鬼鏡秘譚
萩原なお
【序章】
第1話 後宮に住む鬼
——後宮には鬼が住んでいる。
嬉々として紡がれた言葉が耳をくすぐり、
「その鬼は後宮で罪を犯した者を喰い殺すそうだよ」
「そんなの迷信に決まっている」
璙雲は皓月の言葉を鼻で笑った。また書類仕事をするべく、墨壺に浸した筆先を紙の上に置いた時、ふっと鼻で
「……なにがおかしい?」
「いや、かの武神と
「俺もさ」
璙雲は自嘲げに笑う。長らく置いたことで黒い染みとなった紙をくしゃりと丸めると後ろに放り投げた。
「いいのかい? 捨ててしまって」
「ただの
「書類仕事も板についてきたねぇ」
「眞王に即位して一年も経てば嫌でも慣れる」
先代には璙雲を含む八人の皇子と五人の公主がいた。璙雲は八番目の皇子で、母親は妃と呼ぶには
それでも璙雲に不満はなかった。璙雲自身、勉学よりも剣を好む荒々しい性分なのも相まって、王位継承を与えられていたが次期眞王になりたいとは微塵も思わなかった。
煌びやかなだけの城内で美しい妻を多くの
けれど、流行病の末に三人の兄が、王座を争った末に四人の兄が亡くなったことで璙雲に白羽の矢が立った。
「
「君の七番目の兄君が王位継承権を得る者を全員、殺したからだろう?」
璙雲の二つ上の兄は見た目は穏やかな好青年だが、その内側は触れればたちまち火傷を負ってしまう
「あいつは俺より気性が荒いからな」
歳が近いため第七皇子と璙雲は仲が良かった。璙雲の野心のなさを見抜いていたため、彼は璙雲は放っておき、他の兄弟と甥達を討とうとした。
「それで負った怪我のせいで自滅とは笑える最期だ」
「そう言うな。そのおかげで君は
「頼んでいないのに周りが押し付けてくるんだ」
「おや、趣向が変わったのかい?」
不思議そうに皓月が目を丸くさせる。
「戦地にいた頃は訪れた花を楽しそうに愛でていたのに」
璙雲は肩を持ち上げた。
「欲しくもない妻を与えられてみろ。やれ子供を作れとせっつかれてみろ。女好きのお前でもうんざりするさ」
それで、と璙雲は話を切り上げると皓月の目を見つめる。曽祖母が
「それが〝後宮の鬼〟と何か関係があるのか?」
ここは
しかし、禁軍所属であってもこうして気軽に訪れていい場所ではない。いくら自由気ままな皓月でも、宮中の
「いやなに。可憐な花が恐怖に
——理由はなかった。
花というのは皓月が女性を喩える時に使用する単語だ。
「私がその鬼を討ってしまえばいいんだが、後宮に立ち入ることはできない」
後宮は男子禁制。去勢を施された
(さすがの
後宮は高い
ならば、皓月が〝花〟と喩えたのは後宮内外を出入りする女官だろう。
「悩んださ。可憐な花のため、私は危険を
わざとらしく言葉を区切ると皓月は璙雲を見つめた。
「私には気心知れる親友であり、頼りになる上司であるとともに、後宮に自由に出入りすることができる主がいることに」
その後に続く言葉を予想して、璙雲は鋭い舌打ちする。
「私の代わりにその鬼を討ち取ってくれ!」
間髪入れず「断る」と言えば、皓月は
皓月の美しさに慣れていない者が見れば、その悲壮感漂う姿に心打たれて言いなりになってしまうに違いない。
けれど、璙雲は違う。
「鬼などいるわけがない。馬鹿馬鹿しい」
はっ、と鼻で嘲笑う。
皓月は口角を持ち上げて、背筋がぞっとするほどよ笑みを浮かべた。
「ああ、すまない。戦神と呼ばれたのはもう何年も昔。書類仕事ばかりで剣の腕も落ちた今の君に、鬼退治などできるわけがないのを忘れていたよ」
皓月が得意な
「弱いことは罪ではない」
「……ああ、それとも怖いのかい?」
ぽんっと肩に手を置かれ、
「鬼は人知を超えた力を持ち、人を喰らう。さすがの君でも恐怖を感じるのは仕方のないことさ」
「誰が弱虫だ!? いいだろう! その後宮の鬼とやらが本当にいたのなら、俺が討伐してきてやるよ!」
悲しいかな。短気で喧嘩っ早いのは眞王となっても変わらない。璙雲は自分の発言に後悔するが、一度飛び出した言葉は引っ込めることはできない。
なにより、にやにやとしてやったりという笑みを浮かべる皓月に「できません」と言い出すのも
こうして、璙雲は鬼が出ると噂の後宮へと向かうこととなった。
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