一秒以上の一秒間があった。


 仁歩の叫びが廊下の壁や床に響き続ける中で、琢也の口から溢れたのは、


「……はい?」


 という間の抜けた一言だけだった。


 魂を込めた叫びですべて吹っ切れたのか、そこから先の仁歩の勢いは壮絶だった。


「私は先輩が好きなんですよ! 大好きなんです! 冗談とか軽口とかではなく、ホントのホントに好きなんですよ。先輩後輩の関係としてじゃなくて、男である藤野琢也のことを女として好いてるんですよ。リスペクトでもライクでもなく、ラブなんですよ、ラブ! 愛してるんです。付き合いたいんです。男女の関係になりたいんですよ!」

「私にとって一番辛かったのは、先輩が丸森鳴乃に引っかかってたことですよ。ほかの人だったら一万歩譲ってまだ諦めることもできましたけど、丸森鳴乃だけは絶対にやめて欲しかったんですよ。美人だし気配りができるし清楚な感じで男の人が好きになる気持ちは分かります。分かりますが! そういうのが一番ダメなんですよ。一番やばいんですよ。一番迂闊に近寄っちゃいけないんですよ。めっちゃ鮮やかな色のカエルみたいなもんですよ。現にサークルの女子の間では丸森鳴乃の黒い噂が流れてましたし、実際にあの人の『現場』を目撃したことがある人も、彼女の毒牙に噛まれて痛い目をした人もいるんですから! 先輩にそれを直接言うのは簡単でしたよ。簡単でした! だけど私は先輩のことを傷つけたくなかったんです。相手がどれだけやばい人間でも、先輩の片思い相手であることは事実。他人の私が『あの人だけは止めたほうがいいです』って横から言うのは違うなって思ったんです。『もしかしたら丸森鳴乃も今回ばかりはちゃんと恋愛しようとしているのかも』とほんの少しだけ頭を過ぎったからってのもあります。けど丸森鳴乃に限ってそんな簡単に改心するわけがない。だから考えた結果、先輩が丸森鳴乃に取られるより先に、私が先輩を取ってしまおうって決めたんです。本当はもっとじっくり仲良くなりたかったんですけど、そんな時間的余裕はないって分かってましたから、勇気を持って強引にアプローチしたんですよ」

「たぶん先輩はこれまでの私のアピールを全部冗談として受け流してたと思うんですけど、あれ全部本気だったんですよ。私こんな明るくて冗談言えるキャラぶってますけど、逆に冗談しか言えないんですよ。本当に言いたいことさえも全部、冗談に包み込まないと言えないんですよ。だからあれは私なりの必死のアプローチだったんです。だけどどれだけアプローチしても、ご飯に誘ったり遊びに誘ったりしても、先輩は私のことをただの後輩という枠から外してくれませんでした。女として見てくれませんでした」

「そうこうしているうちに先輩は丸森鳴乃に絡め取られていって、しかも毎回のデートについて私に逐一報告してくる。嬉しそうに楽しそうに。私はその話を聞くたびに胸が苦しかったです。実際何度か泣きました。そうしてついに先輩は告白する覚悟まで決めてしまった。もうそうなったらどうすることもできません。先輩が一〇〇パーセント振られると分かっていればよかったんですけど、丸森鳴乃は先輩を振るとは限らない。あの人は面白半分に男の人と付き合って絞るだけ搾り取って捨てる。そういうタイプの人間です。今まで一度も彼女ができたことのない先輩にとって、そんな結末はあまりに残酷すぎる。だから、強硬手段に出ました」

「幸いだったのは告白デートの日程を教えてもらっていたことです。なので私は前日に二人だけで飲みに行って、そこで自分のお酒の中に目薬を入れるという作戦を立てました。私はお酒に強くて先輩はお酒に弱いから、同じペースで飲めば私が潰れる前に先輩が潰れます。だから先輩があまり飲まずに私が潰れることができるように、目薬という禁じ手を使うことにしました。そしてその後に悪酔いした私を無理やり持ち帰らせて、既成事実を作ってしまえば、先輩は丸森鳴乃ではなく私の方を振り向いてくれるんじゃないかって。片思い相手がいるのにほかの女に手を出すような人間は相手としてどうなんだという葛藤もありましたけど、それよりも私は先輩を助けたいという思いが強かったんですよ。もちろん普段から私はこんなことしてませんからね! そんな軽い人間じゃないですからね! 相手が先輩だから、三日三晩悩んでその覚悟を決めたんです!」

「前日にサークルの飲み会があったのはラッキーでした。自然に二次会に誘えましたからね。けど計算外だったのは、先輩がトイレから戻ってきたとき、テーブルの上がごちゃごちゃになってお猪口の持ち主が分からなくなってしまったことです。その結果、先輩は目薬が入った私のお猪口でお酒を口にしました。だから私だけでなく先輩も悪酔いしてしまったんです!」


 仁歩はそこまで話し終えると、さまざまな感情が入り交じって止まらなくなった涙を必死に拭いながら立ち上がり、流し台に置いてあったグラスを取ってそこに水道水を注ぎ、喉を鳴らして飲み干した。それから琢也の前に戻ってきて、再び正座になり、


「これが私が自分のお酒に薬を入れた理由、そして先輩まで悪酔いしてしまった理由です!」


 と鼻息荒く言い切った。


 琢也は呆気にとられていた。思うところはいくつもあったし、聞きたい事もいくつもあった。彼女の言葉をどう受け止めるのが正解なのかは分からなかった。


「あー新堂」


 琢也もまた正座になり、後輩と正面から向き合った。


「はい」

「えっと、今のは、告白か?」

「……!」


 仁歩は目も鼻も口もかっと開いて仰け反って、再びグラスに水道水を注いで喉に流し込む。真っ赤に火照った顔をどうにかこうにか冷やそうとしているみたいだった。


「告白、か」


 もう一度聞く。返事はない。彼女はトマトの子どものように顔を赤くしてうつむいていた。


「告白、なんだよな」


 琢也は仁歩と、それから自分自身に言い聞かせるようにして言った。


 生まれて初めて受けた告白だった。


 この二十年間、告白をしたことはあっても告白をされたことはなかった。だからどう答えていいのかわからない。これが好きな相手だったらすぐに返事ができるのだろうが、仁歩は琢也の好きな相手ではない。もちろん、嫌いでもない。恋愛感情はないが友人として、後輩としては好きな相手だ。これまで自分を振ってきた女友達の心境が今になって分かった。


 これは非常に厄介だ。


 自分と仁歩との間に流れる一生分の沈黙が流れきったであろう頃になり、琢也はようやく口を開いた。


「俺は、正直、今のお前の告白に、どう答えればいいのか分からない」

「……はい、ですよね」

「なんというか、すべてが俺の想像を超えていて、困惑してる」


 琢也は言うなり、うつむいたままの仁歩の手をそっと握った。自然と握っていた。暖かくて柔らかかった。仁歩は真下から銃撃を食らったかのように顎をのけぞらせて琢也のことを見上げた。


「……!」


 琢也は構わず続ける。らしくない行為のせいで声はかなり上ずっていた。


「だ、だけど一つだけはっきり言えることがある。俺はお前に感謝してる」

「かん、しゃ?」


 指の先まで赤くなり始めた仁歩の手がピクリと脈打つのを、琢也は自分の手のひらに感じた。


「なんつーの、かな」


 伝えるべき言葉を探す。


「お前の言葉をすべて聞き終えて真っ先に思ったことは感謝だった。これだけははっきり言えるんだ」


 開いた片手で琢也は照れ隠しに鼻の頭を掻く。


「なんだろうな。なんの感謝だろうな。すべてを明かしてくれたことへの感謝でもあるし、こんな俺を全力で好きでいてくれることへの感謝でもあるし、俺のことを心配してくれることへの感謝でもある。それからお前の言葉で──」


 司の言葉を思い出し、言い淀んだ。目を閉じて、息を吸って、赤面しかけた顔でうつむく。そしてもう一度だけ息を吐き、恥をかき捨てて、今口にしたばかりの言葉を言い換えた。


「──お前からの愛で、壊れかけた心が元に戻っていくことのへの感謝、だ」

「……愛」


 仁歩の手が強く、琢也の手を握り込んだ。


「と、とととというか先輩、デートは!? デートはどうしたんですか!? なんでここにいるんですか? ここ羽生ですよ!?」


 仁歩は琢也の手を握ったまま、照れを隠すように捲し立てた。琢也は空いている手で頬を掻き、できるだけあっさりと聞こえるように答えた。


「振られた」

「え? 振られた?」

「告白もしなかったし、デートもしなかった。そんなことが始まる前に振られた」

「どういうこと、です?」

「丸森鳴乃は今日は俺とデートのはずなのに、歌舞伎町で一夜だけの相手と一緒に平然と朝飯食ってたんだよ。お前の言うとおり、あの子はとんでもないヤツだった」

「てことは、会ったんですか? 今日?」


 仁歩は顔を赤くしながらも、琢也に同情するように眉尻を落とした。


「ああ、偶然な」


 琢也は自虐的に笑った。


「全然そんな素振りがなかったから凄く驚いたし、正直ショックは今も残ってる」

「そりゃそうですよね」

「だけどお前の言葉のおかげで大分気が楽になった。だから、ありがとうなんだ」


 と言った自分の声は震えていた。強がっているつもりはなかった。本当にもう立ち直れたと思った。しかし目の中にうっすらと涙の種が滲んでいくような気がした。


 丸森に振られたことに対する涙なのか、後輩の思いに気がつけなかったことに対する涙なのか、後輩への感謝の延長線上にある涙なのか、あるいは別の涙なのか。よく分からなかった。


 泣けるがしかし、涙は落ちなかった。


 悲しみとも何とも言えない漠然とした感情で、琢也は仁歩の手を強く握りしめた。仁歩は驚いたように琢也の顔を覗き込み、少し間を開けてから握り返してくる。


「お前が俺のことを好きでいてくれることは嬉しいよ、すごく」


 琢也は言った。


「……はい」


 仁歩は元に戻りつつある顔で頷いた。


「だけど俺はまだ振られたばかりで、気持ちの整理もついてない。お前の想いに今すぐ答えることはできない」

「はい」

「先のことはまあ、よく分からないけど、今の気持ちとしてはまだお前とは友人として仲良くしていきたい」


 そう言って琢也は静かに手を離した。仁歩は自由になった両手で目元を拭って笑いながら、


「えへへ。先輩の手汗が目に入った。先輩の体液が私の身体の中に入ってきた」


 といつもの調子で少し危ういことを言い出すのだった。


「……やっぱこれ以上関わるのは止めようかな」

「またまたあ。そんなこと言わないで下さいよ」


 仁歩はいつものようにからかうような笑顔を浮かべた。もうすっかり元通りだった。


「ま、これでライバルは消えたわけですから、こっからは私の独壇場ですよ。先輩は近いうちに私の虜になって、自分から『お願いだから付き合って下さい』って懇願しに来ますよ」

「なるか」

「まあ見ておいてくださいな」

「……そういえば猫田さんって可愛かったな」

「ええっ、今度はそうなるんですか──! なんで──!」


 泣きついてきた後輩を押し退けるように手をのばす。いつも通りのやり取りに安心感を覚えていると、開けっ放しにした玄関の所に誰かが立つ気配を感じて二人は揃ってそちらに顔を向けた。


「魂に鳥肌が立つほど美しい愛だった。最高だぞお前ら」

「全部丸聞こえだったんだけど」

「二人とも、凄い度胸ですね……」


 司、猫田、白石、の三人が廊下に立っていた。


 琢也たちは途端に恥ずかしくなって、いつの間にか近付きすぎていた身体を離す。仁歩は琢也に強く突き飛ばされたせいで、キッチン脇に置いてあったゴミ箱に頭から突っ込んだ。


「……あの、司さ」


 琢也が恥ずかしさを誤魔化そうとするよりも早く、司は言った。


「お前ら準備しろ」

「じゅ、準備?」

「摩天楼に移動して琢也の失恋を嘲笑う会をやるぞ」

「あ、嘲笑うって」


 琢也の抗議をはね除けるように、仁歩がゴミ箱に埋もれたまま「いぇーい!」と弾んだ声で賛同した。


「というか、司さんたちは朝まで飲んでたんじゃ」

「俺は飲んでない」

「屁理屈だ」


 と指摘すると、猫田が笑った。


「飲み足りないんだよ、まだ! 私も白石さんもさ。それに折角こうして訳の分からない出会い方をしたんだから、飲もうよ。酔って他人の家にゲロ吐くまでさ」

「そうだそうだー! 飲むぞ、先輩!」


 仁歩が爆発した金髪頭を大きく縦に振った。


「いや、お前がそこに乗るなよ」


 という琢也の突っ込みはもう誰も聞いていない。


 仁歩は「準備してきます!」と言って部屋を奧に下がっていき、司たちは談笑しながらもう階段の所に差し掛かっていた。


 琢也は司たちを追いかけようとして、部屋の奥を見た。慌ただしく準備する音が、玄関まで聞こえてきた。その光景が無性におかしくなって笑みがこぼれた。


 仁歩の部屋から出る。廊下で彼女の準備が終わるのを待つことにした。


 手摺りに寄りかかって階下を見下ろすと、ちょうど司たちがアパートから出てくるところだった。琢也の存在に気がついてこちらを見上げ、「先に行ってるぞ」と言って手を降ってきた。


 琢也は少しだけ重くなってきた瞼を揉みつつ、三人に手を降り返す。スキップでもしかねない調子で駅の方に歩いて行く三人の背中を見つめながら、その不思議なくらい元気な姿に呆れたような笑みがこぼれる。


 ドアの方を振り返り、その向こうでまだ忙しそうに準備をしているだろう後輩の姿を想像する。服を着替えて、爆発した髪の毛をとかして、涙を流した拍子に垂れた鼻をかんでいる姿を。


 そしてのんびりと待ち続ける。


 仁歩が慌ただしく、少し息を弾ませながら、勢いよく扉を開けて廊下に飛び出してくるのを。

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シューデン! 桜田一門 @sakurada

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