第24話 メタトロンの上に涙の雨は降らない
※
メタトロンの庭に雨が降ってきた。
息苦しいまでの空の青は消え、光はいくぶん柔らかくなり、薄らいだ。
白い髪の少女は雨に打たれても、なぜか濡れることはなかった。
「わたしが雨に濡れない理由はわかる?」
――わからない。コーイチは首を振った。
「あなたなら、わかると思ったのに」
少女の形をした母親は泣き笑いの表情で言った。
「どういうことですか?」
しかしメタトロンは質問には答えず、別の話題に移った。
「もうそろそろ潮時ね。この汚辱に満ちた空間で天使が生きるのは困難だし、辛すぎるます。だから楽におなりなさい。ブッディズムでいう涅槃へ、――そう、肉体を捨ててニルヴァーナへの領域へと旅立つのです」
ニルヴァーナとは光だけの世界、そして無だ。影が生じれば対立が生まれ、憎しみの温床となる。しかし涅槃には憎悪は存在せず、時間という概念もない。すべてが光という無時間の檻の中で凍りついている。このメタトロンの庭がそうであるように。
「<天使不適合症候群>もおなじ原理で起こるのです」
白い髪の少女は硬質な微笑みを浮かべ、なおも語り続けた。
「光だけの世界では影が生じません。でも天使的存在が人間との合体に失敗するときは、人が光に負けてしまう時です。人の中にある影が天使の清らかさと同調できず、拒絶反応を引起こし、死を招くのです。これが天使におけるアダプター不適合の真実です」
「わかります。多くの生徒が亡くなったと校長先生から聞きました」
「そしてコーイチ。あなたの場合もそう。他人事ではないのです。天使の寿命が極端に短いのも、その原理にしたがうから」
コーイチは言葉を紡ぐことができず、黙りこくった。
「汚濁にまみれた世界に長く生きれば生きるほど影が蓄積され、結局、天使の内部に矛盾や葛藤を産み出すことになるでしょう。ユキちゃんと別れがたく思うのはそのせいです。みずからのなかにハルピュイア的なパワーがくろぐろと蠢きだし、それがひいては天使の光のパワーとの相克を生じさせかねません」
コーイチは眉をひそめると、慎まし気な口調ではあったが、思わず反論に転じた。ユキのことが話に出てきて、少々むきになったということでもある。
「ハルピュイア? 穏やかではありませんね。みずからの内に敵を生み出す、と?」
「そうです。いずれその矛盾が天使の波長と合わず、深刻な拒絶反応を引き起すのです。死に至る病、と言っていいでしょう。そうしてニルヴァーナへと旅立つことができなかった悲惨な死がやってくるのです。つまり堕天使となって地獄へと落ちる」
「天使の宿命ですか?」
「――そう。認めたくはないでしょうけど、でも現実は直視しなければなりません」
コーイチは沈黙で答えるしかなかった。しばし顔を上げ、さっきから降る雨の雫に打たれた。あたたかな心にしみる雨だった。
ずっと迷っていた。――が、でも何をなすべきかが、少しずつではあったけれど、その輪郭らしきものが何となく摑めそうな気がした。まだ、ぼんやりとはしてはいるが、このあったかな雨が道しるべとなって教えてくれるような気がする。
ついさっきまでは母親であるメタトロンの教えのままに生きてきたし、それを否定しようとは思わなかった。
光が強ければ強いほど闇は負け、居場所をなくし、敵も生じない。ひょっとしたら、それは真実かもしれない。
だが、だとしたらなぜ命は生まれてやまないのだろうか?
所詮、人の命は闇を孕まざるを得ない。
この世のしくみだが、光と闇がセットになっており、人は光を背負い、闇を孕みつつ寿命の尽きるその日まで生を謳歌し、あまつさえ子孫を残す。天へと召されたあとも、ふたたび新たな命がこの地上に雨のごとく降り、蒸発し、また雲のように昇天するを倦まずくりかえす。
闇を拒絶することが天使の真理であるとするなら、このサイクルをリフレインし続ける世界を設計・造型したクリエイター、すなわち神こそデタラメでポンコツな御仁ということになりはしないか。
生きることそのものが汚れであり、罪なのだとしたら、それを涅槃へ、ニルヴァーナの光の無へと帰そうとする考え自体に何かトンデモなく邪まなるものが潜んではいないか?
コーイチは静かに笑ったのだった。
「なら、僕はその天使の宿命とやらを打ち砕きます」
自分でも思ってもみない言葉が自然と口について出た。本人がもっとも驚いたかもしれない。しかしコーイチ自身は口もとを綻ばせ、とても穏やかな顔をしていた。
その時、突然だった。ユキのことがイメージとなって脳裡を掠めたのだ。
なんていうこともない、ありふれた日常の一コマが胸に去来し、心を騒がてやまない。それはコーイチを心配したり怒ったり、拗ねてみせる態度もいじらしい女の子のイメージ。
もうすぐ時間切れだと思っていた。
だけどだけどだけど。
離れたくない。ずっと一緒に居たい。
その刹那のこと。改めて別のリアルな映像が心に浮かぶ。
コーイチは病室で眠っている。どうやら昏睡状態に陥っているようだ。ユキがコーイチの顔に屈みこむと、そっと唇を重ねてくる。
ふたりにとっての初キッスの幻影はすぐに消え、コーイチは赤面しつつも臆することなくメタトロンと向き合った。
「お母さんが雨に濡れない理由がわかりました」
「そう?」
白い髪の少女は険しい眼つきでコーイチを見た。
「雨はユキの流した涙です。僕を思うユキの涙だから」
きっとユキは今頃泣きべそをかいている、とコーイチは思った。
メタトロンは息を吐くと、肩をすくめた。
「そうね。だから、わたしは雨に濡れないというわけね。で、どうするの?」
「答えはもう出ています。周囲の景色を見てください」
森はよみがえる。白い石の森をあたたかな雨が濡らし、息を吹きかえそうとしている。硬く閉ざされていた石の樹皮を割り、芽吹きがはじまろうとしつつあった。あれよあれよという間に新緑で潤い、色鮮やかで柔らかな葉っぱが雫を垂らし、雲のはざまから射す光と爽やかな風にきらきら震えている。
森は死滅したと思われていた小鳥を呼び戻し、こんもりとひろげた緑のあいだを囀りながら飛んだ。メタトロンの森閑とし、死滅していた庭は母のものではあったが、それは同時にコーイチの心象風景でもあったのだ。
そこにいま、生命の息吹が吹き込まれようとしているのだ。
「あなたを叛逆の天使にしたくないと言ったはずです」
コーイチが立ち上がると、少女は両腕をひろげ、行く手をふさごうとした。
「僕はお母さんとは闘いたくありません」
「では、ニルヴァーナへと今すぐ旅立つのです」
静かに首を振るコーイチ。
「いやです。僕はこの庭から出てゆきます」
「そんなこと、できるかしら? ここに出口はないのよ」
メタトロンから嘲りの笑いが漏れた。
「いえ、どこかに出口はあるはずです。僕はそれを探します」
「いいでしょう。やってご覧なさい。でも忘れないで。わたしが最強の大天使であることを」
実力者だけに許された、力に満ちたフレーズだ。だが、そこはかとない寂寥感が漂い、コーイチを切ない気持ちにもさせたのも事実だ。
幼馴染で純情すぎる悪魔少女のハルマゲドンラブ ~異類婚学園イチャイチャ戦記~ 百目青龍 @mimisato
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