恵良の小次郎、上り川に遠乗りすること

 嘉暦四一三二九年、六月。

 恵良小次郎、自馬の上で、大変な光栄に浴している、とまさに込み上げるものを噛み締めていた。

 なぜなら、手綱と自分の体の間に、夢にまで見た女性を挟んでいるのである。

 長い、道程であった。


 ◇◆◇


 惟國の死が昨年の五月。

 さすがに現大宮司の実父であり、小次郎の女神はその孫でもある。小次郎が阿蘇一族でなくとも服喪中に恋文はさすがに出せないし、これはもう、惟直曰く「蚯蚓みみずののたくったような……」とたしなめられた字をなんとか改善する良い期間であると、初心に返って字を練習した。字の練習ぐらいは惟直が添削してくれる。

 しばらくの間は手本を渡され、臨書を繰り返していたが、そのうち古今集を渡された。

「貸してやる。一字一句噛み締めながら写して寄越せ」

 これまた字の練習かと思ったが、どうやらそれだけでもなかったらしい。返す際に、

「いくつかぐらいは気に留まった歌はあったか。多少ましな返しぐらい、その中から選べばできるだろう」

 と言われたので、姫に文を書くなら、せめて自分で作れなくとも、和歌集から選んで返すぐらいのことをしなければならないのかと震えた。どうやらそのための例文集を作らせてもらっていたらしい。

 あとで聞いたら、佐保姫の名はおそらく歌で覚えていたわりに、その後にも先にも詩歌の引用などして雅に返答することもついぞ無かったので、これは駄目だと思ったそうだ。実に慧眼である。


 惟直から「まあ読める字だろう」と許しを得たのが八月末。そこから、三日と空けず文をしたため続けた。姫に本気であることが少しでもお伝えできるように、でも前のめりにならぬよう、近況報告と、最後に自分で写した古今集から、良さそうな秋の歌を選んで一首。

 近況と言っても日々武芸の訓練である。同じことばかり書いても面白くないし、いくさの練習のことなど書いてもご心痛になると考え、努めて身の回りに花や鳥やが無いか探し、そういうのを書くようにしたり、姫が出かけたことが無いだろう場所の話を書いたりした。

 するとどうだろう。

 姫からも、庭の何の花が咲きましたとか、小次郎が添えた歌から発想された歌だとか、そういう返事が届いた。さすがに歌の連想でやり取りは、今の小次郎には敷居が高過ぎて続かぬが、返事を貰えるだけで嬉しい。

 が。

 ひと月もしないうちに、受け取っていただけなくなった。正確には、姫に届く前に阻まれるようになった。

 これは残念ながら、小次郎のせいでも姫のせいでもない。

「小次郎、悪いな。姫は明後日、二十八日から下宮の小屋に移る。……わかるな?」

 昼頃に館に宛てた文を、夕刻、明らかに未開封と判る姿で、次の大宮司おん自ら突き返しに出向いてきた、惟直その人の告げる理由は、小次郎も考えてみれば把握していなければならないものだった。

 師走の大祭・駒取の祭りに、大宮司家の娘でなければならない重要な役どころがあるのを失念していたのは小次郎の手落ちである。いや、なぜ姫が今年もしなければならないのか。ここに求婚者が、いや、まだ求婚には至っていないが、ともかくいるのに。

「……姫が、なさるのですか。たての女房役を」

「大宮司の息女に、未通女おぼこが現にいるのだから、さもあろう」

 まるで、小次郎が忍んでいって手を出していれば、こんなことにはならなかった、と言わんばかりである。あの時はさすがに、若殿にして将来義兄となるかも知れない人ながら、斬って捨てようかと思った。姫が悲しまれる、と自分に言い聞かせて踏み止まった。

 祭までの百日潔斎の間、毎日ではないが出せぬ文を書いては束ね、書いては束ねとやっていたら、ついに五十日目ぐらいで、すぐ下の小三郎から

「兄上……」

 眉間にしわを寄せた顔で、文がはみ出てふたの浮いた文箱を指して「重過ぎまする」と指摘された。

 それで文は厳選し、懐に入るだけ残して、駒取の祭に参加した。小次郎は小次郎で祭の役目というものはある。

 だが、終われば話は別だ。

 祭の翌日、屋立の女房役を解かれて館へ帰る息女の乗る輿を担ぐ役に割り込み、姫の退出を待った。

 社殿から現れた姫が、ふと自分に目を止め、目が合った、気がした。

 束ねた文は箱に入れて、そっと姫の袿の袖に隠した。


 後で寿熊丸から、国府から来た役人の一人が、姫は輿入れ先が決まっているのか、と指摘があったと聞いた。どちらの意図があったかは判らない。寿熊丸は解っていて、わざと言葉を少なくする。ああいう性格だから烏帽子親が決まらないのだと、小次郎は思う。寿熊丸と同い年の舎弟おとうと小三郎は、もうとっくに小三郎である。


 姫から、紙束への返事だろう、今までより長めの文が来て、文通は再開された。

 再開最初の文にあった、斯様に自分のことを考えて貰えていたのが嬉しい、という一文は、こっそり何度もそらんじたものだ。

 阿蘇郷の中ですら、姫は自身で見たことのない景色がたくさんあるのだと、したためたあちこちの風景に、見てみたいと返事がつくにつれて小次郎は思い知った。

 が、親戚にあたるとはいえ、家臣の自分が、はいそうですかと連れ出すわけにはいかない。

 何か、適当な言い訳が立つ場所はと考えて、ふと閃いた場所があった。

 阿蘇郷は湧水が多い。土地争いはあっても、水争いだけはこの阿蘇郷には起こらない、と思えるほど、井戸を掘らなくてもそこら中から水が溢れている。

 あまりに湧水量が多いと、川になる。ほとんどが阿蘇谷からの黒川と南郷谷からの白川が合わさる谷となる西に向かって流れを作っているのだが、西にある塩井の社の境内に湧く泉だけ、高台となる東に向かって流れを作っているのだった。

 ここもまた、文のやり取りを始めてすぐぐらいに、見たい、と言われた場所だが、そこなら、塩井社に詣でる、と言えば、言い訳が立つのではないか。

 姫をなんとか自分が塩井の泉へお連れできるようにするには。

 まずは惟直に相談し、惟時へ掛け合ってもらえるように拝み倒すのが良いのではないだろうか。

 いや、それにも一筆書いておいた方が良いだろう。


 ――この頃、下宮へおうしんを貰いに行く小次郎を見た者があるとか無いとか。

 惟時も、まさか自分の娘に懸想する男とはいえ、娘と連れ立って出かけるために、起請文を書いて頼みに来られたら断りづらいのではないだろうか。これならばと目をつけていた男なら尚更である。

「『ひとつ、惟澄小次郎だけでなく恵良から郎党をつける、ひとつ、大宮司からも姫のために郎党を貸してほしい、ひとつ、日暮れまでには館に帰す、ひとつ、天地に誓って不埒な行いはしない』……。うん……」

 惟時、小次郎の心がどのあたりにあるのか、今ひとつ理解がしづらい。

 起請文と知らず運んできた惟直も呆れ顔であった。娘や妹の婿にと思う人間からの書状、開いたら牛王神符の烏文字が出てきた時の期待が萎む勢いといったらこの上ない。


 ◇◆◇


 卯月にしては暑い日であった。塩井社参りを口実にして、川遊びには良い日和である。

「小次郎殿、本日はお声掛けいただきまして嬉しゅう存じます。塩井社まで同道、よろしくお願い致しまする」

 姫は髪をうなじのあたりで束ね、馬に乗れるよう袴を履いて、赤い袿をかづいていた。

 清らで美しく可愛らしくて、きらきらと輝いて見えた。――いや、見え過ぎる。眩し過ぎる。前もって考えていた話題などすべて吹き飛んで、何を話したものやら見当がつかなくなるぐらいには眩しい。

「は、……こちらこそ、よろしくお願い致しまする」

 自馬の手綱を引いたまま、カクカクと礼をするのが精一杯だ。主人の挙動不審の原因を解っているのか、馬が姫を観察している。

 姫は臆することなく、馬の首に手をやった。

「あの時はそなたの主人に世話になりました。そなたが乗せてくれるのですか」

「こら、誰が二人乗りで良いと言った」

 見送りに、というか見物に出ていた惟直が揶揄うように声をかけるが、

「兄上、……わたくし、乗せていただく方が安心できます」

 姫の言葉にたじたじとなったのは、兄だけではなかった。


 雲雀が鳴き、気持ちの良い日である。

 小次郎が先に乗り、姫を引き上げたのだが、華奢な身体はまことに軽く、羽のようであった。ということが判っただけで小次郎の心は躍った。いや、むしろ舞い上がった。

 馬がじろりと振り向いた。

 かれらは乗り手の心情にさとい。

 小次郎も普段なら馬の背で絶対に使わぬ筋肉が無駄に緊張している自覚はあるし、姫も鞍のへりを摑む手が強張っているのが感じられた。

「馬ははじめてでいらっしゃりますか」

 姫が頷いた。

「小櫻は賢い馬にございます。小次郎もついておりまする。どうぞ、肩の力を抜いてお楽に」

「……はい」

 手綱を引きながら言うと、返事の内容とは裏腹に、鞍を持つ手にますます力がこもり、小鳥のような声は震えていた。

 馬は敏いとはいえ、自分の背中で起こっていること自体にはさして興味は無い。ただひたすら「何をやっているんだ」という顔で、背中の主人達をチラチラ窺っては、時折フスゥ、と鼻を鳴らしている。

「姫。小次郎では不安か。では兄も共に行こうか。安心できる兄が乗せてやろう」

 惟直の声に、がばりと顔を起こす。

「そっ……まっ」

 言葉にならない抗議の拍子に、腿に変に力がかかったらしい。

 馬はぶるん、とひとつ呆れた音を出し、「やっとか」とでも言うように首を二、三度振って歩き出した。


 惟直が共に行く、と言ったのは冗談だったらしい。シッシッと、蠅でも追いやるような手つきで「早う行け」と促され、出発した。

 二本木館を出て、傍の仮川を北に辿る。

 すると西野宮に至る道に出るから、そこを西に向かう。

 瑠璃色の小さな蝶が時折ひらひらと舞う道を、いつもなら小次郎ひとりで駆けてしまうところだが、今日は、馬に乗るのもはじめてという想い人を乗せている。馬が走り出さぬよう、手綱を引きつつ、腿で歩みを調整した。

 起請文にはあのように書いたが、自分で出した条件とはいえ、共の者が遠巻きについてくるのは正直邪魔ではあった。逆にむしろ恵良の郎党も大宮司の郎党も、気を使ってくれたのだろう、だいぶ散開してついて来てくれた。というか、尾いて来たくないというのが本音だろう。馬に蹴られそうなこんな道行きへの随行が仕事というのは、郎党の方でも今後御免こうむるに違いない。

 水口川を渡る辺りで、塩井の泉からの上り川が水口川に注ぐ。

「姫、これが文でご説明した上り川にございます」

 落ちないか躊躇っているのだろう、馬の首に手を添えて、姫がこわごわと覗き込んだ。

「……わたくし達、ずっと坂を下っておりましたのに。本当に川が登って流れているのですね」

 焚きしめた香が、やわらかく小次郎の鼻をくすぐった。


 泉、もとい塩井社に着いてからも郎党達は小次郎達の方を必要最小限にしか見なかった。気を使われたのか、それとも見たくもないということか。本当に誰も得をしない条件である。

 それが口実なので、まず馬を馬場に繋ぎ、泉から流れ出す小川で手と口をみそいで、社に参拝する。ここも阿蘇郷では水を恵んでくださる大事な神だ。

 参拝を済ませると、泉に案内しようとして、小次郎はしばし逡巡した。

 自分の母親であるとか、二本木殿惟時の妻であるとか、あるいは国府からお出でになった女官であるとか、そういった女性には足許が悪い時に支えになるよう、いつも手を差し伸べていた。相手が辞退すれば一礼してそのまま案内すれば良い。のだが。

 今ここで手を伸べて良いのか。

 良いとして、「結構です」と断られたら、立ち直れない気がする。

「――ありがとう、ござります」

 思考を断ち切ったのは姫が発した礼の言葉だった。

 我に返ると、肉刺まめだらけの自分の掌に、柔らかなものが触れていた。

 頭では逡巡していたはずなのに、手は意識せずいつも通りに差し伸べていたらしい。そして、姫がその上に手を重ねていてくれたのだった。

 ごくりと唾を飲み込み、

「……お足許、お気を付けくださりませ。こちらでござります」

 汗が首筋にたらりと流れたのは、陽気のせいではない。


 泉のほとりにある座りやすそうな石に持ち合わせの麻布を広げ、姫をそこに導いた。

「日陰ですし、周りに郎党達もおりまする。お暑うございますゆえ、小次郎のことは気にせず、袿をお取りくださいませ」

 むしろ取ってもらって、顔をよく目に焼き付けておきたいという下心が無いとは言えない。

 姫はしばらく逡巡していたが、暑さには勝てなかったのだろう。

「……あまり、見ないでくださりませ」

 そう言って、かづいていた袿を下ろした。

 ふわふわと細い、薄い色ながら、それでも豊かな髪が現れた。小次郎は袿を預かって畳んだ。

 姫は腰を掛けると、沓を脱いで袴の裾を手繰り、足を水に浸した。

「冷たくて、気持ちがいいわ。……小次郎様、ありがとうございます」

 ――そのように軽々しく、お御足を。

 自分で水遊びに連れ出しておいて、矛盾に気づかない。

 袴の裾を膝で絞り、捲り上げたその脛の白さに小次郎が思わず目を逸らすと、ふと目にとき色の何かが目に入った。

「姫……少しお待ちを」

 裸足のまま立ち上がり、足早に社の陰へ向かう。ほんの僅かな時間であり、周囲に郎党が居るが故の安心感である。

 鴇色はそこにあった。

 密やかに咲いていた笹百合が、きっと姫に似合うと思った。

 懐刀で花を切り取り、姫の元に戻った。

「まあ、もう咲いておりましたのね。……綺麗」

 姫は両手で押し戴くように受け取るとすい、と香りを吸い込んで、良い香り、と笑った。

 そのあどけない表情に、ふと思いついたことがあった。想像するほど、名案に思える。

「姫、今一度、その百合をお貸しくだされ」

 姫は首を傾げながら花を差し出した。小次郎はその茎を数寸ほどに短く切り、姫の耳の脇にそっと挿した。

 姫は大きく目を見開いた。その中に、それぞれ強張った顔の小次郎がいるのが見えた。

 はにかんで姫が目を伏せてしまったのを、もったいないと思う。落ちないようにだろう、花に伸ばされた彼女の手が、小次郎のそれと触れた。

「……似合うかしら」

「はい、とても」

 食い気味な返答になったが、それにも姫は嬉しそうに微笑んだ。

 込み上げるもののままに、小次郎は自然に姫の手を取っていた。

「小次郎様……?」

「姫……」

 自分の声が震えているのが、妙におかしく感じた。

「文で何度もお伝えしていた通りですが……お慕いしております。気がつけば姫のことばかり考えてしまう」

 姫の白い頬に、じわじわと朱が散った。

「わたくしも……」

 そっと目を伏せる。

「小次郎様のことばかり……」

 ぽってりした、艶やかな唇が、小次郎の名を紡いだ、そのことにたまらなく昂ぶった。

 付き人の目が気にはなったが、それよりも触れたい衝動の方がまさった。

「あ……」

 姫の唇の隙間から吐息が洩れた。

 指で触れた唇は想像以上に、あたたかく、柔らかだった。

「吸うてみたい……」

「だめ……」

「口吸いだけです、姫……」

 顔を寄せると、姫は観念したように目を潤ませて閉じた。

 唇で食んだ姫のそれはやはりあたたかく柔らかく、水菓子のように甘かった。このまま溶け合ってしまえば良いのにと思った。いずれ離さねばならぬのが惜しかった。

 ――とぷん、という音に、思わず唇が離れた。

 二人して音の方を見ると、花梨の病果だろうか、黄色い実が浮き沈みしながら上り川の方へ流れていく。

 思わず顔を見合わせたが、姫の頬が、口吸いする前よりももっと赤らんでいて、小次郎もなんとなく、照れ臭くまた恥ずかしくなった。というか、自分は起請文になんと書いたのか。

「……姫、先程の口吸いのこと、どうか、ご内密に……」

 声を低めて姫に囁くと、姫も目を伏せてこくりと頷いた。

 その仕草に、小次郎はもう一度くらくらと来た。眩草に当てられたのではないか。

「……申し訳ございませぬ、これもその……どうかご内密に……」

 そう断ると、もう一度、目を閉じた姫の唇を食んで吸った。


 ◇◆◇


 元徳二一三三〇年三月、大宮司惟時は嫡男惟直に大宮司職と家督を譲り、寿熊丸も烏帽子親を得て名を惟成と改めた。

 時を同じくして、惟時の娘あいは恵良小次郎に輿入れし、小次郎は恵良家の家督を相続して当主となった。

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