第2話 朽ち果てた殿舎


 夕闇溶けた竹林を、璙雲が一人寂しく歩いていると薫風くんぷうが隣を通り抜けた。風というにはやや弱いが天に届くほどに背伸びした竹をしならせるのは十分。ざわざわと葉を揺らし、その振動は地面をも軽く揺らす。


(……はあ、面倒なことになった)


 空から降ってくる竹の葉を鬱陶しそうに払いつつ、内心では大きなため息をつく。皓月の売り言葉に、つい啖呵たんかを切ってしまった自分を後悔してももう遅い。


「ほら、鬼は夕暮れにでるそうだ。早く退治してきてくれ」


 無事に璙雲を言いくるめることに成功した皓月はほくほく顔で、どこから拝借してきたのか璙雲の愛刀を押しつけてきた。政務があるから後日、と璙雲が断っても「なら私がしてあげるよ。最終段階は君がすればいい」と言われてしまった。


(鬼など存在いるわけがない。後宮という場所だから噂されるのであって、どうせ正体は猫とかだろう)


 後宮には正妻である皇后を頂点に、三千を超える美女が集う。眞王の寵愛を得るべく、また得た寵愛を目移りさせないために彼女達は血で血を洗うような醜い戦いを繰り広げてきたため、後宮にまつわる話は多岐にわたる。美しい妃が眞王の目に留まらないように顔の皮をいだ妃の話、お気に入りの衣裳いしょうに傷をつけたとして妃に四肢ししを切り落とされた宮女の話、無実の罪を着せられ鞭打ち刑に処された宦官の話——。


 これは全て前王朝が滅び、その後の千年間に実際に起こった出来事だ。


 璙雲が即位して早一年。後宮入りした女人の数は両手の指でも足りないが、璙雲が平等に接しているのと、まだ誰も懐妊していないこともあって平穏そのもの。皓月がいう〝後宮の鬼〟が本当にいるとは思えない。


(そのような噂が流れないように、取り壊すべきだろうか?)


 心当たりが一つある。後宮の外れに建設されたすたれた殿舎でんしゃ、確か名を〝幽寂宮ゆうじゃくきゅう〟といっただろうか。

 前王朝時代に罪を犯した妃を幽閉するためだけに造られたその殿舎は、千年が経とうというのに取り壊されることなく後宮そこにある。今はもう使われていない過去の遺物だ。何度か取り壊す案がだされたが、いづれも実行にはいたらず。今もなお、後宮の外れに存在した。


「ここが幽寂宮、か……」


 前方が開いたことで群青とだいだい色が混じり合う空模様がはっきりと視界に映る。遠い地平線がまるで燃え上がるように染められていて、その中央で古びた佇まいを際立たせているのはくだんの幽寂宮だ。

 石造りの門はひび割れ、つたが絡みつき、こけに覆われている。蝶番は錆びつき、門扉はちて、風に吹かれるたびに耳障りな音を立てた。殿舎としてのはかろうじて残っているが、かつての華やかさを思わせる装飾はほとんど失われ、今にも崩れて去ってしまいそうだ。


(これほど荒れ果てているのに、なぜ取り壊さない?)


 風に混じって湿った土と腐敗した木材の臭いが辺りに漂い、璙雲の鼻孔びこうを刺激する。不快な臭いに璙雲は顔をしかめた。


(鬼すら住むのも躊躇ちゅうちょしそうな廃墟はいきょだな)


 心の中で苦笑し、扉に手をかけようとしたその時だった。


 ——ギィ……。


 璙雲の武骨な指先が触れる前に門扉がわずかに開いた。風に押されたわけでもない、不自然な動きだ。璙雲は眉をひそめ、扉の隙間から中を覗き込む。


(気のせいか?)


 外構がいこう同様、中も荒れ果てていた。ひび割れ、穴が空いた天井や壁から落ちる残光のおかげで目視でも十分進めそうだが、璙雲は皓月から愛刀と共に手渡された燭台しょくだいに灯りをつけた。

 右手に刀を、左手に燭台を。皓月が見たら指をさして笑いそうな姿だが、意を決して扉を押し開ける。


(……やはり、誰もいないな)


 静かに歩を進めながら璙雲は周囲を見渡した。腐った床には積もりに積もった砂埃すなほこりが厚く層をなしており、誰もこの場所に足を踏み入れていないことを物語っている。天井から差し込む光は、先ほどよりも闇を帯びており、燭台だけでは足元を照らすだけで奥まで見ることはできない。

 もう帰ってしまおうか、と璙雲が考えた時、どこからか微かに水滴が落ちる音が聞こえた。その音が、不気味な静寂を一層際立たせている。


「誰かいるのか?」


 璙雲の眉がわずかに動く。ここ数日、天気は良好。幽寂宮の池は枯渇こかつしており水音を立てるような生物はいない。それに夜露がしたたるにはまだ早い時間だ。


 ——ならば、この水滴が落ちる音はどこからするのだろうか?


 璙雲はつかを握る手に力を込めた。気の所為せいだと思いたいが、先ほどの扉の件もあるため、神経を尖らせる。


「……ねえ」


 軽く背中を叩かれて、璙雲は背後を振り返り、直後、叫声をあげた。暗がりの中、鬼が璙雲を恨めしそうに睨んでいた。

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