恵良の小次郎、跡継ぎを得損ねること

 元徳三一三三一年二月。

 二本木の館に、元気な産声が上がった。

 惟時の腰が思わず浮く。

「ご祝着にござりまする。大殿もお祖父じじ殿ですな」

「これは……腹の底から元気なお声じゃ」

「男のお子でしょうなぁ」

「いかにも小次郎殿のお子ですなぁ」

 それぞれ持ち場で宿直とのいしていた家臣達が、惟時の所に駆けつけては祝いの言葉を述べる。

「まあ、待て、そなたら。まだ女達からの報告を聞いてからで良い。ああ、鳴弦を止めるよう……いや、姫が無事か判らぬな……今しばらく鳴らしてもらうか」

 惟時にしても初産の娘は心配で、郎党に命じて厄祓いの鳴弦を続けていてもらったのが、まだ外からびむ、びむ、と聞こえている。郎党の中でもまとめ役の者が、そういえば最初の妻を産褥で亡くしたはずなので、それを思って続ける指示を出してくれているのかも知れない。

「そういえば、お子の父親はどこで何をして居られるのです」

 家臣の一人が部屋を見回した。女達はお産の手伝いで出払っており、ここには惟時一人である。

 惟時は「まったく理解できぬ」という表情で、

「産屋に入っておる。最近の若いのの言うことは解らぬが……産屋の穢れを共にすると、生まれてくる子との縁が深まるとか言うそうだ」

 誰が言い出したものか、近頃そんなことを言って立ち会いたがる男が、少ないながらもいるらしい。

 穢れを避け、祓い、浄める手順の多い生活を送ってきた惟時にしてみれば、もはや異国とつくにの言葉を話されているに等しい。わざわざ穢れに行く意味が解らない。

 それがよもや、娘の婿とは。

 産屋にしたはなれで、手伝いの女達が入れ替わり立ち替わり、血の付いた着物を着替えに出たり、水や湯の入った桶を運んだり、忙しく働いているのが見える。近辺の女衆総出だ。

 二人の息子と二人の娘を惟時に与え、今しがた祖母になったばかりの二本木殿が、やれやれ、とばかりに肩を揉みながら出てきた。

 明け方産気づいたのは良いが、赤子はなかなか出不精の性格だったようで、母親となる娘を一日唸らせた。

 産気づいた、との知らせを受けた小次郎が恵良からすっ飛んで来たのが、卯の刻の鐘が鳴り終わる頃。馬がゼイゼイと喘鳴して、水をやるとあっという間に飲み干してしまい、慌てて下男が水を注ぎ足してやったぐらいだから、ずっと駆け通しだったのだろう。さすがに恵良から二本木まで全速力は馬には長過ぎる。

 義父への挨拶もそこそこに、子供との縁がどうとか言って産屋に入ってしまい、昼を過ぎ日没が過ぎ、子の刻を回ってそろそろ丑の刻、ついに今まで出て来なかった。

 そして、惟時の妻の方が出てくるのが早い。

 一部始終を見たのなら、初子が生まれたらすぐに報告に来ても良かろうものを。

 惟時、祖父になったにも拘らず、少々不機嫌である。


 ◇◆◇


 小次郎は恐怖の残滓と安堵感でいっぱいだった。

 別に血ぐらいは恐怖ではない。血と胎脂で物凄い臭いなのは、まあ戦場でも似たようなものだろう。まだそこまで地獄絵図の広がる戦場に行ったことは無いが、野盗狩りならもう何度もした。

 恐怖したのは、目の前の妻を失うのではないかということにである。

 どうやら子が宿ったらしい、と判った時から七ヶ月。

 しばらく相子は吐いてばかりで飯も食えない寝たきりの日々を過ごし、元々そんなに肉付きの良いとは言えない体つきは、有明の月のようにじきに消えてしまうのかと思うほど、すっかりやつれてしまった。

 特に米の炊ける匂いが駄目で、何かしらでも口に合うものが無いか、小次郎は自分でも探すだけでなく、自分の母親や二本木殿や、郎党や下男にまで、それぞれの妻に心当たりがあればと教えを乞うた。おかげで売るほど卵だの餅だのが集まった。

 茹でた卵は相子の場合正解で、腹が目立ってきた戌の日の頃まで、ほぼ卵だけを食って過ごした。

「やや子によって、毎度違うのですよ。佐保殿とて、次の子は楽かも知れませぬ」

 小次郎が佐保姫と喩えたからそのまま佐保殿と呼んでいる小次郎の母親はそう言ったが、こんなに苦しむ妻を見て、それもまだ一人目が胎に入っているのに次の子の話が出てくる意味が解らない。

「次の子など!次の子どころか、相子殿を喪うことになったら某は」

 半分泣いているような小次郎の悲鳴に、母親は黙った。確かに懐妊自体が原因で死ぬこともあるので、母親もそれ以上言えない。

 幸い、子がぽこぽこと胎の中で暴れるのが判るようになり、腹帯を巻くような時期に入ってからはつわりも軽くなり、落ちた体力を産み月までに回復させるべく、小次郎は相子の散歩に、さすがに毎日は無理だが、付き合った。

 恵良の若殿は貰った妻にぞっこんだと、話に聞いていただけの村人達も、なるほどあれがそうかと、館の周りの畦道を仲睦まじい様子で歩いているふたりを見てあたたかく見守る始末。

 だが、昼は比較的調子が良くとも、夕方にもなると足が浮腫むくんだり、腰が痛んだりと色々不具合がある。子が宿っていない時のような調子にはならない。

 それでも最初の吐いてばかりの時期を乗り越えたのだから、後は大丈夫だろうと思っていた。

 初産は慣れた実家の方が両親もいて心強かろうと、産み月に入った頃に二本木に戻し、そして――いざ出産となったらほぼ丸一日かかるとは。我が子ながら、ここまで妻を苦しめるとは許しがたい。およそ我が子とも思えぬ所業である。

 痛がる腰や腹をさすり、よく絞った布で汗を拭いてやり、励ましの声を掛け続けた。できれば代わってやりたいが、男の身で手伝えるのはこんなことぐらいだ。

 梁から下がった綱に縋り付いていた相子が、あまりの痛みと疲労に耐えかねてだろう、体がぐらつき始めたのは、酉の刻をだいぶ過ぎてからだったように記憶している。

「相子殿!」

 朦朧とした様子の相子を抱き留め、

「相子殿、気をしかと!」

 相子の手が小次郎の背に回った。装束の方が、朦朧とした中では綱より摑みやすかったようだ。

「佐保殿、いきんで!」

「ややが下りてきております、気をお強く!」

 手伝いの女達が口々に声を掛ける。堪えるように相子の指が、小次郎の装束を強く握り込む。

 不謹慎だが、食いしばった歯の隙間から漏れる呻きが、閨の中で聞くそれにも似て、つい支える腕に力が入った。しがみつく妻の腕の力は普段からは考えられないような強さだったが……。

「ああ、もう少し、もう少し」

「腹に力を入れて、今」

「ああ、頭が」

 相子が一際鋭く呻いた。

 ――ややあって、相子の肢の間に屈んでいた初老の女、確か大宮司の郎党の妻だったが、布を広げて手を伸ばし、赤黒いものを引っ張り上げた。

 血まみれのそれは、ずるりと太い青黒い紐を臍からぶら下げて、ほぎゃあと高らかに泣き出した。

「あ……産まれ……」

 腕の中の相子からふっと力が抜ける。

 顔は汗にまみれ、小次郎の好きな柔らかい髪が乱れて額や頬に張り付き、血を大量に流して肌は白く、凄絶な姿ではあったが、母になった妻は誰よりも美しいと思った。

「相子……」

 汗を拭いてやっていた布を思い出し、額を拭ってやる。

「あなた……産まれました」

「ああ……よう、ここまで気張ってくださった、ありがとう」

 疲れているだろうに、自分に報告してくれる妻がいじらしく、しばらく額と額を合わせて感謝を述べた。

「ふたりとも、こんなに可愛いものをご覧にならぬでよいのですか」

 ――どういう状況か、判っていたつもりだったが、解っていなかった。

 ほぎゃ、ほぎゃとわめく白い布の塊を抱いて、二本木殿――妻の実母であり、小次郎にとっても義母となった人が、間に無理に塊を捩じ込んできた。当然であろう。

 何をしていたのか唐突に気づいて、小次郎は稲妻のような速さで相子を床に寝かせた。相子は相子で顔から火が出ている。

「ほれ」

 二本木殿は素知らぬ顔で、ずい、と赤子の顔がふたりに見えるように傾けた。

「……赤い」

 小さく、血や胎脂を洗い流したのに赤く、だがわめくのにも飽いたのか小さなあくびは人間で、不思議な心地だった。

「そなたも父になったのですから、そなたの手で抱いて差し上げなさいませ。姫にござります。喜ばしいことです」

 姫、と聞いて、床に横にさせた相子が表情を曇らせた。

「申し訳ござりませぬ、あなた……跡継ぎでは」

 ござりませんでした、まで、相子は言わせてもらえなかった。

「何を仰います!」

 遮ったのは、跡継ぎを得損ねた、相子の夫だった。

「そのようなもの!跡継ぎなど、恵良には某の弟がひしめいておりまする!万に一つのことがござりましても、弟達がおりましょう!ですが」

 相子の頬に手を添え、包み込むようにする。

「相子殿は、ただひとりしかいらっしゃりませぬ……某は、相子殿を、喪うてしまうやもと」

「そうね、小次郎殿の仰ることも解ります」

 二本木殿が静かに頷いた。

「なれど小次郎殿、我々のような女の役目はまず、子をもうけることなのです。我らのいくさ場はここなのです。殿方には理解し難いことやも知れませぬが」

 女にも親から相続があり、地頭職を務めた女の話をその辺から聞くような時代ではあった。しかし、他家に嫁げば、娘に分与した土地は婚家のものになることも多く、そうなれば生家の土地が減るし、男に比べると己自身で土地を守れぬ者が多い以上、どうしても跡継ぎは男が求められてしまう。

 特に、恵良は武でもって大宮司の盾となる役割、やはり女よりは男を望まれる時代であった。

 だが、二本木殿にも、我が娘を一番に、大事に思ってくれる男が我が娘の婿であることは伝わっている。

「――さあ」

 二本木殿に、まず首を支えるように、相子にするようにそっと扱えと指導を受けながら、小次郎はおそるおそる、初めて我が子を抱いた。

「……まことに、不思議な心地でございます。このように小さいのに、ちゃんと指にも小さな爪があって、――はは、何を食べておるつもりだ?小さなお口をもぐもぐさせて」

 腕の中の小さな驚異の塊を見ているうちに、なぜか小次郎の目から熱いものが流れ出した。

「ああ……先程まで、そなたは相子の胎の中にいたのだぞ。なんと不思議で、可愛らしくて、愛しいのだ……」

 肩で顔を拭くとほれ、と屈み込み、胎の中でつき育てた本人に見せる。相子もなんとか起き上がろうとするのをいつもの調子で自分が支えようとした小次郎は、姫を忘れないでくださいまし、と、手伝いの女に叱られた。

 下女が相子の背を支え、小次郎が赤子の顔を、相子からよく見えるように差し出す。

「この子、目許が……」

 相子が赤子の頬に触れた。

「小次郎様、そっくりですわ」

 言われて小次郎はまじまじと観察した。

 だが、まだ目も開かず、ふにゃふにゃとしている赤子の顔をどれほど見ても、小次郎にはよく判らない。

 捲り上げていた袖を下ろして、二本木殿も参戦した。

「ふふ、目許は恵良、口許は宇治の血ですわね」

「左様でございましょうか……某には判りませぬ」

 二本木殿はおかしそうに口許を袖で隠す。

「しばらくすれば、赤い肌も醒めてまいります。さすればそなたにも判りましょう」

 ころころとひとしきり笑い、「では、その子のお祖父上にはわたくしが報せてまいりましょう」と、小次郎に目配せしてさっさと立ち上がった。

「某も」

 腰を浮かした小次郎を扇で制す。

「もう夜更けでもあります。そなたらはしばらく水入らずで赤子に慣れておれ。――報せが走れば、大宮司も朝方すぐに参るでしょう。父親らしく、かまびすしい伯父が来たら追い払っておやり」

 惟直は大宮司職を継ぐと同時に、二本木のはす向かいに当たる祇園に、自分の館を構えた。弟惟成は二本木と祇園を行き来しているが、このところ祇園に居ることが多いようで、今夜も、というか小次郎が駆け付けた朝方は見ていない。恵良から二本木へはどうしても祇園館の前を通るから、小次郎が速駆けしてきた音で気づいているかも知れないが、大宮司が来たとかそういう声は今のところ聞こえてこない。

 二本木殿は脱いでいた袿を着せかけられ、産屋を後にした。


 ◇◆◇


「婿殿はこちらに来るなと申し伝えました。夜も更けましたし、――着替えも無く、禊がぬままこちらには出向かぬようにと」

 装束を調え、初孫が生まれたと伝えに来た己の妻はすました顔でそう告げた。小次郎が来ないことに不機嫌になっていた惟時も、妻の指示であれば納得である。

「で、どちらだ。跡継ぎか」

 外孫ではあるが、惟時にもやはりそこが気になる。

 二本木殿は扇で口許を隠した。

「相子は賢うございますからね、最初は姫の方がやはり、女同士で育てやすうございましょうから」

「そうか」

 惟時は眉を下げた。姫は姫で可愛いものだが、心情としては複雑である。

「まあまた励めば良いが、しかし、惟種も嫡孫を心待ちにしておっただろうに。小次郎はどうであった」

 二本木殿はふわりと扇を一扇ぎした。

「婿殿は、もう子供は良いそうでござりますよ」

「なぬ⁉」

 惟時はいよいよ小次郎が理解できない。嫡男を得ずとも良いなどと。

 まあ、確かにあまり男ばかり作り過ぎても、揉める種にならないとも限らない。菊池のじゃく入道など、入道のくせに確か二年ほど前にも、阿蘇二宮である甲佐社の近く、豊田荘にもう一人めかけを囲って、確か男子をこさえていたはずだ。他家のことだから特に数えてはいないが、男だけで十人目だか十一人目だかである。自分の息子だけで武士団でも作る気だろうか。妾を作ったことの無い惟時にはこれまた、理解できない世界だ。

 だが、居なくて良い、そんなわけがないだろう。

「そなた、惟種の耳にそんなことが入らないように口止めしておいたか?なんと不孝な」

 二本木殿はゆったりと扇を扇ぐばかりだ。

「無理に励んで相子を喪う方が、婿殿はお辛いようでございますよ。――確かに今回は、見ていて少し危のうございました」

 少しばかり、相子が羨ましゅうございます。

 二本木殿の言葉に、惟時は首を傾げた。

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