男性を、私には遮ることはできなかった。
「
ビッ、と私の鼻先を、白い指がさす。
黒い髪の切れ目から覗く空のように蒼い瞳が、一際強く輝いて見えた。
「君はそれと同じだ。硬い殻に守られながら、自分をひっそり磨いてきた黒蝶真珠。君が自身で思い立ったのなら、多分変われる」
「……え」
「変わる瞬間は人それぞれだ。ただ、いかなる時も己が変わりたいと願ったその瞬間が、変わる
変わりたいと、願う瞬間。
ペットボトルを握りしめていたはずの右手は、いつの間にか自分の胸の前で強く握りしめられていた。
「変わりたいんだろ?」
私の何かをこじ開ける言葉。
私は返事の代わりに、こくりと唾を飲み込んだ。
●◯
「じゃあ、あとは若いお二人でおしゃべりしてきなさいな」
お決まりの文句で、双方の両親はさっさと捌けていった。
残された二人。
気まずげに溶けていくグラスの氷。
俯いた顔を見ることはできず、どちらも同じように膝の上で手を強く握りしめていた。
——カラン、と氷が崩れた。
まるで示し合わせたかのように、二人は同時に顔を上げた。
「私、海外に出てみたいんですっ」
「僕、日本から出て外の世界を見たいんです」
異なる口から発せられた、同じ願いの独白に、二人はとても驚いた顔をした。
到底理解されないと思っていたからこそ、交際の断りの言葉の代わりとして、親にも言ったことのない夢を話したからだ。
収まらない、海外への憧れ。
止まらない、自身への挑戦。
ここじゃない、どこかへ。
当初心配していたことなど嘘のように、二人の会話は尽きなかった。
自分以外に心を同じくする人がいることを、二人は初めて知った。
○●○●
暑い真夏の陽射しを、まるで初夏の木洩れ陽のように纏いながら淡い金髪の女性が楽しげに歩いてくる。
「
「別に。言うほど待っていない」
「またまたぁ〜。貴方の几帳面な性格は知ってるんだからね?」
むすりとしながら、黒髪の男性は本題を促した。
「……首尾は?」
「良い感じなんじゃないかしら。二人とも、色は違うけど、同じ
「そうか」
「ええ。上手く
そう言って二人は真夏の陽射しの中をさっさと歩き出した。
願わくば、二人の進む航路に幸あらんことを。
パール
【家内安全、良縁】
ブラックリップパール
【実行力、意志力、静かな力強さ】
人はみな口に宝石を咥えて ヒトリシズカ @SUH
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