さよなら風たちの日々 第11章ー8 (連載39)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第39話


              【16】


「あの日。シーラカンスって言われた日。帰れ。もう来るなって言われた日。わたし、泣きながら家に帰ったんです」

「でも、悪いのは私なんだから、わたしがいけなかったんだからって何度も自分に言い聞かせて、それで立ち直ろうって思ったんです」

 でも、でもですよ、とヒロミは続けた。

「ポールにいきなり抱きつかれたとき、わたし、ポールの顔を見ました」

「その顔は、いつものポールのじゃありませんでした」

「わたしはポールに、何かが憑依したと思ったんです」

「だからわたし、必死に抵抗しました」

「わたしはポールに抵抗したんじゃなくて、ポールに憑りついた何かに抵抗したんです」

「わたし、その何かに言いました」

「卑怯です。好きでもないくせにって」

「すると、正体がバレた何かは、ポールの身体から逃げていきました」

 ポツリポツリとそこまで話すヒロミは、言葉を詰まらせた。そして涙声で、

「だからあのあと私は元に戻ったポールに『好きですって言ってください』ってお願いしたのに」。


 ぼくは何も言えなかった。何も言い返すことができなかった。

 あれから三年が過ぎて、初めて明らかにされたあの日、あのとき。そしてそのときのヒロミの心のうち。その真実。

 やはりぼくは大バカ野郎に違いない。そう思うと泣き出しそうになった。

 違う。違うんだよ。ヒロミ。

 でもそのあとの言葉が出てこなかった。どこがどう違うのか、ぼくにはその説明ができなかったのだ。彼女を納得させる、分かってもらえる、その言葉が出てこないのだ。

 ヒロミを見た。ヒロミは顔を伏せ、ハンカチでしきりに目元を拭いている。


「それから家に帰って、部屋に閉じこもっていたら、また何だか涙がとまらなくなってしまって」

「だからわたし、部屋の灯りもつけないで、そこでずうっと、ずうっとうずくまっていたんです」

「図書館で、シーラカンス、調べました。それを見たらシーラカンスは凄い形をした魚だったんで、また泣きました」

「それから私にシーラカンスって言ったポールを恨みました。だから嫌いになろうって思いました。忘れよう。諦めよう。ポールはわたしを、その程度の女だとしか思ってなかったんだから」

「だから大嫌いになろう。忘れてしまおうって思ってたら、かえっていろんなことが浮かんできちゃって」

「そんな日がずうっと続いていてたら、父も母も心配しちゃって」

「学校でだって、前から暗い女の子って言われてたけど、あれからもっと無口な暗い女の子になっちゃって」

 その頃を思い出したのだろうか。ヒロミは涙目のまま自嘲の笑いを浮かべ、固く唇を閉じたあと、その続きを話すのだった。

「この痛手から立ち直るには、父が任せてくれるっていう喫茶店にポールって名前をつけるしかないって思いました」

「だからこの喫茶店ポールを、わたしのポールにしようって思ったんです」

「このお店を、わたしのポールにするつもりだったんですよ」

 ヒロミは髪をかき上げ、ぼくを見た。ぼくはヒロミの、次の言葉を待った。


「そうこうしているうちに、わたし高校を卒業して、ようやくこの店を任されるようになりました」

「そうするとあの人、毎日この店にやって来るようになりました」

「あの人、わたしに熱心でした。何度も結婚してくれってわたしに言いました」

「愛しているから。大事にするから。幸せにするからって」

 そこまで言ってヒロミはふと、寂しげに笑った。

 ぼくはわけもなく、コップの水を飲んだ。そのコップを持つ手が、かすかに震えているのが分かった。丁寧に置こうとしたコップはその意に反して、大きな音を立ててテーブルの上に収まった。コップの水は、大きく揺らめいている。ぼくの心を投影して、水がコップの中で揺れ動いている。暴れている。

「そのときわたしは思いました。もう片思いはしなくない。これからは誰かを愛するよりも誰かに愛されて、わたしを幸せにするよって言ってくれた人と結ばれたいって」

 

 ぼくはこのときほど、自分を悔やんだことはなかった。ぼくは一度だってヒロミに、愛してるとか、大事にするとか、ましてや幸せにするとか、言ったことなぞないのだ。

 ねえ、ヒロミ。もう手遅れなのだろうか。やる直せないのだろうか。手が届かない誰かのもとに、ほんとうにおまえは行ってしまうのだろうか。

 こんなとき、未練を引きずるのはいつも男だ。懇願するのも男だ。男はその状況になって初めて、おのれの愚かさに気づくのだ。ぼくは絶望感のまま天井を仰いだ。天井には小さなミラーボールが静かに回転していて、色とりどりの光を天井に映し続けている。それは出口がなくて、何度も同じことを繰り返す、ぼくたちの関係に似ていた。

 あんなにガードが固かったヒロミが、愛してる、大事にする、幸せにするという言葉で、いとも簡単にほかの男のものになってしまうことなんて、ぼくには信じられなかった。ぼくは思い出していた。ヒロミは高校のときだって、いろんなやつに「好きだ」とか「つきあってくれ」とか言われていなかったかい。そのときは誰にもなびかなかったのに、どうして今はすんなり、あいつを受け入れてしまったの。

 ぼくはその単純な疑問をヒロミにぶつけてみた。

 ヒロミは悲しそうな目をして、静かに答えた。

「だってあのときは、ポールがいたじゃないですか」


 その言葉が、あのときの背景と今の背景のすべてだった。

 そうか。あの頃はおまえのそばにはいつも、おれがいたんだっけな。

 ぼくは返す言葉が見つからず、むなしくこぶしを握りしめるしかなかった。

 そしてそのあとに続くヒロミの言葉が、完膚なまでにぼくを打ちのめすのだった。



                           《この物語 続きます》






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