第九章 終局
「どうしてわかったの?」
「他に理由が思いつきませんでしたので」
凛の問いに対して、出雲はあっさりそう言った。蓮は飛び出していきたい誘惑に駆られたが、この張り詰めた緊張感の中では不用意に飛び出せば何が起こるかわからない。今はただ、静観する他なかった。
「あなたと高原恵は親友です。東さんに徹底的に調べてもらいましたが、これを覆す情報はどこからも入りませんでした。つまり、あなた方が親友だったのは疑いようのない事実。したがって、あなたが高原恵さんの不利益になるような行動を取るはずがございません。にもかかわらず、あなたはその恵さんを殺した真犯人の正体を隠すような行動を取りました。一見すると矛盾に満ちていますが、私はこの行動にも何か意味があると考えました」
出雲は口調を崩さずに告げる。
「可能性が一つございました。つまり、犯人に対する死を伴った復讐でございます」
凛は黙って先を促す。出雲は気にする様子もなく先を続けた。
「仮にあなたの告発で橋中詠江が捕まったとしましょう。実際には、彼女は三年前の尾澤中学における殺人事件にも関与していたわけでございますが、さすがにこの段階ではあなたにもそこまでわかりません。この状態で、詠江が捕まって法律による裁きが行われたと考えた場合、彼女に下される罰がどのようになるとあなたは予想するでしょうか?」
凛は答えない。だが、その時点で、蓮は出雲が何を言わんとしているのかを理解していた。やがて出雲が答えを告げる。
「殺人とはいえ被害者は一人。おまけに橋中詠江は高校二年生でございますから最大でも十七歳。日本で死刑判決が出るのは十八歳以上で、しかも被害者一人では強盗や誘拐に関わる殺人でもない限り死刑が出るのは稀でございます。つまり、仮にここで橋中詠江が捕まっても、彼女は絶対に死刑にはならないのでございます。それどころか場合によっては刑罰に問われず、保護処分になる可能性さえございます。刑事の妹であるあなたは、これをよく知っていた。そして、あなたは高原恵さんを殺した真犯人が、おいそれと命を永らえる事が許せなかったのでございましょう」
その瞬間、凛は両手の拳をぎゅっと握り締めた。
「そして、あなたは恵さんが私……『復讐代行人』を調べていた事も知っていました。また、あなたはそんな殺し屋について調べた資料を、被害者遺族で恵さんを大切にしていた高原政信氏に渡せばどうなるか、容易に予測する事もできた」
出雲はスゥッといつも細目にしている目を開いて凛をしっかりと見据える。
「つまり、高原政信氏に資料を渡して私に対する依頼をさせ、間接的に犯人である橋中詠江を殺害する。これが、今回の事件におけるあなたの狙いだった。私はそう結論付けたのでございますが、いかがでございましょうか」
「……すごいですね。そんなにあっさり解いちゃうなんて……」
凛は空しそうに笑いながらそう言った。
「詳しく話してください」
「……最初は偶然だったんです」
ついに凛は事の次第を話し始めた。
「馬淵君との話し合いを終えて、そのまま買い物に向かいました。その途中、通学路を駅に向かっている星代さんたちとすれ違って、中谷高校の前を通りかかったときに……校門のすぐ近くに自転車が止めてあるのに気がついたんです。すぐに、恵のものだとわかりました。でも、一度帰ったはずの恵の自転車が何でここにあるのかわからなくて、忘れ物でも取りに来たのかなって思って部室まで行ってみる事にしたんです。自転車を自転車庫に停めて、部室棟に向かいました。そしたら……」
「そこで、犯行を見てしまった、という事でございますね」
凛は頷いた。
「ただ、私は直接殺害行為を見てはいません。部室棟の前にたどり着いた時点で何か様子がおかしいと感じて、建物の裏手に回って部室の窓から中を覗きました。あの窓、カーテンの隙間から窓が少し見えるんです。そこで……部室の中で首に紐を巻きつけて倒れている恵と、その横で恵の資料を漁っている詠江さんの姿でした。詠江さんの顔はどこか引きつっていて、恵の顔は……遠目から見てもわかるくらいに青白かったんです。私、すぐに恵が詠江さんに殺されたと思いました。というより、そうとしか思えなかったんです。そのときは、なぜそんな事になったのか私にはさっぱりわからなかったけど……」
凛は息を吐いて話を続ける。
「それからしばらく見ていたら、詠江さんは資料から何枚か取り出して自分のポケットに突っ込んで、その後倒れていた恵の首から紐を外して、近くにあった冊子の束をそれでくくりました。それで、そのまま恵を肩に担いで、部屋から出て行きました。私、とっさに近くの物陰に隠れて詠江さんをやり過ごしたんです」
「その後、あなたは部室に侵入した」
「ええ。何が起こったのか知りたくて、反射的に開けっ放しの非常口から入りました。でも、詠江さんがすぐに帰ってくると思ったから長くいる事はできなくて……咄嗟に、詠江さんが漁っていた資料の残りを手にとって部屋を出たんです。その後どうなったのかは、私にはわかりません。そのまま逃げるように自転車に乗って学校を出ましたから」
そう言ってから、凛は顔をうつむかせてこう続けた。
「正直に言うと、そのときにはこれは何かの見間違えかもしれない、私の悪い夢だと思っていたんです。目の前で起こっていた事はあまりにも非現実的でしたし、帰るときには校門前にあった恵の自転車もなくなっていましたから。でも、次の日に恵が見つかって、あれが現実だって改めて実感しました。そして、同時に詠江さんに対する底知れない怒りが沸いてきたんです」
凛は再び出雲を見やる。
「出雲さん、あなたの言うように私は詠江さんを生かして許すつもりはなかった。私が目撃証言を話せば確かに詠江さんは捕まるけど、年齢から見ても極刑になる可能性は低い。でも、私はそれでは満足できなかった。そんな時、私はあの時現場から持ち出した恵の資料を読んだんです。さすがに恵が調べていただけあって、その内容はとても詳しかった。私は、あなたを利用すれば恵の敵が討てると考えました」
「それで、資料を高原様に渡した、と?」
「……私自身、最初はやっぱり迷いました。私がしようとしている事は立派な犯罪ですし、正直に警察に話すべきかとも思いました。だから、一ヶ月様子を見たんです。お姉ちゃんが刑事だから、推理小説なんかと違って本物の警察がどれくらい優秀なのかは知っています。警察なら、私の証言がなくても詠江さんを逮捕できるかもしれない。そう考えて、しばらく保留しました。もし詠江さんが逮捕されたら、そのときに資料と一緒にお姉ちゃんに出頭しようとも考えていました」
そこで凛は拳を握り締める。
「でも……一ヶ月たっても警察は詠江さんを逮捕できなかった。それどころか、詠江さんにはアリバイがあって容疑者圏外になっていた。私にはわけがわからなかったけど、もう待てませんでした。私がやるしかないと思ったんです。あの資料で高原さんが動くかは賭けでしたけど……うまくいったみたいです」
そして精一杯強がった表情で出雲を見やる。
「これが、私があの事件で果たした役割です。満足してもらえましたか?」
しばらく二人の間に重苦しい沈黙が漂う。そんな二人の様子を見ながら、蓮は放心状態になりつつあった。凛は最初警察を……自分を信用していた。にもかかわらず、その信用を裏切ってしまって、このような結果になってしまったのだ。その事実が、蓮の心を重くしていた。
「……なぜ、あなたは自分で私に依頼しようとしなかったのでございますか?」
と、不意に、出雲はそんな問いを発した。それに対し、凛は冷めた表情でこう言う。
「私には、あなたに依頼する資格はなかったから……」
「……あなたはすでに犯人が橋中詠江だと知っていました。私は、犯人がすでに判明している事件に対する復讐は受け付けません。あなたは、だから高原政信氏に事件の依頼をさせる事にしたとでも言うつもりでございますか?」
出雲はそのような聞き方をした。凛の表情が訝しげなものになる。
「納得できませんか?」
「……確かに、それも理由の一つではあったでしょう。ですが、本当の理由は別にあったはずでございます」
出雲の声が少し厳しくなった。
「あなたは、私の依頼受諾条件……つまり、依頼人の逮捕リスクの発生が自分に生じるのを恐れたのではございませんか?」
凛の肩がピクリと動く。表情も少しこわばったようになった。
「私の依頼は依頼人の復讐を代行する事でございます。ゆえに、依頼人にも殺害の共犯として逮捕されるリスクを負って頂く。それが私のルールでございます。現に、高原政信氏はそのリスクを背負い、そして逮捕されました。ですが、あなたはそのリスクを自分が負う事を恐れた。つまり、高原恵さんの復讐を誓いながらも、自分の手が汚れる事は避けようとしたのでございます。だからこそ、あなたはその汚い部分を高原政信氏に押し付けようとした。そうではございませんか?」
「違う……」
凛は歯を食いしばりながらそんな言葉を漏らした。だが、出雲の追及……否、糾弾は止まらない。
「推理小説においては復讐という動機はごく普通に登場しますが、現実の犯罪で復讐目的の事件などそうはありません。まして他人のための復讐殺人など皆無でございましょう。その理由は単純明快。いくらその他人に恩を感じていようと、自分が逮捕される……つまりは、自分の人生を投げ打つリスクまで背負って復讐するような人間は、そう存在しないからでございます。どれだけ綺麗事を言おうと、どんな状況であれ人間というものは多少なりとも自分の事を考えるものなのでございます」
「違う……そうじゃない……」
凛は必死にそう言うが、心なしか顔色が悪いのが蓮にもわかった。しかし、出雲は止まらない。
「私は別にそれが悪い事だと言うつもりはございません。それが人間として当然の感情でございますから。だからこそ、私は依頼人に試すのでございます。その復讐に自分の人生を……すべてを投げ打つ覚悟があるのかどうか。今後の人生を考えた上で、それでもなお復讐を望むのか。そして、復讐を成し遂げた後、生きてその自分勝手な復讐の罪を償う覚悟があるのかを。私は、それができる依頼人の依頼だけを引き受ける事としています。それができないなら、復讐などという愚かしい事はやるべきではございませんし、やる資格もございません。自分では復讐なんて恐ろしい事はできないから私に任せるなどという甘い考えの依頼人は、私からしてみればまさに『最悪』でございます」
その言葉に、凛は顔を上げた。
「あなた……『復讐代行人』なんですよね。なのに、そんな事言うんですか?」
とがめるように尋ねる凛に対し、しかし出雲は明快に答える。
「何か勘違いしているようなので申し上げますが、私は『復讐代行人』であると同時に、この世で一番『復讐』の愚かさを知る者でございます。できるならば、私の仕事がなくなればいいと思っているくらいでございます」
出雲の言葉に、凛は青白い顔で押し黙った。この変わった殺し屋にも、ただ殺すだけではない、ある種の「信念」がある事が痛いほど伝わってきたからだ。
「そういう意味では、あなたのやった行為はまさに『最悪』でございます。自分の復讐を他人に肩代わりしてもらうなど……しかも本人が知らないうちに復讐に加担させてしまうなど、言語道断以外の何物でもございません。このくだらない茶番を始末しない限り、この事件は終わらせるわけにはいきません。私は今日、その後始末に来たのでございます」
そう言うなり、出雲は不意にポケットから拳銃を取り出して右手一本で凛に構えた。オートマチック式の八発式マグナム拳銃……通称・デザートイーグル。橋中詠江を殺したのと同一の拳銃である。本来なら反動がきつくて女性が、しかも片手で扱える代物ではないはずなのだが、何か違法改造でもしてあるのか、出雲はそれを難なく片手で使いこなしていた。
「あなたには、ここで消えて頂きます。それが、復讐から逃げ、復讐を他人に押し付けた、あなたの負うべき償いでございます」
出雲の冷酷な宣言が、無情にも境内全体に響き渡った。
揺らめく炎の明かりの中、境内は一気に張り詰めた空気に包まれていた。凛は顔をこわばらせてその場に硬直しているが、この結末はある程度予想できていたのか、惨めにわめいたりする様子はない。ただ、社の前で自分に向けて銃を構える出雲をジッと見つめ返しているだけである。
「随分冷静でございますね」
「……ある程度、こうなる事は覚悟していましたから」
凛は強がったように言う。が、いくら強がったところで普通の女子高生である。遠目からでも足がガタガタ震え、顔が引きつっているのがよくわかった。
「……その落ち着きぶり、橋中詠江に見せたいくらいでございます」
「詠江さん?」
「真相を暴いた瞬間、彼女は私まで殺そうといたしましたから。そのため反撃して四肢を封じた上で殺さざるを得ませんでしたが……ご安心ください、あなたはあそこまでいたぶって殺すつもりはございません」
そのまま凛の頭の辺りへと狙いを定める。
「一撃で楽に終わらせます」
凛は覚悟を決めたのか目を閉じた。だが、その前に出雲が不意に小さな笑みを浮かべた。
「ですがその前に、この場にいる招かざる客にもご登場して頂く事にいたしましょうか」
出雲がそう言った瞬間だった。
「動かないで!」
この事態に、ついに耐え切れなくなった蓮が雑木林から境内へと飛び出し、リボルバー式の拳銃の撃鉄を引いて出雲の右横数メートルの位置からその銃口を出雲に向けた。その拳銃を握る手は大きく震えている。今まで一度として現場で銃など使った経験はない。まして、相手はマグナム拳銃を自分の手足のように扱うプロの殺し屋である。銃口を向けながらも、蓮にはまったく勝てる気がしなかった。
だが、このまま黙って見ているわけにもいかない。目の前で今まさに殺人が行われようとしており、しかもその標的は自分の妹なのである。
「お、お姉ちゃん!」
予想外の人物の登場に一番驚いていたのは他ならぬ凛であった。まさか、姉がこんなところにいるとは夢にも思っていなかったのだろう。だが、対する出雲は銃口を突きつけられながらも平然とした様子で、そのまま凛に銃口を向け続ける。
「……お初にお目にかかります。尼子蓮刑事、でございますね」
出雲は視線を凛に向けたままで、あまりにも場違いな挨拶をする。一方、蓮は顔を真っ赤にして銃口を出雲に向け続けていた。
「銃を下ろしなさい! 下ろさないと、撃つ!」
震える声でそう告げる。だが、出雲は相変わらず余裕を持ってこう言った。
「撃てるものならどうぞ。ですが、警察の拳銃の一発目は空砲だったと記憶していますが」
「っ!」
そう言われて蓮は顔を青ざめさせた。確かに、警察の拳銃の一発目は暴発防止のために空砲になっている事が多い。それでいいのかという気もするが、発砲機会がほとんどない日本の警察ではこれでも何の問題もないのである。
だが、出雲は不敵にもこう告げた。
「これでは勝負になりませんね。どうぞ、一発だけお撃ちください。それで条件は五分五分でございましょう」
その瞬間、銃声が境内にこだました。挑発的な出雲の言葉に、蓮が反射的に引き金を引いていたのだ。発射されたのは空砲であったが、その額にはうっすらと汗が浮かび、顔は怒りのあまり凛とは別の意味で引きつっている。
「私を……馬鹿にしないで!」
「……結構でございます。これで条件は互角。どんな結果になろうとも、互いに文句はないはずでございましょう」
この状況にもかかわらず、出雲はあくまで冷静だった。思わぬ展開に、銃を突きつけられている凛自身も呆然とした表情でこれを眺めている。
「私の事……最初から気がついていたの?」
「もちろん。私を誰だと思っているのでございますか。どこかの殺し屋漫画の主人公でさえ背後には最大限の警戒を払うというのに、周囲の状況をつかめないようでは、殺し屋などという職業は勤まりません」
出雲はあくまで凛を見据えたまま、一向に蓮に視線を合わせようとしない。その余裕が、蓮にはまったく気に入らなかった。
「この神社は、一体何なの」
「最初に聞く質問がそれでございますか。まぁ、よろしいでしょう。ここは私がこの辺で活動する際に使う拠点のようなものでございます。人も寄り付かず、なかなかに便利だったのでございますが……場所を知られてしまってはもうお役御免という事でございましょうか」
出雲がそう言った瞬間だった。何か操作をしたのか周囲で明かりを放っていたかがり火が一斉に倒れ、炎が周囲の雑木林に燃え移った。たちまち炎が木々を飲み込み、雑木林が炎の林へと変貌していく。
「なっ!」
「もはや、ここは不要でございます」
この状況にもかかわらず冷静にそう言いながら、出雲は一切体勢を崩さない。対する蓮もこの状況では銃口をずらすわけにもいかず、ただ一心不乱に銃を構え続けていた。一方、突然の事態に凛の顔には恐怖の色が宿る。もはや一刻の猶予もなかった。
「出雲、銃を下ろしなさい!」
「ですから、撃ちたいならどうぞ、と申し上げております」
出雲は一向にひるむ様子がない。蓮はその姿にもはや恐怖さえ感じ始めていた。鳥梨や佐野の言った通り、外見に反してこの少女はとんでもない化け物だ、と。
だが、そう思って思わず唇を噛み締めた瞬間だった。
「撃たないなら、私は自分の仕事をやらせていただきます」
その直後、鈍い一発の銃声が燃え盛る境内に響き渡り、刹那、社の前に立つ凛の体が、まるで崩れ落ちる人形のように後方へと吹っ飛んだ。
次の瞬間、蓮が絶叫した。
「い、出雲ぉ!」
蓮は叫びながら引き金に指をかける。
「アアアアアアアアアアアアアアア!」
ドンッ、という音と共に再び銃声が響き……蓮の手から拳銃がすっ飛ばされた。銃はそのまま石畳を滑って炎に包まれた雑木林の中に消えていく。撃つ直前に自分の銃を撃たれた。そう理解しながらも、激しい衝撃に蓮は思わず手を押さえる。顔を上げると、いつの間にか出雲が無表情にこちらに銃を向けていた。凛を撃ってから真横にいた蓮の拳銃を撃つまでわずか数秒。あまりの早撃ちである。
「遅い」
直後、出雲の銃口が三度目となる火を吹き、蓮の左肩に激痛が走った。
「っ!」
左肩を撃たれた。そう理解した瞬間には、出雲は地面に崩れ落ちていた。直後、出雲は空になった弾倉をすばやく地面に落とし、同時にポケットから取り出した別の弾倉を即座にグリップに装填して流れるようにスライドを引くと、そのまま蓮へと銃口を向ける。この間わずか数秒。その手馴れた手つきに、やはりこの少女は普通ではないと、蓮は場違いな事を考えていた。
「私は関係のない人間まで殺す趣味はございませんが、邪魔をするというのなら容赦はいたしません」
「妹を……凛ちゃんを殺させるなんて……できない……」
蓮は歯軋りしながらも必死に告げる。が、出雲はそんな蓮の言葉に対してどこまでも冷酷だった。
「では、お早く諦めて頂きましょう」
そう言うと、出雲はおもむろに銃を左手に持ち替え、蓮の方を向いたまま左横に手を大きく伸ばすと、左手の社前にうつ伏せに倒れている蓮に向かって横を向いたまま立て続けに発砲した。銃声が響くたびに凛の体がピクリと跳ね上がり、同時に凛の体の下から出血と思しき液体が流れ出しているのが蓮のいる場所からも見えた。もう、凛は動く様子もない。
「勝負あり、でございます」
出雲はそう言うと、そのまま拳銃をゆっくりとポケットにしまい、そのまま倒れ伏す蓮に背を向けた。それを最後に、蓮の意識は急速に遠のいていき、カラカラと出雲がキャリーバッグを引いて去っていく音だけがいつまでも聞こえていた。
「……きろ……おき……起きろ!」
ハッと目を覚ました瞬間、蓮は肩に激しい激痛を感じた。その激痛が、出雲に肩を撃たれたものである事を思い出すと同時に、蓮は今までの出来事をすべて思い出していた。
「ここは……」
「警察病院だ」
呼びかけていたのは落合だった。近くには佐野もいて難しい表情をしている。
「まったく、やっと目を覚ましたか。ひやひやしたぞ」
落合が安心したように言う。だが、蓮にはそれよりも大切な事があった。
「凛ちゃんは……妹はどうなったんですか!」
その問いに対し、男二人は気まずそうな表情をした。
「……落合警部、すみませんが……」
「わかっています。席を外させてもらいますよ。どうも、私には秘密な話のようですし」
どうやら、落合もさすがに何かあると気付いているようだ。
「すみません」
「いえ……ただ、いつかは説明してもらいたいものですな。正直、何がどうなっているのか私にもさっぱりで」
落合が部屋を出て行く。後には佐野だけが残された。
「それで、妹は……」
「松彦神社は全焼した」
蓮が何か言う前に、佐野ははっきりそう言った。
「あれからもう三日が経っている。火が消えた後、現場に突入した消防が君を発見した。境内中央の石畳の上に倒れていたそうだ。雑木林から離れていたせいで延焼を免れ、倒れていた事もあって毒ガスの影響もほとんどない。左肩の傷も経過は順調だそうだ」
そう言うと、佐野はジッと蓮を見つめた。
「あの神社に行くまでの事の次第は野々宮から聞いている。あそこで何があったのか、話してほしい」
はやる気持ちを抑えて、蓮はあそこで見た事……つまり、凛の事件への関与と出雲による粛清についてすべてを話した。
「……そうか、君の妹はそんな形で事件に絡んでいたのか……」
「私も気付きませんでした。凛ちゃんが……まさかあんな事を考えていたなんて……」
「それにしても、あの神社が出雲の拠点だったとは。こちらの捜査不足だな。拠点を捨てたという事は、まだ他に拠点があるのかもしれないな……」
佐野が呟く。だが、蓮が一番知りたいのは他の事だった。
「それで、凛ちゃんは……」
佐野はしばらく押し黙っていたが、やがて事実を事務的に告げた。
「現場から見つかったのは君一人だ。出雲はもちろん、妹さんの姿もなかった。ただ、全焼して崩壊した社の残骸の下から血痕の後が見つかっていて、この血痕のDNAが君の実家に残されていた妹さんの髪の毛のDNAと一致した。君の証言と状況から見て、妹さんは出雲により射殺され、その後遺体は炎上して崩壊した社の下敷きになって全焼したと見られている」
「っ!」
蓮は絶句した。それが本当だとするなら、あまりに惨すぎる最期だった。
「君の証言があるまではあるいはとも考えていたが……目の前で射殺されていたとなるともう否定のしようがないな」
「凛……ちゃん……」
自分でも薄々はわかっていた。凛の死……あまりにも重過ぎる事実を、蓮は受け入れざるを得なかった。
「今回の件、我々は神社の不審火に君の妹さんが巻き込まれた『事故』として処理するつもりだ。血痕に関しては神社倒壊の際に潰された事によって生じたものと解釈し、遺体がないままで妹さんの死亡を認定する。もっとも、これにはもちろん目撃者であり被害者の親族でもある君の同意が必要だ。事実を公開したいというなら止めはしない。さすがに出雲が犯人であるという事まで公開はできないが、何者かに殺害されたという事実そのものを公開する事を止める権利は我々にはない」
だが、蓮は首を振った。そんな事をしても、相手が出雲である以上はそう簡単に事件は解決しない。むしろ、凛がなぜ殺されたのかという事で世間から奇異の視線を集めるだけだ。それならいっそ事故で死んだ事にした方がなおましだった。
「……わかった。協力に感謝する」
そう言うと、佐野は部屋を出て行こうとした。
だが、それを蓮が止めた。
「あの……佐野さんのいる特別捜査本部、どうやったら入れますか?」
佐野が動きを止め、ゆっくり蓮の方を見やる。
「どういう意味かね?」
「……私、出雲を許せません。必ず、私の手で捕まえて、妹に対する償いをさせたい。だから……だから私も……」
だが、佐野はそれを遮った。
「今は休みたまえ。そして頭を冷やしなさい。復讐心は冷静な感情を失わせる」
「でも……」
「まずは冷静になって、落ち着いて考える事が大切だ。君の将来にも直結するしな。だからしばらく時間を置いてから考えたまえ。それでもまだうちに来たいというのなら……そのときは何も言うまい。私から推薦しよう」
よく考える事だ、と佐野は最後にそう言って部屋を出て行った。残された蓮は、病室の窓の外へ向けて、今までにない鋭い視線を送っていた。
「……いいんですか?」
病室の外で、待機していた野々宮が病室から出てきた佐野に話しかけていた。
「何の話だ?」
「例の件の話ですよ。言わなくてもいいんですか?」
「……無駄な希望を持たせるべきじゃない。もし違っていたら、今度こそ彼女は立ち直れなくなる」
佐野はそう言って歩き始めた。野々宮も後に続く。
「でも、うちに来たいって言うなら、いずれは……」
「わかっている。だから、考えさせる猶予を与えた」
野々宮はしばらく考えた後、こう話を続けた。
「『復讐代行人』黒井出雲は、仕事に当たっていくつものルールを定めています。そのルールは逮捕した依頼人を通じて、我々特別捜査本部の人間が知るところとなっています」
佐野は黙って先を促す。
「現時点まで確認できるルールは二十八項目。その中には制裁に至る条件など細かく取り決められていますが、逆に言えば、出雲はこのルールにない行為は絶対に行いません」
野々宮は告げる。
「僕の知る限り出雲のルールには依頼人に対する制裁規定はいくつもありますが、いくら他人に依頼を擦り付けたからといって、依頼人以外の人間に出雲が制裁処置を取る根拠となるルールはありません」
「にもかかわらず、今回、出雲は依頼人ではない尼子凛に制裁を行った」
「何というか、すっきりしないんです。今回の一件、実際の依頼人は高原政信であって、尼子凛はそれをけしかけただけです。にもかかわらずなぜ……」
「……可能性はいくつか考えられる。依頼人本人が無自覚だったとはいえ、尼子凛がやった事は事実上の殺人依頼の教唆だ。つまり、出雲からしてみれば高原政信と尼子凛の共同での依頼と考えたのかもしれない」
「で、逮捕リスクの発生という依頼条件を逃れた尼子凛に制裁した、ですか?」
野々宮は疑わしそうに聞く。佐野は無表情のまま、こう言葉を続けた。
「君はもう一つの可能性を考えているのじゃないか? つまり……」
「制裁などなかった。つまり、出雲は尼子凛を殺していない。現場から遺体が見つかっていない以上、その可能性もあるのでは?」
野々宮ははっきり言った。だが、佐野は首を振る。
「先程まではその可能性も考えられたが、蓮君の話で尼子凛が何発も撃たれた事が証言された。死んでいる可能性の方が高い」
「でも……」
「いずれにしても、この状況では彼女の死亡判定を覆す事はできない。つまり、生きていようが死んでいようが、『尼子凛』は法律上、この世から消えるわけだ。その状況でそんな推測を彼女に伝えるわけにもいかないだろう」
「……」
野々宮は押し黙る。
「まぁ、この件に関しては当面我々二人だけの胸にとどめておこう」
「……わかりました」
と、そのときロビーの向こうから見知った顔が現れた。
「ここにいらっしゃいましたか」
警視庁捜査一課の国友警部だった。
「国友さん……」
「あなた方がここにいると聞いてやってきたのですがね」
国友は相変わらずの丁寧な物腰で年下の佐野に話しかける。
「荻窪中央署の捜査本部は?」
「今日にでも正式に解散になる見通しです。橋中詠江の犯行は決定的で、その詠江殺しも高原政信が認めていますからね。尼子凛の一件は事故という事で落ち着きそうですから、これ以上本部を設置する意味合いもないと上も判断しました」
「そうですか」
「あぁ、三年前の尾澤中学の事件に関しては、新たに中野署の方で再検討が行われる事になりました。私は当面、そちらの方に行く事になりそうです。私の見立てでは、おそらくですが、迫平の名誉回復が行われる事になると思います。その後どうなるかについては……私にはわかりません。刑務所にいる吉倉がどう反応するかも未知数ですし」
その事を言うときだけ、国友もわずかに重苦しい表情をした。
橋中詠江の犯行の立証は、必然的に三年前の吉倉による迫平殺しが間違った動機で発生してしまったという事実も証明してしまう。どころか、吉倉にしてみれば自分が間違った人間を殺した事で真犯人を野放しにし、更なる殺人を誘発させてしまったという事にもつながる。吉倉がどう反応するのか、誰にも予想はできなかった。
「それと、一つお知らせを。今回の一件で、上は鳥梨警視の特別捜査本部長解任を決断しました。直に通達が下るはずです。異動先は岐阜県警の所轄署署長……事実上の左遷処分になるかと」
「……やっぱり、そうなりましたか」
佐野はある程度予想していたようで、あまり驚く様子はない。
「上層部は今回の失態で、経験のないキャリア官僚をこの特別捜査本部のトップに据える危険性を認識したようです。出雲との戦いは逮捕の可能性が非常に低い上に長期戦になる事も予想されるため、あえて出世ありきのキャリア組を投入せずに捜査本部を構築する考えも検討されています。まぁ、この先どうなるかはわかりませんが……上も出雲に対して本腰を入れ始める可能性があります」
「上等ですよ」
佐野は小さく笑った。
「出雲が捕まるまで、私も本部を離れるつもりはありませんから」
さて、ここで日付は三日前の夜、すなわ松彦神社が炎上したその夜に遡る。
新宿の繁華街の一角に小ぢんまりとした趣のバーがある。『バー レモン』。それがこの店の名前である。
とはいえこの店、何か派手な看板があるわけでもなく、ただ表に『バー レモン』と書かれた小さな表札があるだけである。しかもこの店の店主は相当に天邪鬼なのか入口のドアにかかる札が「OPEN」になっているのは午後七時から午後九時までの二時間だけで、しかも一週間のうち平日の三日間しか開かず、どの曜日に開くのかは完全にランダムになっている。あとの時間はいつも「CLOSE」の札になっているため、この界隈では「開いているのを見る方が珍しい店」という事で有名であり、それが逆に珍しいのか、開いている日の二時間にはそれなりの賑わいを見せるという。
さて、この日もこの店は「CLOSE」の札をかけていて、外から見ると完全に閉店しているようにしか見えなかった。だが、一人の老人がこの店に近づいてくると、ドアにかかった札など目に入らぬかのようにあっさりとドアを開けて中に入ってしまった。
中は当然というべきかガランとして誰もいない。が、カウンターの奥でこの店の主が大きく新聞を広げながらくつろいでいるのが見える。老人はそのまま黙って店の奥へと足を踏み入れた。
「表の札が見えなかったの? もう閉店よ」
と、不意に店の主が新聞を広げたままハスキーボイスでそう呼びかけた。だが、老人は無愛想に言う。
「ふん、黙っていつものやつをよこさんか」
「……鶴の爺さんね」
そこで初めて店の主……梶井檸檬は新聞をおろして老人を見つめる。年齢は二十七、八歳程度だろうか。鋭い目つきに色白の肌、黒の長髪を無造作にポニーテールにまとめ、顔だけ見ればそれなりに美人ではある。
が、その格好はあまりにも異様だった。まず、女性にもかかわらず男物のビジネススーツを着込み、革靴にしっかりシックなネクタイまで締めている。それだけでもなかなかに変人だが、この女性はその上からさらに白衣を羽織っており、もはや色気も何もない有様だった。どう好意的に見てみてもバーのママがするような格好ではない。が、本人は別に気にする様子もなく、大きく欠伸をして老人……あの骨董商の鶴爺にカウンター席を勧めた。鶴爺が座ると、戸棚にあったボトルを無作法に差し出す。
「仮にも店の主人なら、たまにはついでくれるくらいはすべきだと思うが」
「面倒くさいわね。見知った顔なんだから勝手にやればいいでしょ」
檸檬はそう言うと、何かの紙の束を鶴爺に差し出した。鶴爺は黙ってそれを受け取る。
「新手の暴力団から仲介依頼が来ているわ。近々取引する絵画の鑑定をしてほしいって。報酬はそれなりだけど、どうする?」
「……下らん仕事だな。それに、嫌な臭いがプンプンする。最近できたばかりの暴力団だけあって、裏のルールも知らずに、鑑定して用済みになったわしを消そうとするやもしれん」
「爺さんを消したら、爺さんの鑑定に依存している他の大規模暴力団が黙っていない。そんな常識も知らないグループ、って事?」
「檸檬お嬢ちゃんの見立ては?」
「ま、可能性はあるんじゃない。希望なら、護衛の仲介くらいはするけど」
「いらんよ。断っておいてくれ」
鶴爺は紙束をつき返した。檸檬はため息をつく。
『バー レモン』の主人、梶井檸檬は裏社会の仲介屋であった。彼女のバーが「CLOSE」となっている時間、店は裏社会の人間の集まる社交場となる。檸檬はその幅広い人脈を生かし、ここを訪れる裏社会の人間たちの仲介の斡旋や仕事の紹介などの副業も行っていた。なお、『梶井檸檬』という名前は本人が梶井基次郎のファンだったことからつけた偽名らしく、裏社会の人間の常としてこちらも本名不明だった。
もっとも、彼女にはもう一つの裏の仕事があるのだが……
「ん?」
と、不意に鶴爺がボトルを飲む手を止めてそんな声を上げた。
「どうしたの?」
「車が店の前で止まった」
「へぇ、誰か知らないけど、車で来るなんて珍しいわね」
そう言った瞬間、再び店のドアが開いて誰かが入ってきた。
「よっす、姉さん」
「まったく、誰かと思ったら東の坊やじゃないの」
入ってきた男……情報屋の東を見て、檸檬があからさまに嫌そうな顔をする。情報屋だけあって東は普段から裏社会の人間が多数集まるこのバーに出没しており、それだけに檸檬とはほとんど腐れ縁のような関係だった。
「車で乗り付けるなんて、随分なご身分ね」
「いやぁ、俺は今日単なる運転手に過ぎなくって。本命は別にいるんだけどな」
そう言うと、東は入口に合図する。すると、別の誰かが中に入り込んできた。それを見た瞬間、檸檬は大きく息を呑む。
「出雲ちゃん……それ、どうしたの?」
「檸檬さん、お久しぶりでございますね」
その人物……黒井出雲は淡々とそう挨拶したが、檸檬にとってはそれどころではなかった。なぜなら、出雲は全身血まみれで気絶している少女を肩に担ぎ、ジッとこっちを見ていたからである。唖然としている檸檬たちに対し、出雲は普段と変わらぬ口調で言う。
「早速ですが、檸檬さんに依頼したい事がございます。すなわち……」
「あー、もう! 言わなくても何となくわかったわよ。とにかく交渉は後! その子を連れてきなさい」
檸檬はそう言うとカウンター横の「STAFF ONLY」と書かれたドアを指差した。出雲は小さく会釈すると、そのままそのドアに近づいていって、ゆっくりとドアを開ける。すると、その奥は地下室に続く階段になっていた。出雲はそのまま階段を下りていく。檸檬もカウンターを出て白衣を翻しながらドアの向こうに消えようとしたが、
「東、あんた責任を持って床に垂れた血を吹いておきなさいよ!」
「は? 何で俺が……」
「私の商売に響くでしょ! やらなかったらもう二度と仲介してあげないから」
「ちょ、姉さん、それはないぜ!」
「わかったら、さっさとやる!」
今度こそ檸檬はドアの向こうに消える。残された東は呻き声を上げていた。
「やっぱ、出雲の言う事を聞くんじゃなかった」
「まぁ、頑張れや、坊主」
鶴爺はそ知らぬ表情で酒をあおり続けていた。
「で、この子は何?」
地下に続く階段の先……地下室に備えられた診療室で、隣の手術室のベッドに寝かされた少女をガラス越しに見下ろしながら檸檬は出雲に尋ねた。
「少々込み入った事情がございまして」
「……この銃創、出雲ちゃんが撃ったんでしょ」
檸檬の問いに、出雲は小さく微笑んだ。檸檬にとってはそれで充分だったようで、大きなため息をつく。
「また、厄介事ね。とにかく、すぐに手術するわ」
檸檬はそう言うと、手術着に着替え始めた。
梶井檸檬のもう一つの裏の職業……それは、いわゆる「闇医者」であった。こうみえてかつては某国立医科大学の主席だったらしく、それが何の因果かこうして裏社会での医療行為に携わる事になっている。もちろん医師免許など持っていないが腕は確かで、裏社会の人間からは「リアルブラッククイーン」なるありがたいのかありがたくないのかよくわからない異名を授かっている。
「その前に、少し交渉でございます」
と、そんな檸檬に対し、不意に出雲は札束を取り出すと机の上に置いた。手術着を着終えて手術準備をしていた檸檬の手が止まる。
「それ、手術費? 悪いけど、出雲ちゃんも知っているように、私の手術費はもっと高いわよ」
「いえ、手術費用は彼女自身にご請求して頂きたく思います」
そう言いながら、出雲は手術室の少女を指差す。
「容赦ないわね。じゃあ、これは?」
「私のささやかな要望でございまして」
そう言いながら、出雲は檸檬に何かを耳打ちした。それを聞いた檸檬の表情が難しくなる。
「本気? この状況だと、かなり難しいよ」
「なにとぞよろしくお願い致します。あなたならこの困難な依頼も成し遂げられると考えています」
「……そう言われると、断れないじゃない」
そう言うと、檸檬は覚悟したように札束を受け取って引き出しにしまうと、手袋をして手術室へ向かった。
「あとはこっちの仕事。そこで見てる?」
「いえ、上で待たせて頂きましょう。もちろん、死んだ場合は賠償金を頂きますが」
「そんなへまはしないわよ」
そう言うと、檸檬は手術室に入っていった。それを見届けると、出雲は階段を上って地下室から出て行こうとする。
『あぁ、そうそう』
と、檸檬が急に手術室の中からマイクで呼びかけてきた。出雲が足を止める。
『この子の名前、聞かせてくれない? 名無しの患者の手術なんてごめんよ』
それに対し、出雲は背中を向けたままこう返した。
「尼子凛。すでに死んだ少女でございます」
『そう……』
謎めいた出雲の一言に対し、檸檬はただそう答えただけで、そのままマイクを切って本格的に手術を始めた。それを確認すると、出雲は今度こそ階段を上っていってしまった。
尼子凛は暗い闇の中をさまよっていた。霞がかった思考で、今の自分の状況をぼんやりと考えてみる。自分は、いったいどうなってしまったのだろうか。
かすかに頭の隅できらめく思い出。あの神社で復讐代行人に銃を向けられ……そのまま撃たれたところまでは覚えていた。
そうか、私、死んだのか。
それが、凛がぼんやりとする頭で最初に抱いた感想だった。撃たれる直前に姉がやってきていたようだが、今となってはそれも無意味である。自分は死んだ。それだけの事をしたのだ。あの伝説の復讐代行人を騙そうとした。その結果がこれである。
となれば、この闇だけの世界はおそらく死後の世界という事になるのだろう。死後の世界は天国地獄があるか、もしくは何もない無の世界かという論争を聞いた事があるが、この様子ではどうやら後者のようだ。覚悟はしていたとはいえ、いざ実際に経験してみると気分のいいものではなかった。
私はこのまま消えていくのか。そう思いながら再びまどろみの底に沈みかける。
だが、そんな凛の頭上から、不意に一筋の光が差した。闇が引き裂かれ、徐々にその光の筋は大きくなっていく。
わけもわからないうちに、凛はその光の柱に飲み込まれ、そして……
「ん……」
死の淵から生還した凛の第一声はそれだった。ゆっくりと目を開くと、薄汚れた天井が見える。何がどうなっているのかわからずしばらくそのままの姿勢で働かない頭を回転させようとするが、やがてどうやら自分があの状況から助かったようだと自覚した。
「やっとお目覚めね」
不意に頭上から声を賀した。久しぶりに聞く肉声に思わず顔をしかめてその声の主を見ると、今まで見た事もない女性が男物のスーツに白衣というわけのわからない格好で自分の傍に立っていた。
「手術から一週間にして意識が戻る。経過は順調、と。うーん、まぁまぁね。銃創を五ヶ所手術したにしては上出来か。でも、今度はもう少し意識が早く戻るような治療をする必要があるかしら」
女性はそう言いながらカルテらしいものをつけている。どうやら、彼女が瀕死の自分を救ったらしいと凛は直感した。
「あ……あなた……は……」
「梶井檸檬。檸檬と呼びなさい」
女性……檸檬はカルテをつけながらそう言った。
「まったく、あなたのおかげでこっちは一週間まともに表の仕事もできなかったのよ。その歳で出雲ちゃんここまでやらせるなんて、あなた何をやったの?」
「い、ずも……」
その名を聞いて、凛は戦慄した。この女性は出雲の名前を知っていた。という事は……。
「あなたは……黒井出雲の知り合い……なのですか……」
「檸檬と呼びなさいと言ったはずだけど……まぁ、そうよ。何て言うか、昔からの腐れ縁ね」
と、ちょうどそのとき、ドアがノックされる音がした。
「ちょうどいいわ。依頼主のお出ましね」
檸檬が、どうぞ、と言うと、ドアが開いてセーラー服の少女……黒井出雲が姿を現した。凛は起き上がろうとしたが、全身が麻痺して起き上がる事ができない。
「無理しない方がいいわ。まだ、立てるところまでは回復していないから」
檸檬がそう忠告したので、凛は起き上がるのを諦める。そんな凛の傍へ、出雲は前と一切変わらない様子で近づいてきた。
「何で……私を……」
「あなたを楽に死なせはしません」
開口一番、出雲が発した言葉はそれだった。
「あなたのやった行為は、私の信念からすれば到底許されるものではございません。しかしながら、私が自身に定めているルールの上では、実際の依頼人ではなく、なおかつ実際の私の仕事……すなわち、橋中詠江殺害という依頼遂行において一切邪魔などをしていないあなたは、制裁をすべき対象ではございません。ゆえに、ルール上、私はあなたを殺す事はできません。とはいえ、このままで済ませるわけにもいきませんので……」
出雲は相変わらずの可憐な声でこう告げた。
「あなたには、生きながら死んで頂く事にしました」
言葉の意味が理解できず、凛は戸惑う。そんな凛に対し、出雲は持っていた新聞を見せ付けた。
『無人神社で不審火? 高校生一人が死亡』
そんな見出しが飛び込んでくる。驚いた凛は、寝たままの状態でその新聞の記事をかぶりつくようしてに読んだ。
『昨日、東京杉並区の松彦神社で火災が発生して境内が全焼し、この神社を訪れていた中谷高校二年・尼子凛さん(十七)が死亡した。凛さんは学校の新聞部の取材で神社を訪れており、警察では神社で発生した火災に凛さんが巻き込まれたものとみている。火災の要因に関しては現在も調査が進められているが、近隣住民が蝋燭をくわえたカラスが飛んでいるのを見たという目撃証言もあり、警察は近くの墓地に備えられた蝋燭をカラスがくわえて運び、それが神社の木々に引火したものと見ている』
事実とはまったく違う内容の記事だった。自分が死んだとされている事よりも、その現実に凛は呆然とした。
「どうやら、警察はこの一件を事故死で片付けるつもりでございますね」
出雲は淡々とした様子で答える。
「さて、いずれにせよ、これであなたは法的には死亡したわけでございます。もう、表の世界で生きていく事などできません。これがどういう意味なのか、あなたにはおわかり頂けますか?」
「何を……」
戸惑う凛に対し、出雲ははっきり告げた。
「あなたには、今後我々と同じ……裏の人間として生きて頂きます。それが、今回の一件で、私があなたに課す制裁でございます」
その言葉の意味を理解するのに、凛はしばしの時を費やした。そして、理解すると同時に、思わず声を上げていた。
「わ、私に殺し屋になれって言うんですか?」
「……そこまでは申しません。裏の人間といっても、様々な人間がいます。あなたが何になるかは、今後の状況次第でございますが……いずれにせよ、あなたには生きながらにして罰を受けて頂きます」
ある意味、残酷な制裁だった。今までの普通の高校生だった自分を捨て、いつ死ぬかわからない裏社会の人間として生きろと言っているのである。
「先に申し上げておきますが、勝手に死ぬことは許しません。あなたが自殺を図ろうとしても、そこにいる檸檬さんに必ず死の淵から呼び戻して頂きます」
「勝手に安請け合いしないでもらえるかしら」
そう言ってから、檸檬も凛を見下ろした。
「とはいえ、私もあなたに死んでもらうのは困るの。今回の手術費用、すべてあなたに負担してもらう事になっているから。銃創五箇所の治療費として五千万円、どんな事をしてもしっかりと払ってもらうわよ」
凛の顔が青ざめる。あまりの急展開に、まだ呆けた状態の凛の頭はついていけなかった。
「言っておくけど、もしあなたが自殺を試みた場合、その治療費も当然上乗せされるから、死のうとすればするほど負債は増えていくわよ。そうなりたくなかったら、変な気は起こさないようにね」
「そういう事でございます。ご理解頂けましたか?」
出雲は済ました表情で言う。ここで、凛はようやくある事に気がついた。
「まさか……あの神社でお姉ちゃんが乱入して来たのは……」
「ええ。あなたが『死んだ』事を警察に確実に認識して頂くため、あえて彼女が来るのを待たせて頂きました。東さんにも派手に動いて頂きましたし、高原様の自供を合わせて考えれば、佐野警部なら私があなたを狙うかもしれないと予想するはずでございます。そうなれば、情報が尼子刑事に伝わって彼女があの神社に乱入してくる事は容易に想定できます。そのようなわけで、結果的にあなたを法的に『殺す』事には成功したわけでございます」
あの神社での一連の出来事さえもが、すべて出雲の計算の上だった。もはや、凛は出雲に対して恐怖感さえ抱いていた。こんな人間を騙そうとした事自体が無謀だった。凛はここにいたってようやくそれを実感した。
「さて、とはいえいきなり表の生活を持つ人間に裏社会で生きていけというのも酷でございます。そこで、今回は私からあなたに一つ贈り物を差し上げる事にいたしました」
「贈り物?」
思わず鸚鵡返しのように聞く。すると、檸檬が黙って姿見ほどのサイズがある鏡がついたアームのようなものを、凛の上へと持ってきた。
「出雲ちゃんの頼みでね。少し、いじらせてもらったわよ」
その姿見に映る姿を見て、凛はこの日最後の、そして最大の驚愕に襲われる事になった。
「これ……誰?」
姿見に映る姿。それは、見慣れた自分の姿……『尼子凛』の姿ではなかった。見た事もない、まったくの別人だったのである。
本来の凛の容姿は一見すると真面目そうに見える年相応の女子高生のものであるはずである。が、姿見に映っているのはどこか垢抜けた二十歳前後の風貌の女性だった。かつての面影などどこにもなく、もはやそこには『尼子凛』の欠片も存在していなかったのである。
「整形させて頂きました」
出雲は淡々と事実だけを述べた。呆然とする凛に対し、出雲はさらに追い討ちをかける。
「これで、『尼子凛』という存在は、法的にも現実にもこの世から『抹消』されたという事でございます。あなたがいくら主張したところで、あなたが『尼子凛』だと信じる人間は、おそらくどこにもいないでしょう」
出雲の言葉に、凛は絶望に打ちひしがれた。自分という存在が消され、もはや自分の選択肢がなくなっている事を、否が応でも受け入れざるを得なかった。
「……後の事は檸檬さんにお任せします。私は、次の仕事がございますので」
「世話しないわね」
檸檬は大きく息をつきながらも軽く頷く。それを見て、出雲は凛に背を向けた。
「それでは、またいつかお会いいたしましょう、『尼子凛』さん。もっとも、次に会うときには、もうこの名前で呼ぶ事もないのでございますが。お早めに、自分の名前をお決めください」
その直後、『尼子凛』だった人間がすがるような表情で見つめる中、まるでその未練を完全に断ち切るかのように、出雲が出て行った扉が重い音を立てて閉じた。
事件終結から数週間後、中谷高校の新聞部室前の廊下に一人の影が立っていた。部室は「KEEP OUT」のテープで完全に封鎖されており、中に人気はない。どころか、わずか一ヶ月で三人もの部員が立て続けに死んだこの新聞部は、すでに廃部になる事が決定していた。もっとも部内に殺人犯がいて、なおかつ部室で銃撃沙汰ともなれば、これも当然の処置だったのかもしれないが。
「あら」
と、部室の前に立つ人影に、廊下の向こうから歩いてきた別の人影が声をかけた。
「江崎さん、こんなところでどうしたの?」
里中星代は、部室の前に立っていた江崎コノミに対してそんな問いかけをした。
「あぁ、部長ぉ」
「部長なんてよしてよ。もう部活もなくなっちゃったし……。正直、今でも全然実感わかないけどね」
相変わらずのんびりした口調のコノミにそう言いながら、星代はコノミと並んで部室の扉を眺める。
「……橋中さんの遺体、見つけたの、江崎さんと尼子さんなんだってね」
「うん」
「その日のうちに尼子さんまで死んじゃって……なんでこんな事になったんだろう」
コノミは答えない。しばらく黙ったまま、二人はその場に立ち続けていた。
「部長はこれからどうするのぉ?」
「私は……女子バスケ部に戻る事になると思う。一回辞めておいてなんだけど、あっちの仲間たちも事情はわかってくれているみたいだから……」
「馬淵君はぁ?」
「しばらくは委員会の仕事に没頭したいって。尼子さんが亡くなった事に、まだショックを受けてるみたい。もしかしたら、尼子さんに気があったのかもしれないけど……今となっては、ね」
そう言ってから、星代はコノミに問いかけた。
「江崎さん、あなたはどうするの?」
「うーん、別に考えてないなぁ。しばらくはおとなしくしておきたいと思うけどぉ」
その答えに対し、星代はしばらくためらったあと、思い切った様子でこう問いかけた。
「ねぇ、もうそのお芝居、やめにしない?」
「……何の話ぃ?」
「とぼけないで。私もあなたと同じ中学だったのよ。あなたが元々そんな性格じゃないことくらい、よくわかってるわ」
コノミは答えない。星代は覚悟を決めたように話を続ける。
「……三年前に死んだ吉倉美亜さんとあなたは同じ新聞部所属の親友同士。しかもあなたは、当時硬派な記事ばかり書く事で有名な新聞部の敏腕記者だった。そんなあなたが、あんな形で終わった吉倉さんの事件に納得ができるわけないよね」
「……」
「本当は、疑っていたんじゃないの? 橋中さんの事」
その言葉に、コノミはしばらく黙り込んで何かを考えていたが、
「……償いのつもりだった。ただそれだけよ」
不意に、今までののんびりした口調とはかけ離れた真面目な声で答えを返した。同時に、今までのほんわかした雰囲気が、一気に鋭いものへと変化する。あまりの急激な変化に星代も一瞬威圧されそうになるが、気丈にもそれに耐えてこう言い返す。
「久しぶりに聞くわね、その口調」
「あれから三年間、ずっと押さえてきていたからね。今更変える気はないけど……里中さんなら問題ないと判断したわ」
それは、中学時代に吉倉美亜とともに新聞部で腕を鳴らしたという本来の『江崎コノミ』の口調そのものであった。
「やっぱり、橋中さんを疑っていたのね」
「疑っていただけよ。単に私の直感だけで、根拠はまったくなかったわ。だから警察にも言えなかった。それで、証拠をつかもうと調べ始めた矢先に迫平先生が殺されてしまった。私のせいよ。私が、吉倉さんに中途半端な資料を見せたりしたから……」
コノミは重苦しい表情で心中を吐露する。星代は黙ってそれを聞いていた。
「美亜と近かった私は、それだけに橋中さんからすれば実情を知る可能性のある危険人物。殺人までやったあの人なら、危険となったら口封じのために私を殺すこともいとわないはず。だから……」
「だから、事件の後、急に性格を変えた」
「事件のショックって事で、誰も疑わなかったわ。それに、私にはやるべき事が残っていたし」
「それが……橋中さんを監視する事?」
コノミは頷いた。
「私が不用意に資料を見せたせいで、吉倉さんは殺人犯になってしまった。しかも、もしかしたらその殺害相手は吉倉さんが復讐すべきだった相手と違うかもしれない。もし、ここで迫平先生が犯人じゃなかったなんてわかったら、あの人は自分のやった事に押しつぶされて壊れてしまうかもしれない。あの人を殺人者にしてしまった私は、これ以上、あの人をそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。だから、橋中さんが犯人だなんて口が裂けても言えなかった」
そこでコノミは声を沈ませる。
「けど、だからといっていつまた暴走するかもしれない橋中さんを放っておくわけにもいかない。だから……私がずっと監視するつもりだった。生涯をかけて。それが、私の不用意な行為であの人を人殺しにしてしまった、私の償いだったの」
そう言ってから、コノミは顔を伏せた。
「でも、結局私は橋中さんの暴走を止められなかった。まさか、高原さんが三年前の事件を調べていたなんて、思いもしなかった。おまけに殺害トリックに私の定期券を使うなんて……監視していたつもりが利用されたなんて、いいお笑い種ね」
コノミは自嘲気味に笑う。だが、星代は笑わなかった。真剣にコノミの話を聞いている。コノミは言葉を続けた。
「なのに、今度も私は事実を言う事ができなかった。言ったら、私が今までやってきた償いが崩れる気がして……結局、また同じような事になってしまった」
「……そうだったの」
「……でも、それも終わりね。橋中さんが犯人だという事は証明されたから、この事実はすぐに吉倉さんに伝わるはず。私が今までやってきた事も……無駄になる」
「……」
「そう思ったら、切なくなって。気がついたらここにいたの」
そう言うと、コノミは大きく息を吐いた。
「話したらすっきりしたわ。もっとも、私のやってきた事は、許されない事だろうけど」
「……もう一度聞くけど、これからどうするつもりなの?」
コノミはしばらく黙っていたが、やがてこう告げた。
「これからは、別の償い方を考える。それが何になるのかはわからないけど」
そこまで言ってから、急にコノミの雰囲気が元ののんびりとしたものに変わった。
「とりあえず、卒業するまではこのキャラを通すつもりだよぉ。今、急に性格を変えたらみんな混乱するだけだし、警察にも変な疑いをかけられるだけだしねぇ」
あまりの変わりように、星代は唖然とする。恵、詠江、凛、コノミ……自分が所属し、あまつさえ部長さえ勤めていた新聞部にどれだけの裏があるのか、星代は背筋が凍りついた。
「じゃあねぇ、部長ぉ。また一緒に話せるといいよねぇ」
そう言いながら、コノミはいつも通りのつかみどころのない雰囲気に戻って去っていった。星代は、それを呆然とした表情で見送るしかなかった。
事件は永久に終わる事はない。一つの事件は関係者に様々な遺恨を生み、それぞれの人生を狂わせる。そして、それが消える事は半永久的にない。
そして、数多くの人々に様々な遺恨を生んだこの事件から、瞬く間に二年という歳月が過ぎ去った。
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