⑬
「で? なに?」
丸森は琢也を一瞥もせず、皿の上に残った黄色い食パンの塊をフォークで突きながら言った。
「……」
琢也はテーブルの脇に立ち尽くし、片思い相手のことを焦点の合わない目で見つめていた。
丸森が着ているのは前人未踏ウサギのロゴがプリントされた白いTシャツに、ところどころが擦り切れたダメージジーンズ。仁歩の言葉と琢也の記憶を照らし合わせてみれば、彼女は昨日飲み会のときとまったく同じ服装をしていた。つまり、家に帰っていないということなのだろう。家に帰らずに、昨日の飲み会に飛び入り参加したYouTuberの男と向かい合ってモーニングを食べているのだった。
なぜ家に帰らず、なぜ男と二人で、なぜ歌舞伎町で、なぜモーニングを食べている
のか。
「丸森、さん?」
「だから、なに?」
琢也は、自分が姿を見せる前に彼女が発していた言葉を思い出す。『デートに付き合ってやってんだから』『陰キャだし、どうでもいいよ』『やりすぎた』『これこれ』
「えっと……あの、さ。なにしてるの?」
「ご飯食べてる。見て分からない?」
突き放すような返答。
「あ、いや、それは分かるよ」
琢也は口元だけを緩めて笑った。苦いものを含んだ、精一杯の愛想笑いだった。笑う必要などどこにもないのに、そうでもしなければたちまち何もかもが壊れてしまいそうだった。
「じゃあいいじゃん。終わり?」
笑わずに答えた丸森の正面で、赤髪の男が顔を伏せた。肩が小さく震えていた。笑っているのだとすぐに気がついた。だがそれは、琢也の笑いとは明らかに異なる種類の笑いだった。
「あ、待って。その」
琢也は笑顔を顔に押さえつけながら必死に呼び止める。丸森はあからさまなため息を一つ吐いて、握っていたフォークを皿の上に投げ出した。皿が割れてしまいそうなほど騒々しい音が、静かな店内に響きわたる。
「はい、なんですか? 言いたいことあるなら早く言ってくれますか?」
不自然な敬語に怯む。それでも琢也は、喉の奥で引っかかってしまった言葉を勇気を出して引っ張り上げた。
「えっと、昨日、帰らなかったの? 家に」
「そうだけど? だから?」
「も、もしかしてサークルのみんなと二次会やってた?」
絶対にそんなわけないと分かっているというのに、琢也はまだ心の片隅で丸森鳴乃を信じようとしていた。彼女は自分が最初に思い描いていた通りの人だろうと信じようとした。清楚で真面目で優しくて気配り上手で天使のような女性だ、と。だから努めて明るく、端から見れば痛々しいくらいに笑顔を取り繕った。
「えっと、カラオケとか? それともボウリング?あ、ひょっとして他の店に移動したとか?」
「二次会?」
「そうそう。あったなら俺も行きたかったわー、てか誘ってくれればよか──」
「そんなわけなくない?」
丸森鳴乃は笑った。薄く、冷たく、口だけで。今まで見てきた彼女の笑顔とはまるで違う。優しさも穏やかさもまったく感じられない。ゾッとするような笑み。
「あ、そ、そう? 二次会やってないの? そ、そしたら朝までどこにいたの? この人と一緒にいたの? 家帰らなかったの? どこかに泊まってたの?」
よせばいいのに質問が止まらない。琢也は今にも泣きそうな表情を誤魔化すように丸森から顔を背け、他人事のようにコーヒーを啜る赤髪の男を見た。
「それ藤野くんに言う必要ある?」
「あ、いや。言う必要ってか」
「私が夜にどこで何してようとあんたに関係なくない? 関係ないよね? 関係ある?」
丸森は琢也の顔など一瞥もすることなく、皿に向かって捲し立てた。
「なんなの? さっきから。私が朝帰りしたから何だっての? 朝帰りしちゃいけないわけ? なに? あんた私の彼氏? 親? どっちでもないよね? つーか親でも彼氏でもそんな粘着してくるやつキモいけど。だいたいさ、もうここでこうやって会った時点で普通の人間ならどういう状況か分かるくない? 素なのかとぼけたフリなのか知らないけど、どっちにしても引くんだけど。ほんとーにうっっっっぜ。だいたいさ二、三回ご飯奢らせただけじゃん。彼氏面しないでくれる?」
「ご、五回だよ」
小さな声で反論すると、丸森は握っていたフォークを叩きつけるようにして皿の上に置いた。
「だから何? いちいち覚えてるわけないじゃんあんたとのご飯なんて。連れてくとこ連れてくとこ安くてショボくてまずい店ばっか。そうじゃないとこに連れてってくれたかと思えば、あらゆる恋愛系サイトで紹介され尽くした店。そんなの親の飯よりくってるっつーの。タダ飯じゃなかったら一回で切ってるからマジで。てか服ダサいし、話つまらない上にクソどうでもいいうんちくばっか垂らすし。誰も興味ねーっつーの。しかも私が言ったこと全部メモってんのかってくらい会話の内容覚えてんのほんとキモい。ストーカーの素質あるよあんた」
放たれた言葉の鋭さに絶句している琢也を、丸森は汚物でも見るような目で睨むと、椅子を激しく引いて立ち上がった。かたわらに置いていた鞄を掴み、邪魔なパーティションでもどかすみたいにして琢也のことを押し退け、店の出口に向かっていく。
「ちょっ──」
伸ばした指先は彼女の髪の先にも引っかからず、虚しく空を搔いた。
視界の隅で赤髪の男が伝票を持って立ち上がる。すれ違いざまに琢也の肩に軽く手を置き、耳に口を近づけて囁いた。
「おつかれさま」
二人は扉のカウベルを鳴らして出ていく。店員が彼らの後ろ姿に向かって「ありがとうございましたー」と頭を下げている。琢也は呆然と立ち尽くしたまま、扉の向こうで鳴乃と赤髪が腕を絡ませるのを見ていた。
しばらくして店内の視線が自分に集まっていることに気がついた。琢也は現実感のない足取りで自分の席に戻った。テーブルの上に置かれた黄色い食パンをしばらく見つめ、思い出したようにフォークとナイフで切り分けて口に運んだ。すっかり冷めてしまったフレンチトーストは甘くもなく苦くもなくしょっぱくもなく、まるで紙粘土を食べているみたいだった。
気がつくと琢也はJR新宿駅の東口の壁に寄りかかって立っていた。
『もぐらの寝床』を出てからの記憶がない。フレンチトーストを全部食べきれず、ほとんど残してしまったことだけは覚えている。いつ店を出て、どこを通り、どうやって駅まで戻ってきたのか思い出せなかった。
意味もなくSNSを見ながら、ただただ待ち合わせの時間がくるのを待った。
すぐ隣りにある駅の出口から丸森鳴乃が何食わぬ顔で出てくるのを待った。
いつものように清純な笑顔で、普段キャンパスで着ているものよりも少しだけオシャレな格好で、かすかに息を弾ませて、小さく手を降りながら自分のもとに歩いてくるのを。
さっきの出来事は悪夢だったのだと思いたかった。
自分は待ち合わせの時間が来るまで家にいて、カフェには寄らなかった。丸森もあのカフェには行かず、赤髪の男と一夜を過ごさず、一次会解散後に真っ直ぐに家に帰ったのだ、と。
カフェでのあの出来事は、夜通しさまざまなトラブルに巻き込まれて疲れ果てたせいで見てしまった、ただの悪夢なのだと思いたかった。
待ち合わせ時刻になっても丸森は現れなかった。
遅刻しているだけだろうと言い聞かせてみたが、そうではないことなど分かりきっていた。当然遅れるという連絡もなかった。待ち合わせ時刻を五分を過ぎても、十分過ぎても、新宿駅の東口に彼女らしき姿は見えなかった。
十五分を過ぎたあたりで琢也は丸森に連絡を入れようかと思った。トークを起動し、何というメッセージを送ればいいのか数分迷った挙げ句、連絡を入れるのをやめた。迷っている数分の間にも丸森は待ち合わせ場所に現れず、なんの連絡も寄越さなかった。
あれは現実だったのだと改めて思い知った。
自分は丸森鳴乃にとって『ご飯を奢ってくれる便利な男』でしかなく、付き合う付き合わない以前に、恋人候補の1人にすらカウントされていなかったのだと。
今日までに試行錯誤してきたすべては、底の抜けた貯金箱にお金を入れていくような無意味な行為だったのだ。
琢也の一年分の片思いは丸森に辿り着くことすらできなかったというのに、あの赤髪の男は一日もかけずに彼女に辿り着いた。
二人の間にあったのは恋愛とはかけ離れた繋がりだったのだろうが、赤髪の男は琢也が一年掛けても辿り着けなかった場所にたった数時間で辿り着いたのだ。
それが琢也にはたまらなく虚しい。
ぶつけようのない悔しさと虚しさを抱えながらその場に立ち続けていると、隣にいた同い年くらいの男が、不意にイヤホンを耳から外し、駅の出口に向かって片手を挙げた。琢也は何気なく彼の視線を追った。淡いブルーのワンピースを着た小柄な女が、手を挙げ返して小走りで男に近付いてくるところだった。
「ごめん、迷っちゃった」
「出たー方向音痴。昼飯奢り決定ね」
「えー。じゃあ牛丼ね」
「嘘だよ、嘘。ほら、行こうぜ」
二人はそんなどうということのない会話をしつつ駅から離れていく。どちらからともなく手を握りあったところで、彼らの姿は新宿駅の雑踏に紛れて消えた。
琢也はその様子をぼんやりと眺めていた。昨日までの自分が頭に思い描いていた姿だった。
視界のあちこちで次々と男女が合流しては雑踏に消えていく。制服を着た二人がいれば、大学生らしい二人がいて、年の差のある二人もいた。しかし琢也だけはいつまでも一人だった。
もしもさっき『もぐらの寝床』に行かずにここでだらだら待っていたら、今日だけは街行くカップルの一組になれたのだろう。この先もずっと丸森の正体を知らずに騙され続けていくことになるののだとしても、今日だけは幸せなカップルの一組でいられたのだ。
一〇時三十分を過ぎても丸森からは何の連絡もなかった。映画館ではちょうど予告編の上映が始まったところだろうか。今から走れば、本編上映には間に合うはずだ。
しかし琢也は動き出さず、そのまま駅の壁に寄りかかり続けた。見上げた空は雲一つない晴天で、まるで自分以外の人間のための空であるような気がした。今から一人で映画を見に行く気など起きるはずがなかった。
一〇時四十五分を過ぎても琢也はその場に居続けた。SNSのタイムラインを遡り、最新の投稿を見ようと画面を何度もリロードする。しかし更新されていくのはニュースやBotアカウントの味気ない投稿ばかりだった。
スマホの画面を閉じ、琢也はそこに映った自分の顔を見つめた。
脳裏に、白石たちの騒動が落ち着いたあとに司からかけられた一言が唐突に浮かび上がった。
── 『一度抱いた愛を失った人間は脆くなり、壊れやすくなる』
司の言葉の通りかも知れない。
丸森鳴乃への恋心を、愛を、完膚無きまでに砕かれて失った自分の顔。真っ暗な画面に映った表情の危うさに、自虐的な笑いが溢れた。
これからどうすればいいんだろう。自分は何のために一年間を過ごしてきたのだろう。
今にも崩れていきそうな脆い表情で、画面の中の自分が問いかけてきた。これからどうすればいいかなんて、そんなこと分かるわけがなかった。
スマホをポケットにしまい、どうすることもできないまま、壁に寄りかかり続けた。映画に行くことも、家に帰ることも、どちらの選択もできなかった。大きすぎる喪失感によって、その場に身体が縫い止められてしまったようだった。
このまま一日中立ち続けていようか、と思った。
立ち続けていれば側にある交番の警察官が不審に思って声を掛けてくるだろうか。職務質問をされて、交番に連れ込まれて、注意されるだろうか。そうなったらそうなったで別に構わなかった。職務質問されようが逮捕されようが、別にどうでもよかった。
そんな風に自暴自棄なため息を吐いた琢也のポケットで、スマホが震えた。
電話がかかってきた。
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