#2 海を抱く瞳

「貴方は、まるで大海のように凪いだ瞳をしているのね」


 お姉さんは、朝焼けに透ける波のような髪を海風に遊ばせながら、こっちに体を向けた。


「ねぇ、貴方は——……」


 そう聞いてきたお姉さんの淡い瞳に写ったおれの顔は、いつもおれが、じいちゃんの船から海を覗いた時に見える顔とよく似ていた。



 △



 おれが中学に上がって二度目の梅雨のある日、じいちゃんが、漁師を辞めると言い出した。


 持病のヘルニアが悪化して、もう一人で漁に出るのは無理らしい。

 深夜、じいちゃんが大好きな日本酒を飲みながら、ばあちゃんにぽつりと零したのを聞くともなしに聞いてしまったおれは、最近のじいちゃんの様子を思い出して、悲しいけれど、少しだけ納得した。

 でもおれは、それだけが理由じゃないと思ってる。


 じいちゃんとばあちゃんの一人息子である父さんは、家業を継がなかった。なんでも、その昔父さんとじいちゃんは大喧嘩して、それきり漁師には絶対ならないと宣言していたらしい。

 そしてそれは本当のことなのだろう。

 おれは父さんが、じいちゃんの船に乗るところを一度も見たことがない。じいちゃんも、父さんが自分の船に乗ることを断固拒否している。

 そんな父さんは、おれにも「絶対船には乗るなよ」と、事あるごとに機嫌悪げに言ってくるが、おれはいつもコッソリじいちゃんの後ろにくっついて漁について行っていた。

 じいちゃんは頑固で、つっけんどんで、ちょっとおっかなくって、でもすごく優しくてカッコいい。

 じいちゃんは、おれにとってヒーローだった。


 最近のじいちゃんは、今までみたいに元気がない。そんなじいちゃんの様子が気になって、防波堤でいつもみたいにじいちゃんと道具の手入れをしながら、思い切って聞いてみた。


「俺はな、一彦かずひこ。じいちゃんは海が、大好きなんだ。そんでもって、一彦が海を好きになってくれて、じいちゃんはすごく嬉しい。でもな、じいちゃん一人じゃもう、漁に出るのが辛いんだ。……だからな、もう……そろそろ船を売って、引退しようかと思うんだ」


 じいちゃんが寂しそうに笑う。

 真っ黒く日に焼けた、ゴツくて大っきな手がおれの髪をわしわしとかき混ぜる。いつもは嬉しいはずのその手が、何故だかとても哀しく感じた。


「……おれが……」


 継ぎたいと思った。でも言い出せなかった。

 ヒーローじいちゃんが決めた、引き際をおれのわがままで引き伸ばしていいのか。

 漁師になる、船に乗ることを、父さんは許してくれるのか。

 そもそもじいちゃんは、おれが後を継ぐことを快く思ってくれるのか。

 色んな考えが次々と頭をよぎったが、これ以上じいちゃんの寂しい笑顔を見たくなくて、俯いたまま何も言えなかった。下唇を噛み締めて押し黙ったおれを、じいちゃんは怒らなかった。


「一彦。お前は、ほんとうに良い子だよ」


 じいちゃんはそう言って、おれの頭をもう一撫でしてくれた。



 △



 それから三日間、バケツをひっくり返したみたいな大雨が続いた。大雨が止んでも、ズルズルと焦らすように、じっとりと濡れる雨が絶え間なく降ったその間、おれは毎日窓の外を睨みつけた。

 やっとスッキリ晴れた五日目の朝、おれは居ても立っても居られなくて、日の出を待つように海に行った。人気ひとけのない防波堤に上り、赤く燃える太陽を待った。程なくして昇った太陽に染められた海は、この数日間が嘘のように、とても静かに凪いでいた。

 防波堤の上で足を投げ出し、体を反らせて光を浴びる。昇りたての光はあったかくて、真っ赤な光を全身で受けたおれは、海と一緒に溶けたみたいな感覚になった。

 ……どれくらいそうしていたのだろう。


「いい海ね」


 不意に後ろから声がした。

 いつの間にか赤い太陽は白く変わり、視界を眩く灼いた。

 声のする方を振り返ると、おれの左斜め後ろにおしゃれな白のパンプスと、スッキリとした見た目のパンツが見えた。うちの近所に、こんなオシャレな靴と細身のパンツを履いている人なんてほとんどいない。

 誰だ?と思考しつつ、目線を滑らせた。

 そのまま目線を上に上げて、おれは思わず息を呑んだ。見えたのは白のパンツに似合いの細身のジャケットと、淡い水色のVネックのトップス。七分丈の袖から伸びる華奢な腕は、魚の鱗より白くて淡く発光しているみたいだ。何より、おれが驚いたのは、その人の髪が、透けるようにキラキラと輝いていたから。それはまるで、朝日を浴びた水面みたいに暖かくて、眩しい色をしていて、おれにはそれが海みたいに見えた。


「ごめんなさいね、驚かせてしまったかしら?」


 それは訛りのない、とてもきれいな日本語だった。

 海風に吹かれ、好き勝手に動く髪を抑えながら発せられた謝罪は、女性のものだ。声は若く感じた。髪から時折覗く目は透き通るような水色で、間抜けにもおれは口を半開きにしたまま、その人を見つめていた。


「お隣、いいかしら」


 呆けたまま固まったおれを気にした様子もなく、女性は隣に腰を下ろした。

 隣に座ってくれたおかげで、おれはいきなり現れたその女性を意図せずじっくり観察することができた。

 その女性は——お姉さんは、とてもきれいな人だった。

 光っているみたいに見えた髪は、白っぽい金髪——多分、プラチナブランドというのだろう——で、肌も白く、全体的に色素の薄い人だ。でも決して儚い印象はなく、南国の海を切り取ったみたいな快活な水色の瞳が昇ったばかりの朝日を受けて、キラキラしていた。


「こんなに気持ちの良い朝の海に、貴方はずいぶんと難しい顔をしているわね」


 お姉さんは形の良い眉毛を歪ませながら、その眉毛に挟まれた眉間を指差す。おれはぼんやりと自分の眉間を触れば、思っている以上に波打っていた。なんとなくカッコ悪くて、おれは両膝を抱えて俯いた。

 ふう、と息を吐く声が、カモメの鳴き声とハモって聞こえる。


「初めて会ったわたしには、貴方の詳しい事情は分からないけど、実は貴方はそこまで悩む必要はないと思うよ」


 そう言われて、おれは頬がカッと熱くなった。

 初対面のお姉さんに、おれの悩みのいったい何がわかるっていうんだ。そう言おうとして、顔を上げたのと同時に、顔だけこっちを向いていたお姉さんの澄んだ水色の瞳がおれを貫いた。


「君には海が宿ってる」


 海。

 海が、宿っている……?

 言われた意味がわからなくて、見つめ返すとお姉さんは、ふわりと目元を緩ませた。


「貴方は、まるで大海のように凪いだ瞳をしているのね」


 海。

 お姉さんは、朝焼けに透ける波のような髪を海風に遊ばせながら、今度は体ごとこっちを向いた。


 ねぇ、とお姉さんは歌うように言葉を紡ぐ。


「貴方は、海が好き?」


 それはまるで、海そのものに尋ねられたみたいな、不思議な感覚だった。

 虚をつかれて、思わず頷く。そして頷いたのをきっかけに、おれの中で堰を切ったように、想いが溢れ出した。

 おれは、おれは海が好きだ。

 どこまでも続く水平線を正面に捉え、風を切り、波に揺られながら見るその光景が、たまらなく好きだ。

 まだまだ頼りないけれど、体だって大きくなってきた。多分高校生になる頃にはもっと大きく、力も強くなってるはずだ。足も強くしたいから、毎朝学校までの急な坂道を自転車で漕いでるし、体力作りも兼ねて近所のおばさんの畑もよく手伝ってる。

 父さんには多分すごく怒られるだろうけど、出来るだけじいちゃんの漁について行ってるし、こっそり操舵や船舶免許とか、県内と県外の水産高校についても調べて——……


「ね、どう?」


 つ、と短い言葉に遮られ、その瞬間、おれは妙に納得した。


「迷ってたり、悩んだりしてるみたいな顔して、そのじつ、しっかり未来を見据えてるじゃない」


 ……そう、なのかもしれない。

 ぐるぐると、当てもなく考えて、悩んでいるつもりになっていただけで、おれの心はすでに決まっているのかもしれない。


 ゆっくりと、お姉さんが腰を浮かした。目線が、おれのものより高くなる。それを無意識に目線で追う。仰ぎ見たおれの胸の辺りを指差して、ゆっくり言い含めるように続けた。


「貴方は生まれながらに、アクアマリン海の御守りを持っている。これまでに丁寧に、でもしっかりと、それを研磨してきたんでしょう。自分ではそうは思わないかもしれないけれど、それは誰でも持てる宝石ものじゃあない。大事にしなさいな」


 日光の色をした淡い金髪を揺らし、海を切り取ったような水色の瞳がふんわりと綻ぶ。

 まるで海が笑ってくれているみたいだ。頬が、先ほどとは別の理由で熱くなった気がした。


「大丈夫よ。わたしが言うのだから、間違いないわ。何事にも勇敢に、そしていつでも聡明でありなさい。磨くことを忘れなければ、必ず貴方に道が開かれる」


 じゃあ、そろそろ行くわ、とお姉さんは立ち上がって、防波堤からひらりと降りた。意味深な言葉を残して、そのまま軽い足取りで離れて行く。


「10年くらい経ったら、貴方の獲った魚を食べに来るわねー」


 ひらひらと、大らかに振られた右手に、おれは強く手を振り返す。

 おれは、じいちゃんの後を継いで、じいちゃんみたいな漁師になる。

 だからもう、迷わない。









 ——アクアマリン

 《海難防止・豊漁・勇敢・聡明》

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