不条理な短編

黒い人

昼下がり ー或る喫茶店にてー

 古めかしい雰囲気を漂わせる喫茶店。薄暗くされた店内に流れる管弦楽の調べは、コーヒーのよい香りと相まってより気分を落ち着つかせ、心地よい空間を作り出していた。店内には僕たちの他に客の姿はなく、カウンターでマグカップを拭いている白髪の男性がいるだけだ。

 

「それで、今日の言い分は何?」

 向かいの席に座るスーツ姿の女性が、白紙の原稿用紙をテーブルに叩きつけ、苛立ちを隠すこともなく声に出して問うてくる。

「四分三十三秒」

 僕はそう呟きながらアイスコーヒーのグラスをテーブルに置いた。からん、と氷が湿った音を響かせた。

「はぁ? 何それ?」

 彼女は、僕をグラスの中の氷みたいに冷えきった視線で睨み付ける。僕の編集担当である彼女は、なかなか原稿を仕上げてこない僕に対して、たびたびこういう「打ち合わせ」と称した尋問会を実施する。今日もその一環だ。

「アメリカのジョン・ケージって人が作曲した音楽ですよ」

 僕がそう言うと、ふーん、と彼女はさして興味もなさそうにのどを鳴らした。

「どんな曲なの?」

 待ってました、とばかりに、僕は用意しておいた知識を披露する。

「四分半の間、何も鳴らない曲なんです」

 言葉の意味をとらえあぐねているのか、ずっとテーブルを叩いていた彼女の人差し指の動きが止まった。

「ずっと無音なんです。演奏者は舞台上でなにも演奏しない。そのときの観客のざわめきとか、ふとした動きがたてる雑音とか、そういったものを含めてひとつの曲になるんです」

 僕は身を乗り出して彼女に尋ねる。「斬新な音楽でしょ?」

「それは面白い作品ね。なかなかできる発想ではないわ」

 彼女は驚いたようだ。これはいい反応だ。

「それで、その作品があなたのこの白紙の原稿とどう関係があるのかしら」

 そこにうまく付け込もうかと思った矢先。至極尤もな質問が返ってきた。しかし、ここまで来たのだから僕としても後には引けず、勢いで続けざるを得なかった。

「……無音の音楽があるなら、なにも書かれていない小説があってもいいと思うんですよ。白紙のページを見た読者が抱く感情、思考、それらすべてをひっくるめて、ひとつの作品になるんです。タイトルは……そうだなあ、『四分三十三秒』にあやかって、『四枚三十三行』とかどうでしょう。普通に小説書くより短いですし、インク代も浮いて経費削減にもなりますよ」

 そこまで一気に話しきった僕は、氷が融けてすっかり薄まってしまったコーヒーで唇を濡らし、言った。「斬新な小説でしょ?」

 彼女は満面の笑みの中、すっかり冷え切った視線で僕のことを見つめていた。

 永遠にも思える長い沈黙があった。

 僕はその沈黙の重圧のなか、『四分三十三秒』って曲もこんな雰囲気なのかなあ、と的外れなことを考えていた。

 分かりました――。

 ふと発せられた言葉の方を見ると、彼女はともすれば一目惚れしてしまいそうな綺麗な微笑みを浮かべ、それでいて絶対零度など生易しい程の冷えた目でこちらを見ていた。

「それでは、それでは、今後一切のあなたの印税は4銭33厘とさせて頂きます。原稿代も浮いて経費削減になりますから」

 1銭は10厘だからそれは7銭3厘なのでは、という突っ込みをしようかとも思ったが、そんなことをしようものならこの先に見えるは地獄のみだ。

 結局何も言うことが出来ず黙っていると、唐突に彼女が立ち上がった。

「馬鹿じゃないのっ。くだらない言い訳考えてくる暇があったら、一ページでも企画書書いてきなさい!」

 彼女はそう一喝すると、僕が持ってきていた真っ白な原稿を握りつぶし、僕に思い切り投げつけた。

 締め切りは明日の正午、今度破ったらただじゃおかないわ、と吐き捨て、彼女はハイヒールをかつかつ鳴らしながら喫茶店を出て行った。

 ああ、創作とは難儀なものだなあ——。僕はそう呟きながら、この世の不条理への嘆きを、コーヒーとともに腹へ流し込んだ。

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