エピローグ 二年

「はぁ、はぁ……」

 二〇〇七年のある日の深夜、新宿にある薄暗いオフィスビルの一室。このビルに本社を構える五十代半ばの会社社長は、出入口の辺りで無表情にこちらを見ている相手に対し、恐怖の視線を送っていた。

 その視線の先には、上下黒のセーラー服を着込み、同じく黒のキャリーバッグを引いた少女……『復讐代行人』黒井出雲の姿があった。

「た、助けてくれ! 金ならいくらでも……」

「……そう言って逃げる以上は、あなたが犯人であるという事で間違いないようでございますね」

 出雲はそう言うと、手に持つ拳銃のスライドを引いて、無表情に相手に銃口を向けた。

「すでに依頼遂行前の宣告は済ませてあります。後は、この引き金を引くだけでございますね」

「そ、そんな……」

 社長は絶望した表情で壁に追い詰められていた。

 完璧な計画だった。この社長は粉飾決算に協力していた経理部の人間が怖気づいて真相をばらしそうになったため、その経理の人間を殺害し、彼を疑っていた監査役の人間にその罪を着せて自殺に見せかけて殺害していた。完璧なトリックで誰もが監査役の犯行であると信じて疑わず、事件は社長の思い通りに推移していた。

 そんな社長の目の前に現れたのがこの少女だった。彼女はその監査役の妻の依頼で自分を殺しに来たと告げ、彼が考えた完璧なトリックをことごとく解き明かしてしまっていた。もう、この社長に反論の余地はなかった。が、それでもここで諦めるわけにはいかない。

「ま、待ってくれ! 私がその粉飾決算とやらを主導していた証拠でもあるのかね? そんなものは……」

 社長がそう言って必死に弁解していたときだった。不意に出雲の背後のドアが開いて誰かが姿を見せた。

「お、おぉ! 君か!」

 顔を出したのは、この社長の個人秘書の女性だった。長年彼の秘書を勤めてきた有能な女性で、それ以上に彼の愛人でもあり、彼が信用する数少ない人間でもあった。ただし、粉飾決算の事は知らないはずであり、ましてや社長が殺人犯である事など夢にも思っていないはずだった。

「た、助けてくれ! 殺し屋に狙われているんだ! すぐに警備と警察に連絡を……」

 だが、秘書はそんな必死な社長の声に耳を貸す事なく、あろう事か出雲のすぐ横に立って、持っていたアタッシュケースを差し出した。出雲はそれを受け取ると、中身を確認する。

「……ご苦労様でございます」

 出雲はそう言うと、突然ケースの中身を部屋中にぶちまけ、空になったケースを部屋の隅に放り投げた。秘書は冷めた目でそれを見続けている。

「お望みの粉飾決算を証明する内部資料でございます。彼女がすべて調べてくれました」

「そ、そんな……そんな馬鹿な……」

 あまりの事態に、社長は口をパクパクさせているだけだった。まさか、あれだけ信じていた秘書がこんな行動に出るとは思わなかったのだ。

「お、お前! 裏切ったのか!」

 だが、それに答える事なく、秘書は黙って一礼するとそのまま部屋を出て行く。後には再び出雲と社長だけが残された。

「もう、よろしいでしょう」

 出雲はそう言うと再び銃口を社長に合わせる。社長はがっくりしたようにその場にうなだれてしまった。

「今生の土産に、一つお教えしておきましょうか。今出て行ったあなた御自慢の有能な秘書でございますが……別にあなたを裏切ったわけではございません」

「な、に……」

「あれは、あなたの秘書ではございません。ただ、それだけでございます」

 社長は何か言おうと顔を上げた。が、その瞬間、出雲の銃口が火を吹き、社長は壁に叩きつけられて動かなくなった。


 二時間後、現場の部屋には多数の刑事たちがうろついていた。

「銃で眉間を一発、か」

 指揮を執っているのは、最近になって荻窪中央署から新宿中央署へ異動になった落合警部だった。

「確か、ここは粉飾決算の疑惑がある会社だったな」

「はい。ですが、数ヶ月前にそれを取り仕切っていたと思われる経理部の社員が監査役の社員に殺され、その監査役の社員も自殺してうやむやになっています」

 新しく落合の部下についた刑事が緊張した表情で報告する。

「俺が異動してくる前の事件だな。となると、この紙切れは粉飾決算を示す内部資料、ってところか」

 落合は床に散らばる資料を見ながら呟く。

「ったく、嫌な感じだな」

「は?」

「いや、これと同じような事件が二年前にもあってな。その事件は何とも後味の悪い終わり方をしたんだ。ま、今となっては昔の話だが……まだそれを振り切れていないやつもいるんだ」

「はぁ」

 部下が戸惑った声を出す。と、落合の足に何かが当たった。

「ん?」

 それは一枚の金属製のカードだった

「こいつは……」

 落合の表情が厳しくなる。

「それが何か?」

「……おい、本庁の連中は?」

「すぐに来ると思いますが」

「じゃあ、とっとと撤収の準備だ」

 落合は忌々しそうに吐き捨てた。驚いたのは部下の刑事だ。

「え? なぜですか」

「なぜかは知らんがな、このカードが出てきた事件は全部本庁や警察庁の連中がかっさらっていきやがるんだ。俺も事情は知らないが、カードが出たらすぐに上に報告するように通知が来ている。で、わけのわからないうちに犯人が捕まったり自首してきたりしていつの間にか解決しちまうんだよ、畜生が!」

 落合が苛立たしげに手近の机を叩く。と、そこへ部下の携帯電話が鳴った。

「はい。……えっ? ……はぁ、そうですか。わかりました、伝えます」

 電話を切ると、部下は青白い表情で落合を見た。

「どうした?」

「……この前自殺した監査役の社員の妻が新宿中央署に出頭してきました。自分が被害者を殺した、と」

 それを聞いて、落合は深いため息をついた。

「やっぱりこうなったか。となると、その監査役の自殺とやらも怪しいな。多分、本庁が追加捜査をかけてくるぞ」

「何がどうなっているんですか?」

「俺が知りたいくらいだよ」

 落合が力なく笑ったときだった。別の刑事が部屋に飛び込んできた。

「警部! 地下の配電室で不審者が見つかったそうです」

「不審者?」

 落合は一瞬考え込むと、部屋を飛び出して配電室に向かった。配電室に入ると、奥にある掃除ロッカーの辺りに刑事たちが集まっている。落合も近づいてみる。

「これは……」

 そこには、全身をロープで縛られ、猿ぐつわまでされた女性が転がっていた。どうやら気絶しているようである。

「ロッカーの中から出てきました。どうしますか?」

「……とりあえずロープを解いてやれ」

 言われて刑事たちが慌ててロープを解き、猿ぐつわをはがす。と、それで女性の意識が戻った。かなり衰弱しているようだが、命に別状はなさそうだ。

「こ、ここは……」

「君は?」

 落合の問いに、女性は目を白黒させながら、自分がここの社長秘書であると名乗った。

「社長秘書って、事件後に行方不明になっていた?」

「な、何の話ですか? というか、今、いつなんですか?」

 どうも様子がおかしい。落合は試しに今日の日付を告げてみた。その瞬間、女性の顔色が変わった。

「そんな……。あれから三日も経っているなんて……」

「三日?」

「え、ええ。私、三日前に廊下を歩いていたところを誰かに後ろから薬をかがされて……その後の記憶がないんです」

 その答えに、今度は落合が戸惑った。

「馬鹿を言っちゃいけない。あんたはこの三日間、ずっと会社に出勤しているはずだ。ちゃんと他の社員にも確認したから間違いない」

「で、でも。今の日付が本当なら、確かに……」

 その場に何ともいえない不穏な空気が流れる。

「じゃあ……ここ三日間、ここで働いていた彼女は何者なんだ?」

 と、そこで落合はロッカーの中に何かが光っているのを見つけた。

「こ、これは……」

 それは、タロットカードに書かれているような一つの輪が描かれたカードだったのである。


 それから数日後、東京霞ヶ関中央合同庁舎二号館、いわゆる警察庁の一室。入り組んだ廊下の先にあって普段は誰も立ち入らないような小さな部屋に、それはあった。

 『復讐代行人特別捜査本部』。警察庁刑事局に所属する極秘部署……所属するのは全国の都道府県警で実績を上げた捜査のプロ五人程度という、少数精鋭の捜査集団である。全国で活動を続ける黒井出雲に対する対応を一手に引き受け、彼女の犯行の阻止、及び彼女が殺害した標的が関与した未解決事件の解明などがその仕事となる点は、二年前となんら変わりはなかった。

 変わった事といえば、二年前の荻窪での事件を契機にいわゆるキャリア組の直接関与が全面的に廃止され、実際に現場を知り出雲と直接渡り合ってきた捜査員の中から本部長が選出される事になっていた。ノンキャリアの叩き上げの刑事しか着任できない警視庁刑事部捜査一課長と同じようなシステムが採用されたのである。

 そして鳥梨退任後にこの捜査本部の本部長に着いたのは、当時捜査本部主任で、かつて唯一出雲の犯行を阻止した経験のある、佐野正警部その人だった。

 新宿の社長殺しから数日後、佐野は部屋の中の自分のデスクで難しい表情をしていた。

「『輪廻』、か」

「はい」

 相変わらず佐野の右腕として活動している野々宮が、佐野にそう報告していた。

「最近になって出てきた出雲の裏社会の協力者です。裏社会では『潜入屋』という異名で通っているようですね。ただし、それ以外の正体に関しては現時点では一切不明です」

「詳しく聞こう」

 野々宮は部屋にいる刑事たちの前で報告を始めた。

「『輪廻』は先日発生した新宿での会社社長殺しで初めて確認されました。この社長殺しは出雲の犯行という事で結論付けられ、依頼人もすでに逮捕されていますが、その中で出雲は『輪廻』を使った情報収集を行っています」

「『潜入屋』といったな。つまるところは、スパイか何かか?」

「近いですね。一種の情報屋ですが、依頼人からの依頼に基づいて依頼対象の付近にいる人間と成り代わり、完璧な変装術でその人物になりきった上で情報を収集し、依頼人に報告する。それが『潜入屋』こと『輪廻』の主な活動だと推察されています」

「変装……」

 佐野は少し考えると、厳しい表情で言う。

「なるほど、だから正体不明か」

「ええ。そんな人間なので、潜入前、すなわち変装していない時点での正体が何なのかは一切不明です。ちなみに、会社社長の事件では社長の秘書と成り代わっていました。事件後、その間軟禁されていた本物の秘書が出てきて、その証言により『輪廻』の存在が発覚しています。やつは成り代わった人物の傍に出雲同様にカードを置いて自分の関与を証明しているようです。ただし、カードに書かれているのはタロットなんかに書かれているような『輪』のカードですが」

「だから『輪廻』か。『東』だけでも厄介だったが、出雲にさらに強力な手駒が増えたという事か」

「それ以外にも、現段階ではわかっていませんがまだ複数の協力者がいるようです。いずれにせよ、出雲自身もここ二年間、確実に何件もの依頼をこなしています。こちらとしても今まで以上に気は抜けません」

 野々宮の言葉に、その場にいる全員が頷いた。

 と、そのとき佐野の机の上の電話が鳴った。佐野が受話器をとる。

「はい、特別捜査本部。……えぇ、はい……了解しました。では」

 会話は短かった。

「事件ですか?」

「いや、刑事局長からだ。……実は、近々この部署への増員の予定があったんだが、ついさっきそれが正式に認可されたという事だ」

「増員……という事は、新しく誰かがここに?」

「あぁ。もう間もなく、ここに来るそうだ」

 刑事たちは顔を見合わせる。と、不意に入口のドアがノックされた。

「来たな……入りなさい」

 佐野の言葉にドアが開き、誰かが入ってくる。それを見て、野々宮が声を上げた。

「あっ、君は……」

「……ご無沙汰しています」

 その人物はそう挨拶すると、ピッと敬礼して全員に挨拶した。

「本日付で警視庁刑事部捜査一課からこちらに配属する事になりました、尼子蓮巡査部長です。よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げる尼子蓮の表情や態度は、二年前の頼りないものとは違い、どこか凛々しさと、そして鋭さを感じさせるものとなっていた。トレードマークだった眼鏡を外しており、その立ち振る舞いはもはやどこに出してもおかしくない優秀な『刑事』そのものである。

「彼女は昔荻窪中央署の刑事課にいたんだが、一年前にそこでの功績を評価されて警視庁捜査一課に栄転してね。まぁ、そこでもかなり優秀な成績を収め、本人もここへの異動を希望していた事もあって、こうして配属が決まったという事だ」

 そう言いながら、佐野はジッと蓮を見据える。蓮の視線には一切迷いはなく、確固たる決意のようなものが見て取れた。

「自分からここを希望した君に改めて言うまでもないが、ここの仕事は生半可な気持ちでは勤まらない。その覚悟はあるか?」

「もちろんです」

「……いいだろう。では、そこの席についてくれ。早速だが、仕事の話をしたい」

「わかりました」

 蓮は再び一礼すると、割り当てられたデスクに向かおうとした。

 と、そのとき不意に再び佐野の机の電話が鳴った。

「はい、特別捜査本部。……あぁ、これはどうも、ご無沙汰しています。今日は何か?」

 佐野はしばらく何かを話しているようだったが、やがてその表情が真剣なものになり、何かメモを取り始めた。

「……わかりました。では、すぐに伺います」

 そういって受話器を置くと、そのままデスクに向かおうとしている蓮に顔を向ける。

「いい機会だ。この捜査本部に籍を置くにあたって君に会わせておきたい人がいる。一緒に来てくれるか?」

「もちろんです」

「野々宮、しばらくここは任せる。追って連絡はするが、状況いかんでは我々の出動もありえる。いつでも出発できるように準備をしておいてくれ」

「わかりました」

 野々宮は頷くのを見ると、佐野は蓮を引き連れて部屋から出た。そのまま庁舎を出ると、自ら覆面パトカーの運転席に乗る。

「警部、運転は私が……」

「いや、最初だからまずは私が場所を案内する。次からは運転してもらおう」

 佐野にそう言われて、蓮もそれ以上何か言う事もなく助手席に座った。

「どこへ行くんですか?」

「新橋だ」

 佐野はただ一言そう言うと、アクセルを踏んで車を発進させた。

 そのまましばらく、無言のドライブが続く。東京は、今日も人が多くて雑多な印象が強かった。

「……君も印象が変わったな」

 不意に、佐野がそんな事を言った。

「そうでしょうか?」

「あぁ、二年前とは別人に見える。やはり……二年前の事、まだ引きずっているのか?」

 ある意味、核心をつくような質問だった。が、蓮はすました表情で答える。

「わかりません。が、もしかしたらそうなのかもしれません」

「……言っておくが、私情を挟みすぎて暴走するのは私としても看過できない。私情を挟むなとは言わないが、いざというときにちゃんとそれを押さえ込めるようにだけはしておく事だな」

「……肝に銘じておきます」

 しばらくすると、車は新橋の一角にあるビルの前に停まった。

「ここだ」

 二人は車を降りると、そのままビルの中に入っていく。受付にいた女性がにこやかな笑みを浮かべる。

「いらっしゃいませ。ご用件は?」

「理事長に呼ばれたのだが」

「少々お待ちください」

 受付の女性はしばらく内線をかけていたが、

「お待たせしました。右手のエレベーターで最上階までお上がりください。理事長がお待ちです」

 と、告げた。佐野は無言で頷くとエレベーターに向かい、最上階のボタンを押す。蓮も後に続いた。

「……ここへ来たのは、何か出雲絡みの事ですか?」

 と、急に蓮が単刀直入に尋ねた。

「まぁ、そういう事だ。もっとも、実際に話を聞いてみるまでは何とも言えないが」

「ここはいったい何なんですか? それに、その理事長というのは?」

「会えばわかる」

 そう言ったとき、エレベーターは最上階に到達した。そして、ドアが開くと一人の人物が二人を出迎えた。

「来たか」

 そう言って出迎える人物に、蓮は見覚えがあった。

「あなたは……鳥梨警視?」

 蓮の言葉に男……鳥梨和定は苦笑気味に答えた。

「もう警視ではない。二年前、あの事件の直後に警察は辞めている。久しぶりだな、尼子蓮君」

 その表情は二年前の切羽詰ったものに比べてかなり温厚なものになっており、今の生活に満足している様子が伺えた。部屋に案内されると、蓮は早速鳥梨に質問した。

「警察を辞めたというのは……」

「いや、二年前、私は出雲に利用されてやつの犯行を許してしまったからな。このまま終わるのは私自身どうにも許せなかった。だから、別の側面から出雲を追い詰めるサポートをしようと考えて、思い切って警察を辞めて、この協会を設立した」

「協会?」

 その言葉に、鳥梨は黙って一枚の名刺を差し出す。そこにはこう書かれていた。

『財団法人 犯罪被害者遺族支援協会理事長 鳥梨和定』

「犯罪被害者遺族支援協会……」

「文字通りの協会だ。表向きは犯罪被害者の遺族を対象に、その心のケアや生活のサポート、同じ被害者遺族同士の交流を支援している。だが、ここには裏の目的がある。狙いは二つ。一つは犯罪被害者遺族のケアをする事で遺族の復讐心の増幅を防ぎ、出雲に対する遺族からの依頼を阻止する事。もう一つは、いざ遺族が出雲に依頼した際に、その情報をいち早くつかめるようにする事、だ」

 鳥梨は真剣な表情で言った。

「出雲の事件を捜査する事は大切だ。だが、それ以前に依頼そのものを阻止できれば、これ以上の成果はない。我々にとっても、何より遺族にとってもそれが一番の事になるはずだ。それに、万が一依頼がなされても、その時点で情報を警察と共有して依頼達成を阻止できれば、遺族が罪に問われる事もなくなる。出雲への依頼の阻止と依頼遂行前の情報共有。これが今の私の仕事だ」

 鳥梨はそう言うと、デスクから何かの資料が入った封筒を取り出した。佐野がそれを黙って受け取ると、鳥梨が説明を始める。

「最近、うちのカウンセリングを受けに来たクライアントだ。守秘義務があるから出雲の犯行が発生していない現段階では誰とは言えないが……ある事件の被害者関係者であるという事だけは言っておく。何の事件に関係しているかに関してはその封筒の中に書かれているから後で読んでくれ。それで、だ。どうもその人物が、出雲に対して依頼をした可能性がある」

 その言葉に、蓮が緊張した表情を浮かべた。

「本当ですか?」

「もちろん断定はできない。本人に確認するわけにもいかないからな。だが、私の印象からしてみればクロに近い。事件の規模的にも申し分ないし、何よりその事件は現在でも未解決だ。警戒しておいても損はない」

 佐野は手元の封筒を見やる。

「どうする?」

「……いいでしょう。少し探りを入れてみます」

 佐野はそう言うと、封筒を脇に抱えた。

「しかし懐かしい顔がそろったな。これで国友警部でもいれば二年前の再現なのだが」

「国友さんは今、代々木で起こったホームレス殺害事件の捜査本部に出ていたはずです」

「そうか……相変わらず『黒紳士』は健在、か」

 鳥梨はどこか懐かしそうな表情をした。

「失礼します」

 と、そこへ入口から声がかかって誰かが入ってきた。蓮が振り返ると、スーツを着た若い女性が書類を抱えて中に入ってくるところだった。

「あぁ、紹介しよう。新しくうちの秘書として採用された……」

 鳥梨がその名を告げる前に、本人がぺこりとお辞儀して挨拶した。

「江崎コノミ、と申します」

 その名を聞いた瞬間、佐野と蓮の表情が少し変わった。江崎コノミ。直接会った事はないが、二年前の中谷高校の事件の関係者だったはずだ。その彼女が、この協会の秘書となっていたのである。

「鳥梨さん、彼女は……」

「二年前の事件の関係者。もちろん、知っている。私自身、捜査の中で会っているからな」

 鳥梨はそう頷いた。

「二年前の事件の後、尾関中学の事件で結果的に間違った人物を殺害した事が発覚した吉倉英造は精神的にダメージを受け、一時は自殺未遂まで追い込まれた。そんな英造に何度も面会して、必死にカウンセリングを行って落ち着きを取り戻させたのが彼女だ。高校卒業後、うちに入りたいと面接を受けて、採用した」

 コノミは軽く頭を下げると、持っていた書類を鳥梨に渡し、そのまま一言も発せずに隣の秘書室へと引っ込んだ。だが、その直前に蓮とコノミの視線が一度交錯していた。その一見温厚そうに見えるその視線に何か探るようなものが含まれているように蓮には感じていたが、それを確認する前に彼女は視界から消えてしまっていた。

「彼女、出雲の事は?」

「知らないはずだ。だが、ああ見えて頭が回る子なのは間違いない。秘書としては有能で、自身も殺人事件に絡んでいた事もあってか被害者遺族に対するカウンセリングもかなりうまい。実は、今渡した事件資料も、彼女が調べてきたものだ」

 佐野は反射的に手に持っていた封筒を見やる。

「どうも、彼女にも何か目的のようなものがあるようだ。どんなものなのかはわからないが……近いうちに、折を見て出雲の事を話してもいいと思っている。無論、秘密にするという条件をつけた上だがな。そうしないと、そのうち彼女自身が事の真相を暴きそうな気がしてならない」

「……そうですか」

 思えば、二年前のあの事件がすべての転機だったように佐野は感じていた。何人もの人間の人生が狂い、そして今、再び交錯しようとしている。

「情報提供、感謝します。鳥梨さん」

「それが役に立ってくれるなら、私としても協会を設立した甲斐があったというものだ。……くれぐれも、よろしく頼む」

「わかっています」

 数分後、佐野と蓮はビルを出ると、再び車に乗り込んでいた。

「あぁは言っていたが、鳥梨さんの勘は充分信用にあたる。この事件、少し探りを入れるぞ。君にも参加してもらう」

「もちろんです。全力を尽くします」

「……あまり今から気を張るな。そのやる気は実際の捜査でぶつけろ。いいな」

 佐野の激励に、蓮は黙って頷いた。その心中には、この二年間抱き続けていた思いが渦巻いている。

「ようやく、ここまで来たわよ……出雲。待っていなさい」

 佐野に聞こえないようにそう呟くと、蓮は決意も新たに、その鋭い視線を正面へと向けたのだった。



「尼子蓮が特別捜査本部に?」

「確かな筋の情報だ」

 その日の夜、新宿のバー「レモン」。相変わらずのリクルートスーツ姿の情報屋の東が、こちらも相変わらずの格好でカウンターで食器を磨く檸檬に対してそんな話をしていた。

「一年前に本庁捜査一課に異動して以降、事件を片っ端から次々に解決していったらしい。将来の捜査一課のホープとまで言われていただけに、この異動には一課の連中もかなり驚いているみたいだ」

「執念ね。二年前まではおどおどした新米刑事だったのに、すっかりたくましくなっちゃって。妹を出雲ちゃんに『殺されて』、差し詰めその復讐ってところかしら」

「おそらくは」

「出雲ちゃんも厄介な敵を作ったみたいね。まぁ、気にするとは思えないけど」

 そう言いながら、檸檬はグラスを置いてため息をついた。

「それで、その肝心の出雲のやつはどこに行ったんだ?」

「さぁ。出雲ちゃん、元々依頼の確認に来るときしかここに来ないし。この前、一つ大きな依頼を終えたって話は聞いたけど」

「……『輪廻』が、その依頼にかかわっていたと聞いたが、それは?」

 檸檬は一瞬動きを止めたが、すぐにこう言った。

「……さすがは坊やね。情報だけは早い」

「その反応からすると、事実って事か」

「あれから二年経ったし、そろそろ実戦投入するのもいいかと思ったのよ。もっとも、結果は想定以上だったけど」

「さすがは姉さんが直に育て上げただけあって、なかなかに手際がよかったみたいだな」

 東がおちゃらけたように言う。それを聞きながら、檸檬はこの二年間を静かに思い出していた。

 二年前、表向きの身分のすべてを失った尼子凛……輪廻は、それから二年間を檸檬の元で過ごした。檸檬は輪廻に対し、裏社会で生きていくための最低限の知識と体力、そして、彼女自身が裏社会で活動するための技能を叩き込んだ。その過程で、輪廻に他人になりきるだけの演技力と、新聞部譲りの情報収集力がある事に着目し、彼女に「潜入屋」という活路を見出した。

 仲介屋として様々な裏社会の人間と接してきた檸檬だけあって、こうした裏社会に関する指導はまさに適役だった。おそらく、出雲もそれを見越して彼女に輪廻を預けたのだろう。それを考えると檸檬は何とも言えない気持ちになるが、檸檬としてもそれ相応の報酬はもらっていたので特に文句も言わずこの役目を引き受けた。

 結論から言えば、輪廻は檸檬の想像を超えた成長を見せた。そういう意味では、出雲の見る目は確かだったに違いない。もう後がない事がわかったのか彼女は真剣に檸檬の指導を吸収し、それを自分のものにしていった。裏の世界に入ってわずか二年にもかかわらず、その技量は、他の裏社会の人間にも匹敵するほどになりつつある。

「あの子は……私の想像以上に素質があったわ。もう、私が教える事は何もないわよ」

「へえ。姉さんにそこまで言わせるなんてねぇ」

 そう言うと、東は出されていた飲み物を一気に飲み干し、そのまま立ち上がった。

「んじゃ、勘定ここに置いとくぜ。俺もこれから仕事でね」

「勝手に行きなさいよ。あぁ、くれぐれも怪我だけはしないように。私の仕事が増えるだけだから」

「冗談言うなよ。姉さんに診てもらったら、金がいくらあっても足りないや」

 せせら笑いながら東は店から出て行った。後には檸檬一人だけが残る。

「あの子……挨拶にも来ないつもりかしら」

 社長の事件以来、輪廻は一度もこの店に姿を見せていなかった。もちろん、裏社会の人間として動いている以上、来る義務などないのだが、檸檬はどこか寂しい気持ちを抱いていた。

 と、そのとき再び店のドアが開いた。

「いらっしゃい」

 反射的に檸檬は呼びかける。が、ドアを開けて入ってきたのは意外な人物だった。

「姉さん、久しぶり」

 何と、今さっき出て行ったはずの東だったのである。一瞬、不覚にも檸檬は訝しげな表情をしてしまった。

「何? 何か忘れ物でもしたの?」

「は? 姉さん、冗談きついぜ。今来たばかりの人間にその言い方はないだろ」

 東は檸檬の言葉を冗談と受け取ったらしく、笑いながら近づいてくる。だが、檸檬からしてみれば何がどうなっているのかわからなかった。

「いや、だって坊や、今そこで飲んでいたじゃない」

「俺が、そこで? 何の話だ?」

 さすがに東も不思議そうな顔をする。実際、カウンターにはさっき『東』が飲んでいたグラスが、勘定と一緒に置いてある

「何を言っているのかは知らねぇが、俺はついさっき新宿に着いたばかりだぜ」

「だったら……」

 その瞬間、檸檬は何かピンと来たかのような顔をした。

「まさか」

 そう言って、勘定の置いてあるカウンター席に近づく。そして、その場で思わず苦笑いをした。

「……やってくれたわ、あの子。もう立派に生きていけるじゃない」

 そこには勘定と一緒に、一つの輪が描かれたトランプに見立てたカードが置かれていたのである。


 真夜中の新宿の裏路地を『東』はゆっくりと歩いている。まるで、何かを待っているかのような歩き方だ。

 そんな『東』の目の前に、不意に闇の中から現れるようにして誰かが道をさえぎった。

「お見事でございますね」

 人影……黒井出雲は、相変わらずの口調でそう『東』に呼びかけた。『東』は黙って出雲を見据えている。

「言動、声、癖……私が見ても、東さん本人でございます。前回の新宿の一件といい、よくここまで技術を高めたものでございますね」

「……あなたにだけは言われたくないわ」

 そう言った瞬間、『東』の姿はそこにはなく、いつの間にか元『尼子凛』……『輪廻』本人が立っていた。顔は二年前に整形されたそのままの顔で、口調もどこか大人っぽくなり、服装はスカートタイプのリクルートスーツを着ている。その口調がどこか檸檬と似ているのはご愛嬌だ。ただ、眼鏡だけは何かの主張なのか『尼子凛』のときにかけていたものをそのまま使用していた。

「前回の仕事の依頼料はご確認して頂けましたか?」

「金払いだけはいいのね」

「依頼のためであるなら、私はどれだけの出費もいとわない事にしています」

「……それで、今度は何? 私をこんなところで待ち伏せなんかして」

 輪廻は髪を軽くかき上げながら尋ねた。その仕草には、すでにプロとしての風格のようなものすら漂い始めている。出雲はそれを見ると、すっと一枚の新聞記事を差し出した。輪廻は黙ってそれを受け取って読む。

「……富士樹海の『心臓強盗』の記事ね」

「ご存知でしたか」

「東さんほどじゃないけど、私も情報屋の端くれだし」

 『心臓強盗』とは、最近になって富士樹海を舞台に暴れ回っている連続殺人犯の異名である。樹海を訪れたハイカーなどの女性が次々襲われ、その全員が心臓をくりぬかれて殺害されているという。連続三件。現在まで未解決の事件だ。

「その『心臓強盗』の最初の被害者の恋人から依頼を受けまして、今回この『心臓強盗』を標的とした仕事をする事になりました。そこで、輪廻さんにも少々お付き合い願えないかと。もちろん、これは正式な依頼でございますので、依頼料は振り込ませて頂きますが」

「……相手が凶悪な連続殺人鬼でも、一切ためらいなし。さすがね」

 輪廻はそう呟くと、こう言った。

「わかったわ。依頼、受けましょう」

「ありがとうございます」

「ただし、私のルールについては理解しているという前提よ。つまり……」

「輪廻さんがやるのはあくまで『潜入』と『情報収集』、それに『工作』だけ。標的そのものに対する『殺害』や『傷害』などは依頼外、でございますね」

 出雲が輪廻の定めた「潜入屋」としてのルールを暗唱する。輪廻は頷いた。

「人を殺さない。それがうかつにあなたに手を出して、この世界で生きていく事になった私が最後に守るべき、最低限のルールだと思っているから。それに……」

 そう言うと、輪廻は不意に出雲の近くまで近づき、ポケットから出した拳銃を突きつけた。輪廻の突然の言動に対しても、出雲は特に反応する様子はない。

「私は、まだ表の社会に戻る事を諦めていない。私が最初に殺すのは、あなただと決めている。今の私じゃ無理だけど……いつか必ず。でも、それができるまでは、『潜入屋』として全力を尽くすつもりよ。何にしても、私に対して気を抜かない事ね」

「……それがあなた自身の取り決めならば、私が口を出すべき事ではございません。しかし、ベレッタM92とは……檸檬さんのお下がりでございますか?」

「えぇ。自分には、もういらないからって。私も、そんなに使うつもりはないけど」

 そう言うと、輪廻は静かに拳銃をしまった。今ここで撃っても、出雲を殺せない事はよくわかっているようだった。

「依頼を受けた以上は、全力を尽くすわ。詳細を教えて」

「……わかりました。ただ、その前に。あなたの姉……尼子蓮が警察庁の特別捜査本部に配属された事をご存知のようでございますね。最近は鳥梨さんが私の依頼をあぶりだすための協会を設立したようですし、私に協力すると、彼女とぶつかる可能性も出てきますが、その覚悟はございますか?」

「……えぇ。でも、今の私には関係ないわ。私は『輪廻』であって、『尼子凛』じゃないんだから。今正体を明かしても迷惑になるだけだし、さすがに、その辺の事はわきまえている。大丈夫よ。私も裏の世界で生きる事を決めた以上、もう迷わないって決めているから」

「ならば結構でございます。それともう一つ。あなたのその名前……『輪廻』というのは、『輪廻転生』、すなわちいつかまた自分が元の場所に戻る事を願掛けしてつけたものだというのが私の推察なのでございますが、いかがでございましょうか?」

 これに対し、輪廻は初めて苦笑のようなものを見せた。

「それは後付ね。本当は『りんね』という文字には別の漢字を当てはめていたつもりなんだけど、いつの間にか変わっちゃったの」

「では、元の漢字は?」

 輪廻はあっさり明かした。

「『凛』の『音』で『凛音』。『尼子凛は、まだここにいて声を上げている』って意味。でも、今となっては、ね」

「……仕事の話をいたしましょう」

 その言葉を最後に、二人は暗い裏路地の闇の中へと消えていった。


 『復讐代行人』が、再び人知れぬ闇の中で動こうとしていた。

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復讐代行人 中谷高校事件 奥田光治 @3322233

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