『おう、琢也』


 電話口から聞こえてきたのはドスの利いた低い声。


 またしても司だった。


『今どこにいんだ?』

「……何か用ですか?」

『お前摩天楼にプレゼント忘れただろ』

「プレゼント?」

『サボテン。枯れない愛』


 言われて琢也はボディバッグを開いてみた。確かに丸森に渡すために用意してあったプレゼントがなくなっていた。摩天楼のソファで目覚めたとき、ボディバッグのチャックが開きっぱなしだった。中身を集めてもとに戻したが、確かめそびれていたのだろう。


『今新宿にいる。プレゼントを持ってきたんだ。ないと困るだろうと思ってな』

「まじですか」

『まじだ。どこにいる? 俺は南口の方にいるんだが』


 琢也は自分がいる場所を教えようとして、プレゼントを今更もらっても意味がないことに気がついた。あげる相手はもういない。今頃どこぞのYouTuberとよろしくやっていることだろう。枯れない愛。クソくらえだ。愛は枯れた。


『おい琢也、どこにいるんだ』

「あげます、サボテン。お礼です」

『お礼? 何の?』

「いろいろとよくしてもらったお礼です。サボテンじゃ物足りないかもしれませんが」

『別に礼なんかいらねえ。それよりどうした? 元気がねえな』

「元気ですよ」


 空っぽの笑い声とともに言うと、


『振られたか?』


 単刀直入の言葉が返ってきて、それこそドスのように琢也の心を突き刺した。


 一発で現状を言い当てられ、琢也は二の句を失った。口は生ぬるい酸素を吸うことしかできなかった。


『振られたんだな?』

「……なんすか」


 言い当てられた悔しさからつい言葉が棘を持つ。


『そうか……ま、お前が振られそうだってことは何となく察してた。俺も、ミヤコさんも。しかしまさかデート開始早々に振られてるとは思わなかったな』

「余計なお世話っすよ。なんなんすか」

『怒るなって。別にお前を笑おうと思ってるわけじゃない』


 司はそれからしばらく無言だった。通話は繋がったまま、ノイズだけがぴりぴりと鼓膜に届いていた。琢也はしびれを切らして電話口に声をかける。


「もう切っていいですか?」

『まあ待て。励ましの言葉を探してたんだ』

「そういうのいいですから」

『殻に閉じこもるな。それは一番やっちゃダメだ。話してみろ、俺に。俺は愛の伝道師だ。お前の失った愛を癒してやることなんて造作もない』

「いいですって、ほんと」

『とりあえず話してみろ。告白は……いや、デート開始早々にするわけないな。でも、そしたらなんで振られたんだ? 会っていきなり言われたのか?』


 軽い口調に心が少しほぐれるような気がした一方で、そんなことでほぐれるならば自分の丸森に対する気持ちはその程度のものでしかなかったのだと思って素直になれない。


 無意味な強がりだとは分かっていても、すべてがなくなったと知っていても、自分の丸森鳴乃への気持ちだけは本物であったと思い込ませたかった。


 だからあくまで素っ気なく、


「何でもないっすよ」


 と言う。


 しかし司はからかうように続けるのだった。


『もしかして相手が別の男と一緒にいるのでも見たか?』


 胸のど真ん中を貫かれ、スマホを握る手に力が入った。司はその軋みを電話越しに聞いて無言の肯定と受け取ったのか、威圧感を抑えた声で同情するように言った。


『あんま気にすんなよ』


 月並みな言葉を受けて咄嗟に通話を切ろうとすると、司はすぐにこう続けた。


『なんてことは言わねえよ』


 言ったじゃないか、という言葉を琢也は口の中で押しとどめる。


『俺の言葉にこういうものがある。誰かへの愛を焦がすあまり、自分への愛を見落としてはいけない』


 それは明け方、司が言っていた言葉の一つだった。


「……」


 自分への愛、とは。


 真っ先に思い浮かんだのは仁歩だった。どれだけ突き放してもぞんざいに扱っても、「先輩先輩」と慕ってきてくれる後輩。彼女こそが自分へ愛を向けてくれる存在だったのだろうか。


「……司さん、さっきの電話で新堂が猫田さんの部屋に戻ってきたって言いましたよね?」

『言ったな』

「あれから何か新堂と話しました?」

『いろいろ話したし、聞いたぞ。おまえたちの間に何が起きたのか』

「そうっすか。じゃあ俺についてのことも聞きました?」

『聞いた』

「あいつ、俺の酒に薬盛ったんすよ。何が面白いのか分からないっすけど、俺のこと悪酔いさせようとしたんですよ。そんな歪んだ行為も愛だっていうなら、俺はもういいっす」

『もういい、って何がだ?』

「愛とかぜんぶ、そういうの。なんかもう、どうでもいいっす」


 そんな歪んだ行為を愛と呼ぶなら、そんな愛はいらない。なくていい。誰かへの愛もなく、誰かからの愛も拒否し、俺は孤独に生きていく。それでいい。どうせ人間、最後は一人なのだ。


『おいおい、見事なほど自暴自棄になってんなあ』


 今度こそ電話を切ろうとした。仁歩のことも司のことも猫田のことも白石のこともミヤコのことも、ボタン一つで全部忘れてしまおうと思った。


 しかし司の言葉が琢也の指を止めた。


『お前、少し誤解してるみたいだな』 

「……誤解?」

『仁歩はお前の酒に薬盛ってないってよ』

「何のための擁護ですか、それ。あいつ自分で認めたんですよ。薬を盛ったって」

『そうだな。薬を盛ったのは事実だ』

「言ってること無茶苦茶じゃないですか」


 ため息が漏れる。


『無茶苦茶じゃねえよ。仁歩はお前の酒じゃなくて、自分の酒に薬を盛ったんだよ』

「……自分の酒?」


 新宿駅を出入りする人の流れが、少しだけ緩やかになったような気がした。


「……なんで自分の酒に薬を?」

『それは本人の口から直接聞け』


 司はどこか楽しそうな声でそう言った。


「直接って」

『仁歩なら今、酔い散らかし泣き散らかしして疲れたのか、珠紀の家のキッチンで卵パック抱えたまま寝てるぞ。まあ詳しい話はあとだ。今どこにいんだ?』

「あ、えっと、新宿駅の東口です」


 混乱した頭でつい現在地を教えると、司は『分かった。三分で行く』といって通話

を切った。


 暗くなったスマホの画面に自分の顔が写っていた。


──泣き散らかして疲れたのか


 その言葉が、通話が終わってもなぜか耳に残っていた。


 琢也は目線をスマホの画面から人混みに向けた。雑踏の真ん中に生まれたエアポケットのような誰も通らない空間を見つめ、数時間前に仁歩の家を飛び出してきたときのことを思い返す。


 彼女は酒に目薬を盛ったせいで琢也が悪酔いをしたと言ったが、確かに琢也の酒に薬を盛ったとは一言も言っていなかった気がする。だがそれがどうした。結果的に琢也は酔っ払い、終電を逃し、真夜中に山道を歩く羽目になった。目薬を入れた先が誰の酒だろうと、琢也が害を被ったことに変わりはないのだ。


 そうやって仁歩に怒りの矛先を向けてみても、脳裏に思い浮かぶのは、家を出て行く間際に琢也に向かって何かを言いたそうだった彼女の顔。あれは何を言おうとしていたのだろう。下手くそな言い訳か、薄っぺらい謝罪か。あるいはひょっとすると、誤解を生んでしまった可能性があると思って補足しようとしていたのではないだろうか。


 今ここで会話をいくら思い返してみても正解を見つけることはできない。


 琢也はスマホを持つ手をだらりと垂らし、しばらくぶりに壁から背中を離した。ずっと寄りかかっていたせいで、肩甲骨と足がしびれていた。


 三分ほどその場で待っていると、駅前の車道に一台のスクーターが止まった。司は一度椅子から降りて収納スペースを開け、近づいてきた琢也にヘルメットを投げ渡す。


「乗れ」

 



 司のスクーターで甲州街道を西へ向かうことおよそ一時間。琢也は数時間ぶりに羽生へ戻ってきた。道中、二人の間に会話はなかった。ときどきリズムの変わるエンジン音と、バタバタとした風の音だけがあった。


 摩天楼が入っているビルの裏手にバイクを止め、琢也と司は猫田のアパートに向かって歩き出した。摩天楼へと続く階段のところには立て看板が出され、黒地に白い文字で『CLOSED』と書かれていた。


 羽生駅は昨夜や早朝とは打って変わって、それなりの人で賑わっていた。隣を通り過ぎていく体操着姿の中学生グループや買い物に来たらしい家族連れは、皆一様に楽しげな様子だった。


 そんな中で恐らくは琢也だけが、鬱々とした気配を顔に張りつけていた。


 このうえなく素敵な土曜日になるはずだったというのに出鼻を挫かれ、挙げ句これから喧嘩別れしたばかりの後輩に会いに行く。骨や筋肉が全部鉛になってしまったかのように足が重い。


「俺だって最初から愛を信じていたわけじゃない」


 アパートへと続く緩やかな坂道を登り始めたところで、隣を歩く司が唐突に切り出した。


「何がですか?」

「俺も昔は愛を知らなかった」


 司はデニムのポケットに手を入れ、坂の上から吹いてきた風に、垂れた前髪の一束を揺らす。

「小さいころに母親を亡くしたんだ。三歳とか、四歳とかそんなときだ。愛が何たるかも分からない年頃だ。それからずっと父親と二人で暮らしていた。父親は仕事人間で、ほとんど家に帰ってこなかった。当時の俺は一日の大半を家以外の場所で過ごしていた。通常の保育園が終わった後、近所のおばさんに迎えに来てもらって、別の夜間保育園に預けられる。おばさんは別に厚意で俺の面倒を見てくれてたわけじゃなく、父親から決まった報酬をもらってただけだ。俺はは夜間保育園で十時くらいまで過ごし、仕事が終わった父親に迎えに来てもらって家に帰った。ときにはそこで夜を明かし、家に帰ることなく通常の保育園に行くこともあった。小学校に上がってからも生活はほとんど変わらなかった。学校が終わったら学童保育に行き、最終帰宅時刻の六時半までそこで過ごした。家に帰る途中でスーパーに寄り、父親からもらった金で夜ご飯を買い、一人で飯を食って洗濯機を回して適当に掃除して、寝る。父親は真夜中に帰ってくる。最初は仕事で忙しいからだと思ってたけど、高学年になったあたりで違うと気がついた。父親は単に家に帰ってくるのが嫌だったんだ。俺と顔を合わせるのが嫌で、わざと帰るのを遅らせてたんだ」

「何か喧嘩でもしてたんですか?」

「さあな。俺を見るといなくなった母親のことを思い出すのか、それとも単純に子どもという存在を疎ましく思ってたのか。俺には分からん。ただなんとなく、父親には好かれてないんだなという自覚はあった」


 司の声音は寂しげだった。


「ある日見たドラマが『親子の愛は素晴らしい』ってテーマの話だった。当時小学四年生だった俺はインスタントラーメンをすすりながら『愛なんてバカみたい』って思ったてたよ」

「司さんがそんなこと思ってたんですね」

「中学に入ると俺も家に寄り付かなくなった。小遣いだけは余るほどもらってたから毎日夜遊びを繰り返し、家に帰るのはだいたい日付が変わってからだった。それでも補導されないよう細心の注意を払い、学校にも遅刻せずに行った。勉強だって人並みにやって悪い成績は取らないようにした」

「根は真面目なんですね」

「違う」


 司は即座に否定した。


「親を呼び出されたくなかったからだ。警察や教師に捕まることは別にどうでもよかった。問題は親に連絡が行ったり、呼び出されたりすることだ。父親がその呼出に応じるにせよ応じないにせよ、『借り』を作るようなことだけはしたくなかったんだ」

「なるほど」

「そんな生活をしてたうえに人相が悪いから友達もろくにいなかった。夜遊びをするっていってもたいていは一人でゲーセンに入り浸ってただけだしな。家にいても外にいても俺は一人だった。それでもまだその頃は帰る家があるだけマシだった」


 司の目が遠くの空を見る。


「高校一年のころにな、突然父親が俺の部屋に入ってきたんだ。俺は警戒した。家族同士の反応としては正しくないかもしれないが、俺達はほとんど他人みたいなもんだったからな。そしたら父親は『再婚する。明日から相手が引っ越してくるから』とだけ言って去っていた」

「いきなりですか?」

「いきなりだ。まあ、薄々父親に恋人がいるような気配が感じ取ってはいた。だから再婚するって報告事態には何も驚かなかった。だけど相談もなく相手を家につれてくる無神経さに俺は腹が立った。その日のうちに家を出た。完全に勢いだった。頼れる友達や親戚はいない。すぐに戻ろうかと思ったが、いい機会だとも思った。親と縁を切るにはまたとない機会だと。とはいえいきなり家なしになったのはキツかった。とりあえず羽生の町をあてもなくさまよい歩いた。何日かは年確をされないネカフェで過ごし、そっから学校に通った。最低限の荷物だけは持って家を出てたからな。小遣いは貯金していた分も含めてそれなりにあったが、無限じゃない。ネカフェ暮らしができるのはどんなに頑張っても一カ月が限界だった。それまでにバイトを見つけるなりしなくちゃならなかった。ただ、そのときの俺はまだ高校生だ。おまけに履歴書に嘘を書けるほど器用な性格でもなかった。応募先にはことごとく『親の同意がないなら雇うことはできない』って断られた。かれこれ二十社くらい応募したかな。どこにも引っかかることなく一カ月が過ぎ、そしてとうとう小遣いの底が見え始めた。ネカフェに滞在する金がなくなり、困り果てて夜中に街角に座り込んでたらな、一人の女性に声をかけられたんだ。それがミヤコさんだ」


 琢也はあの強烈な風貌を持つ摩天楼の女店主を思い出す。もしも夜中にいきなり自分の目の前にあの人が姿を現したら、魔女か何かに出くわしたと思って腰を抜かすに違いない。


「俺はそのとき咄嗟に逃げようとしたんだ。ミヤコさんのあのインパクトは昔も今も変わらないからな。そしたらミヤコさんは『待ちな』って言ってきた。別にたいして大きな声でもなかったのに、妙に力のある一言だった。俺は思わず足を止めた。ミヤコさんは以前から夜の羽生をプラプラしてる俺のことが気になってたらしくてな、数日前に俺がネカフェに寝泊まりしてるのを知って声をかけてきたんだ。彼女は俺を摩天楼に招き入れて、飲み物と軽食をごちそうしてくれた。俺はそのとき、ほとんど生まれてはじめて、誰かが手作りした食事を口にしたよ。レタスとハムとチーズを挟んだだけのシンプルなサンドイッチだったけど、その時食べたサンドイッチが世界で一番美味かったと今でも言える」


 司は当時の味を思い出したかのように口元を緩めた。


「俺はミヤコさんに事情を話し、店で働かせてくれないかと頼んだ。けど断られた。『メインの営業時間帯が深夜だから未成年は雇えないのよ』ってね。だけどその後にミヤコさんは『単なる世間話だけど』と前置いて、ビルの二階に寝泊まりできる事務室があることと、昼間に店の掃除をするのが面倒だってことを教えてくれた。店の鍵や事務室の鍵がどこにあるのかってこともな」

「掃除をするなら置いてやってもいい、ってことですか?」

「そういうことだ。俺はもちろん承諾した。学校に行く前に前日の営業で溜まった食器やなんかを片付け、学校から帰ってきたら店の掃除をした。高校を卒業するまでずっとな。ミヤコさんは俺に給料もくれた。いらないと断ったが『小遣いよ。若いんだから遠慮なんてすんじゃないの』って言って半ば強引に渡してきたんだ。ミヤコさんはたまに早く出勤してくると俺のために店の在庫を使って夕食を作ってくれることもあった。休みの日には彼女の友人の集まりに連れて行ってもらったり、買い物の荷物持ちをさせてもらったりした。充実した毎日だった。愛情とは無縁に育ってきた俺は、そこで初めて愛を知った。ミヤコさんが俺を世話する義理はなかった。街角でくすぶってた単なるガキなんだからな。なのに彼女は俺の話を聞いただけで住む場所と食事、それに金までくれた。与えられた仕事はあったが、ミヤコさんにとっちゃデメリットのほうが多かったはずだぜ。事務所の光熱費やなんかもタダじゃないわけだしな。なあ琢也、なんでミヤコさんが俺を助けてくれたか分かるか?」


 司は息を吸い、言葉を溜める。


「愛があったからだ」

「はい」

「見返りを求めることなく誰かを強く思う気持ち。それが愛だ。俺は高校を卒業したあと別の会社に就職したが、今でもときどき摩天楼を手伝ってる。もちろん、金のためじゃない。愛してるからだ、ミヤコさんと摩天楼を」


 緩やかな坂の先に猫田と仁歩が暮らすアパートが見えてきた。


「いいか、琢也。愛は誰にだって平等に訪れ、そして終わりがない。たとえ自分の愛が叶わなくても、自分を愛してくれる誰かはいる。それに気づけばまたお前の中に新しい愛が芽生えるはずだ。だから不貞腐れたり自暴自棄になったりはするな」

「……」

「前ばかり見るなよ」

「へ?」

「ときには振り返ったり横を向いたりしろ。目を向けていない場所に目を向けるんだ。そこに必ず愛がある」

「……はいっ」


 琢也は司より一歩前に出る。丸森のことをすぐに忘れることはできない。しかし彼女に心を囚われたままでいるのもやめた。何があってもとりあえず仁歩と正面から向き合うという覚悟を決めた。ケンカ別れのような形で仁歩との関係を先輩後輩関係を終わらせたくはなかった。


 もしも本当に彼女が自分の酒に薬を入れたのだとしたら、それはいったい何のためなのか。なぜ自分で自分を酔わせようとしたのか。悪酔いしてでも逃げ出したい現実があったのか。そしてなぜ仁歩の酒に薬が入ったのに琢也まで悪酔いしてしまったのか。まずは話を聞こうと思った。


 アパートに到着し、隅っこに自販機が置かれたロビーでいったん深呼吸。意を決して階段を上り、二階の廊下に出た琢也は、正面で角部屋の扉が開くのを見た。


 中から目をこすりこすり出て来たのは、金髪をボサボサに炸裂させた新堂仁歩だった。


 お互いがお互いに気がつき、ぱたりと足を止める。


 沈黙。


 雀の鳴き声を孕んだ風が吹き、荒れ狂った仁歩の髪の先っぽをサラサラと揺らした。


 仁歩が動いた。赤く腫れた目を伏せて、電光石火の速さで自室の扉に飛びつく。そ

のまま扉を開けて中に滑り込み、内側から扉を閉め、


「──って!」


 ようとしたところに琢也がすかさず足を挟み込んだ。


「ひあっ!」


 文字通りつま先一つ分開いた扉の隙間から、仁歩の情けない悲鳴が漏れ聞こえた。琢也はドアノブに手をかけ、閉まりかけだった扉を引き開けた。


「……なにしてんだ」


 琢也はクロックスを足に引っ掛けたまま玄関にひっくり返っていた後輩を見下ろし、呆れた声で言った。


「……こけました。逃げようとして」


 仁歩は尻をこちらに向けてひっくり返ったまま答えた。

「逃げるなよ」


 ぎこちなく突っ込んでみると、覇気のない「はい」という声が返ってきた。


 いつもならありえない沈黙が流れ、琢也は頭を搔いた。自分から聞くべきか、彼女が口火を切るのを待つべきか。いずれにせよこの沈黙は居心地のいい沈黙ではなかった。


「あー、新堂」


 そう呼びかけると、仁歩はひっくり返った体を元に戻して正座になり、赤くなった目元を乱暴に拭った。それから膝と膝をくっつけ、肩を縮こまらせて項垂れた。


「せんぱい、すみま」


 後輩が絞り出すように、囁くように言葉を切り出すのを琢也は手で制した。


「ちょっと待った」

「へ?」


 謝罪の前に彼女の言い分を聞きたかった。自分が誤解している可能性がある以上、言い分を聞かないまま怒るのは居心地が悪い。


「お前は酒に薬を入れたんだよな?」


 仁歩は首を縦に振った。


「それは俺の酒にか?」


 仁歩は首を横に振った。


「自分の酒にか?」


 仁歩は首を縦に振った。


「自分の酒だけにか?」


 仁歩はまた首を縦に振った。


「なんで? なんで自分の酒に?」

「あの……その」


 仁歩は正座のままもじもじと身体を捻り、手の指の腹同士を押しつけたり、先ほどとは違うしおれた雰囲気でうつむいたりしながら、なかなか「その」の先を言おうとしなかった。


「言いにくいことなのか?」

「……ま、まあ、そうです。なんかその、正面から来られると、ちょっと、言いにくい、です」

「そうか」


 琢也は扉により掛かって腕を組み、一度だけ頷いた。


「けど言え」

「ええっ」

「言いにくくてもなんでも、お前の言い分を聞かないことには俺たちの話し合いは進まない」


 しゃがんでうつむく後輩の頭に顔を近づける。


「お前の言い分をすべて聞いた上で俺は今回の件を判断する」


 さらに顔を近づけると、仁歩は顔を背けながら上体を仰け反らせていく。


「言え」

「せ、せんぱい……顔が……」

「安心しろ。どんな事情であっても偏見や先入観を持たずに受け止める」

「顔が……ちか……近い……」

「言うんだ」


 琢也がさらに仁歩に顔を近づけると、ふとこちらを向いた彼女と目線がかち合った。残った涙が輝く大きくて丸い瞳に、琢也は一瞬、吸い込まれそうになって、息を止めた。


 琢也は真っ直ぐ見つめた仁歩の瞳を通して、彼女の中で何かのスイッチが入るのを感じた。


「あ──────────────────────────────!」


 仁歩は顔を両手で覆い、くぐもった声で叫んだ。


「いいますよ! いいます! いいますよ、先輩! 私が自分のお酒に目薬を混ぜてわざわざ自分から悪い酔いした理由をはですね!」


 仁歩は顔から手を剥がし、火を灯したように真っ赤な顔を琢也に向けてやけくそに叫んだ。


「酔って先輩にお持ち帰りされたかったからですよ───────────!」

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