第6話

第六章


 時刻は20時ちょうど。

 光谷が倉庫内に入ると、外の肌寒さとは打って変わって温かさを感じた。どうやら警察の計らいで、携帯式のガスストーブを中に入れたらしい。これは非常にありがたかった。

「全員集まったな」

 光谷が倉庫に入り扉を閉じる(当然閉め切ることが出来ないが)のを見て、奥にいる御霊が声をかける。別荘の招待客のほか、冴木を含む警察が数名おり、中がとても窮屈に感じられた。

「鯨井紗智を殺した犯人が分かった。これから推理を展開する。気になった点があれば、私の話が一呼吸つく都度に指摘してくれ」

 御霊は名探偵さながらに宣告した。冴木たち警察は、彼女の傍でじっと事の成り行きを見守っている。警察の捜査でなく、御霊は自らの推理のみで真相に辿り着いたのだろうか。

「まず、この倉庫の密室を構築したトリックから解明する。扉と窓がともに施錠され、ほかに出入りできるような箇所は見当たらず、たった一つの倉庫の鍵も倉庫内の片隅に見つかり、それを外から滑り込ませるような隙間もない。扉や窓に、細工された形跡は全くない。芸術的なまでに完全な密室を、犯人はどうやって創造し、そして出入りしたのか」

 御霊は倉庫の壁を、愛おしそうに撫でた。彼女の言葉からは、ある種犯人に対する畏敬の念の様なものが感じられた。完璧な犯罪を心のどこかで礼賛せずにはいられない、探偵としての美学なのだろう。

「完全な密室から脱出する方法はただ一つ。犯行後も中に潜み、第一発見者が鍵を壊した後に脱出することだ」

「そんな馬鹿な。この倉庫内に、隠れられる場所なんてあるわけない。棚の物陰すら、そんな人が隠れられるような大きい物も置いてありませんって」

 福士が堪らず声を上げた。

「確かに。私が突入した時も、死体の陰、奥の棚の物陰、全てを観察したが、人っ子一人隠れてなどいなかった。ついでに天井もチラッと見たが、忍者のように天井に張り付く犯人は見えなかったな」

 流石の光谷もそこまで見てはいなかったが、今天井を確認しても、人が張り付いてじっと第一発見者が来るのを待てるような足の置き場など見えない。忍者でも不可能な芸当であるようにに思えた。

「リビングにいた人間たちは、鯨井が最期に言った言葉を覚えているか?」

 御霊が唐突に尋ねた。

「確か、灯油タンクを取りに行くって。ちょっと分かりづらい場所にあるから自分一人で大丈夫だ、と。そのような事を言っていたかな」

 花崎が一番に答えた。大分酒が入っていただろうに、その記憶力にはすっかり感心させられた。

「その通りだ。問題のポリタンクはあそこにあるな」

 御霊が指示した先…赤いポリタンクは、倉庫の左隅にぽつねんと置かれていた。

「これのどこが『ちょっと分かりづらい場所』なんだ?」

「え?」

 光谷が思わず聞き返した。

「棚には地味な色合いの物ばかり並んでいる。赤いポリタンクは左隅に置いてあると言えど、色合い的にはかなり目立つ。誰が倉庫に入っても、すぐ目に入るだろう」

 確かに、御霊の言う通り、光谷が倉庫内を見まわした時、赤いポリタンクはすぐに目に入ってきたことを思い出した。

「最初は布でも掛けてあったんでしょうか。それで、視覚的に分かりづらくなっていたとか」

 須能深夜が、一つの解を提唱する。

「あり得るかもしれんが、それだと『分かりづらい場所』という日本語にはならないと思うのだよな。分かりづらい風に置いてある、とか、そういった言い回しになるべきだ」

 御霊が却下した。

「じゃあつまり、どういうことなの?」

 小手川が痺れを切らしたように尋ねた。

「冴木、頼んだ」

 御霊が声をかけると、冴木が部下の警察に「おい」と言った。何が始まるのだろうか。

 屈強そうな一人の警察官が、倉庫の壁に立てかけてあった真新しいチェーンソーを手に取った。そして、電源を押す。轟音を掻き立てて、チェーンソーの刃が回転する。

「何をするつもりだ!?」

 福士が仰天し声を張り上げる。

「全員、壁際に下がれ」

 御霊の言葉に従い、全員が壁に背中を付ける。警察官は倉庫の中央、凡そ鯨井が倒れていた赤いペンキが塗りたくられた、木の床にチェーンソーをあてがい、切れ込みを入れていく。そのままゆっくりと動かし、約80cm四方の正方形に床を切っていく。丁度一周し終わったところでチェーンソーを止め、正方形の箇所を強く蹴り込んだ。バコッと派手な音を立てて床が抜ける。

「ああっ!?」

 穴の先は、真っ暗な空間が広がっていた。

「この倉庫内には地下室があったんだ。本来赤いポリタンクが置かれていたのも、この中で間違いない。地下室の存在を隠す為、態々わざわざ犯人が地下から倉庫の棚に運び出した、という訳だな」

 御霊が中を覗き込みながら言う。中には先程蹴り落とした木の床板のほか、ロープが落ちているのが見える。それ以外の物は殆ど見えない。かなり狭い空間だが、人が一人中に入るのは十分のように見えた。警察官が1人中に降りて、地下室内を確認し始める。

 御霊が蹴り落とした木の床板を拾う。その裏には、小さな取っ手が付けられている。

「犯人は鯨井を殺害後、この地下への扉をひっくり返し、死体を乗せたまま閉じたんだ。この地下への扉は周囲を金具で囲っている訳でもなく、取っ手を見つけなければ床と同化してしまう。ちょうど扉の縁が板の継ぎ目と同化しているから、表側でも分かりづらかっただろうな。それをひっくり返して嵌めれば、ほかの床と殆ど見分けがつかないことに犯人は気付いた。それを犯行に利用したんだ」

 彼女の推理が展開されるにつれ、光谷も一つの事実に近付いていた。

「ちょっと待ってください。犯人がこの地下室に隠れていた、ということは分かりました。でもそれってつまり、ということですか。だって俺と御霊さんが死体を発見し、別荘にいる人たちを呼んで、みんなが駆けつけたんですよ。この倉庫に6人全員がいたんですから、別荘の人間が地下に隠れられる訳が無い」

「察しがいいな」

 御霊が光谷の合いの手に満足するように頷いた。

「実はこのトリックは、第三者の協力が必要不可欠なんだ」

「第三者…つまり、犯人は単独犯ではない、ということですか」

「そうだ。何故なら犯人が地下に隠れる時、地下への扉をカモフラージュするため、死体を扉に乗せたまま閉じた。また外に出る時、死体を同じ体勢に戻さなくてはならない。しかし地下からそれを正確に把握し、元に戻すのは困難だ。つまり、現場に駆け付けた人間が我々が引き揚げた後、現場に戻り犯人と合流し、地下室の扉を瞬間接着剤で固定する。鯨井の死体を元の体勢に戻し、赤いインクをぶちまけ、現場から出た」

 光谷は御霊の推理を聞きながら、周囲の容疑者達に視線を滑らせた。皆、一様に緊張した面持ちで御霊を見つめている。自分と御霊以外、死体発見後の完全なアリバイがある者はいない。全員に可能性がある…。光谷の背中に冷や汗が流れた。

 次に口を開いたのは小手川だった。

「その赤いインクを撒いたのは、やはり今回のトリックとの関連が?」

「あぁ。まずその目的の一つとしては、周囲の床板との色合いを誤魔化す効果を期待したんだろう。同じ床板と言えど、日焼けしている表面と裏面では色合いが違っただろうからな」

 御霊が正方形の床板を足元に置く。確かに、鯨井の体があったため赤いインクで汚れていなかった箇所は、倉庫の床板の色よりも若干黒ずんで見えたが、インクの派手な赤色に気を取られ、全く違和感に気付かなかった。

「このトリックはよく考えられている。殺害場所は往来を誰にも見られることなく、それでいて警察の到着に時間がかかる場所でなければならない。街から離れた別荘にある倉庫は、まさにうってつけだ。窓から出て、身を屈めつつ外周から倉庫に行けば、まず見つかることがない。しかも時期が冬でこの寒さだ。誰も警察が到着するまで現場に残り続けようだなんて考えが及ばない。そこまで計算して、倉庫を殺害現場に選んだに違いない」

「強盗だとかがたまたま鯨井と鉢合わせて殺してしまい、偶然見つけた地下室に隠れた、というのは、あり得ないんですかい。僕はこの中に協力者がいるとは、とても思えなくて」

 福士が口をはさむ。

「あり得ない。この事件の犯人は、執拗に地下室の存在を覆い隠そうとしている。これはつまり、『最初から地下室の存在を知る者が殺すターゲットであった』ことを示している」

「あっ…」

「すなわち、この密室トリックが示すところは、やはり鯨井紗智を殺害することを目的とした、計画殺人であることに間違いない。よって外部犯による偶発的な殺人の可能性は切れる」

「しかし、しかし、しかしですよ。この倉庫、建てられたんは1年ほど前と聞きます。その間に、犯人以外の人が偶然見つけたり、鯨井さんから聞き及ぶ可能性もありますよ。そしたら、せっかくの密室があっと言う間に解かれてしまうんじゃないんですかい」

 福士の言うことも最もだった。

「鯨井はあの口ぶりから、地下室の事は皆に秘密にしていたようだがな。万が一地下室の存在を事前に知られていたとしても、犯人が逃げる迄の時間稼ぎさえしてくれれば十分に考えていたんだろう。死体発見時、地下室の存在を知っていたとしても、すぐに鯨井の死体をどかして地下室を調べる、なんて行動はまずあり得ない。警察が到着してから地下を調べたのでは、犯人が逃げ去った後だ」

「そ、それで…その共犯者、っていうのは、この中の誰なんですか」

 花崎がとうとう本題に触れる。

「………一つ、お前たちは勘違いしているようだな。この中にいるのは共犯者じゃない。殺人犯だ」

「え…?」

 光谷は、一瞬言っている意味が分からなかった。

「そして、その犯人は」

 御霊が、ゆっくりとその人物を指をさす。

「お前だ」



                  「須能深夜」




 その場にいる全員が、彼の顔を見る。須能深夜は、いつもの青白い表情のまま、静かな視線を御霊に向けただけだった。

「違います。そもそも私は、犯行があった時間ずっとリビングにいたんですよ。光谷さんと花崎さんが証言してくれたじゃないですか。御霊さんだって、途中まで私がリビングにいたことを知ってる筈です」

「そうだな。全く古典的なトリックだというのに、まんまと騙されたよ」

 御霊が苦笑交じりに須能深夜を見つめる。

「お前が使ったのは、だ。な」

 御霊は、二人の顔を頭の中で比べながら言う。須能深夜と鯨井紗智の顔は、いとこ同士だがあまり似ていなかった。しかし、雨森の家で玄関先に出てきた女…須能宵の顔と彼の顔は、髪型やまつ毛などの細かい部位を除けば、顔立ちや体格などは非常に瓜二つであった。

「須能宵の方は、普段はウィッグで髪型を変えているんだろう。ウィッグを取ってメイクを落とせば、お前そっくりの人間が出来上がる筈だ」

「面白い想像ですね。御霊さんはとっくにご存知かと思っていましたが、んですよ。体調が悪くて来れなかったので、昨晩は叔父がずっと一緒にいた筈です。車で2時間かかる場所にいる人間が、どうして別荘に出現するんですか」

「一々私に言わせるつもりか?その雨森という男もグルだ。3

 御霊が鋭い眼光を須能深夜に飛ばす。須能深夜も、冷めた視線をずっと御霊に投げかけていた。

「計画はこうだ。まず昨日の午前、お前が車で別荘に到着する。この時トランクの中に須能宵がずっと隠れていて、お前とそっくり同じ顔、同じ服装で待機している。当然、指紋を残さないために手袋ぐらいはしていただろうが。車から部屋に荷物を運ぶフリをして、タイミングを見計らい須能宵を部屋に招き入れる。連絡はスマホのSNSかなんかで、事前に暗号を決めておけば、取り留めのない会話を交わしている風を装って合図を送ることができる。

個室で合流したら、須能宵の方は犯行予定時刻になるまで、ずっとどこかに隠れる。そうだな、なんかどうだ。広さも十分だし、あの中は普段布団類が収納されているから、それがクッション材になって物音も立ちにくい。ほかの客人や鯨井も、わざわざそんな場所を好き好んで開けてみたりなどしないだろう。まぁ不安であれば、お前がずっと個室で付きっ切りで見張ればいいだけの話だしな。

次に鯨井を倉庫におびき寄せる方法だが、これは分かり易かった。リビングに誰もいない時を見計らい、灯油ストーブの中の灯油を予め減らしておき、犯行予定の時間帯になったら燃料切れを起こすよう調整していたんだ。これは前もってどれぐらいの量の燃料で何時間もつか試してみないと分からないだろうから、昨日ここに来る以前に、実際にこのストーブで何度かこっそり実験していたんだろう。あの灯油ストーブは、外から残りの灯油の残量が分からないタイプだったから、犯行時間前に灯油を補充される恐れもない。

さて、目安21時30分に燃料切れを起こさせるとして、幅を持って約30分前には須能宵と入れ替わった。お前は窓から出て別荘外の倉庫に向かい、中で鯨井を待ち構える。その時に、犯行に使う金槌、ロープ、瞬間接着剤は予め用意していただろうな。当然指紋を残さない為の手袋もだ。灯油タンクも先に地下から上に出しておいてもいい。須能深夜に成りすました須能宵は、そのままリビングに出て行って須能深夜のアリバイ作りのために客人たちと合流する」

「つまり、昨日の夜21時過ぎからリビングにいたのは、須能深夜君じゃなくて…須能宵さんだったと?我々全員が騙されたと言うんですか」

 光谷の声が震える。

「そうだ」

「あり得ませんよ。男女という違いもあるし、声だって違う。何より私たちは何度も、2人と会ってるんですから…」

 光谷はそう言いながらも、段々と自信を無くしてきた。雰囲気の似たあの双子。そう言えば身長もほぼ同じだったし、体格もどちらも瘦せ型で、須能宵はあまり女性らしいふくよかさを感じない体型だった。胸の部分も、サラシなどを巻かれたら全く分からなくなりそうだ。正月休みの時に見た格付け番組のように、どちらが本物の須能深夜か当てるクイズでも出されたら、自分は正解できるのだろうか。

「声色も、どちらかの方に寄せるよう練習していたんだろう。現に私含め全員騙されているんだからな。話を続けるぞ。須能宵はリビングでほかの客人と合流し、須能深夜のアリバイを作る。この時自分はあまり指紋を残したくないだろうから、素手で触ったグラスやドアノブを後でこっそり拭き取るぐらいはしただろう。私の記憶だと、触れていた物はその程度だった認識だ。それで時間通りに灯油ストーブの燃料が切れ、鯨井が倉庫に向かったタイミングで須能深夜にこっそり合図を送る。

倉庫で待ち構えている須能深夜は倉庫の扉の裏側に隠れ、息を潜めて待つ。何も知らない鯨井が倉庫に入ってきた時、まず金槌で殴り怯ませた後に、ロープで手際よく首を絞め殺害した。お次は密室トリックの準備だ。倉庫の鍵を閉め、ロープを地下室内に放り込み、裏向きにした地下室の扉の上に鯨井の死体を乗せる。死体を落とさないようバランスよく担いだまま、地下室の扉を閉め、地下に閉じ籠った。そうだな、倉庫には1時間以上は居続けないといけない計算になるから、防寒のためのジャンパーぐらいは羽織っていただろう。そして、誰かが鯨井を探しに倉庫に来るのを、静かに待ち続ける。22時30分ごろ、私と光谷が鯨井を発見し鍵を壊して中に突入、皆を呼んだ。あの倉庫の中で、に皆が去るのを待っていただろう。寒さに耐えきれず私たちが別荘内に引き上げた後、須能宵はこっそり別荘を窓から脱出し倉庫に戻る。鯨井の死体をどかし、須能深夜と合流。仕上げとして地下室の扉を裏返しのまま接着剤を塗りたくり、地下への穴にべったり貼りつける。鯨井の死体を慎重に元のポーズに戻し、地下室の発見を少しでも遅らせる為、床の色の違いを隠す為、赤いペンキを鯨井の死体の上から撒いた。あとは須能深夜は何食わぬ顔で別荘の自室に戻り、須能宵は警察が来る前に別荘の外へ逃げ出した、ということだ」

「逃げ出した?極寒の山の中にですか?叔父のマンションには、車で2時間もかかるんですよ。歩いていける距離じゃない」

 須能深夜の指摘に対して、冴木には勘づくものがあった。

「それで雨森の車に土が付いていたんだな」

「そうだ」

「どういうことです」

 御霊はフゥーっと息を吐く。

んだ。そうだな…あの小心者そうな男の事だから、鯨井を殺す計画までは話していなかったと思われる。せいぜい『23時過ぎに別荘の近くまで車で迎えに来てほしい、それで自分はずっと雨森のマンションにいたと口裏を合わせてほしい』程度のお願いだっただろうな。行きか帰りかは知らんが、途中でコンビニに寄って車を出した口実作りをしておいただろう。以上が事件の真相だ」

 ここまで言い切って、御霊は何処からともなく缶コーヒーを取り出し飲み始めた。

「随分と勝手な妄想を、恥も外聞もなく披露出来たものですね。あなたの厚顔無恥さ加減にはむしろ感心しましたよ」

「つまらん罵倒よりも反論をしろ」

 須能深夜が御霊を睨む。肝まで凍えるような、冷たい憎しみ―――例えるなら、そんな表情だった。そんな憎しみを向けられてなお、御霊は平然とコーヒーを啜っている。

「まず犯人が地下室を使ったからと言って、イコール私と妹が犯人だという推理が成り立たないですよね。叔父さんには悪いですが、叔父さんが犯人で別荘の中の誰かと組んでいた可能性だって十分ありえるじゃないですか。そもそも私が犯人なら面倒な入れ替わりなどせず、妹に鯨井さんを殺させてますよ。その方が発覚する危険も少ないですし」

「その仮定はすべて成り立たない」

「何故ですか」

「まず雨森犯人説が成り立たない論拠として、奴は足を患い杖で歩いている」

「それがなんだと言うんです」

「とぼけるな。今回の事件の犯人はある程度の筋力がある者でなければならないということだ。鯨井の死体を担いだまま、地下室の扉を塞ぐ必要があるんだからな。足に力を込められない雨森は犯人ではあり得ない」

「怪我が偽装かもしれないじゃないですか」

「賭けてもいいが、あの負傷は本物だな。怪我が本物かどうかなんて、ちょっと調べればすぐにバレることだ。そんな綻びを残すだなんて、綿密な計画を練り上げた今回の犯人像にはそぐわない。雨森がやったのは、せいぜいこっそり車を運転することだけだった筈だ」

「成程な…あの男、殺人どころか人を殴る事も出来そうにない気の弱そうな奴だったが、あの態度は少なからず隠し事をしていたからなのか」

 冴木が何かを思い出すようにして一人納得している。

「それに須能宵の方も、小さい頃から身体が弱いと聞いている。多少鍛えている鯨井を殴り首を絞めて殺す…不可能ではないだろうが、確実性に欠ける。それなら、須能深夜、男のお前が直接手に掛けた方が確実に殺せる算段がついただろう」

「私が―――私が、犯人だっていう、物的証拠はあるんですか」

「ないと思ってたか?」

 御霊が空になったコーヒー缶を、近くにいる警察官の前に差し出す。その警察官は、訳も分からず空き缶を受け取った。まるで警察を手懐けてしまっているような、間抜けな光景だった。御霊はその空いた手で、コートのポケットから何やらビニールの菓子袋のようなものを取り出した。

「事件直前に須能宵がリビングにいた時、マカダミアナッツやカシューナッツなど、スナック類をリビングから持って来ていただろ?これはその時の袋だ。当然手袋などしていなかったから、この袋に彼女の指紋が残っている。それが検出されたら決定的な証拠になる」

「そんなものが出てくるわけありません。私の指紋しか残ってないでしょう。証拠はそれだけですか?」

 須能深夜の余裕そうな態度を見て、光谷は、須能深夜自身が既に菓子袋をすり替えたのではないかという想像に囚われた。

「証拠はこれだけだ」

「話になりませんね」

 須能深夜が小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。それに対して、御霊も小さく笑みを返した。

「現時点ではな」

 御霊が菓子袋を傍にいる警察官に手渡す。警察官も指紋を残さぬよう慎重に受け取った。

「別荘内の本格的な捜査はこれからだが、須能宵が触れたと思われる箇所は全て捜査されるぞ。個室、ドアノブ、ワイングラス、ワインボトル、テーブル、椅子…全ての指紋を拭きとった自信はあるか?それに地道に調べていれば、須能宵の頭髪やウィッグの繊維が検出されるかもな。雨森のマンションも本格的な捜査の手が入る。彼の車から、別荘付近の土地の土が付着しているのが分かれば一発だな。どうせなら、洗車もしておくようにお願いしておけばよかったものを」


 ―――泣きじゃくる妹。殴りながら嘲笑う女。震えながら何もできないでいる自分の姿。表の顔は優等生を装いながら、裏ではストレスの捌け口に妹を殴って発散していた…。妹は常にあの女に怯えながら生活していた。妹は常に、あの見えない敵と戦っていた。あの女の暴力は、何年経とうとも宵のトラウマに根強く残っていた。宵が元のように屈託なく笑う姿を取り戻したかった。あの女が邪魔だった。あの女さえいなければ、自分と妹は普通の人生が送れるのに―――あの女を消せば、妹は昔の様に元気な姿に戻れる―――


「須能宵は筋力だけでなく、健康面でも虚弱体質だと聞いているが。これから彼女は取り調べを受けることになるが、取り調べが長引くと、彼女の健康状態に異常が現れるかもしれないな」

「な、キ……キサ、マ………」

 その言葉に対し、須能深夜が溢れんばかりの憎悪の表情を御霊に向けた。最早それは、殺意と例えても遜色ない形相だった。しかし御霊はそんな須能深夜に対して、冷酷な赤い瞳で見つめ返すだけ―――

「事実を言った迄だ」

「私が鯨井さんを殺す、動機はなんですか。動機がなければ、人は殺せない」

「興味がない」

「なんですって?どういう意味―――」

「お前らと鯨井はいとこ同士の関係だろ。それなら昔、我々の与り知らぬ領域で何らかの確執があったとしてもおかしくない。それを調べるのは事情聴取や聞き込みを人海的に行える警察の仕事であって、私自身が調べる気はないし、興味も更々ない」

「それじゃ、私と宵がやったという動機もなしに、犯人呼ばわりしているんですか」

「私は推理を指し示すだけだ」

 滅茶苦茶な論理であった。しかし須能深夜は、何も言い返せずに再び押し黙る。その顔色はいつもよりも真っ白で、殆ど病人の様であった。

「…私はやっていません」

「………」

「私は……私は、やっていません」


 ―――あの女を殺した後、宵と一緒に一度個室に戻った。宵はまだ震えていた。あの女がいなくなったとしても、トラウマが完全に消える訳ではない。この事件の容疑から外れたら、ゆっくりと忌まわしき記憶を忘れていけばいい。汚れ役は自分でやる。宵が傷つく必要はない。このまま事件が解決されなければ、不幸になる人間はいない。それなのに、どうしてこの女は邪魔をするんだ………


 須能深夜は譫言うわごとの様に「私はやっていません」と呟き続ける。

「終わったな」

 御霊が窓の外を見る。いつの間にか、しんしんと雪が降り始めていた。

「あとは頼んだ」

「…あぁ」

 冴木が頷いたのを確認すると、固まって動かない他の面々をよそに、彼女は扉の外へと歩いていった。



「ま…待ってください」

 はっとした表情の光谷が彼女を追いかける。呼びかけられてなお、彼女が歩みを止める様子はない。

「どこに行くんですか」

「次の事件に」

 光谷の方には見向きもせずに御霊は歩き続け、別荘の敷地から外に出た。

「全然寝てないんじゃないですか。俺が車で送りますよ」

「不要だ」

 まさに取り付く島もない。彼女の歩みの先には、真紅のクラウンが停車していた。全力で駆け寄り、なんとか彼女が乗り込む前に追いついた。

「あなたの事を記事にしたいんです。今じゃなくてもいいので、後日ここに連絡してくれませんか」

 名刺を無理やり御霊の手に握らせる。彼女はその名刺を、見ようともせずに真っ二つに破いた。

「私に関わるな」

 ようやく御霊が、光谷の方に向き直る。燃えるような赤い瞳が彼を睨んだ。先程見せた冷酷な視線―――とは、少し違うような気がした。その奥に、憂いのような感情が秘められている気がしたのだ。

「…命が惜しければな」

 裂かれた名刺を空に放り捨てると、彼女は車のドアを開け、乗り込んだ。そして立ち尽くす光谷をよそに、車を発進させる。

 雪がわだちの上に静かに降り積もる。車の姿が見えなくなる迄、光谷は彼女の車を見続けていた。

「死神探偵…」


 雪は既に、彼女の足跡を完全に搔き消していた。



                           ―――了―――

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死神探偵の密室 あーる @jinro_R

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