元弘の乱(その一)

 上洛の前に、「今度は男のお子が欲しゅうござります」と床の中で迫ったのに、結局小次郎は子が生まれてからのいつも通り、指で相子を翻弄するだけ翻弄しただけで、子供を作る振舞には及ばず、惟直に付いて行ってしまった。

 別に相子から迫らずとも、口は吸ってくるし色々と触ってもくるからその気が無いわけではないはずだが、つわりの酷さに加えてあの難産では、本当に子供は懲り懲り、と思っているのかも知れない。

 本当は子供とかではなく一方的に快楽を与えられるのでもなく、肌を教えられて間もない頃のように共に与え合って、隙間なく息も香りも熱も分かち合いたいと、そういうことだったのだが。

「大事にしていただいているのは解ります。なれど、いつこういうことになるか判らぬから、可能な限り刻みつけたいと思うわたくしは、欲深くござりましょうか」

 阿蘇を取り囲む山々を越えてはるか先、豊後国東くにさきの空を見ては、相子は溜息をつく。夫はそこから船に乗ったはずだ。


 ◇◆◇


 元徳三一三三一年九月。

 瀬戸内の風待ちの湊、備後とも

 京へ上るも、京から下るも、潮目が変わるこの辺りで、一旦風を待つ必要がある。

 湊近くの福禅寺か、後山うしろやまの医王寺で待つか。

「急ぐ振りでもしておこう。けちを付けられたらかなわぬ」

 阿蘇北条の若い当主が医王寺に宿する、というのを聞きつけた惟直の一声で、大宮司家は福禅寺に宿を求めることにした。山の上から見張りでもするつもりか、と蝙蝠の陰で悪態をつく。

 ついでに、横目で少し後ろの小次郎を見た。この世の終わりみたいな面構えである。道中、ずっとこんな辛気臭い顔だった。

 小次郎の活きの良さというのは、一族の士気を上げるのに都合が良いので、いつも活きが良くいてもらわないとならない。こんな半死人みたいな顔でいてもらったら士気に関わるのだが、ここに至るまで込み入った話ができる場所に宿することもなかったので、問い質すのも延び延びになっていた。

 で、ようやくここに到り、借りた宿坊に小次郎を呼びつけた、のだが。

「……某は、あい……佐保殿を心より好いておるのです」

「見たらわかる」

 肩を落としながら、それと今の自身の惨状がどう結びつくのか解らない所から、小次郎は話し出した。

「娘が産まれた時、某は、佐保殿を失うかと思い申しました。そのようなことになるぐらいなら、もう……」

「なるほど?」

 惟直も話だけは漏れ聞いた。子供はもう要らないとか何とか言ったとか言わないとか。さしもの惟直も目を剥いた。

 だが、その話と小次郎の病人顔との結びつきは、もはや話が飛び過ぎて、惟直の理解の範疇を超える。

 なんとなく、脇息にもたれ掛かりたくなって、惟直は肘をついた。

「……その割に、姫ができる前は、随分と励んでいたそうだが?」

 その手の話は皆興味があるのだ。

 毎日のように家の裏に敷妙が翩翻へんぽんと翻り、寝床畳が家の陰に立てかけられていたとか。

 あるいは、輿入れの三日後に「色直し」をして新妻が舅姑に挨拶をするあれだ。話の真偽は不明だが、これが相子は立って出向けず、逆に姑はともかく足の悪い舅まで夫婦の部屋に出向いて、相子に平謝りしたとか何とか。

 はたまた、相子のうなじにいくつもの虫刺されの痕が、冬でもお構い無しに赤々と付いていたとか。まあこれはつい最近も付いていたから、今目の前にいる大きな虫が相変わらず食っていたのだろうが。

 待てよ、と惟直は首を傾げる。

 子はもう要らぬ、と矛盾するではないか。

 小次郎は病人のような顔をしながら、気色だけは火が出そうな、というより火が点いたような色をしている。器用な男である。

「そなた、閨事はまた始めたのだろう?」

 小次郎はぼそぼそと、下を向いたまま何やら呟いた。

「…………ませぬ」

 小次郎が蚊の鳴くような声とは、明日は大嵐になるのではないだろうか。船を沈めてもらっては困る。

「そなたが湯浦に出ておった日、妹の首に虫刺さ」

「それはこの虫の仕業ですが!」

 顔を跳ね上げて、遮って言うほどのことでもないように、惟直には思える。

「子はもう良いと言って、矛盾しておるではないか」

「……だからその、最後までは致しておりませぬ」


 だからつまり、そういうことであった。


 惟直は心の底から溜息を吐いた。

「……小次郎、いや惟澄。人は果敢無いよなぁ」

 唐突な話に、小次郎は首を傾げながら、とりあえず返事はした。

「……はい」

「我らが立つ前だが、さんで子が病で亡くなったそうだ。そなたの子と同じような赤ん坊が」

 小次郎は痛ましげな表情を浮かべた。

「病だけでもないな。元気に野良仕事に出たのに、夕方獣に襲われた姿で見つかる。建軍に遣いにやった者が、北向山で崖から落ちて死んだのは一度や二度ではない」

 惟直は続けた。小次郎は神妙な顔で聞いている。

「――我らとて、これがまことにいくさになれば……判らぬな?」

 小次郎の目が見開かれた。

「二人でよくよく話し合ってのことなら構わんが、……見る限りそうとも思えぬ」

 小次郎の目が泳ぐ。

「……それは……」

「この道行からそなたがもし万一阿蘇に戻らねば、妹はどう思うかな」

 こういう時なんとなく、蝙蝠を顎にトントンと当ててしまう。これはもう癖だ。

「人はすぐ忘れるぞ。果敢無さ過ぎて、いちいち覚えておっては生きていけぬ」

 まだ若いから、再嫁させるか、との言葉に、一段と小次郎の目が開かれた。心なしか、手が震えている。

「その時はそなたのような、よう社と一族に尽くし、よう妹を思うてくれる者に任せよう。……そうすると」

 惟直は首を傾げつつ、横目でちらりと小次郎を窺う。面白過ぎる。

「……はて。そなたのことも、上書きされてしまうかもなぁ」

「それだけは!」

 小次郎はがばりと身を起こす。

「それだけは、厭にござります!」

「妻とも話がろくに出来ぬそなたが、何を言う」

 内心、その妻もろくに迎えていない自分がよく言う、とは惟直も思っているが、立場上、思っても小次郎は言い返せないだろう。ぐぬぬ、と歯を食いしばっているばかりだ。

 出立の前、そう頻繫に会うわけでもなかったが、子を産んだ直後を頂点として、幸せそうだった相子の顔が見るたびに暗く沈んでいくし、小次郎の顔まで死人のようになってきたから、一体何が起こったのかと蓋を開けてみれば、これである。

 しかし、それにしても、いや。

 こうと決めたら突っ走るのは微笑ましくもあるが、どうしたらそんなに人を思って突っ走れるのか。

 かつてそんな熱に浮かされたことのない惟直にはわかりかねる。それとも。

「……俺も、誰ぞ都の姫でももろうて、連れて帰るか」

 本日何度目かの溜息とともに、蝙蝠の裏で漏らした言葉は、誰にも聞こえなかった。


 ◇◆◇


 持明院統の親王のせんを阻止すべく、三種の神器を持ち出し、近隣の悪党どもを引き込み笠置山に立て籠もった今上帝であったが、惟直たちを含め、幕府の大軍で囲まれるとひとたまりも無かった。

 自身の皇子の一人である尊雲そんうん法親王ほっしんのう座主ざすに戴く比叡山と手を結んでいたため、影武者を立て陽動で決起していた比叡山に六波羅が注力していればこそ、ひと月保った笠置山である。陽動に気づいた幕府軍が、笠置山に主力を差し向け、北条の一族でも戦上手と名高い足利の若殿が、山に火をかけることを提言してからはあっという間であった。

 この月の二十六日に始まった合戦はものの二日で笠置山の陥落に終わり、ここよりさらに逃亡した帝も晦日つごもりに捕縛。三種の神器は持明院統の手に渡り、関東幕府の手によって量仁親王が帝に据えられた。


 が、それで帰れると思ったら大間違いである。

「河内の楠なにがしとやらが、まだ金剛山で暴れ足りぬそうだ」

 御教書を手に、惟直は渋い顔をしている。

 早く帰りたい一心か、山狩りの捕縛にも参加した小次郎の顔がげんなりしていた。

「まだ帰れぬのですか」

 妻の許に。と顔に書いてある。

「里心ですか」

 声を掛けてくるのは健軍大宮司、上島の惟頼だ。父と祖母との事情で手持ちの所領が少ない彼は、惟直とは別の理由でまだ妻を迎えられていない。したがって、こちらはこちらで軍忠を立て、所領を増やすことに躍起になっている。

 惟頼の顔には「羨ましい」と書いてある。同年代で家臣筋の家ながら、なにしろ妻は惣領家の娘、しかも好き好かれて妻にしたと聞き及べば、なんとなく水を開けられたように思っているのだろう。

「良いですな、小次郎殿は!私など、館に帰っても小さな筵で独寝ですよ!」

「待て、惟頼。私も独寝だ」

 小次郎の顔を見て不満が漏れ出した惟頼に、惟直は異議を唱えた。流れ矢が痛くもないはずのこちらの胸に刺さる。

 げふん、とひとつ咳ばらいをして、言わねばならないもうひとつの理由を口にする。

「比叡山座主・尊雲法親王が、その金剛山に逃れたそうだ」

 ゆえに、関東は法親王も楠某も「討ち取れ」と、笠置山の全勢力に向けて言っているのだ。

「……このようなことを、ここで口にするのは憚られますが」

 惟頼はそっと辺りを見回し、自分たちしか居ないことを確認した。

「……我々阿蘇もまた帝に繋がる一族、恐れながら」

 その先は、惟直も、また小次郎にもどうやら想像がついたらしい。

「それ以上、口にしてはなりませぬぞ」

 小次郎が首を振った。ここでは危険過ぎる。

 坂東の馬の骨の下に立たされる屈辱を今後も味わうのか。

 それとも。

「…………」

 惟直は目をすがめた。

 今や嵐の海に浮かぶ船なのだろう。関東は。

 鎌倉殿は執権の人形であるし、その執権も今や評定衆の人形に過ぎない。

 この御教書は、一体誰の意思を表したものなのか。

 血生臭い一族内の粛清を経て、今本当に関東を動かす者は誰なのか、距離としては最も近い所にいる関東の御家人衆からですら、あからさまな不満の声が上がっているのを、聞き逃す惟直ではない。

 うまく、もっと丈夫な船に乗り換える必要が迫っていることを、惟直は肌身に感じていた。

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秀つ鷹の王 伴野鼎 @nora_kuragen

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