@fujikon

 ―――煙臭い。タバコの匂いが充満してあまり環境の良くないボロボロのアパートの一室。



 男がいる。その顔に感情は感じない。感情が無いと言う訳では無いのだが、虚無感を感じる様な顔付きだった。


 そんな顔付きに反して彼の見た目は力強いものだった。オールバック頭で、体には筋肉がかなり付いている。


 だが何より凄いのは……その上半身に描かれていたものだ。


 裸になっている彼には腕、胸、背中とかけて、蛮勇を表す“刺青”が彫られている。桜吹雪が胸を成し、背中には鬼が彼の強さを引き立たせ、腕には炎や龍と言った仏教的紋様が描かれている。


 ベッドの上で、彼が手に持っている物……



 それは、拳銃だった。中国製トカレフ。彼の様な職業―――ヤクザと言う仕事柄、必ずと言っていい程、手に入る銃と言えばこれだろう。質と言う質は正直良くは無い。だが安かった。それにまだ、暴発の可能性が少ない物だったので、それはそれで彼からしても良かったのだろう。



「今日、か」


 カレンダーを見る。1990年、3月の21日。


 バブル状態。経済的な面で日本は戦後最高とも言える程に豊かになった。ヤクザもその恩恵を得ている稼業だ。彼の所属する“神郷会”も、金融と不動産の土地転がしで莫大な利益を上げていた。



 だが、彼―――“幸田  賢”は金を稼げるタイプでは無かった。


「……」


 腕っ節に長けた武闘派寄りな男だった。仁義や任侠を重んじ、侠客としての誇りを持っていた。だがその在り方はバブルのこの時代には合ってはいなかった。


 ヤクザに稼業入りして、5年も経つのに彼はまだ、何の昇進もしていなかった。人脈も無く、そこにあったのは、あっても意味の無い力だけだった。


 そして彼はトカレフを“手渡された”。つまり鉄砲玉。敵対する組織の幹部を、たった1人で殺しに行く。表向きはそうだが、実際はただの死刑宣告でしかない。


「……こことも、お別れか」


 生活感のある汚れに塗れた、この一室。彼からすれば思い出に溢れた場所だ。死を前にして、どこかホームシックに近い感情を抱かせる。


 悲しい事に、救いは無いのだと改めて思い知らされていた。


 棚に飾ってある写真を見る。かつて、こっ酷くフラれた彼女と撮ったツーショットの写真。彼の笑顔はどこかぎこちない。初々しさも感じさせる。


 組で撮った集合写真まである。尊敬していた兄貴分や親分、同期の奴らも笑顔でまだ入りたての頃に思いを馳せる。もう、帰って来ない時間。


「……フッ」


 立ち上がって、掛けてあったスーツの一式を手に取り、着替えてゆく。ベルトを締め、ネクタイも丹念に締める。そして最後にシングルの上着を着て、ボタンを止める。


 窓を見ると、外は雨が降っている。なので、ロングコートも彼は手に取り、羽織った。


 そして、トカレフをコートの胸ポケットにしまいこむ。


(どうせ、帰っては来れないからな)


 アパートの鍵を乱雑に放り投げて、そのまま放置した。


 扉の前で白の革ローファーを履いて、外に出た。


「……酷でぇ天気だな」


 雨は強い。それもかなり強かった。警報が出るとかそういうレベルでは無いがそれでも充分に降っている。本当なら傘が必要なのだろうが彼は持って行かなかった。3階から降りてビショビショになりながらも新宿の街へと繰り出した。




 ・・・




 新宿歌舞伎町。雨がどれだけ降ろうとこの街を歩く人の数は減らない。


 時は昼過ぎ、夜程では無いにせよ人集りは凄いものだ。昼過ぎでも風俗店に入り込む者もいればろくでもない雰囲気を醸し出した若者もいる。多種多様な人々の姿を見て彼は何とも言えない気分になっていた。


(これから殺しに行くってのに……)


 雨中を歩き続ける。これから起こる事を何度も想像している。だが、死の恐怖と言うのはこんな時になっても何故か湧いてこないのだと彼は感じた。


 それでも鼓動は早く聞こえていた。ドクンドクンと。


 目標の店までは少し遠いからこそ、彼には一抹の不安があった。それは、死から逃げたくなってしまうであろう感情の膨張だ。


 自殺願望に近かったのかもしれない。何しても稼げなくて上手くいかなくて、それが募りに募って何時の間にか死への到達を心が望んでいたのかもしれない。


 彼はそんな風に自分の事を捉えている。


(今となっては、どうなろうが関係無いのにな)


 そう思いながら、彼は1人笑った。死に直面していると言うのに彼はどこか穏やかだった。


「ん……」


 1人、必死に走る男がいた。雨の中の街を傘もささずに。その顔は必死でカバンを片手に雨を腕で遮りながら走っていた。


(サラリーマン、か)


 その姿を見て、彼は何処と無く悲壮感を感じていた。


(アイツらも必死こいて働いて、そんでもって会社の為に犠牲になる……)


 自分と被って見えたのだろう。彼は少しだけあのサラリーマンを見て悲しくなった。直接死ぬ訳では無いが、彼らもまた会社や上司の為にこき使われる身なのだ。どれだけいい高校や大学を出たって誰かの下に着く。


 それは、どんな世界でも同じ事なのだと彼は察する。


 死にたくなるだろう。逃げたくなるだろう。しかしそれは現実であり、逃げられないのだと。


 胸に入れているトカレフに、重みを感じる。


 期待でもあり、用済みだと言われているのと変わらない現実。


(逃げようは、無いわな。俺もそれを望んでいるんだ。本望だ)


 言い聞かせている。少し揺らいでしまった心を何とかすべく彼はそう言い聞かせる。本望なのだと。


 そうして1歩地を踏む。歩き出す。死地へと赴くのだ。



 ―――雨はより強まる。歌舞伎町には似つかわしくない雨は、まるで幸田を含め、この街の苦しむ者全ての心情を表しているかの様な雨だった。



「……」


 会社へ向かって走ってゆく者達。雨の中風俗店の呼び込みをしている者達。働き続ける者の姿は、彼の心を曇らせていく。


(アイツらも、俺も、鉄砲玉として使い捨てられる……)


 歩みながらも、心は止まりたがっている。行きたくないのだと喚き出していた。



 ―――そんな時だった。



「……んでよ、俺はその娘口説いてやったのよ、あんなの楽勝楽勝」


「すげぇなぁテツ!  あの娘口説いたのか」


「楽勝よ。ヤクザと付き合ってたらしいけどよ。俺がそのヤクザぶっ飛ばした上で口説いたのよ」


「それに、俺は鍛えてんだよ。そこらの奴にゃ負けねえし、しかも明日はアメリカの奴らと会食にまで行く。これを成功者と呼ばずしてなんて言うんだよ?」


「やるなぁ……」


「だろ?」


 調子に乗っている様な雰囲気をした、チャラチャラとした2人組が反対から歩いて来た。派手な柄のスーツで、ネクタイも高級品だ。傘をさしながら偉そうな態度で、見るのも苛立たしくその自慢話もロクなモノでも無い。


 周りを全て見下しているかの様な話に彼は苛立ちを覚えていた。


「……」


 金を持ち、若くスタイルもいいのだろう。だがその見下し方は気に食わないモノだった。


「へへへ……」


 歩いている内に、彼と2人組は目が合った。


 2人組は何だコイツと言わんばかりの目線で彼を見ている。傘もささずにゆっくりと歩いていれば、確かにそんな風に見られるだろう。


「……何だアイツ、傘もささずによお」


「乞食かなんかじゃねえの」


「へ、必死に働いても銭を大して稼げねぇクソサラリーマンだとか役に立たねえホームレスとか、クソザコのヤクザ野郎も……」



「―――皆死ねばいいんだよ。マジで」



「……!」


 その言葉は、彼を止めるに充分な一言だった。


 ヤクザを侮辱した事もそうだが、何よりも許せなかった。必死に生きようともがく者達を侮辱した。


 礎となる者達を、何かを成そうとする者達を馬鹿にしたのだ。



「……お二人さん」


「あ?」


「ん?」


「……あんまし他人の事を馬鹿にしない方がいいですぜ。そんなに馬鹿にしてばかりいたら、アンタらもいつか馬鹿にされますよ」


「……何だテメェコラ」


 先程から自慢をしていた男が傘を放り投げる。


 そうして幸田の肩を持って振り向かせようとする。だが


(ッ!?  何だコイツ……動かねぇ)


 男がどれだけ彼を振り向かせようとしても振り向かなかった。


 そうして何秒かの硬直状態が続いて……彼は振り向いた。


 その目には哀れみと怒りが混じりこみ、見る者は恐れを抱くだろうし、同時に悲しみも抱くようなそんな目をしていた。2人組は彼のそんな目を見て、恐れを抱いているようだ。


「……」


「え……いや、その、だから」


「う……」


「1つ言わせてもらいますよ」



「―――アンタらが思う程、俺も必死に働いている人らも、役に立たねえ訳ではねえぞ」



「……礎になる人々の事を、馬鹿にするんじゃねえよ」


 静かな、そして怒りの混ざった静かな声だった。


「……す、すいません」


「……お、オイ、も、もう行こうぜ」


 1人は傘を取りに行ってから、そしてもう1人もそれに着いていくように走って逃げて行った。


 彼は哀れにも感じた。やがてあの2人も歳を取る。子供も生まれ、そして生きていくのだ。


 その後は勿論分からない。彼等は身なりからして金を持っている事には違いないが、栄枯盛衰。いずれは落ちぶれて使われる側の人間に落ちぶれてしまうのかもしれないのだろうし。人生とは分からないものだ。


 そう思いながら、彼はまた1歩と踏み出した。




 ・・・




「……」


 もうすぐだった。目標の男は敵対組織“享羅会”の幹部。4人のガードで四方を固めながら風俗店に出入りしているのだと言う。用意周到で慎重な男だと言う。


 雨は強い。視界も酷く、彼からしたら最悪のシチュエーションだ。


 それでも、もう建物は見えていた。世界は残酷なもので、最早死は直前にあった。


「やっと、か」


(長かった)


 風俗店の目の前で立ち止まる。そして、胸のポケットのトカレフに手を触れさした。やがて来るターゲットの為に。


 これまでの記憶や景色、そしてさっきから見てきたもの全てが、走馬灯の様に一瞬の速度で思い出す。


 泣き崩れる母親、暴れ続けた青春、初めての女、ヤクザとなった日、それからの苦痛の日々。


 そして……必死に生きる者達の姿。


 歳は29。長いようで短な時間だった事を彼は改めて悟った。泡の様にただひたすらに漂う様な人生だったが、最後の最後でいい教訓を得れたのだと、彼はそう捉えた。


 それで良かったのだ。


「……フフフ」


 最後の、笑顔だ。



 ―――そして、店から男達は出てくる。4人のガードで四方を守り、高級な白いスーツを着こなし、傘で雨を凌ぐその姿は正に組の幹部と言える様だった。



(……さぁ、俺もまた、礎になるんだ)


 組の為に、そして自分の為にトカレフを手に取って男に構えようとする。


 時間がゆっくり動いている風に見えてくる。全ての動きがスローモーションで声も何も遅く聞こえてくる。


 そして、構えた。



(ちったぁ、役に立てたかな―――)



 最後の最後に、不安げになった。



 ―――それでも、ほんの少しは役立てたと、自分の中で言い聞かせた。



 ―――それだけで、彼は報われたのだと感じられた。

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