裏表山猫は望まない
カピバラ
裏表山猫は望まない
【1】
案外、呆気ないものね。人一人の人生のさいごなんて、結局、こんなものなのね。
煙で意識が朦朧とし、身体の自由はきかない。火の手は目前まで迫っている。猫の丸焼きになるのは時間の問題ね。この状況でよくもまぁ落ち着いていられるなと、わたし自身、——
意識が途絶え、
意識が覚醒した。
覚醒。まだ生きているみたいね。けれども、いったいどうして生きているのか、目覚めたばかりのわたしにわかるわけもなく、ただ、わたしの顔を覗き込み、涙を流す男を見つめていた。
「良かった、目を覚ましました……」
この人がわたしを助けてくれたのね。
「はなしてください」
わたしの言葉に目を丸くした彼は、わたしの身体を強く抱きしめた。苦しい、そうだった、わたしの望みは叶わないのだから、
「もっと、強く抱いてください」
正解はこの言葉。ほら、はなしてくれたわ。
でも、不覚にもわたしは、彼の心底安心した表情に好意を持ってしまったわ。
山小屋は半分焼けて壁がなくなってしまったけれど、彼が木材を買ってきてなおしてくれた。あまり器用ではないのか、少し不格好な山小屋になってしまったけれど、それでも寒い冬に壁がないよりはマシね。
「感謝はしないわ」
「構いませんよ、私が勝手にしたことですから」
彼はそう言って笑い、また来るよ、とわたしに背を向けた。わたしは言った。
「来なくていいわよ」と。
【2】
翌日、彼が来た。来なくていいと言ったのに。
彼はお弁当を買ってきていたわ。二つ。そのうちの一つを差し出され、わたしは「いらないわ」と悪態をつきながら、美味しくいただいたわ。
そんな日々が続く。
わたしが望んだものは、例外なく失われる。
だからわたしは、彼が欲しいと望まない。望まなければ、彼はこうしてここに来てくれる、かも知れない。だから、本音は言わないわ。
彼はそんなわたしに優しくしてくれる。この人はいったい、何者なのだろう。気になり問いただしたところ、彼曰く、名も無き作家もどき、らしい。
火事の日も、取材のために山へ登っていたとか。
わたしは彼に、大嫌い、や、死ねばいいのに、など、相当に酷い言葉を投げつけるわ。その度にわたしの頭を撫でて頬を染めるのだから、きっと彼はドMに違いないわね。罵倒されてよろこんじゃう系の残念男子ね。せっかく顔はいいのに、これが俗に言う、残念イケメンかしら。
【3】
数ヶ月が経過した。
冬も明け、春らしい陽気が心地よい季節、そんな今日も彼は私の隣にいるわ。
彼は言ったわ。何故、本音を言ってくれないんだい? と。ふん、勘違いも甚だしいわね。別にアンタのことなんて、好きじゃないんだからね?
失礼、今のは忘れて。
しかしこの人には敵わない。この人になら、わたしにかけられた呪いの話をしてもいいと思ったわ。
だからわたしは語った。
わたしは呪われていて、望んだものは全て失ってきたのだと。小さなことから、大きなことまで。
わたしは家族との幸せを望んでしまった。
そのせいで、家族を事故で亡くしてしまったのよ。それからはここで一人で住むことにしたわ。親戚にも引き取ってもらえないようなわたしは、仕送りだけを頼りに細々と生きてきた。
何も望まなくていいように、一人で。
それなのに、いつの間にかこの人が割り込んできたわ。好きだなんて、一言も言わないのに、わたしが彼を好きだと確信していて、少し悔しい。
「はやく帰って」
「そうだ、今日は煮物を作ってあげよう」
「ふん、いらない」
夕飯の筑前煮はとても美味しかったわ。
それをわたしが伝えることはないけれど。
【4】
更に月日は過ぎ、梅雨。
彼は台所で言ったわ。
「光依は呪われてなんていないさ。私が保証する」
「そ、そんなことないわ。わたしは呪われた女。わたしが望めば、それは失われてしまう。ずっとそうだったの。だから、わたしは貴方を望まない。貴方の愛なんていらない。貴方なんて、大嫌いよ」
言葉を紡ぐたび、小さな胸が痛むの。
貴方がそんなことを言うから、ほら、視界が揺れて、何も見えないじゃない。
「大嫌いなんだから」
彼はふと立ち上がり、わたしに振り返る。そして、台所からある物を取り出し、自らの首元に突きつける。包丁、を。
「何をしているの?」
「光依の言う通り、私はこれから死にます。それが光依の望みなのでしょう?」
違う、違う違う、そうじゃない。言ったじゃない、
「だからわたしは呪われてて……」
「呪われてなんていない! ここで私が自害すれば、その呪いが嘘だと証明出来るじゃないか」
切先が震えている。でも、着実に首元へ向かう。止めないといけない。止めるためには、
「し、死んじゃえばいい! 貴方なんて死んでしまえばいいんだわ! 嫌い嫌い、今すぐわたしの前から居なくなって!」
彼が死ぬことを望まなければいけない。
なのに、何故、止まらないの? 彼の表情を見ればわかる。彼は冗談でこんなことをしているわけではない。それは重々承知の上よ。
だけれど、わたしは望めない。貴方に生きて欲しいなんて望めば、また
「な、亡くしたくないっ!」
あ……駄目だ、終わる、
鈍い金属音と共に、包丁が床に跳ねた。
「ほら、君の望み……叶ったじゃないか……」
「……うっ……ばかぁっ! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね! 貴方なんて消えてしまえ! うぅっ、もうっ、大好き! 好き! 愛してる! もっと抱きしめて、強く、強く抱きしめて、わたしを助け出してっ……!」
「私も、光依を愛しているよ」
【5】
幸せな日々は、あっという間に過ぎ、季節は再び冬になったわ。わたしが猫の丸焼きになりかけた日から、あの人がわたしを救ってくれた日から、もう、一年が経つのね。長いような、短いような、一年だったわ。
わたしが望んだものは、例外なく失われる。わたしの望みと反対のことが起きる。
わたしの呪いは、健在だった。
彼が車にはねられ搬送されたの。暴走した乗用車から、小さな子供を庇ってのことだったわ。
本当、あの人らしいわ。
わたしは慌てて病院へ向かったわ。駆けつけたのだけど、植物状態です、と告げられ、わたしは病院の廊下で電池の切れた人形のようにへたり込んだ。
ほら、やっぱり、呪いはあるのよ。
わたしが望めば、亡くなるの。お父さんもお母さんも、お兄さんも、わたしが皆んなの幸せを望んだから居なくなってしまったのよ。
そして今、最愛の人も。
もう、涙も流れないわ。
これから、また独りになるのね。
意識を失った彼の横顔をじっと見つめる。
そういえば、わたし、この人の名前も知らないわ。こんなことなら、名前くらい聞いていれば良かった。いえ、それを知ったところで、運命は変えられないのだから、今更、けれど、
失いたく、ない。
わたしは、彼の胸ぐらを掴み叫んだ。
「貴方なんて大嫌い! 死んじゃえ! 死んじゃえ、死んじゃえばいい!」
それからわたしは、毎日のように病院へ通い、彼に声をかけた。大嫌い、死んでしまえ、と。
そして一年が経過した時、それは起きた。
「死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえぇっ、貴方なんてっ……うっ、うぅっ」
「……やぁ、光依。どうしたんだい? 目を真っ赤にして、こわい夢でも見たのかい?」
「はぅ?」
「ははは、なんて顔してるんだ?」
「も、もう……大嫌い大嫌い大嫌い! 貴方なんてこれっぽっちも好きじゃない! 馬鹿ぁ! 近づかないでよ!」
「光依は……呪われてなんていないさ。だって、その力で私は今、光依を抱きしめられるのだから。聞こえていたよ、光依の声」
皮肉なものね。でも、わたしは初めて、この呪いに感謝したわ。この奇跡が、呪いによるものなのかは、もうどうでもいい。
「貴方が、生きていてくれるだけで」
もう、何もいらないのだから。
だからわたしは——
裏表山猫は望まない
【完】
裏表山猫は望まない カピバラ @kappivara
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