【第一章:幽寂宮】
第1話 床に転がる物体
椅子に腰を沈めた璙雲は、
「ふ、ふふっ。戦神ともあろうお方が鬼に驚き逃げ出すなんて」
笑いを抑えきれていない、くぐもった声は床の物体から聞こえる。璙雲は更に両目を細めて、舌を打つ。
「皓月。いい加減、黙れ」
名前を呼び、短く命じても物体——皓月は身体を起こすだけで、口は閉ざさない。
「後宮の
「うるさい」
璙雲の怒りに
けれど、昔馴染みである皓月は恐れず更に軽口を重ねた。思えば、彼はいついかなる場面でも恐怖に
「ああ、やはり件の叫び声は君だったのか」
「……違う」
「安心したまえ。叫んだのは君以外の者だと思われているそうだよ。かの武神があのようなす、んふふっ、……
「……」
「いやぁ、それにしても〝後宮の鬼〟が本当に実在したとは」
一転して、皓月は表情を改めると落ち着いた声音で喋りだす。
(真面目にできるなら最初からそうしろ!)
璙雲は内心で怒りを吐きながらも平静を装って唇を開いた。ここでぶつくさ文句を言っても皓月に通じないどころか、また一からやり直しだ。
「実在したとは限らない。鬼に
「宮女? 男ではなく?」
「背丈は俺の胸ぐらいだ。
童宦——幼くして宦官となった者を指す言葉だ。今現在、後宮にはおよそ二百名が暮らしている。精通前に去勢を施された童宦は、成人後に性を切り取られた宦官と比べて、いつまでも声は女性のように細く、ふっくらとした体つきをしているため「童宦が女装していたのでは?」と皓月が問いかけると璙雲は微かに首を傾げた。
「まだ幼児なら見間違えるの無理はないが、背丈は十二、十三の子供ぐらいだった。その年頃なら、さすがに男女の見分けはつく」
勘だが、と璙雲が付け加えると皓月は月華の美貌に笑みを
「君の勘は当たるからねぇ。けれど、扉が勝手に開いたのだろう?」
璙雲が幽寂宮を訪れた時、無風だったのにもかかわらず扉はまるで意思が宿ったように開いた。扉と柱を繋ぐ蝶番は
「そして、誰も住んではいなさそうだった」
誰かが訪れていたなら埃が蓄積した床には足跡がはっきりと残っているはずだ。それに、今にも腐り落ちそうな床板に崩れてしまいそうな壁はとうてい人が住めるような所ではない。
璙雲が「生きた人間の
「君は勘が鋭い。子供に背中を触れられるまで、気が付かないとは考えにくい。——本当にそれは人間かい?」
「鬼などいるわけがない」
璙雲はすぐさま否定した。無意識に声は強張り、璙雲の心の内をあらわにする。
いつもなら喜んでからかうだろう皓月は、
「俺が油断していたから気が付かなかっただけだ」
冷静に考えれば、なんとも恥ずかしい告白だが璙雲は気が付かない。早口でまくし立てる。
「扉が開いたようにみえたのは風が押したからだろう」
「無風だと言っていたのを忘れたのかい?」
「いや、風はきっと吹いていた。俺のところまで届かなかったからそう見えただけだ」
「汚れた床に足跡が残っていなかったのは、どう言い訳するつもりかな?」
「言い訳ではない! あれは、その……。子どもの体重が軽すぎたから残っていなかったんだろう。そのせいで足音もしなくて、俺も気付くのが遅れた」
皓月の憐れむ視線が突き刺さるが璙雲は気が付かないふりをする。どれほど
「君は本当に現実主義だね。私は鬼はいると思うよ」
頭痛がするのか眉間を指で揉みながら、皓月は深くため息をはく。
「
「子供の悪戯だ。放っておけ。今までだって被害はでていない」
「本当に人間の子供なら、ね。君の話を聞いている限り、私は鬼で間違いないと思う」
「……話していても
璙雲は深い溜息をつき、立ち上がった。皓月がなにやら話しかけてくるが無視して、房室を出ていく。向かうは幽寂宮だ。そこで見た〝鬼〟がれっきとした人間であることを確かめるために。
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