鬼鏡秘譚

萩原なお

【序章】

第1話 後宮に住む鬼


 ——後宮には鬼が住んでいる。


 嬉々として紡がれた言葉が耳をくすぐり、璙雲りょううんは筆を止めた。怪訝けげんそうに顔を持ち上げると、壁に背を預けた悪友であり部下でもある男、皓月こうげつが華やかな笑みを浮かべているのが見えた。月神もかくやというほどに恐ろしく整った美貌は老若男女を魅了するが、幼い頃から皓月の性格をよく理解している璙雲は、その美貌に見惚れることはない。それよりも皓月の笑みが表すを悟り、盛大に顔を歪めた。


「その鬼は後宮で罪を犯した者を喰い殺すそうだよ」

「そんなの迷信に決まっている」


 璙雲は皓月の言葉を鼻で笑った。また書類仕事をするべく、墨壺に浸した筆先を紙の上に置いた時、ふっと鼻で嘲笑あざわらうような声が聞こえた。


「……なにがおかしい?」

「いや、かの武神とうたわれた男が剣ではなく筆を持っていると思うと笑えてきてね。君には戦場がよく似合う。こんな狭い部屋で大人しく椅子に座り、机に向かう姿など想像などしたことがなかった」

「俺もさ」


 璙雲は自嘲げに笑う。長らく置いたことで黒い染みとなった紙をくしゃりと丸めると後ろに放り投げた。


「いいのかい? 捨ててしまって」

「ただの草案そうあんだ」

「書類仕事も板についてきたねぇ」

「眞王に即位して一年も経てば嫌でも慣れる」


 先代には璙雲を含む八人の皇子と五人の公主がいた。璙雲は八番目の皇子で、母親は妃と呼ぶには烏滸おこがましい身分。酒に酔った父王が寵姫と間違い手を出して、璙雲ができたため妃位を与えられたにすぎない。

 それでも璙雲に不満はなかった。璙雲自身、勉学よりも剣を好む荒々しい性分なのも相まって、王位継承を与えられていたが次期眞王になりたいとは微塵も思わなかった。

 煌びやかなだけの城内で美しい妻を多くのめとり、豪勢な食事を口にして、豪奢な衣裳いしょうを身に纏い、窮屈な生活を営むよりも草原を馬で駆け巡り、狩りで捕らえた鳥や獣の肉を食し、泥と汗で衣裳を汚す生活のほうが身に合っている。七人の兄達が優秀なのもあって、文字通り王座から遠く離れた戦地で自由気ままに生きてきた。

 けれど、流行病の末に三人の兄が、王座を争った末に四人の兄が亡くなったことで璙雲に白羽の矢が立った。


先代ちちうえもなぜ俺をご指名したのだろうな」

「君の七番目の兄君が王位継承権を得る者を全員、殺したからだろう?」


 璙雲の二つ上の兄は見た目は穏やかな好青年だが、その内側は触れればたちまち火傷を負ってしまう岩漿マグマの如き野心を秘めていた。皇太子である第一皇子、第三皇子、第四皇子がやまいしたことでその隠していた輪郭を露わにした。


「あいつは俺より気性が荒いからな」


 歳が近いため第七皇子と璙雲は仲が良かった。璙雲の野心のなさを見抜いていたため、彼は璙雲は放っておき、他の兄弟と甥達を討とうとした。


「それで負った怪我のせいで自滅とは笑える最期だ」

「そう言うな。そのおかげで君は眞国この国を手にできたのだから。聞いたよ。先日も美しい妻が後宮に入ったと。眞王になれば百花が集うなんて羨ましいなぁ」

「頼んでいないのに周りが押し付けてくるんだ」

「おや、趣向が変わったのかい?」


 不思議そうに皓月が目を丸くさせる。


「戦地にいた頃は訪れた花を楽しそうに愛でていたのに」


 璙雲は肩を持ち上げた。


「欲しくもない妻を与えられてみろ。やれ子供を作れとせっつかれてみろ。女好きのお前でもうんざりするさ」


 それで、と璙雲は話を切り上げると皓月の目を見つめる。曽祖母が胡人こじんのため、やや色素の薄い虹彩をしている。


「それが〝後宮の鬼〟と何か関係があるのか?」


 ここは金瓏きんろう殿。眞王が政務をとる殿舎である。かつて行軍総管こうぐんそうかんであった璙雲を、副総管として支えた皓月は璙雲の即位にともなって王直属の親衛部隊である禁軍へと移籍した。

 しかし、禁軍所属であってもこうして気軽に訪れていい場所ではない。いくら自由気ままな皓月でも、宮中のおきては破らないはず。それを理解したうえで訪れたということは、それ相応の——


「いやなに。可憐な花が恐怖にしおれる姿を見るのはつらくてね」


 ——理由はなかった。

 花というのは皓月が女性を喩える時に使用する単語だ。


「私がその鬼を討ってしまえばいいんだが、後宮に立ち入ることはできない」


 後宮は男子禁制。去勢を施された宦官かんがん以外で後宮に出入りできるのは天子たる眞王のみ。


(さすがの女好き皓月でも素性を隠して侵入するのは難しいはず)


 後宮は高いへいに囲まれており、更に数多の宦官が内側から、数多の武官が外側から妃嬪ひひんの逃走を見張っている。

 ならば、皓月が〝花〟と喩えたのは後宮内外を出入りする女官だろう。


「悩んださ。可憐な花のため、私は危険をおかして後宮におもむこうかと……。それを実行しようとした時、私は気が付いた」


 わざとらしく言葉を区切ると皓月は璙雲を見つめた。


「私には気心知れる親友であり、頼りになる上司であるとともに、後宮に自由に出入りすることができる主がいることに」


 その後に続く言葉を予想して、璙雲は鋭い舌打ちする。


「私の代わりにその鬼を討ち取ってくれ!」


 間髪入れず「断る」と言えば、皓月は気障きざったらしい動作で額に指先を当ててうつむく。長いまつ毛が伏せられたことで目尻にかげがおちた。

 皓月の美しさに慣れていない者が見れば、その悲壮感漂う姿に心打たれて言いなりになってしまうに違いない。

 けれど、璙雲は違う。


「鬼などいるわけがない。馬鹿馬鹿しい」


 はっ、と鼻で嘲笑う。

 皓月は口角を持ち上げて、背筋がぞっとするほどよ笑みを浮かべた。


「ああ、すまない。戦神と呼ばれたのはもう何年も昔。書類仕事ばかりで剣の腕も落ちた今の君に、鬼退治などできるわけがないのを忘れていたよ」


 皓月が得意なあおりだ。璙雲は自分に言い聞かせる。ここで言い返せば、うまいこと言いくるめられるのは今までの経験から分かっている。無言で放置するのが一番だ。


「弱いことは罪ではない」


 あわれむように頷かれ、


「……ああ、それとも怖いのかい?」


 ぽんっと肩に手を置かれ、


「鬼は人知を超えた力を持ち、人を喰らう。さすがの君でも恐怖を感じるのは仕方のないことさ」


 あざけりが混じる声音で囁かれたことで、璙雲は勢いよく立ち上がった。


「誰が弱虫だ!? いいだろう! その後宮の鬼とやらが本当にいたのなら、俺が討伐してきてやるよ!」


 悲しいかな。短気で喧嘩っ早いのは眞王となっても変わらない。璙雲は自分の発言に後悔するが、一度飛び出した言葉は引っ込めることはできない。

 なにより、にやにやとしてやったりという笑みを浮かべる皓月に「できません」と言い出すのも矜持きょうじが邪魔をする。


 こうして、璙雲は鬼が出ると噂の後宮へと向かうこととなった。

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