アネモネ

椀戸 カヤ

白いアネモネ

 夕方になると都会の電車は人でいっぱいになる。終点の乗り換え駅につくと、混み合った電車から一斉に人が溢れだした。その波にうまく乗りながら、足早にホームを歩く。今日は慣れない靴を履いたせいで、ふくらはぎがだるい重さをまとっている。だけど立ち止まれば他の人の迷惑になると思って、無心に足を動かした。


 田舎の自宅から大阪の大学まで、電車に揺られて1時間半。都会の電車は人だらけの半閉鎖空間、光が入らず、生ぬるい空気の地下街。人混みに慣れていないわたしにとっては、息を潜めてじっと耐える苦痛の空間だった。

 周りを見回しても、そこにいるのはずっとスマホを見ている人、イヤホンで音楽を聴いている人、つかれた顔で眠っているスーツ姿の人で、みんな時間に追われていた。誰もが降りる駅に着けば、急いで電車を降りていくし、エスカレーターや動く歩道で立ち止まらずに歩いていく。

 なんだか、ミヒャエルエンデの「モモ」に出てくる時間泥棒でもいるんじゃないかと疑ってしまう。そういうわたしも、時間泥棒の詐欺にあった1人だ。人の流れを滞らせないように、定期を早めに出して改札を通るし、ギリギリで乗れそうな電車があれば走って乗り込む。なんのため?と聞かれたら、後でゆっくり余裕を持って行動したいから、と答えるけれど、その「後で」はいつまで経ってもやってこない。


 早足で歩いて、効率よく乗り換えをして、削り出した一分一秒が、あなたの通帳に溜まっていきますよ。時間がなくて困ったときに使えるでしょう?そんな声が聞こえてくる。でも、時間がなくて困っているのは、それまでのわたしが無駄にしたからだ。

 本当は分かってる。あのときスマホを見ないで課題をすれば良かったとか、寄り道しないで早く家に帰れば良かった、と思っても、その決断ができるのはそのときのわたしだけ。時間の使い方を決められるのは今のわたしだけなのだ。

 けれど、欲望に流されて、時間を無益に過ごしてしまう。心の裏側に見えないように隠してきた棘が、チクチクと存在を訴えだす。


 改札へ向かう人の流れの中で、虚無感に襲われる。なんのためにこうやって大学に通っているんだろう。わたしの足は重くなる。

 大学は行ったほうがいいよ、言われるまま周りに流される自分のことが嫌になる。途端に足を動かせなくなって、それでもこれまでの習慣は抜けないもので、邪魔にならないように柱の影へふらふらと近づく。人の流れが途切れてから、とぼとぼと改札を抜けた。このままここにいても仕方がないと乗り換えの駅へ歩き出したとき、ふと優しい視線を感じて顔を上げると、鮮やかな緑が目にしみた。


 そこは、いつも目の端にとらえながらも、忙しいから、と通り過ぎていた花屋だった。駅の建物内の小さなスペースだけれど、今のわたしにはキラキラ光って見えた。近づくと、正面には大小さまざまなブーケや、小さな鉢植えが美しく陳列されていた。店の奥には何種類もの花たちがずらりと並んで咲き誇っている。

 引き寄せられて店に入ると、赤や黄色やピンクのバラ、青や紫のヒヤシンス、フリルの入ったチューリップに、わたしが名前も知らないような、花びらが幾重にも重なる大輪の花たちが出迎えてくれた。

 その中に、一際やわらかな雰囲気をまとった花を見つけた。クレヨンで描いたみたいな太くしっかりとした茎を伸ばし、レース飾りのような切れ目の入った可愛らしい葉をつけ、その上に丸くころんとしたフォルムの白い花を咲かせている。ブリキ缶に貼られた名前は、アネモネ。名前までなんだか柔らかな雰囲気を纏っていて、一目惚れしてしまった。

 わたし、この子を連れて帰りたい。気づけば手に取って、この主役をひき立てるグリーンを選んでいた。



「ご自宅用ですか?」

 店員さんの声にはい、と答えながら、プレゼントでもないのに花を買うなんて、人生で初めてだなぁと考えて、ウキウキした気分でいる自分に気づく。さっき感じた棘たちは、わたし自身を守るために、心にそっとあるものだった。疲れすぎると、疲れていることにも気づけない。人間だから落ち込むこともあるけれど、わたしはわたしを大事にして生きていく。

「ありがとうございました〜。」

 花束とともに渡されたお礼の言葉に会釈をして、軽い足取りで乗り換え駅へ向かう。さっきまでの憂鬱な気分は、いつのまにか消えていた。



 ちょうどホームへ滑り込んできた電車に乗り込み、空いている座席に座る。花束を膝に乗せると、白いアネモネの花と目が合った。わたしの心にふんわりと甘い香りが広がった。

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