#1 強靭たる金剛の君

 全く嫌になる。

 仕事で凡ミスをしたのはわたしだ。

 だが、そのミスに対して感情論で……いや、根性論でどうにかすべきだという発想はどうかご自身にのみ向けて頂きたい。

 歯を食いしばれ、腹に気合を入れろ、死ぬ気でやれ。だってさ。

 …………無理だ。

 だってわたしは、平凡なペーペーの平社員だ。

 何かやらかしたら多分即クビ。誰とでも代えの効く、何の特技もない平凡な女だ。

 食いしばれる根性も、命をかける覚悟もない。

 横暴で上から目線の上司の言葉に思わず下唇を噛む。

 だが一番嫌なのは——……。


 ……やめよう。鬱々としても良いことがない。気分転換も兼ねて、昼休みか、終業後にカフェででも一服してから帰ろう。そうしよう。

 自席に戻り気持ちを切り替えようと前を見れば、山積みになった仕事が雪崩を起こしかけていた。無意識のうちに「うわっ」と声が出た。咄嗟に口を抑えたが、耳ざとい上司が聞き逃すはずがなかった。

「なんだお前!自分の仕事が積み上がってるのはお前の作業効率が悪いからじゃないのか?!ウダウダため息ついてる暇があるならとっとと働けよ!それで嫌なら辞めちまえ!」


 ……ああ、煩い。


 耳障りな声がまた怒鳴っている。一応正論なのだろうが全く心に響かない説教に、思わず眉間が寄っていく。隣の席の先輩が心配そうにこっちを見ているのが見える。声をかけてくれようとする仕草は見えるものの、タイミングが掴めないのか手を固く握りしめているだけだ。

 その間に更に怒声が喧しくなったのでうんざりしながらも、絶対に泣くことだけは嫌だったのでお腹に力を入れながら上司の言葉を頷きつつ鸚鵡返しにしながら、ただひたすら謝り、時間が過ぎるのを耐えた。


 結局、午前の大半を上司の怒声を浴びて過ごしたせいで仕事はほとんど減らなかった。

 そして、やっとの昼休み。猛烈な説教の後カフェで美味しいコーヒーを気分良く飲む気にはなれず、コンビニで買ったおにぎりと缶コーヒー片手に近くのベンチでぼんやりと座っていた。


「……今の仕事、向いてないのかなー……。悔しいけれどあの上司の言う通り、ミスばっかしてるし。前に作ったプレゼン資料も、すごい大変だったわりに上司あの人の反応はイマイチだったもんなー……」


 自分では頑張ってるつもりだが全くついてこない自分への評価に、いよいよ今の職自体が自分に合っているのかさえ分からなくなってきた。


「どんだけ頑張っても、怒鳴るか嫌味しか言ってこない上司しかいないし、先輩達は良い人なんだろうけど直接庇ってくれないしなー……」


 言葉にすればするほど虚しくなっていく気がして、背もたれにだらしなく寄りかかって自分の手をじっと見つめる。


「それは君、みんな自分が傷つくのが怖いからだよ」


 突然話しかけられて、わたしはベンチから転がり落ちそうになるくらいビックリした。


「誰しもが持つ己のコアを触らせまい、傷付けさせまいとして身を固くし、己を鎧うものさ」


 声はすぐ隣から聞こえた。びくびくしながら左を見ると黒いパーカーを着てフードを目深に被りマスクをつけた、いかにも怪しげな人物が知らないうちに座っていた。

 声の主は、わたしの挙動不審な様など全く気にしていないような様子で淡々と続けた。


「アナタ、誰ですか……!?」


 それだけ絞り出すのが精一杯だったのに、黒パーカーは答えてくれる様子はない。

 それどころか真っ直ぐ前を見たまま、こちらを向いてくれる気配すらない。


「君は平凡だ。この世に数多いるグレーやブラウンたちと同じだ。至って平凡」


 男なのか、女なのか。

 若いのだろうとは思うが、痩躯中背の横からの姿ではほぼ区別がつかない。

 少し高めの、キン、と切れる刃物のような感じのする声が何やら失礼だが、確かな事実をわたしに突きつける。スパスパと切れ味良く繰り出された「平凡」という単語に、少々ムッとしつつもその言葉はストンとわたしの中に綺麗に収まった。おかげで、一部よく分からない表現をされた部分にツッコミを入れることができなかった。


「だが」


 ふいに黒パーカーがこちらを向いた。

 目深に被ったフードが微かにずれる。

 フードとマスクの間から、蒼い、まるで真夏の青空のような、突き抜けるような蒼い瞳が閃いた。


「君は金剛だ、黒金剛ブラックダイヤモンド


 金剛、とその言葉がいやに耳の近くで聞こえた。

 真っ直ぐに見つめてくる蒼色の瞳から目が離せない。

 黒パーカーは蒼色の瞳を逸らさず、じっと見つめたまま語りかけてきた。


「今の君は平凡で、君の他にも似たような金剛は沢山いるし、正直、さして珍しくもない。だがその本質は何者よりも強靭で砕けない無敵の強さを誇る」


 耳のすぐ近くで、ガツン、と硬いもの同士がぶつかるような音がした気がした。

 目が、耳が、この人の言葉を逃すなと言っている。


「あんな、己を磨くことを忘れてしまう様な屑石なんかの為に」


 食い入るように耳を傾け、目を見開く。

 光を複雑に反射する蒼い瞳が、まるで宝石のように煌めきを強くした。


「君が割れて折れてしまう必要などどこにもないさ」


 この人の言葉は優しくない。だが、自分が欲していた言葉を知っているようだった。

 目頭と鼻の奥が熱い。

 次いで喉の奥がひりつくような、心のが燃えるような感覚がする。


「だらしなく下を向くな、前を向け。君は僕と同じ誇り高い金剛なのだから」


 横面を言葉で張り倒されたような気分だった。

 どんよりと覆い被せられていた暗い布が吹き飛ばされたみたいに、視界が晴れた気がした。


 この感情を理解した途端ぶわりと視界がうるみ、歪む。わたしは溢れ出たものを振り落とすために瞬きをしたその刹那、黒パーカーの人物は姿を消していた。



 ◇



 後日、わたしに別の上司から他部署への引き抜きがあった。なんでも、以前あの上司から無茶振りされたプレゼン内容がもっと上の偉い人の目に留まったらしい。あの上司は自分が作成したと得意げに報告したらしいが、同部署の先輩たち複数から内部告発されて嘘がバレてしまったようだ。

 そこから芋蔓式にパワハラや嘘が次々と露見し、来週にもあの上司には処分が降るそうな。

 目の下に盛大な隈を飼っていた先輩が、くたびれているが清々しい、とても満足そうな笑顔でそう教えてくれた。



「君はガッツがあって、それに俺と違ってセンスが良い。情けない話だが、君があの上司に頑張って喰らい付いててくれたから、俺たちも良いところ見せないとって一念発起したんだ。ありがとう……君は、もっと上に行くべきだって、他の連中もたぶん思ってる。新しい部署でも頑張れよ」






 ——黒金剛石

《厄除け・カリスマ性・夢の実現》

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