跫
娘は今のところ、順調に育っている。
懐妊中、物を食えぬ日もそこそこあったゆえにだろう、相子は乳の出があまり良くなく、相子より先立つこと二月ばかり前に子を産んだ郎党の妻に、乳母に来てもらっていた。
この妻が言うには、腹が減っている子に、あまり出なくとも、乳を吸わせろとのことだ。
「吸わせているうちに、それが乳を出せ、と体に教えることになるようでございますよ。ですので、姫のお腹が空いても、佐保殿にしばらく頑張っていただきましょう。わたくしが控えておりますゆえ、頃合いを見てわたくしに交代いたしまして」
とはいえ、乳の出が悪い、というのもまた、相子には溜息の出るような事実だった。
なにしろ、元々あまり容姿に自信がない。
髪は
体つきもそもそも痩せ気味で、そう男に受けそうな気はしなかった。子供が産めるのかどうかさえ、怪しいと思っていた。
「……あまり、このように言うのはどうかと思っている。しかし」
よく、上の兄が言っていた。「そなたは賢い」と。
学問は好きだ。だから、兄の言うこともなんとなく、その真意は解っていた。
だが、それは叶わない。かと言って、姉のように嫁いで喜ばれるかといえば、子ができそうにない女はいくら大宮司の娘でも、返品されるように思う。さすがにそんな扱いを受けることになれば屈辱だった。
だから、相子としては、出家も視野に入れていたのだった。髪は短くなって余計にうねりを増すだろうが、尼頭巾をかぶるのだから気にはすまい。
それが。
望んで相子を妻にしたいと言い出す男が現れたのだ。
犬追物で射たれた犬まで引き取って飼うような変わり者で、どちらかと言えば腕っ節自慢。おまけに、顔の真ん中に、大きな傷が一文字に走っている。
――最初は、その犬追物で射られて暴れた犬と、それに咬み付かれていきり立った馬から守ってもらったのだった。どうも相手は相子を知っているようであったが。
「姫も礼状を書け。身を挺して救ってもらったのだ。この兄も、小次郎には改めて礼をせねばならん」
犬追物見物に行った帰り、輿で兄は「なんだあの身のこなしは……」と首を傾げて感心しながら、相子にそう促した。
小次郎がいなければ犬に咬まれていたのは確実で、礼状は書くつもりであったので、用意してもらった傷薬を取り急ぎ送り、良い紙を探しているうちに、逆にかれの方から、桃の枝と共に詫び状が届いたのである。
火急かつ庇うために致し方なかったこととはいえ、大宮司息女のやんごとなき身に触れたことへの詫びであった。
意外だった。
そういう振る舞いができるようには思わなかったのだ。
荒事を誇るような男は万事が荒っぽいと聞いていた。
確かに字はお世辞にも上手くはない。どころか、下の兄のような金釘流で、判読に四苦八苦していたところを、上の兄が取り上げて読み上げてくれた。途中からは笑いを噛み殺しながら。
相子の記憶が刺激された。
首を振りながら黒馬が真っ直ぐ迫ってくる恐ろしさ。
心の臓が恐ろしいほどの勢いで飛び跳ねている。思わず目を瞑ってしまったが、余計に恐怖を掻き立てただけだった。
暗闇を裂いたのは、「黒曜、落ち着け!」という、若く張りのある男の声。動物や人の気配。
それらの起こした風が相子を打ったものの、一向に圧し潰してはこなかった。
目を開けると、眼前で勝色の狩衣に手綱を取られ、首を抱かれて宥められおとなしくなる馬の姿、傍にはもう一頭、河原毛の馬が溜息をついてのんびりと立ち止まっていた。
ああ、検見の男だ、兄に頼まれてその人の顔を検分に来ていた相子がまず思ったのは、それだけだったように思う。
それよりも心臓が落ち着かない。口からまろび出そうだった。
――河原毛が、耳を絞った。黒馬が来た方に歯を剥く。
と、相子の視界は勝色一色になった。
温かなものがぐるりと相子の背に回されて勝色の布に押し付けられ、頭の上で息を呑み、堪える音がひとつ、聞こえたのだった。
そして、驚いたことに、相子に怪我が無かったか確かめようとしたその男は、血に染まった左袖に牙を突き立てた犬をぶら下げたままだった。郎党や下人が慌てて、口をこじ開けて引き離したぐらいだ。相子もあれが怖いこれが怖いと騒ぐ方ではないが、さすがに
そんななりで、相子に向けた最初の言葉は、「お怪我は」だったのだから畏れ入る。
そのすぐ後に兄がようやく駆け寄ってくれて、なぜか男の顔は絶望したり輝いたり、忙しく色を変えた。表情の豊かな男だと思った。
それで、この詫び状である。
不思議な男だと思う。
もちろん、すぐに詫び状への返事も兼ねて礼状をしたため、自分で持って行くという兄に預けた。
その後、それほど時を置かずに祖父惟國が亡くなり、のみならず
百日ほどして、見違えるほど随分と字の上達した小次郎から文が来た。
文の内容自体は姫の近況を問い、季節の変わり目を報せるものだったが、添えられた古今集の歌で、相子にはこれが恋文だと解った。
姿を見られたはずなのだ。
一瞬であれ、抱えられたので肉付きの悪さも伝わっているだろう。
なのにどうして、自分に恋文を送ってくるのか、理解が出来なかった。
それでも、まっすぐではあるが控えめに伝えられる好意は、悪い気はしなかったし、むしろ嬉しかった。
そこで気づかない体で、こちらへの気遣いに対する礼をしたため、最後にほんのりと歌の内容を問う返歌を詠んで、使いの者に持たせた。
――使者はひと月ほどで随分と、恵良と二本木を往復することになった。十数通ほども文が来ただろうか。
なんとなく、これが最後の務めだろうと駒取祭の屋立の役を引き受け、九月の後半に潔斎のため下宮に移って以後も、小次郎は送れないのは承知でずっと書き続けていたらしい。
それが判ったのは神事が滞りなく終わり、相子が二本木に戻るとき、正確には二本木に戻ってからだった。
戻る輿を背負う衆に紛れて、大きな鼻傷の男がいた。
目が合った、と思うと、男は相子の袖の下に箱を押し込んだ。
帰って箱を
さすがに百日分は入っていなかったが、その半分近くはあっただろうか。
ただひたすら、相子に変わりはないか、不自由はしていないか、南郷谷はこんな花が咲いたとか、秋の虫が居なくなってとか、あとほんの少し、自分は今日は何をしたとか、そんなことが書いてあった。
すべてに目を通すうち、相子はなんとも言えぬ気持ちになった。文の束を、胸にただ押し当てて、染み通るものを感じようとした。
相子の見目が気に食わないと思ったなら、いくら文箱を持って来ようが、垣間見た時点で持ち帰れば良かったのだ。
だが、小次郎は目が合って、安堵したような込み上げるような、なんとも言えぬ表情で、この文箱を渡してきたのだ。
その紙束への返事の文面を考える時から、相子の気持ちは定まったように思う。
ただ、自分はやっぱり自分の持った容姿が気に食わなかったが、小次郎にそれを聞くのは、信じていても怖かった。
輿入れが行われ、今から新枕の床に就こうかどうかという段階で、今しがた夫となった人に、こんな薄い色でうねった髪の痩せぎすで良いのか、もしかしたら子供も産めないかも知れない、と震え声で問うた。
もっと早く言え、と叱られるかと思ったのだが、小次郎は相子の髪をひと房掬って、
「……赤水の野で、春の光に、この髪が踊って……天女が、いや春の女神がおわした、と思い申したのです」
以来、お名前も知らぬので、手習いで見た南都の歌で知った佐保姫とお呼びしておりました、と照れくさそうに続け、
「この髪に触れたかった……なんとやわらかな、やはり、春の光を髪にしたような」
そして相子の髪を撫でながら、
「姫が、良いのです」
ときっぱり言った。
盃を交わしたのにまだこの人は姫と呼ぶのかと思い、そういえば教えていなかったことに気づいて、もう姫ではなく妻となったので相子と呼んでほしい、と申し出ると、小次郎は泣きそうな顔になって、相子殿、と囁いた。相変わらず敬語は抜けなかった。
それでまあ、子供は産めることがこれで判ったが、こんなに甘やかされて良いのか、と思うぐらい、小次郎がまめなことも判った。
つわりが酷くてあまりに弱っていたからかも知れないが、吐いている相子の面倒を見るときなど、小次郎の方が死にそうな顔をしていた。聞いたところによると、しょっちゅう阿蘇谷の乙姫まで平癒と安産を祈願しに行ってもいたらしい。
あんまり苦しむしお産は難産だったので、もう子供は姫一人で良い、跡継ぎなど何とでもなる、とまで、これは相子の母にも聞こえる所で言ったそうだ。いつ言ったか相子は定かでないが、つまりは周りに控えている侍女もいたはずだ。
大事にされておいでですねえ、と周りから言われるたび、顔から火が出そうだった。
その姫は、小次郎の諱である惟澄の澄を取って呼ぶのもひねりが無いので
七夕を過ぎた頃、乳母が「そろそろ重湯を飲ませてみては」と言ってくれたので、少しずつ与え始めたのだ。とはいえ、本人はまだ乳の方が良さそうで、機嫌が悪い時は顔を背ける。糠も多いから、その匂いがまだ慣れないのかも知れない。
まだ昼を過ぎた時分だった。蝉がかなかなと鳴いている。七夕を過ぎるとみんみん、じーじーと鳴くものが少なくなり、かなかなが出てくる。阿蘇郷の暑い時期はすぐに去ってしまう。時折入ってくる風はすっかり秋だ。
首も座り、最近寝返りも覚えた娘が気になるのか、祇園や二本木に出仕したり、近くで領地の見回りなどしている日は何かと家に寄る小次郎――乳母は「姫がお腹にお入りになる前からお変わりございませんよ」と言うが――だが、今日は少し遠出の阿蘇谷の湯浦を見に行くらしく、夕方に戻ると言っていた。
「そういえば」
乳母が扇を動かす手は休めず、
「
自分でも扇いでいた手が、はたりと止まった。
今上の君は今までの帝と何か違う。相子は小さ過ぎてあまり知らないが、治天の君となって三年で、一度
これは結局今上は無実として放免になったと聞くが、相子の感覚では帝も関東も、あり方として理があるのか疑問に思う。
ただ、何か大きな風が吹こうとしているのは肌で解っていた。おそらく、異国が九州に攻め入った二度の蛮行から繋がっているのだろう。あまり良い風ではなさそうである。
「……あら」
乳母が、おもての方に顔を向けた。
「どなたかいらしたのかしら」
下男のひとりが門の方に走っていく。
「大宮司」
かれが声を掛けたとおり、月毛から下馬して門をくぐってきたのは、相子の兄でもある惟直大宮司、その人であった。
勝手知ったるもので、おもてではなく相子達の居る奥の方に近づいてくる。
「小次郎は居るか」
乳母に気づくと片手を挙げて挨拶し、「花嫁は寝ておるか」と姫を覗き込む。花嫁とはどういうことかと言えば、透子姫が生まれた時に祝いに来て、
「姫か。そうか、では大きくなったら私が妻に貰おう。相手を探すのも面倒だったが、生まれてきたのだからちょうど良い」
と、今ひとつ本気か判らぬ顔で言い放ったのだ。
元々真顔で冗談を言う兄である。相子もさすがに笑えない冗談だと思ったが、小次郎に至っては
「父親より年
と、これまた真顔で返した。こちらは真顔で冗談など言えぬ
しかしその後も思い出したように花嫁などと呼びかけるものだから、惟直もひょっとして本気なのかも知れない、と相子は戦々恐々だ。
「
相子は声を掛けた。先触れも無く、急に大宮司直々訪ねてくるとは、何事だろうか。
「湯浦か」
惟直は渋い顔をした。惟國の件の褒賞として自分が小次郎にやった土地である。やるのはいいが、開墾が必要な土地だ。度々見に行って、百姓を監督してやらねばならない。
「確かに日暮れ頃になりそうだな」
そう溜息をつくと、
「お急ぎでしたら、呼びに
惟直がはっとした。
「いや、それには及ばぬ。そこまで火急というわけではない」
「何か、ござりましたか」
相子は掬うように問うた。惟直が相子を見ると、「
「……参ったな、まったく敵わぬ」
家の縁に腰を掛けると、腰を上げかけた乳母を手振りで座らせた。
「乳母殿にも迷惑を掛けることにもなるやも知れぬからそのまま。――
急に風が強く吹き付け、砂が舞い上がった。
「――ああ、砂が」
乳母が我に返り、布を水で濡らしてまず姫の顔を、そして自分の子の顔を拭いてやる。
「……小次郎も、それからそこな良人も、済まぬが、借りてゆくことになる」
後に元弘の乱と呼ばれる動乱の、その手が遂に九州にも及んだのであった。
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