エピローグ 終局
それから、二年半の歳月が流れた。
二〇〇七年二月二十八日。この日、奥多摩の空は薄暗い雲に覆われていた。そんな奥多摩の森の一角に、一際開けた場所があった。
旧白神村跡地。現在の名称は『白神村事件合同慰霊広場』である。
二年半前の事件で犯人が逮捕された後、警察と市はこの村の廃墟の本格的な解体に着手した。だが、最初の事件と今回の事件を含め三十名以上が亡くなった場所である。ただ解体するだけでは問題も多く、なおかつ今回の事件の遺族の中からは事件の風化を懸念する声もあった。
その上、下手をすれば第一の事件の時と同様に『イキノコリ』のようなよからぬ噂が流れ、不法に侵入する人間が出るかもしれない。そうなると雨宮が遭遇したライトバン事故のような二次災害の危険性もあった。事件が事件だけに、今回はそのような噂や二次災害の発生を絶対に食い止めなければならなかった。
そこで出された提案が、この場所をそのまま事件の慰霊地として、一般に公開してしまおうという考えだった。殺人事件の処理としてはきわめて異例であるが、市の関係者は概ねこれを支持した。結果、殺人事件の慰霊碑を造るという全国でも類を見ない試みが実行に移される事になったのである。
廃墟がすべて撤去され、それぞれの事件の被害者の名前を刻み込んだ二つの慰霊碑が立つ広場が完成したのは、事件から一年後の事だった。村と新山道を繋ぐ工事車両用の仮説道路がそのまま正式に広場へと接続する道となり、完成式典には数少ない旧白神村村民の遺族たちや今回の事件の遺族や関係者が訪れ、犠牲者たちの冥福を祈った。
だが、そこに二つの事件の『イキノコリ』……時田琴音の姿はなかった。彼女の存在が公になっていない以上、公式な場に彼女が出る事は難しかったのだ。また、彼女自身もマスコミの矢面に出ることを嫌っており、警察なども彼女の希望を聞いて、犯人逮捕後もあえて彼女が『イキノコリ』である事を公表していなかった。
そして、彼女がこの慰霊碑を初めて訪れたのは、事件から二年半が経過したこの日の事となったのである。
曇り空の下、開けたアスファルトの広場の隅に立つ二つの慰霊碑の前で、セーラー服姿の時田琴音は手を合わせて黙礼していた。
この広場は慰霊碑だけではなく、新山道を通る車の休憩場という役割も持っていた。そのため、広場は車の駐車のための白線が引かれ、別の一角には木造の無人レストハウスも備え付けられている。が、年一回行われる慰霊祭以外にはあまり人も訪れる事はないようで、今も広場は閑散としていた。
琴音は改めて周りを見渡した。今となってはかつてこの場所に一つの村があり、大量の人間が命を奪われたとはとても思えない。広場の横を流れる川だけが当時の面影を残す程度だ。慰霊碑がなければ、ここでそんな事件があった事など誰も覚えてはいないだろう。事実、事件から二年半が経過し、あれだけの大事件だったにもかかわらず、事件の事を知らない人間も多くなっていた。
琴音はもう一度深く黙礼すると、地面に置いてあったスケッチブックを手にとって、そのまま踵を返した。あれから二年半経つが、言葉や表情が戻ってくる気配は一切ない。今も相変わらずスケッチブックでの会話であった。
琴音はそのままレストハウスに向かい、ドアを開けて中に入った。そこにはヨレヨレのスーツを着た男……私立探偵・榊原恵一が、二年半前と変わらぬ姿で、自販機で買った缶コーヒーを飲んでいた。
「終わったのかい?」
榊原の問いに対し、琴音は小さく頷くとスケッチブックを開いた。
『今日は、付き合って頂いてありがとうございました』
「構わない。私も一度はここを訪れておきたかった」
当然、こんな山奥に琴音一人だけで来られるわけもない。なので、榊原に運転手役を頼んでいたのだった。
「受験はいいのかい?」
『先日の入試で、すでに合格が決まりました。今日は母たちへのその報告も兼ねて』
「そうか」
榊原は缶コーヒーを飲み干すと、ゴミ箱へ空き缶を放り投げた。レストハウスには、在りし日の村の写真があちこちに飾られている。
「……あの男、死刑が執行されたそうだよ」
と、不意に榊原はそう告げた。琴音の方が小さく震える。
『いつですか?』
「昨日の朝だ。昨晩、大迫刑事から連絡をもらった。今日の新聞にも出ていたよ」
そう言って、榊原は手元に置いてあった新聞紙を琴音に手渡した。その三面記事の一番片隅に、他の記事に埋もれるような小さな扱いで『孔明』の死刑が執行されたという記事が掲載されていた。
『小さい記事ですね』
「判決から一年半。ずいぶん早い執行だ。それでもその扱いだ」
『孔明』に対する死刑判決が出たのは、事件からちょうど一年後の事だった。精神異常による減刑に持ち込もうとする弁護側の方針を拒絶し、自分はあの時正常で、確たる意思を持って殺人を実行したと主張した上での判決だった。結果的に控訴する事もなく一審で刑が確定し、東京拘置所で執行を待つ身だったはずである。
『皮肉なものですね。最初の事件の犯人である笹沼昇一はまだ死刑執行がなされていないというのに、事件を利用した彼の方が早く死ぬなんて』
二人はそのままレストハウスを出た。
『これで、本当の意味で事件は終わったんですよね』
「二度目の白神事件については、だがね。それに、君の中であの事件が終わる事はないんだろう?」
たとえ犯人たちが死刑になったところで、彼女が言葉を取り戻すまでこの事件は終わったといえない。
『それでも、一つの節目ですから』
「……そうかい。願わくば、君が笑顔で話す姿を見たいものだがね」
その問いに対し、琴音は答える事はなかった。榊原は小さく首を振ると、手に持っていた新聞紙を慰霊碑の前に置いて手を合わせた。
「私からも、ここに眠っている彼らに知らせておこう」
それから数分後、二人は車に乗り込んでその場を後にした。
誰もいなくなった薄暗い慰霊碑に一筋の風が吹く。そして、その風が備えられた新聞紙をめくり、最後の小さな記事をあらわにした。
『法務省は、昨日東京拘置所に収監されていた死刑囚三名の死刑を執行した事を明らかにした。死刑が執行されたのは葛原光明死刑囚(三〇)他二名。葛原死刑囚は二〇〇四年六月に東京都旧白神村で十人の人間を殺害した容疑で起訴され、一審で死刑判決が確定していた。他に死刑が執行されたのは二〇〇一年に高知県で起こった強盗殺人事件で死刑判決を受けていた金川辰巳死刑囚と……』
イキノコリ 奥田光治 @3322233
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