猫が好きだと言ったから

桜田一門

本編

     1


 にゃーお。なーお。みゃーう。


 古びた駅舎を出るとすぐに、小さなロータリーにたむろしていた町の猫たちがむくりと体を起こした。甘えた声で鳴きながら、改札から吐き出される観光客に近づいていく。


「見て! かわいい!」

「ほんとだー! お腹見せてる~」


 僕らの隣を歩いていた女子大生らしき二人組が黄色い声を発して一匹の猫に近づいていった。二人は歩道の真ん中で堂々と仰向けになった三毛猫を撫でつつ、手持ちのスマホで何枚も写真を撮って笑い合っている。


 彼女らに気を取られていると、隣りにいた千紗が脇腹をつねってきた。


「いてて」

「なに見惚れてんの」

「別に見惚れてたわけじゃ」


 千紗は僕の脇腹から指を離し、「けっ」とわざとらしく悪態をついた。


「ここにこんな可愛い彼女がいるでしょ?」

「ごめんって。千紗が一番可愛いよ」

「じゃあ例のカフェ一緒に行こーね?」

「げっ」


 僕が顔をしかめて距離を取ろうとするより先に、千紗は両手で僕の腕を掴んだ。そのまま彼女に引きずられるようにして僕たちは駅を離れた。




 五月の連休である。


 僕は恋人の千紗と仕事の休みを合わせ、瀬戸内海に面したとある町に旅行に来ていた。この町は住民の管理のもと多くの猫が放し飼いにされていることで知られている、通称『猫の町』。生粋の猫党である千紗にどうしても行きたいとせがまれ、僕が折れた。


 駅を離れた僕たちは、千紗の先導のもと町で最も有名なカフェを目指した。テラス席に地域猫がたくさん集まってくるとして評判の店らしい。


 連休真っ只中の、それもお昼前とあって店はそれなりに混んでいた。僕たちは十五分ほど店の前で待たされた。千紗は待っている間ずっと鼻息が荒かった。


 通された席は希望していた通りのテラス席で、千紗は椅子に座るなりメニューも見ずに庭をウロウロする猫を眺めてばかりいた。


 付き合って三年も経つと自分の恋人が何を飲むかはだいたい分かるので、僕は猫に夢中な彼女に代わって店員に飲み物を注文した。


 飲み物が届いてしばらくすると僕らの足元にも猫たちが近寄ってきた。千紗はとろけた顔で椅子から立ち上がり、その場にしゃがんで猫の喉を撫でまくる。


「なんであんたたちはこんなに可愛いの? ねえ、なんで? どうして?」


 ジャスミンティーを放ったらかしにして次から次へとやってくる地域猫を可愛がる千紗。右を見ても左を見ても猫ばかり。彼女はかつてないほど至福の表情をしていた。


「ここにこんなに可愛い彼氏がいるのに」

「なんか言った?」

「なにも」


 僕は僕を見ない千紗を見ながらストローでコーヒーを吸い上げる。ずずずと音が鳴る。足の間を猫が徘徊している。まるで品定めするように。


 しばらくしてやはり耐えられなくなって席を立った。


「ちょっとそのへん散歩してくる」

「んー、分かった」


 千紗は猫の肉球を揉みながら生返事。もう僕になど関心がないみたいだ。ここには来てみたかったけど一人で来るのは嫌だから僕を連れてきた。無事に店に入れたら用済み。そんなふうに考えてしまう。考えすぎだろうか。


「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってか」


 誰にも聞こえないような声で呟き、店を出た。


 人馴れしているここの猫は、まるで繁華街の客引きみたいに付きまとってくる。隣を並んで歩いたり、後ろをずっとつけてきたり、ときには鳴いて呼んできたり。


 僕は彼らを無視し、逃げるように足を早めた。


 山の斜面に住宅の多くが密集しているこの町は、迷路のように入り組んでいる。どの道がどこへどう繋がるのかまるで想像できない不思議な構造だ。ひたすら坂道を上っていくとやがて展望台のような場所に出た。


 僕は手すりに腕を乗せて寄りかかり、情緒ある町並みと瀬戸内海をぼんやり眺めていた。あちこちから猫の鳴き声がし、僕以外の観光客たちは老若男女を問わず楽しそうだ。


 のどかな春風と景色で気分を落ち着けていると、不意に誰かが隣に立つ気配がし

た。大きめのウェストポーチを身につけた初老の男性だった。


「こんにちは」


 男性はにこやかに言った。


「こんにちは」

「観光ですか?」

「はい」

「そうですか。いい町でしょう?」

「素敵な町だと思います。地元の方ですか?」

「生まれてからずっとこの町に住んでます」


 穏やかそうな人だ。僕らの足元に猫がやって来る。男性はしゃがみ、ウェストポーチから何かを取り出して猫に差し出した。青みがかったビスケットのようなもの。


「あの」


 僕は展望台に立つ看板に目をやった。『猫の餌やり禁止 〇〇町地域猫保全組合』と書かれている。男性は僕を見て、看板を見て、ようやく意図に気が付いた。


「ああ、すいません。実はあれは観光客さん向けのもので、地元の人間はつい習慣になってるものですから……」

「そうなんですね」

「いえでも観光客さんの前ですることじゃありませんでした。失礼失礼」


 男性は恥ずかしそうにこめかみを掻いて餌をウェストポーチに戻した。それから思い立ったように小さな紙袋を一つ取り出して僕に見せた。


「よければ、いりますか?」

「それは?」


 男性は紙袋の中身を手のひらに出す。先ほどの餌だ。よく見れば猫の形をしている。


「餌やりは禁止なんじゃ?」

「勝手な餌やりは禁止ですが、決められた場所でなら自由に誰でも餌を与えていいんですよ。とはいえ餌をやっていい時間帯は決まっているのですが」

「なるほど」

「なのでよければそこで猫たちにあげるように一つ、どうです?」


 要は餌の営業かと思って渋い顔をすると、男性はこちらの考えを察したように苦笑した。


「お代はいりません。サービスです。これは趣味みたいなもんです」

「はあ。けど折角ですが」

「おや、そうですか?」


 男性は残念そうに紙袋をポーチに戻す。


 餌なんて持っていたら絶対に千紗が「私も餌やりしたい」と食いついてくるに決まっていた。彼女の付き添いとはいえ猫の餌場に足を踏み入れるのは避けたいところだ。


「ところであまり元気がないようですね?」

「いや、そんなことは」


 僕が誤魔化すように苦笑すると、


「ひょっとしてここから飛び降りよう、なんて」


 男性は僕と手すりの向こうとを見比べて言った。


「いやいや、それは」

「あはは、いや、冗談です」


 男性は頭の後ろを掻いて軽快に笑い飛ばす。いきなり何を言い出すんだろうこの人は。


「この町は猫の町としても有名ですけど、ほかのことでも知られてるんです」

「坂の町ですか?」


 男性は首を横に振った。


「死者の町です」



     2



「……それはまた、随分と物騒な」

「この町には古くから不思議な言い伝えがあって、この町で死ぬと猫になって生き返ることができると言われてるんです。なので中には人生が嫌になった人が来世は猫として幸せな生活が遅れるよう祈って、ここで命を断つんです。たまにニュースになります。この町の猫はそうやって一度死んだ人たちが生まれ変わった姿だそうですよ」

「そんなバカな」

「もちろん単なる言い伝えです。ただ、私も小さいころは本気でその言い伝えを信じていました。今でも本当にそうだったらいいなと思うときもあります」


 男性は手のひらでウェストポーチをさするようにした。


「死んだ人が猫になって幸せな生活を送る。いいかもしれませんね」


 僕は展望台にいる猫たちを見ながら呟いた。身を寄せ合って日向ぼっこをしている猫たちがみな誰かの生まれ変わりなのだとしたら。元は人間なのだとしたら。彼らが前世では叶わなかった平穏と幸福を享受しているのだとしたら。それはなんと暖かい話だろう。


「もし時間があるようでしたらこの町の隠れスポットにご案内しましょうか?」

「隠れスポット」

「地元民も知らない穴場です」

「そんなところが?」


 隠れスポットという言葉には少し興味を惹かれた。しかしここは猫の町。猫の集会所のような場所に連れて行かれるのは困る。折角とは思いつつ遠慮しようとすると、


「まあそんなに遠くないですから。行きましょう」


 男性はにこやかに言ってもう歩き出していた。僕は仕方がないのでついていく。本当に猫の集会場だったら、適当に話を合わせてすぐに帰らせてもらうことにしよう。


 男性が言った隠れスポットは展望台から少し坂を降り、民家と民家の間をくねくね進んでいった路地の奥、細い林道の行き止まりにあった。


 たくさんの猫がいた。

 しかし本物ではない。


 人の頭より少し大きいくらいの石でできた、置物の猫たちだ。一体一体姿の異なるそれらが十何体と並んでいる様は、単なる置物ではなく一種のアート作品のよう。近くに供え物のように積まれた猫型ビスケットの鮮やかな青色も相まって、幻想的でさえある。


「見事でしょう?」

「ええ、とても興味深いです。これはご自分で?」

「はい。けど簡単ですよ。適当な石を拾ってきて猫の絵を描くだけですから」

「SNS載せたら若い人たちいっぱい来ますよ、これ。ひっそり置いておくのはもったいない気が」

「はは、実はこの林は私の家の敷地なんです。要は自分の家に猫の置物を並べているだけで、こうして何かの縁で知り合った人にだけ特別に見せてるんです」

「そっか。人がたくさん来るとうるさくなりますもんね」

「それにここ、本物の猫はあんまり近寄らないんです」

「そうなんですか?」

「ええ。カラスや蛇がよく出るものですから、怖がって猫が来ないんです。来たらパクっとやられちゃうかもしれませんから」

「なるほど」


 僕がほっとしたように答えると、


「今さらですけど猫はお好きですか?」

「え?」

「猫、好きですか?」


 男性がずいっと顔を近づけてくる。僕は少し躊躇い、やがてゆっくりと首を横に振った。


「実は、苦手なんです」

「珍しいですね」

「小学生のときに近所の野良猫に引っ掻かれて、そのあとに高熱が出て一週間くらい学校を休んだことがあるんです。病気が治って登校したら『猫に負けたヤツ』ということでしばらくからかわれまして……それもあって色々トラウマになってます。一時期は猫に関するもの全部ダメでした。招き猫も、ドラえもんも」

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というやつですね。分かります」

「ええ、そんな感じです」

「災難でしたね」


 男性は同情するように目を伏せる。


「しかしそうするとなんでまたこの町に?」

「今回の旅行は恋人と来てるんです。彼女が猫好きで、ずっと前からこの町に来たい来たいと言っていたので……」

「そういうことでしたか。猫好きな彼女さんのことは平気なんですね」


 意外そうな顔をされた。


「坊主憎けりゃ状態だったのはほんとに昔のことなので……というよりすいません、なんか、一番この町に向いてない人間で」

「いえいえ、気を落とさないでください。別に猫が嫌いだっていいじゃありませんか」


 彼は僕の肩に手を置き、嬉しそうに言った。


「猫が嫌いな人間はいくらでもいます。地域によってはは害獣とみなされる場合もありますし。みんなが好きなものだからと言って、本当にみんなが好きだとは限りませんからね」

「そう言ってもらえると気が楽になります」

「しかし猫も猫で面白いですよ」


 男性はウェストポーチから先ほどの紙袋を取り出した。猫型のビスケットが入った紙袋だ。


「嫌いな気持ちは分かりますが、まあ餌でもあげてみてください。ひょっとしたら何かが変わるかもしれません」

「はあ」


 僕は今度は紙袋を受け取った。男性の言うことも一理あると思った。嫌ってばかりいないで歩み寄ってみれば、可愛く思えるようになるかもしれない。


 そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。千紗からの電話だった。カフェを出てからもう三十分近くが経過していた。まずい。怒られる。


 男性に断って通話ボタンをタップすると、明らかに不機嫌な様子の千紗の声が聞こえた。


『どこにいんのよ』

「ごめん今戻るから」

『早くしないとナンパされちゃうかもよ』

「わかったわかった」


 僕は千紗の言葉を適当にあしらい、電話を切った。


「すいませんもう戻らないと。一度機嫌が悪くなるとしばらく続くので」

「もちろん。彼女さんは大切にしないといけません。むしろ引き止めてすみませんでした。今度はお二人で見に来てくださいね」

「はい、是非そうさせてもらいます」


 僕は観光客の多い通りまで彼についてきてもらった。男性は僕が最初の角を曲がるまで丁寧に手を振ってくれた。


「──っと。すいません」

「きゃっ、ごめんなさい」


 角を曲がったところで、向かいから来た人と危うくぶつかりかける。二人組の若い女性だった。見覚えがあるなと思ったら、駅前で猫を可愛がっていた女子大生たちだ。


 二人は角を曲がって僕が来た道の方へ歩いていく。ふと足元を見ると、パスケースらしきものが落ちていた。二人のどちらかの持ち物だろう。僕はそれを拾うと、二人を追いかけてすぐに角を曲がった。


 二人は道端に座り込む猫を写真にとっているところだった。声をかけると、案の定パスケースは二人のうちの片方の持ち物だった。


 気を取り直してカフェに戻ることにする。もう一度同じ角を曲がるとき、なんとなく後ろを振り返ってみた。あの男性が先ほどの女子二人に声をかけていた。猫の置物を見せるつもりなのかもしれない。SNS映えしそうな置物の猫たちは、彼女たちの興味を惹くだろう。



     3




 カフェに戻ってすぐに千紗に平謝りしたら、どうにか許してもらえた。


 僕たちはカフェを出て町の中を少し散策し、午後一時半ごろに有名なラーメン屋に立ち寄って遅めの昼食をとった。


「で、どこで何してたの?」


 ラーメンを食べながら千紗は詰問するように言ってきた。僕は男性とのやり取りをかいつまんで説明した。生まれ変わりの話、餌やりの話。そして猫の置物について教えると、


「私それ、似たようなの見たよ」

「へえ、どこで?」

「カフェに行く途中の民家の塀かなんかに置いてあった気がする」

「気づかなかった」


 僕が見てきた猫の置物については、明日見に行くということになった。


 千紗は今からでも行きたい様子だったが、ラーメン屋の人の話で猫の餌やりの時間帯が十五時から十五時半までの間だと分かったので、今日は餌やりの方を優先することにしたのだ。今からうっかり山の上に行くと、餌やりの時間までに帰ってこられないかもしれない。


 食事を終えて店を出ると、すぐ近くの交差点のガードレールの下に例の置物を見つけた


「これのことだよね?」


 千紗が石の猫を指差して言う。


「そう。同じようなのがずらっと十何体」

「へえ。そのおじさんオリジナルじゃなくて、この町の名物か何かなのかな?」

「かもね」


 時間が来たので僕たちは宿から五分ほどのところにある餌場に向かった。すでにそこには猫と観光客が集まっていた。そのほかにも腕章をつけた保全組合の人がいた。監督者らしい。


 僕と千紗は空いていたベンチに腰を下ろし、先ほど男性からもらった紙袋を取り出した。


 猫はなかなかやってこなかった。最初の猫がやってきたのはベンチに座って十分ほどしてからだった。くすみ一つないきれいな白毛をした、少し太めの猫。


「はやく、餌! 出して!」


 千紗にせっつかれて僕は紙袋を逆さまにした。手のひらに落ちた猫型ビスケットを千紗は半分に割り、白猫の鼻先に差し出す。白猫は怪しむように千紗の手の前を二往復ほどして、ぱくりと食らいついた。


「かーわーいーい!」


 千紗は僕の手から次々ビスケットを取って自分の手のひらに乗せた。白猫はもう彼女のことをすっかり信用したようで、青いビスケットを次から次へと食べていく。


「よっぽど美味しいのね」

「みたいだね」

「猫に猫型のビスケットあげるのだけが少し気になるけど」

「確かに」

「それより自分でもあげてみなよ、餌。自分のを食ベてるとこ見ると、ほんとかわいいよ」

「……やってみる」


 僕は青い猫型ビスケットを半分に割って手のひらに置き、白猫の前に差し出した。白猫は千紗のときと同じように僕の手を吟味し、「みゃあ」と鳴きながら舌を伸ばして食べた。ざらついた舌の感触に少しだけ鳥肌が立ったが、それ以外は特にどうということはなかった。


「かわいいでしょ?」

「うん、まあ、そうだね」


 苦手意識が少しだけ薄れたような気がした。


 その後も何匹かが僕たちのもとを訪れたが、最初の白猫だけはずっと僕たちの足元にいた。


 紙袋の中身がなくなってからまもなく、終了時刻が来た。僕らは他の観光客とともに餌場を出た。白猫は名残惜しそうにこちらを見ていた。


 宿に到着してチェックインを済ませたあとは、風呂に入ったり、テレビでローカル番組を見たりして時間を潰した。昼に食べたラーメンが残っていたので夕食は一番遅い時間帯にしてもらったのだが、そうなると今度は空き時間ができてしまって暇だった。


 軽く眠るという千紗を部屋に置き、僕は館内を適当に探検した。

 最上階の一角で僕はまたしてもあの猫の置物を見つけた。


 いったいこの町の人々は何のために石の猫を置くのだろう。守り神か何かだろうか。


 やがて時間が来たので僕は部屋に戻って千紗を起こし、夕食会場に向かった。山の幸と海の幸がバランスよく配された夕食はどれも美味しかった。個室だったのでほかの宿泊客を気にせずにすんだのもありがたかった。


 食後のデザートを待っていると、個室の扉がすっと開いた。宿の女将が挨拶に来たのだ。


 こちらがかしこまってしまいそうなほど丁寧な礼を受けた後、僕は気になっていた置物のことを聞いてみた。


「器猫のことですね」


 女将は言った。


「ウツワネコ?」

「はい。古くからこの町には、町で亡くなった人が猫になって戻ってくるという言い伝えがあります。その際に亡くなった人の魂が受け入れる器としてあの猫を置いているのです。人の魂が宿った器猫はやがて本物の猫になって動き出すという話です」

「ということは、器猫が置かれる場所は」

「そこで人が亡くなったということを意味します。簡単に申し上げれば、器猫は墓標のようなものですね」


 僕は眉をひそめた。


 誰かが亡くなった場所に置く?


「先ほど館内で器猫を見かけたのですが、ここでもどなたかが?」

「はい、実は十年ほど前にお客様が一人、当館の部屋でお亡くなりになられました」

「そうですか」


 僕は上の空で頷いた。器猫と呼ばれるあの置物が誰かが亡くなった場所に置かれるのだとしたら、僕が今日の昼間に見たあの大量の器猫はいったい。


「ではすぐにデザートをお持ちしますので」


 部屋を出ていこうとする女将を僕は咄嗟に呼び止めた。


「すいません、最後に」

「はい。なんでしょう?」

「この町で過去に大きな事故や災害が起こったことってありますか? 十何人と亡くなるような」

「いえ、私はかれこれ四十年近くこの町にいますが、一度も……戦時中は近くの島が空襲を受けたことはあるようですが、町自体に何もなかったはずです」

「そうですか。ありがとうございます」

「いえ。お力になれたのでしたら幸いです」


 女将が出ていき、まもなくしてデザートが運ばれてきた。レモンのシャーベットだ。しかしフォークを握ったものの、なかなか食べる気が沸かなかった。


「ねえさっきの話って」

「うん」


 僕はシャーベットをフォークの先で削り取りながら考えた。あの男性が案内してくれた林の中に並んでいた十数体の器猫。あれは一体誰の魂のためのものなのだろう。



     4



 翌朝、僕たちがフロントにチェックアウトをしに行くと、二人の仲居が顔を寄せ合って話し込んでいた。


「無断キャンセルだって?」

「そうみたい。向こうからは連絡がなく、こっちから電話しても出なかったって」

「困るなー、ほんと。最近の若い人たちは……これが当たり前なの?」

「そうは思いたくないけど。あーあ。また板長に怒られる。やんなっちゃう」

「まあまあ。私もついてくから」


 仲居の一人がため息を付き、もう一人が励ますように両手でグーを握っている。僕はフロントに部屋の鍵を出しつつ、さり気なく聞いてみた。


「すいません」

「はい。ああ、チェックアウトですね?」

「今話してた無断キャンセルって、ひょっとして大学生くらいの女性二人組ですか?」


 仲居たちはバツの悪そうな表情で顔を見合わせる。


「あんまりこういうこと言っちゃいけないんですけど……そうです」

「……やっぱり」


 僕は鍵を返し、手続きを済ませると、おみやげコーナーを見ていた千紗に声をかけて宿を出た。


「いいとこだったね。また泊まりに来ようよ」

「うん、だね」

「なんかテンション低くない? どしたの?」


 千紗は僕の頬を指でつついてきた。


「ひょっとして昨日のこと? 器猫とかいう」

「まあ」

「そしたら今から行ってみたらいいじゃない。それでそのおじさんがいたら聞いてみようよ。誰を祀ってるんですかって。そうすれば全部解決するよ」

「昨日、電車を降りたときに駅のロータリーのとこにいた若い女の人たち覚えてる?」


 問いかけると、千紗は少しだけ不機嫌になって頷いた。


「覚えてるけど」

「僕、器猫のところからカフェに戻る途中であの人たちとすれ違ったんだ。彼女たちは僕と同じくあの男性に話しかけられてた」

「それで?」

「昨日同じ宿にチェックインするはずが、無断でキャンセルしたらしい」

「えっと……それが?」


 千紗は僕の言っていることがいまいちよく分からないという顔をした。僕もなぜこんなことを千紗に話しているのか分からなかった。無断キャンセルと器猫と、何が関係あるのか。


 宿のあった平地地域から山の地域へと至るちょうど境界線のような場所で、僕は草むらの中で何かが小さくなっているのを見つけた。


「あ~、お前ひょっとして昨日のぽっちゃり猫だな~」


 千紗が軽くスキップしながら草むらに近づき、猫を撫でようと手を伸ばし、次の瞬間「いやっ」と大きな声を上げて仰け反った。僕は慌てて彼女の背後に回り込み、体を支える。


 草むらにいたのは確かに昨日の餌場にいた白猫だった。僕たちが差し出す餌を食べていたぽっちゃりめの白猫。


 それがどうして血の混じった泡を吹いているのだろう。どうして四肢を地面に投げ出したままぴくりとも動かないのだろう。


「なんで? ねえ、なにこれ? どうなってんの?」

「落ち着いて千紗」

「意味分かんない、意味分かんない。なんで? なんで? ねえ、なんで?」


 僕は動転する千紗の背中を撫でながら、吐きそうな気がするのを我慢して白猫を見た。外傷はない。眠ったように動かない。半開きになった眼球にはハエが一匹止まっている。


 僕たちの餌はいろいろな猫が食べた。だけど最後まで僕たちのところにいたのはこの猫だけだ。この猫は僕たちの餌しか食べなかった。あの青い鮮やかな色の猫型ビスケットしか。


「おーい、どうしたんだー?」


 山の方から声がした。僕たちにただならぬ気配を感じたのか、保全組合の腕章をつけた二人組の男性がこちらに向かってくる。一人は太っていて、もう一人は帽子を被っている。


 僕は無言で草むらの中の白猫を指した。


「……ちっ、こりゃひでえな」


 太った方が言った。猫の頭を持ち上げ、


「変なもん食ったなこれ」

「毒餌ですかね」


 帽子の方が言い、太った方が舌打ちをする。


「またかよ。ふざけやがって。ったく誰なんだよ、こんな悪趣味なイタズラするやつは!」


 太った男性は怒りとともに地面を蹴り飛ばす。その横で帽子の男性が無造作に猫を持ち上げた。僕が帽子の男性を見ると、帽子の男性もまた僕を見た。


「どく、え?」


 僕の腕の中で震えていた千紗が、小さな声で言った。


「お姉さん、何か知ってるのか?」

「あの、も、もしかしたら」

「すいません、僕たちここを通りかかっただけなのであまりよく分からないです」


 僕は慌てて千紗の言葉を遮った。


「急いでるので、すいません」

「お、おお。そうか。ありがとうな見つけてくれて」

「……いえ」


 僕は二人に頭を下げ、千紗の手を少し強めに引いて踵を返す。そのまま脇目もふらずに駅を目指した。心臓が異常な速度で脈打っていた。冷たい汗が背中に張り付いていた。


「──ちょっと、ねえ! ちょっと!」


 駅のロータリーについたところで千紗が僕の手を振りほどいた。彼女は握られていた手を擦りながら、睨みつけるようにして僕を見た。


「なんで嘘ついたの?」

「……」

「あの猫、私たちの餌しか食べなかったじゃない。あの餌はおじさんからもらったものでしょ。毒餌なのか腐ってたのか知らないけど、それを教えてあげるべきでしょ。なのに」

「……だよ」

「なに? もっとはっきり言って?」

「帽子の方がそうだったんだよ」

「え?」

「餌をくれた男の人は、あの帽子の方だったんだよ」

 



 僕たちはそれからすぐに電車に乗って猫の町をあとにした。これ以上この町にいたいと思わなかった。当然、千紗が見たがっていた大量の器猫を見に行くのも止めた。僕はあそこに二体分の器猫が増えている気がしてならなかった。


「みんなが好きなものだからと言って、本当にみんなが好きだとは限りませんからね」


 あのとき聞いた男性の言葉は、呪いのようにいつまでも頭から離れなかった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫が好きだと言ったから 桜田一門 @sakurada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ