第2話 正体不明の何か


 膝まで覆う黒光鎧こくこうがいに身を包んだ璙雲は、沈んだ心をふるい立たせるように、目を閉じて深く息を吸い込んだ。春の気配が漂う清涼な空気に混じり、かすかに錆びた鉄と青々とした竹の香りが鼻をくすぐる。肺を満たしたそれが、重い心をほんの少しだけ軽くした。


「鬼なんていない。あれは人間だ。人間なら、切り捨てることができる」


 まるで自分に言い聞かせるように呟くと、璙雲はゆっくりとまぶたを上げた。黒曜石の瞳が闘志に揺れ、目の前の廃墟を鋭く睨みつける。


(絶対にあれが人間だと証明する)


 心に覚悟を刻み込み、璙雲は廃墟の扉を押し開けた。一歩足を踏み入れると、警戒の目を四方に巡らせ、上下にまで意識を張り巡らせる。誰が近づいても即座に対応できるよう、剣のつかを握る手に力を込めた。


 内部は外観と変わらない荒廃ぶりだった。蜘蛛の巣が張り巡らされた天井、塗料がこけむした柱や壁、歩くたびに軋む音を立てる床——その全てが、昨日見た光景と寸分違わなかった。


「……?」


 昨日、自らがつけた足跡を辿りながら回廊を進んでいた璙雲は、ある地点で足を止めた。足跡が途中で途切れているのだ。それも残っているのは自分の足跡のみで、背中に触れた子供の足跡はどこにも見当たらない。


(やはり、体重が軽すぎて跡が残らなかったのか?)


 そう考えた瞬間、前方から木がむ音がした。璙雲は即座に剣を抜き、構えながら闇の奥を睨む。やがて闇は人の形となってゆっくりと近づいてきた。ぎこちない足取りだ。足を負傷しているのだろうか。


「誰だ?」


 穏やかに璙雲は問いかけた。その声には怒気は含まれていない。驚かれたのはかんさわるが相手が子供なら、説教で済ませるつもりだった。


 しかし、人影は答えない。距離が縮まるにつれ、鼻をつく異臭が強まった。肉が腐敗した臭いと青草の匂いが混ざり合ったような、不快極まりない臭いだ。


「これはお前の悪戯か?」


 璙雲の声に応えるように、人影が腕を伸ばした。その指は白くふやけ、爪は所々剥がれて肉が露出していた。さらに、その体は熟れすぎた茄子のように異様にふくれていた。


(これは悪戯ではない。……人間ですらない)


 本能が警鐘を鳴らす。璙雲は薄闇を裂くように剣を振るった。

 しかし、手応えはない。霞を切ったような感触だけがてのひらに残る。再び斬撃を放とうと構えた瞬間、


「やめて」


 涼やかな声が耳元で囁いた。


(仲間がいるのか?!)


 振り向こうとするが、身体は金縛りにあったように動かない。どうにか目だけを動かし、声の主を探る。

 璙雲のすぐ横には、鬼の面をつけた女が立っていた。声はまだ幼く、女というより少女と呼ぶべきだろう。


「あの人は私のお客様。あなたが手を出すことは許さない」


 冷たい声が鬼の面から響いた。

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鬼鏡秘譚 萩原なお @iroha07

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