カノン
棗颯介
カノン
時々、自分が誰なのか分からなくなる時がある。
朝、重たい瞼を擦りながら洗面台の鏡の前に立ったとき。クラスの出席確認で名前を呼ばれたとき。電車の車窓に映った自分の顔を見たとき。
生まれたばかりの人の顔や背丈はだいたいみんな同じだ。なのに数年も経てばそこに個性が生じる。顔の形、目の大きさ、口の開き具合、身長、体重、髪の癖から声に至るまで。本当の私は、どんな顔をしていたんだっけ。もう何度も身体を入れ替えているから、思い出せない。
「うん、ボディに拒絶反応は出ていませんね。しばらく通院は必要ないですが、定期的に検診を受けるようにしてください」
「わかりました」
“KANON”と命名されたポッド型装置から一時間ぶりに解放され、つい数日前まで知らない誰かのものだった私の身体が歓喜するかのように大きく伸びをする。数えきれないほどこの装置の世話になっているけど、一度入ったらなかなか出してもらえないのが唯一の不満点だ。
まぁ、身体から精神を引っ張り出すんだから時間がかかるのは仕方ないのかもしれない。
前のボディにガタが来て、今の身体に乗り換えたのは数日前。前のボディは女性の身体の割にはしっかり筋肉がついていて動きやすかったんだけど、私はそもそもアウトドア派じゃないからあまり意味はなかった。だから、今回新調したボディは体力よりも“おつむ”を重視したものを選んでみた。デザインは色白でやや童顔、髪色は金。身長は私の年齢の平均と比べればやや低めの、女の子の好きな着せ替え人形みたいな身体。脳のスペックが高い分、前のより値は張ったけど。
「じゃあ、ありがとうございました」
病院の受付で支払いを済ませた私は、家には帰らずそのままの足でいつもの場所に向かう。今は午後三時を過ぎた頃だから、あの子はきっとまだいるだろう。
「あ、
病院からほど近い、既に廃園と化した小さな幼稚園跡地の狭いグラウンド。塗装が剥げて錆びだらけのジャングルジムに登っている、十歳にも満たない外見の少女。名前は———。
「しおり、ごめんね。遅れちゃって」
「よっと。ううん、平気だよ。一人で遊ぶの得意だしね」
奇しくも私と同じ「しおり」という名前の少女は、私を見るなり勢いよくジャングルジムから飛び降りてこちらに駆け寄ってくる。高いところからジャンプしたら危ないよ、なんて台詞は昔から言っているけどまるで言うことを聞かない。無邪気に顔を輝かせて駆け寄ってくる小さな女の子の姿は、否応なしに私の心を明るくさせる。穢れのない無垢な心がこんなにも尊いものだということを、私はこの子に会うまで知らなかった。
「どうだったの、検査?」
「大丈夫、どこも問題はないって」
「そっか、良かった!ねぇねぇ、今日は何して遊ぶ?」
「今日はじゃあ、シャボン玉飛ばそうか」
「わーい!」
私が肩掛け鞄の中からシャボン玉の遊び道具一式を取り出すと、しおりは両手を上げて絵に描いたような喜びを見せた。この子の笑顔を見ていると、本当に心が落ち着く。いつも殺伐とした家で過ごしている私にとって、私達以外誰もいないこの場所でしおりと触れ合うこの時間は何よりの安寧だった。
人の肉体から精神を分離し別の肉体に移植する装置“KANON”は、本来誰にでも利用できるものではない。理由の一つは、一度自分以外の肉体に精神を定着させてしまうと、以後数年単位で別の肉体に乗り換えていく必要があるから。ずっと同じ身体を使い続けると徐々に精神(魂とも表現される)が身体と分離し、最終的には肉体を完全に離れて消えてしまう。端的に言えば死ぬということ。
虫歯の定期健診みたいに安いコストで乗り換えられるなら話は別だが、人間の素体一つを用意するのと銀歯一本を用意するのとでは必要経費も手間も格段に違う。
だから、五歳の頃からずっと私の身体の乗り換えを許してくれている両親には感謝している。でも、私が“KANON”を使うことで、私達家族は家族ではなくなった。理由はきっと、私の身体が両親のくれたものではなくなったから。精神も記憶も心も私は生まれた頃から変わっていないけど、それを包み込む身体は人工的に造られたもの。髪型や髪色ならともかく、骨格から声まですべてが変わるうえにそれが数年周期でさらに別のものに更新されていく。そんな子供に、今までと変わらぬ愛情を注ぐというのも無理な話だろうというのは、私にも理解できる。朧げに覚えているのは、両親がアルバムに映った昔の私を見て涙を浮かべていたこと。そしてそのアルバムは、私が気付く頃にはいつの間にか処分されていた。きっと、両親なりのけじめだったんだと思う。
「ふぅー、ふぅー……うーん、全然シャボン玉膨らまないよ」
「しおり、あんまり強く息を吹いちゃうとすぐに割れちゃうよ。ゆっくり優しくするの。こんな風に」
私のストローから一際大きなシャボン玉が膨らみ、先端から離れて空へと昇っていくのを見るしおりは一層目を輝かせた。
「わー、詩織すごい!きれい!私も!」
次いでしおりがストローからシャボン玉を膨らませる。私のシャボン玉ほどではないが先程までしおりが吹いていた時よりも大きなシャボン玉が出来上がり、私のものを追いかけるように空へと浮かんでいった。
「よくできたね、しおり」
「えへへ、うん!」
しおりの頭を優しく撫でてやる。本当にこの子は可愛い。無邪気で、素直で。このまま家に連れ帰って妹にしたいくらい。
ううん、ダメだ。私の家に連れて行けば、この子もきっと私みたいに、辛い思いをすることになるから。この子の持つ無垢な輝きを、曇らせちゃいけない。
「はぁ、楽しかった」
「うん、楽しかったね」
空が夕焼け色に染まり、どこかで鳥の鳴き声が聞こえるまで、私達は遊んでいた。もうすぐ帰る時間だ。
「しおり、一人で帰れる?途中まで送っていこうか?」
「ううん、一人で帰れるから大丈夫!またね、詩織!」
「そっか。うん、またね」
笑顔で手を振ってどこかへと駆けていく後ろ姿を見るたびに、私はまるで夏休みが終わってしまったような寂しさを覚える。ここに来ればまた会えるのに。しおりと別れるたびに、去っていくあの子の背中を追いかけて抱きしめたくなる。どこにも行かないでと泣きつきたくなる。
どうしてだろう。
「ただいま」
「遅かったわね。ご飯できてるから」
家に帰ってきた私を、母は喜びとも疎ましさともつかない表情で出迎えた。怒りもしないが笑いもしない。いつも通り。
リビングの食卓には既に母の作った夕食が並べられており、父は私に先んじて食事に勤しんでいる。最後に家族揃って食卓を囲んだのはいつだったろう。覚えていない。
父から一つ分椅子を空けて席に着き、無言で手を合わせて私も夕食をとる。美味しい。昔はボディを乗り換えるたび、味覚が狂っていないかをひどく気にしていた気がする。味覚を通して伝わる母の料理の味が変わっていないことに安心したかったのかもしれない。家族であるという数少ない繋がりみたいなものを失いたくなかったのかも。今は、美味しく感じればそれでいい。
「詩織」
無言で夕食を摂っていた父が唐突に話しかけてきた。珍しい。その目は食卓に並べられた料理に向いていて、私を見てはいないけれど。
「なに」
「進路はどうする気なんだ」
「国立の医大に行くって前も言ったでしょ」
こう見えて私は学校の成績は良い。まぁ、そういうスペックのボディを使っているからなんだけど。
「そうか」
それだけ言うと父はまた黙々と箸を進める。『頑張れ』の一言も言ってくれないのかこの人は。
もうほとんど覚えていないけれど、まだ私の身体がこの人たちから貰ったものだった頃は、二人はいつだって私のことを褒めて、認めて、助けてくれていた気がする。私が幼稚園の運動会でリレーのアンカーで一位になった時。家で出された嫌いな野菜を頑張って食べた時。私が友達と喧嘩して泣いていた時。
どうして、いつから、こうなったんだろう。
食事を済ませた私は両親の視線から逃れるように自室に戻り、いつの間にか眠っていた。
***
「なぁ、
「なに?」
学校の昼休み、コンビニで買った菓子パンに口をつけようとした私に声をかけてきたのはクラスメイトの
「今度の日曜に
「あぁ、谷口さん転校しちゃうんだったね」
「そう。どうする?」
「ごめん、その日はちょっと予定があって」
「そっか、なら仕方ないな」
「ごめんね。谷口さんによろしく」
「おう」
紘は残念だ、とでも言いたげな顔を浮かべてどこかへ去っていった。でも、きっと彼は私が参加しなくて内心良かったと思ってるんだろう。“KANON”で定期的に身体を更新しているような生徒は、全校数百人の中でも私だけ。そんな私と仲良くしてくれる人はこの学校には一人もいない。私が行けば、自然と周囲は私に気を遣う。送別会でそんな人間が顔を出せば迷惑でしかないだろう。
紘とは幼稚園の頃から付き合いのある、所謂幼馴染。いつからだろう、紘が私のことを『詩織』ではなく、『川上』と呼ぶようになったのは。廊下ですれ違った時に互いが互いを無視するようになったのは。
コンビニの菓子パンは、いつも通り美味しかった。
学校帰りにいつもの幼稚園跡地に行くと、そこには既にしおりがいた。
「あ、詩織~!」
いつも通り、こちらを見るなり元気に手を振る小さな子供の姿に、私の心は癒された。どんなに息苦しいことがあっても、しおりの笑顔を見るだけで私は生きていて良かったと思える。
「ねぇねぇ、今日は何して遊ぶ?」
「今日はね、さっき駄菓子屋さんでこんなものを買ってきたよ」
「わぁ、飛行機だ!どうやるの?」
「これはね、まず発泡スチロールの部品を組み立てて———」
その日は日が暮れるまで、しおりと二人でおもちゃの飛行機を飛ばして遊んでいた。お互いに自分の飛行機に変な名前を付けて、名前を叫びながら飛ばしたりして、空が夕焼け色に変わる頃にはお互いの喉が枯れていた。
散々飛行機を飛ばして疲れ切った私達は、鎖がほとんど錆びているブランコに腰かけながらのんびりと茜色の空を見上げていた。
「はぁ、疲れたね」
「でも私、すっごく楽しかった!」
「そっか、しおりが楽しんでくれたなら良かった」
「ありがと!詩織だいすき!」
少しの沈黙が流れた後、しおりが不意に私に言った。
「詩織、もうすぐ大学に行っちゃうんだよね」
「うん、そうだね」
「遠くの街に行くんだっけ」
「うん。でもしおりに会いにちょくちょく帰ってくるよ、心配しないで」
そう言って隣に座るしおりの頭を優しく撫でる。しおりは涙こそ見せないが、どこか寂しさが拭えないようだった。
でも、寂しいのは私も一緒だ。この町を離れて、しおりと簡単に会えなくなるときのことを思うと、悲しさで心が潰れてしまいそうになるくらい。
「詩織、私達が初めて会った時のこと覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ?」
~~~
私がボディの定期健診で病院に行った帰り道。たまたまいつも使っている道が工事で通れなかったから迂回して家に帰っていた私は、廃園になった幼稚園の狭いグラウンドで一人ブランコに座っている小さな女の子を見つけた。
ちょうどその日は雨が降っていて、けれどその子は傘もささずにずっと一人で雨に打たれていた。それはまるで、行く宛てのない捨てられた子犬のようで。どこにも居場所がなかった私のようで。
だから私は、その子を自分の傘の中に入れてあげた。
「大丈夫?」
私がそう聞くと、ブランコに座っていた女の子はずぶ濡れの頭を上げて私の顔を見た。
「迷子?お父さんかお母さんは?」
そう聞くと、女の子はゆっくりと首を横に振った。
「……おいてかれたの」
「……そっか」
置いていかれたというのが、この廃園のグラウンドにという意味なのか死に別れたという意味なのかは分からなかったけれど、小さな子供相手に深く聞いてはいけない気がした私は、ただ黙ってその子が濡れないよう傘を差し続けるしかなかった。
クシュン、という小さな音が聞こえて、ようやく私は今のままではいけないということに気付く。
「ずっとここにいちゃ風邪ひいちゃうね。お姉さんがお家まで送っていこうか?」
「……」
初対面の私を信用していないのか、家に帰れない事情があるのか、多分その両方だろうと私は思った。
「……まってるの」
「え?」
「ここで、ずっとまってるの」
「誰を?」
「だいじなひと」
「その人は、もうすぐ来るの?」
「いつ来るかわからないけど、まってるの」
友達と遊ぶ約束をすっぽかされでもしたんだろうか。
本当なら多少無理やりにでも家に連れていくか、見ず知らずの他人のことなんて放っておけば良かったんだと思う。でも、見ず知らずの女の子に強引に迫るようなことも、雨に濡れて誰かを待ち続ける女の子を放っておくことも、どちらも私にはできなくて。
「じゃあ、一緒に待ってようか」
「え?」
「私も、ここで君と一緒に待ってる」
「どうして?」
「うーん、なんでだろうね。あなた名前は?」
「……しおり」
「じゃあ、私と一緒だね」
~~~
「あの後翌朝までずっと二人でここにいたんだよね。私も詩織も雨に濡れて風邪ひいちゃって」
「うん、そうだったね」
「あれから詩織、いつもここに来てくれるようになったよね」
「だって、しおりは今も待ち続けてるんでしょ?その誰かのこと」
「……うん。そうだね」
「私がこの町を離れるまでに会えるといいね」
「……うん」
***
大学受験は、滞りなく終わった。結果は、合格。純粋な学力の結果でもあると思うけど、大学側としては貴重な“KANON”被験者を確保したいという考えももしかしたらあったのかもしれない。そもそも私が医大を目指したのも、“KANON”の開発・改善を職にしたいと思ったから。特に数年単位で高価な素体に乗り換えなければならないという経済的なデメリットを改良できれば、もっと多くの人が気軽に“KANON”を使うことができる。“KANON”が普及してボディの入れ替えが当たり前になれば、私のように他人からの目を気にすることも、社会で孤立することもきっとなくなる。
それはもしかしたら、世のため人のためではなくて、私自身のためなのかもしれない。
大学からの合格通知を受け取った日、私は両親よりも先にしおりに報告に行った。多分両親は私が医大に合格して当たり前だと思っているから、いつも通り喜びもしないだろう。
よく晴れた日の昼下がり、しおりはいつも通り幼稚園跡地のジャングルジムのてっぺんに座っていた。
「しおりー!」
「あ、詩織!」
いつもならしおりの方から私に駆け寄ってきていたけど、今日はめずらしく私がしおりのところに駆けていく形になった。それだけ、しおりに早く報告したいと思っていたのかな。
「大学、合格したよ」
「そっか、おめでとう!」
しおりは屈託のない笑顔で祝福してくれた。その笑顔を見るだけで、今日まで頑張ってきて良かったと思える。本当に頑張らなくちゃいけないのはこれからだけど。
「詩織、ずっと頑張ってたもんね。やっと詩織の夢が叶うのか~」
「夢が叶うのはまだまだ先の話だよ。でも、その第一歩は進めたかな」
「良かった、本当に」
「しおりもありがとうね」
「私は何もしてないよ?」
「ううん。しおりがいたから、私は今まで頑張れた」
「そっか。詩織の助けになれてたなら、私も嬉しい」
「うん、本当にありがとう」
「でもそっか。詩織ももうすぐ大学生ってことは、これからあっという間に大人になっていくんだね」
ジャングルジムに器用に座るしおりは、ぼんやりと青空を仰ぎ見る。まるで小さな子供が精一杯背伸びして達観しようとしているようで、見ていてもどかしい気持ちになる。
「詩織はこれからも変わり続けるんだよね」
「しおりだってそうでしょ?人は生きていく限り変わり続ける生き物だから」
「……うん、そうだよね。変わらないものなんて、この世界にはないんだよね」
「でも、私はできれば、しおりには変わらないでほしいかな。しおりはしおりのままでいて欲しい」
「ううん。それは、無理かな」
「え?」
しおりがジャングルジムから飛び降りて私の傍に着地する。そして顔を上げると同時に、しおりが言った。
「もうお別れだよ、詩織」
「え?何言ってるのしおり?大丈夫だよ、大学に行ってもちゃんと私はしおりに会いに戻ってくるから」
「違うの。そういうことじゃないの。わたしはね、“しおり”なの」
「う、うん。しおりはしおりだよ?」
「違うの。わたしは、あなたなの」
「え?」
しおりが何を言っているのか理解できなかった。対するしおりは今にも泣き出しそうな顔でただじっと私を見ている。
「えっと、しおり。何を言っているの?」
「私は、小さい頃の詩織が死にかけた時にこの場所に残った思いなの」
「私が死にかけた時?」
「やっぱり、覚えてないんだね。小さい頃詩織はね、この幼稚園でジャングルジムから落ちて、頭を打って死にかけたの」
私が“KANON”を使い始めたのは五歳の頃から。でも、どうして私が“KANON”を使うことになったのかは、私自身は覚えていなかった。両親から、事故で死にかけて別のボディに精神を移さないと助からなかったからとは聞かされていたけど。
「じゃ、じゃあしおりが待ってた人っていうのは……」
「うん。詩織を待ってたの。いつか私を迎えに来てくれるって思ってたから。詩織は“KANON”で身体が私の頃のものじゃなくなってたから、私もすぐに気付けなかったけど」
そう。そうだ。私も、私が小さかった頃の自分の顔を覚えていない。写真は、私が気付いた頃には両親が既に捨ててしまっていたから。
「でも詩織と過ごすうちにね、気付いたんだ。私は詩織とはこれからもずっと一緒にはいられないって」
「どうしてそんなことを言うの!?私は、私はこれからもしおりと一緒に……!」
「詩織も言ってたでしょ?人は変わっていく生き物なの。ずっと子供のままじゃいられないんだよ」
そう言うしおりの身体が、徐々に不鮮明になっていく。しおりを通して向こう側の景色が透けて見えるようになってきた。
「もう、あんまり時間はないみたいなんだ」
「やだ……やだよ、しおり………」
しおりのその言葉に、私はとうとう涙を流してしまう。確かに人は変わっていくものだけど。私はきっとこれからも変わり続けるけど。“KANON”で新しい身体に乗り換え続けていくんだろうけど。
でも。
「変わらないものがあったっていいじゃない!」
気付けば私はしおりを抱きしめていた。今はまだ、しおりに触れることができて、その手にぬくもりを感じることもできた。間違いなくしおりは、私がいつかここに置き去りにしてしまった幼い日の私は、ここにいる。
「詩織……」
「しおり、ずっと一緒にいようよ……?だってしおりは、私なんでしょう?同じ私なのに、一緒にいられないなんて、そんなのおかしいよ。ね……?」
「私も、詩織とずっと一緒にいたい……うっ、うぅぅ……」
腕の中でしおりも涙を流していることが分かる。きっとこれはしおりの涙じゃなくて、私の涙だ。“KANON”で変わり続けてきた私が、遠い日に置いて行ってしまった感情。変化を恐れ、一つの場所にずっと留まっていたいという子供の我儘のような、けれど誰もが思う当たり前の想い。
「……っ、ねぇ、詩織?」
「なに……?」
「変わることは、良いことなんだよ、きっと」
「何言ってるのよ、しおりは———」
「変わっていくのは生きている証拠だもん。生きていればきっと良いことある。だから変わっていくのは良いことなんだよ」
しおりは気付いて言っているのかな。
しおりのその言葉が、私の今までのすべてを肯定する言葉だっていうことに。
“KANON”でボディを変え続けて、私の家族は家族じゃなくなった。友達もいなくなった。一人ぼっちになった。
私のせいだと思っていた。私が変わったせいで、みんなも変わってしまったって。私が悪いんだって、心のどこかで自分を呪っていた。
しおりに言われて気付いた。私はずっと、誰かにそう言ってほしかったんだ。変わるのは悪いことじゃない。変わっていくことは間違いじゃないんだって。
「うっ、うぅぅ……しおりぃ………」
「詩織……、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「……うん、なんでも、きくよ?」
「私のこと、時々でいいから、思い出してほしいんだ。これからさ、詩織は見た目も心もどんどん変わっていくかもしれないけど、そういえば昔、小さな女の子と友達になったっけって。せめて思い出だけでも、変わらずに心に残しておいてほしいの」
「そんなの……頼まれなくたって、私がしおりを忘れるわけないじゃない!」
「………良かったぁ———」
唐突にバランスが崩れ、私はそのまま地面に膝をついてしまう。慌てて辺りを見渡しても、もうどこにもしおりの姿は見えなかった。
私は、その場から立ち上がることができなかった。
「しおり……。本当に、こうなるしかなかったの……?本当はもっと、遊びたかったんじゃないの……?私は、これからもしおりと遊んで、お話して、美味しいもの食べたり、もっと一緒にいたいって思ってたよ……?」
目からとめどなく流れる涙が地面に滴り落ち、無数の黒い染みを作る。もう何年も流していなかった涙が、私ではない私の身体から溢れ出てくる。
「しおり……しおりぃ……っ、ああぁぁぁぁあぁぁああぁぁぁぁ!!!」
私はこの日、幼かった日々に別れを告げた。
***
***
***
「主任、成功です!被験体αが従来の持続可能時間の数倍を更新しています!」
「やっぱり、この理論で進めて正解だったみたいね」
新型“KANON”の開発をスタートしてもうすぐ一年になるが、ようやく良い兆しが見えてきた。この調子でいけば、一度の素体変更で一生分の持続時間を確保することも夢ではないかもしれない。
「この新型の開発が成功すれば、もっと多くの人を救うことができますね」
「そうね。並行して進めてる素体の改良プランはどうなってる?」
「はい、一旦上層部に暫定案は提出していますが、やはりオリジナルの人物と同等のスペックを持った素体の実用化にはまだまだ時間がかかりそうです」
「すぐにはやっぱり厳しいか。でも、地道に改善していけばいつか必ず理想に近づくわよね」
「主任の熱意には頭が下がるばかりです」
「熱意なんてものじゃないわよ。ただ私がそうだったから、新しい世代の人たちには同じ思いをしてほしくないだけ。人が変わっていくのは悪いことではないけど、変化を素直に受け入れることができない人がいるのも事実だからね」
そう、人が変わるのは良いことだ。私だってそう。文字通りこれまで身も心も何度も変わってきたから今がある。そしてこの今が、より多くの人を救えるその先に続いていくんだ。あの日、あの子から教わったこと。
でも同時に、変わらないものがあったっていいと思う。当たり前のようにそこにある家族との団欒とか、ずっと続いていく変わらない友情とか、大人になっても忘れない、子供の頃の思い出とか。
「そうだよね、しおり」
「主任、どうかされましたか?」
「あぁ、ごめんなさい。なんでもないわ。それより用意してた例の被験体で試験を進めてみましょうか」
「はい!」
少なくとも私の想いは、今も昔もこれからも、きっと変わらない。
カノン 棗颯介 @rainaon
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