でもしか先生とそのゆくえ
遙夏しま
でもしか先生とそのゆくえ
「今の先生はともかく、昔、先生っていうのは、けっこう簡単になれる職業だったんだよね。だから志のとても高い先生と、そうでない先生が大きく分かれちゃってたんだよ」
静かなホームルームだった。
小学校四年生のときの担任の男の先生は中背で頭髪が薄く眼鏡をかけていた。いつも青いジャージを着ていて、足が速く50m走を6秒前半で走った。そして小学四年生の10歳の子どもでも児童ではなく小さな大人としてあつかい対等に接してくる先生だった。子どもみたいに幼稚で配慮の足りないことを児童がすると、先生はきっちりと、大人として怒りをぶつけた。あの当時、私語が過ぎると突然大声をあげて怒鳴り、黒板を殴りつける先生を全員が恐れていた――ある友人が怒られたときは、先生の蹴りが教室の扉にあたって勢いよく戸が外れたりもした――。
先生が話すときは、みんな、息を殺すようにずっと黙っていた。
先生は教卓に座りながら静かに話をつづける。
「今の時代、先生になるには、先生の免許を絶対とらなきゃいけないのね。だからみんな免許のためにも必死に勉強する。そうじゃなきゃ先生にはなれないからね。でもその昔ってちがったんだよ。そもそも先生になり手がいなかった。人がいないの。それなのに免許とかいって難しくしたらよけいに先生のなり手がいなくなっちゃうでしょ?」
先生は眼鏡をはずして、ぎゅっと目をつむると人差し指と親指で目頭をもむ。
「だからね。言い方はひどいんだけどさ、昔は勉強しなくても先生になれたんだよ」
先生のホームルームは長かった。15分のところを30分から40分。一時間を超えることもしょっちゅうだった。先生はホームルームでいつもいろいろな話をした。人生訓のようなものだったり、知り合い結婚式の話だったり、飼っているとかげやブルーギルの話だったり、帽子を買いにいったときの店員さんの態度の話だったり、男と女の心のちがいの話だったり、自分が予想する未来の地球人の話だったりした。
先生が選ぶ話題はとりとめなく、児童が興味をひくような内容でもなく、そのときの子どもたちがすぐに意味や教訓を得られる話でもなかった。ありていな言いかたをすれば児童向けの話ではなかった。静かにしてないと怒鳴られるから席に座っていただけで、まともに聞いている児童は少なかったように思う。
「たとえば政治家になって偉くなりたい人がいたとする」
先生は眼鏡を自分のジャージの裾で拭いて再びかけなおす。
「でも自分じゃとても政治家なんて、そんな立派なものにはなれないと途中で気づく。そうするとどうするか。『やることもないし先生でもやるか』ってなるわけ。あぁ……そんな大層な仕事じゃなくてもいいな。ただ仕事の先がなかった人でもいい。そういう人も先生になるんだよね。それで『先生しかないから、先生やってるんだよ』って言うの」
先生は話をしながら教室の天井を見たり、窓の向こうに見える田んぼや山を眺めたりしていた。たまに話のつづきを考えるためか、足を組み替えたり、腕組みをしたり、床をみつめたりして、じっと黙り込むこともあった。
「先生でも、先生しか、っていうふうに考えて先生になる人がたくさんいたんだよね。昔は。そんな人が教えるんだから、生徒だって勉強になんないよなぁー」
教室は変わらず静かだった。
カーテンが揺れ、時折、校庭でヒヨドリが鳴いた。
たまに隣の教室から笑い声が聞こえた。
「先生が子供のときはそういう先生がたくさんいたよ。でもしか先生。もちろん、とても立派な考えのもとに先生になっている人もいたよ。世のため、人のため、教育のため、子供のため。でもそういうんじゃなくてさ、でもしか先生の方が多かったな。まだまだ戦後っていわれる時代でさ。うん、そういう時代だったんだよね。仕方なかったんだね」
トイレに行きたそうな奴がもそもそと動いていた。
怒られると思って手をあげられないのだろう。
単純に、恥ずかしかっただけなのかもしれない。
怒る先生、怖い先生はあまり児童に好かれなかった。大人として対等に接してくれなくてもいいから、子どもとして自分たちを優しくあつかってくれる先生。おしなべてそういう先生に人気が集まった。ものごとを子どものレベルにあわせて、柔らかく噛みくだいてくれる。子どもの未熟な足りない部分を知っていて、その足りなさを配慮して接してくれる。それがある意味で大人からの不平等を受け入れることになると知っていても、子どもはそういう先生を選ぶ。
対等の恐れよりも、不平等の優しさ。
「とくに僕が大学生のときは、大学にはでもしか先生ばっかりだった。授業なんて適当で出席だけとってあとは好きなことだけ喋って。ひどいと授業もそこそこに教室から出てっちゃうの。で、大学の庭とかでさ、タバコ吸ってるんだよ。それで学生もついてって一緒になって吸ってるの」
先生の口の端が、ふふふ、と、少し上がった。
小学四年生になってから、静かなホームルームが毎日、ずっとつづいていた。ものごとが終わりを忘れてしまったような、とても長い時間だった。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、そのうちクラスで不登校だとか、いじめだとか、そういった類の学校問題が起きだした。先生はむやみに学校を休もうとする子に怒り、いじめをする子に怒った。児童たちは朝のホームルームで黙りつづけ、先生は淡々ととりとめない話をつづけた。
時代的なタイミングの悪さもあったと思う。新聞やニュースなんかで、いじめ問題と並列で、体罰やら教育品位やらが、よく話題になっていた。教育のために怒鳴りつけるなんていうのが、ちょうど通じなくなるくらいの時期だった。先生は事件を槍玉にあげたい新聞社だとか、教育委員会へ文句を言いたい保護者だとかにとって恰好の餌食だった。
「でもさ、そういうでもしか先生が授業もやらないで庭で話してる内容のほうが、僕には、とってもよかったんだよ。楽だからよかったんじゃないよ? そういうときに話すことのほうが、あとでずっと覚えてて、突然、役にたったりするんだよ。だからでもしか先生って、先生は嫌いじゃなかったんだよなぁ。今いると、きっと困っちゃうんだろうけどね」
ホームルームの時間はとっくに過ぎていた。一限目の始まるチャイムが鳴った。
先生は、「あ、休み時間がすぎちゃったから……、じゃあ10分遅れて始めましょう。休憩」というと、のっそりと席を立って教室を出ていった。教室が急にがやがやしだした。
先生は不登校が学校問題であると世間に認識された直後、突然なにかの都合によって異動した。小学校四年生の12月くらいに、なにかの集会があって、そのあと五年生になるまでのあと3ヶ月はすごく気さくな優しい別の先生が担任についた。子どもたちに選ばれるタイプの人間だ。
その優しい先生は私とクラスの友人ふたりを呼び出し、「おまえらは〇〇(私の名前)をいじめている」と言い、「おまえたちの心は錆びついてるよ」と真剣な顔でいっていくらか説教らしい文句を言ったあと優しく笑った。友人ふたりはその優しい先生に「もういじめはやめる」と約束し、私は「やられたら我慢せずやりかえす」と約束した。そしてそのあと、三人で「あれはなんのことだ?」と話しながら帰宅した。
先生は小学校を突然、異動したあと、市内の他の学校をいくつか担当していたみたいだけれど、そこでも体罰事件を起こして新聞に載っていたらしい。実家で母が噂しているのを聞いた。今となってはもう何をしているのかわからない。こないだ同窓会で先生の話になったとき。
「あれはやばかったよね」
「あのときは、ほとんど精神限界だった」
「正直、いなくなって救われた」
など、先生のことは、ちょっとした過去の事件みたいになっていた。そのとおりだと思った。一方で小学校のときの級友のひとり(私をいじめていたらしい友人だ)は「みんなあいつのこと嫌ってたけど、俺はそんなに嫌いじゃなかったな、話は面白かった」と言っていた。
不思議なことに20年以上たった今でも、時々、本当に脈絡もなく先生の話のいくつかを思い出す。なんの意味があるかはわからない。それでも、どうにも意味がありげで忘れられない。あの静かで長くて、終わりの見えないホームルームが、少しだけ懐かしいときがある。
今の自分たちがあのときの教室に戻って、先生の話を聞いていたら、ホームルームから一限目にはみだす話は、もう少し違ったものになっただろうか。すこしだけ興味がある。
でもしか先生とそのゆくえ 遙夏しま @mhige
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます