第2話 大人にならないで(2)

 ホッコクアカエビは強いとは言い難い。その小さな体躯でヒエラルキーの上位にいる訳がなく、大きな肉食生物には易々と食べられてしまう。一応、身体を殻で覆っているが、その殻も他のエビに比べると柔らかくて心許ないものだ。同胞たちが魚やサメに食い殺されることも日常茶飯事である。

 そのためホッコクアカエビは、せめて名前だけは強いものを名乗ろうとすることが少なくなかった。シャチもその一人であり、噂によく聞く獰猛な哺乳類にあやかって自分の呼び名を付けた。そして、今シャチの目の前で爆笑しているこのオスも、名前だけは屈強である。

「シャチ、シャチ、キミってばまたフラれたのか! シャチよ!」

「うるせぇ」

「可哀想だなぁ、可哀想すぎる! ボクたちももうそろそろ女になるっていうのに! この時期になっても! 本懐を遂げられないなんてねぇ! 可哀想だ!」

「おい、ちょっとくらい静かにできねぇのか」

 大声でシャチの失恋を言いふらすこのエビは、名をキバという。幼少期に仲間たちともどもサメに襲われたが辛くも生き残り、その時にサメの口内を覗き見た恐怖を忘れないように、サメの歯の意を込めてキバと名乗っているらしい。

「静かにって? できないさ、できる訳がない! こんなに可哀想なキミを見て、笑わないようにするなんて不可能だろう! こんなに面白いのに!」

「よし分かった、死にたいんだなお前は」

「死にたい? なぜボクが? なぜ?」

「次にお前が脱皮した時がお前の命日だ、柔らかいうちに食ってやるからな」

 キバはきょとんとして触角を揺らした。小さい頃に命の危険に遭ったと語る割には、キバは危機察知能力に欠けている。シャチが脅すようにはさみのついた脚を掲げても不思議そうにしているばかりである。

「キミ、キミ、共食いするほど飢えたことなんてないだろう。キミほど優秀な子が」

「腹一杯でも食ってやる」

「どうにも分からないな、どうしたんだい? そんなにフラれたことがストレスなのかい?」

 そう言ってから、キバは自分の言葉に噴き出した。

「フラれたって! シャチが!」

「うるせぇな! でかい声で言うんじゃねぇ! そういうとこだよ!」

 キバは脚を小刻みに摺り合わせて笑っている。いかにも神経質な仕草だ。この気の小さそうなエビがこんな声量を出しているだなんて一見しただけでは誰も気が付かないだろう。シャチは短く息を吐いた。このトンデモエビとそれなりに友好関係を築いている自分がだんだん嫌になってきた。

「そういうとこ? そういうとこって、何だい? 大声で言われたくないの?」

「うん、そうだ、そこだよ」

「でもね、でもだよシャチ! 声の大きいボクに話したのはキミの方じゃないか。ボクの声が大きいことなんてキミも知っているだろう?」

「お前が勝手に根掘り葉掘り聞いてきたんだろうが、キバ!」

「話したのはキミじゃないの? キミが話したからボクはキミの失恋を知っている。キミの失恋を知っているから、ボクは大声でそのことについて会話する。実に綺麗な因果関係だろう! 違うかな!」

 シャチはこれ以上何かを言うことを諦めた。キバを言い負かすのは簡単ではない。キバの頭の中は独自のルールで動いているから、常識で勝とうとしたところでキバ自身が負けたと思ってくれないのだ。

 キバは楽しそうに身体を揺らしている。

「それにね、それにだよ、シャチ。キミがスナさんにずっと求愛していることなんてみんな知っているし、その度に失敗し続けていることもみんなが知っているんだよ、ねぇシャチ。今更ボクが大声でフラれただの言ったところで、なんの問題もないじゃないか。ねぇシャチ」

「誰のせいで今までの失恋がバレてきたと思ってんだ、キバ」

「キミが堂々と告白しているからじゃないかな」

「お前がクソデカい声で一々言いふらしてたからだよ!」

 結論から言えば、どちらの言い分も正解である。シャチの恋愛事情がここ一帯のエビたちに筒抜けなのは、シャチが求愛を隠しもせず、そしてキバがわざわざ声に出して結果をシャチに聞いていたからである。しかしいつも彼ら二匹は自分のことは棚に上げ、相手の落ち度ばかり指摘してきた。議論は数年前から平行線だ。

 シャチはそれでも口論を続ける気で足元を掻き上げたが、キバはお構いなしに話題を転換した。

「そもそも、シャチ、シャチよ。キミはどうしてスナさんにこだわるのかな」

「あ?」

 思いがけない質問にシャチは脚を止めた。一拍遅れて、声がさらに不機嫌になる。

「お前、スナさんの素晴らしさが分からないのか? ……いや待った、理解するな。おいスナさんに手ぇ出したらどうなるか分かってんだろうな」

「キミってば、難儀だねェ」

 一人で必死に言い募るシャチにキバは呆れた目を向けた。

「別に、別にね、スナさんを貶した訳じゃあないんだよ」キバはそこでわざとらしくため息を吐いて「ただねぇ、キミさ、いつまでも振り向かない相手にこだわってたら、いつまでも子孫を残せないままじゃないか! ボクはそれが心配なんだよ」

 シャチは小さく唸った。

「キバお前、急に常識ぶるじゃねぇか」

「そうかな、ボクはいつだってボクの常識に従っているけれど」

「だったら急にチューニングが合ったんだな、おめでとう。んで、はっきり言うが、その心配は余計なお世話だ」

 シャチがばっさり拒絶をしても、キバは大して気にした様子もなく頷いた。

「そうだったか! じゃ、どうでもいいことを言ったね」

「ああ。俺は他の奴との子孫なんて興味ない。ただ、スナさんと番になりたい。それだけだ」

 言い切る。キバは納得したように触角を動かしかけて、ふと問いかけた。

「ね、シャチ。非常に悪いんだけれど、ボクにはその番っていうものがよく分からないんだ」

「何回か説明したろうが」

「うん、でもねぇ、どうにもね」

「ま、それはそうか」

 シャチだって、エビにとって番が一般的ではないことは理解している。

「なんだっけ、ねぇシャチ。生涯一緒にいて、毎度の子作りと子育てを協力して行う、特定の相手だったっけ?」

「ああ、だいたい合ってる。分からないって言ったくせによく説明できるな」

「頭が良いんだよ、ボクは」

 こういうことを他意なく言うから友人が少ないのだ、キバは。

「番がどんなものかは分かるんだけどね、キミがそれを目指すっていうのが分からないんだ。エビには合わないよ、シャチ! 絶対どこかで破綻する関係だ!」

「ああ」

「いい? いいかい、シャチ? まずね、ずっと一緒っていうのが難しい。ボクたちってかなり弱いじゃない。みんな結構頻繁に死んでいる! 番になっても、すぐにどっちかが死ぬさ! ずっと一緒って訳にはいかない!」

「ああ。でも、俺もスナさんも今んとこ生きてる」

「運が良かっただけさ! ボクみたいにね!」

 そう言ってから、キバは全身を震わせた。

「……未来の話をしよう」キバの声量ががくんと落ちた。サメに飲み込まれた仲間を思い出したのだろうか。「じゃあシャチ、番になったキミたちが無事に卵を作って、産まれるまで二人で協力してお世話をしたとしよう。どうなる?」

「どうなると思うんだ?」シャチは聞き返した。

「シャチ、スナさん、卵、みんな合わせて食べられる! 番になんてならずに一瞬で別れていたら、誰かは生き残っていたかもしれないのに!」

 叫ぶように答えて、キバは勢いよく後ろに飛び退った。死の話をするときはいつもキバの挙動はおかしくなる。

「……まあ、そうだな」

 シャチは落ち着いた声で答えた。少し待てばキバも平静を取り戻し、後退ったせいで開いた距離を詰めてくる。

「と、とにかくね、シャチ。よくないよ、番なんて」

「ああ」

「それに、性別の問題もある」

 キバはさらに追い打ちをかけるつもりらしい。

「ボクたちは五歳まで男、そこから女になるだろう? 年齢で性別が決まるなら、どの年齢のエビと番になればいいって言うんだ?」

「……違う年の奴」

「そうだ。同年代は同性だからまず無理だ。最初は男のときは年上の女と番になるだろうね。でも年を取れば女になって、今度は年下の男と番になる必要が出てくる。ボクたちが番を作ろうとしたら、絶対に生涯に一度は番を変えなきゃいけないんだよ」

「……そうだな」

「キミとスナさんの話に限って言えば、今ならキミが男でスナさんが女だから上手くいくけど、来年からはそうはいかない! キミが女になっちゃうからね」

「……」

「シャチ、シャチよ。無理だ! 諦める他ないんじゃないだろうか!」

 キバはあっさりと言った。非情なオスである。

「聞くところによると、ペンギンとかだろう、番を作るのは。シャチ、キミ、その名前といい、エビ以外の動物を真似しすぎだろう。変身願望でもあるのかい?」

「ねぇよ」

「ま、いいけれど。……思うにね、ボクが思うにだが。スナさんだって普通に求愛すれば応えてくれるんじゃないか。番っていうのがいけない」

「まぁ、……どうだろうな」

 シャチが静かに反論したので、キバは言葉を止めた。

「スナさんが言ったんだ。番になろうって」

 キバは驚いてもう一度飛び上がった。

「じゃ、スナさんが約束を破っているんじゃないか!」

「い、いや、まだガキの頃の話だからな? そうは言っても」

「時期は関係ないだろう! どんなに昔でも自分に関わりのある一側面だ!」息を荒くしたキバだったが、急に何かに気が付いたように興奮を沈めた。「ところでシャチ、キミ、さっきからいつもの威勢がないが、どうしたんだい?」

「いや」

 シャチはそれには答えず、ため息をついた。海底がほんの少し巻き上がる。

「それになぁ、スナさん、番って言われてもそこまで難しく考えてないだろうよ」

「そうなのかい?」

「ああ。複雑なことを考えるのは、できるけど苦手なんだ、スナさんは」

「どういうこと?」

 理解できていないキバを置いて、シャチはスナに想いを馳せた。的外れなことを言うことも多いし、変な理解をしていることも多々ある、愛すべきエビなのだ、スナは。

「じゃ、キミの言い分だと、なんでスナさんがキミの求愛を断っているのか分からなくなるね」

「あー、いや」シャチは付け足した。「スナさん、まだ完全にメスになってないって言ってたんだ」

「ん?」

キバは怪訝そうにした。シャチは気にせず伝える。

「性転換が思ったより時間かかるんだってよ。だから、どのみち無理だったみたいだ。俺たちが卵を作るのは」

 シャチは努めてあっけらかんとした口調を維持した。キバは言葉を失っている。

「どうした、キバ」

「い、いや」

「すまん、分かってるよ。お前が気を遣うなんて珍しいな」シャチは力なく笑った。「別に、落ち込んでは……いるけど、ま、しょうがないさ。お前の言うとおりだし」

 キバは躊躇いつつも口を開いた。

「その、そのだね、シャチ。それぞれの身体の事情ってものがあるかもしれないから、言いにくいんだけれど」

「どうしたんだよ」

 シャチが訝しげに聞き返すと、キバはもう一度躊躇ったのちに、結局は言った。

「性転換はとっくに終わっているはずだよ。その、普通ならね」

「……は?」

 シャチは固まった。キバは言いにくそうにしながらも、口を閉ざすことはしない。

「もちろんボクはスナさんの事情を知らないから、スナさんだけ普通の成長ができていない、なんてことは十分にあり得るんだけれど」

「おい、いや。いや待て」

「ああ、それにしてもシャチ、シャチ! キミ、ちょっとばかしスナさんの話を信じすぎじゃないのかな。ボクたちだって来年の春には立派な女になって子作りに参加するんだから、スナさんだって同じだろうってどうして思わなかったんだ!」

「り、理解が追い付いてねぇんだよ、おい」

 シャチはゆっくりと後ろに下がった。現実を認めたくない。キバは相変わらず自重を知らずにすべてを言葉にする。

「スナさんが本当に女になりきれていない可能性もあるにはあるんだけどね。でもシャチ、ああ……可哀想なシャチ!」

「まってくれ……」

「どうにもボクには、スナさんが嘘を吐いてキミとの交尾を拒絶したように思えてならないよ。今までのことを考えるとね!」

 キバの瞳には、流石に同情の色が浮かんでいた。

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5歳で性転換する甘エビたちのお話 門前髪シフォン @Youkai_Kaminoke

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