5歳で性転換する甘エビたちのお話

門前髪シフォン

第1話 大人にならないで(1)

 彼はいつまでシャチの告白を断り続ければ気が済むのだろう。


「スナさん、俺の番になってほしい」

 大きな岩の下の暗がりで、シャチはもう何度目かになるプロポーズをスナに捧げた。スナは巻き貝の死骸を口に運ぶ手を止め、シャチに向き直った。

「またその話?」

「また、じゃない。俺はスナさんがうんと言うまでずっと言い続けるぞ」

「うーん」

 スナは困ったように微笑み、再び巻き貝に視線を落とした。先端がはさみ状になった細い脚で貝の中身をちぎり、器用に口の中へ持っていく。

「これ、美味しいね。ありがとう」

「そりゃよかった」

 シャチは不満げに脚を動かし、控えめに砂を舞い上がらせた。スナが食べている大ぶりの巻き貝はシャチが持ってきたものだった。死んで間もない貝を見つけたシャチは、自分の食欲を抑えて獲物を貝殻ごと転がし、最近スナがねぐらにしているこの暗がりへと運んできたのである。

「なぁスナさん、その貝と引き替えに俺と交尾するってのはどうだ?」

「えっこれ僕の身体のお代だったの?」

 間髪入れずに問い返されてシャチは言葉に詰まった。一時的な取引じみた関係をスナと築きたい訳ではなかった。それに、元よりこの巻き貝を代金にするつもりもない。ただ自分が惚れ込んだ相手に貢いだというだけだ。

「……冗談だよ。気にしないで食ってくれ」

「あ、そう?」

 スナは特に思い悩む風でもなく貝を食べ進めている。シャチはまた無意味に海底を掻き上げた。自分だけが一喜一憂している。

 ふとスナが苦笑した。

「シャチも食べる?」

「は?」

「そんなに我慢してないで言いなよ。元々シャチが持ってきたやつなんだから、僕だけに食べさせなくてもいいのに」

 どうやらシャチの不機嫌を空腹によるものだと勘違いしているようだ。

「いや、俺は」

「こっちも食べにくいんだって。自分だけ食べてるのめちゃくちゃ気まずいんだよ。僕、そこまで性格悪くないからさぁ」

「あっはは、どうだか」

「いやなんで笑うの」

 シャチの決死の告白を何度もはぐらかす奴のどこが「性格悪くない」なのか。シャチの気持ちが分かっているのかいないのか、スナは首を傾げつつ、巻き貝をシャチの方へ転がした。

「ほら」

「ああ……うん、じゃあちょっと食うかな」

「どうぞ。美味しいよ」

「まーな、俺が見つけたやつだからな」

 雑に自信満々な台詞を吐けば、そのわざとらしさにスナは声を立てて笑った。無邪気な仕草にシャチの心臓が一際強く跳ねる。何気ない瞬間に、シャチはスナに恋をする。それを何度も繰り返してきた。

「ど?」

「うめ」

「だろ」

 大ぶりで柔らかな貝を二人でつつく。スナは食べながら改めてシャチを見た。

「ここまで運ぶの大変だっただろ」

「うん、全然思った通りの方向に転がらなかった」

「それもだろうけど、ほら、他の奴が狙ったりとかさ」

「ああ……」

 貝を食べたがる生き物は多い。シャチやスナのようなエビたちだけでなく、他の魚も貝を食べる。これほど大きく新鮮な貝の死骸とあれば取り合いになることもあり得たし、その上その場で食べずに運ぼうとしたのだから、我ながら馬鹿なことをしたと思う。実際、周りの同胞たちの視線はかなり痛かった。しかし、シャチの進む方向にスナのねぐらがあると気が付くと、彼らは憐れむように巻き貝を見逃してくれた。シャチの報われない恋はこのあたりのエビの間では結構有名なのだ。

 ああ、思い返すだけでなけなしのプライドが悲鳴を上げる。シャチは自嘲気味に笑った。

「スナさんのためだからな……」

「……」

 スナは少し考えるように手を止めた。

「……あの、シャチ。ごめんね?」

「ん? ああ、うん。気にするなら味わって食べてくれ」

「うん、ありがとう。……あのさ、やっぱりさ、まだシャチには早いと思うんだよね」

 シャチも手を止めた。

「…………え、何が?」

「何って、その、交尾」

「え? ……えごめん、何?」

「あのだからぁ、そういうの、大人がすることだからぁ」

 シャチの思考は一瞬止まった。

「シャチ?」

「……スナさん、スナさん今いくつ?」

「ん、誰が?」

「オメーーーーーがだよ!」

 思わず叫ぶと、スナは驚いて少し後ろに飛び退った。

「うわびっくりした」

「こっちがなんだが!? びっくりしたの、こっちなんだが!?」

「え、僕の年?」

「そう!」

「ろ、ろくさい?」

「そうだよなぁ! じゃあ俺がいくつか分かるよな!?」

「な、なんしゃい?」

「一個下だよ!」

「……ごさい?」

「そう!」

 シャチは勢いよく砂を巻き上げた。まさか、それを分かっていないとは思わなかった! スナは突然のシャチの怒りに怯えている。おずおずと問いかけてきた。

「……で、何?」

「俺は立派な大人です! なんならオスの中では年長だわ!」

「そ……そうだね……」

 スナは気まずそうに顔を逸らした。理解したらしい。

 シャチやスナたちホッコクアカエビは、五、六年をオスとして生き、それからメスに性別を変える。つまり、現在五歳のシャチにとって、今がオスとして最後の生殖活動のチャンスだった。そして一つ年上のスナは、おそらく今年からはメスとして生殖に参加するはずである。だからこそシャチはここ最近スナへのアプローチによりいっそう力を入れていたのに。

 シャチはため息をついて脱力した。怯えて引いていたスナが申し訳なさそうに近寄ってくる。

「な、なんかごめん」

「いやなんかっていうか……あー……」

「てか、もうそんな年になるのお前」

「おい、小さい頃のイメージで止まってるとか言わねぇよな」

「最近時間の流れが速いんだよね」

「ババアかよ」

 言ってから、シャチはハッとしてスナに詰め寄った。

「スナさん、ちゃんとメスに変わってるんだよな?」

「え? ……あー、うん。まぁ?」

「自分の身体の変化は感じて、そこから俺の成長に思い至らないのおかしくないか!?」

「あーごめ……いやそれは暴論じゃないか?」

「暴論じゃねぇよ! なんで俺だけ子ども扱いされなきゃいけねぇんだよ!」

「僕、もしかしてかなり大きく傷つけちゃった?」

 スナは慰めるようにシャチに擦り寄った。シャチは大人しく受け入れながら恨み言を吐き続ける。

「スナさんが嫌なら諦めようと思ってたけど……大人とすら思われてないって……」

「えへ……」

「ここ数日の俺の頑張りも届いてないのか……?」

「や、最近大袈裟になってきてるなぁとは気付いてたよ?」

「大袈裟て」

「でもさぁ、シャチって僕がオスの頃からずっと言ってたじゃん? その、番になろって。だから今更意識しようがないっていうか」

「スナさん、もういい、無理に何か言おうとしなくていいから」

 スナの口から出てくる言葉全部がシャチに突き刺さった。あまりの虚脱感にシャチは虚空を見つめることしかできなくなった。人間だったら泣いていただろう。

「あ、ほらシャチ、美味しい貝だぞ-、美味しいぞ-」

 スナは露骨に食べ物で機嫌を取り始めた。シャチは長い触角を一度振ると、真っ直ぐスナを見つめた。

「うわ復活した。貝食べる?」

「スナさん、じゃあ今度は分かってくれるよな。俺はスナさんと子どもを作りたい。嫌なら嫌って言ってくれていい。……駄目か?」

 スナは困りきった顔で、躊躇うように脚を動かした。

「その……嬉しいよ。けど、……あのさ、たぶん僕、まだ子ども産めないよ」

「え」

 固まるシャチの視線から逃れるようにスナは身じろいだ。

「メスになりきってない感じがするというか……たぶんね、性転換するのって、案外時間がかかるんだと思う。シャチがオスの間に、僕がメスになれるかどうか、あの……」

 スナが言い淀む。シャチは言葉を継げなくなった。スナは申し訳なさそうにしながらもはっきりと告げる。

「ごめん、本当に。……きっと僕がシャチの赤ちゃんを作ることはない」

 沈黙が落ちた。

 スナが切り替えるように明るい声を上げた。

「貝、食べよ。僕、シャチと一緒に食べたいから」

「……」

「ね? ここ、あんまり他の子来ないから、二人で食べよ」

「……うん」

 シャチは微笑んだ。スナはホッとしたように力を抜いた。

 他のエビが来ないのは当たり前だ。シャチが牽制しているのだ。誰もスナの住処に入らないように。誰もスナのお腹に触れないように。


 長い冬が終わり、暖かい気配が徐々に深海にも届いている。ホッコクアカエビたちが交尾を始める時期のことであった。

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