⑫
──起きないと!
身体がふと浮遊感を覚え、次の瞬間には前面が固いものに叩きつけられた。口元をくすぐるもそもそしたものを舐めてみると、毛っぽい食感がした。目を開けると九十度傾いた世界が見えた。九十度傾いた椅子に、九十度傾いたバーカウンター、その内側に九十度傾いた、
「おや、起きたんだね」
黒いドレス姿の妙齢の女がいる。
琢也は跳ね起きた。
「あ、ああ、お、おはようございます!」
「まだ五時だよ」
「五時、五時? え? あれ?」
半開きの目で辺りを見渡す。声をかけてきた女の名前がぱっと頭に浮かんでこない。天井の淡い光を吸い込んで、壁際の酒瓶がステンドグラスのように輝いている。バーカウンターの上には、中身を指一本分ほど残したロックグラスが一つ置いてあった。
摩天楼の店内だった。
女の名前がミヤコであることを思い出す。ミヤコ・ザ・ダブルシックス。摩天楼の女店主。
皺がつききっていない脳味噌を格納した頭を揉み込みながら、琢也は眠りに落ちる前の出来事を思い返した。
仁歩の部屋を出たあと、真っ直ぐ摩天楼に向かった。店はまだ開いていて、先ほどはいなかった客が一人カウンターでミヤコと話していた。ミヤコは驚いたようにこちらを見て、しかし特に何を聞くでもなく、ソファを使うよう目で琢也に合図した。すっかり身体が限界に来ていた琢也は、崩れ落ちるようにそこへ倒れ込み、寝た。
それがついさっきのこと。本当についさっきのことだ。眠ってから起きるまで、三〇秒も経っていないような気がする。
「……五時、か」
まるで休まった気のしない頭を、店内の時計の方へ向けた。正確にはまだ五時前だった。にポケットから取りだしたスマホはより正確に、『04:55』と表示してくれていた。
「で、どうしたんだい? 見つかったのかい? 後輩は」
ミヤコが言った。
「……後輩」
「寝ぼけてんのかい? 後輩だよ。変な男に連れてかれたっていう」
「あ、いや」
琢也は寝癖の立った頭をかきながら自分自身にため息を吐いた。先ほどの仁歩とのやり取りを、一瞬だけ夢ではないかと思う。しかしあれは確かに現実だった。
「……見つかりました」
「なんか浮かない顔だね」
「まあ、ちょっと」
琢也は言葉を濁した。説明するのが面倒だったし、自分でもまだ何が起こったのかをきちんと整理できてはいなかった。仁歩が琢也の酒に薬を入れた。言葉にしてしまえばたったそれだけの事実。にもかかわらず心がなかなか受け入れようとしていなかった。
琢也はブランケットを畳んでソファに置き、テーブルの上のボディバッグを手に取った。チャックを開けたまま放り出していたらしく、財布やら鍵やらが外に飛び出していた。それらをかき集めて中に戻していると、
「あら、出てくの? 司、まだ戻ってきてないわよ」
ミヤコが棚にグラスを戻しながら、首だけでこちらを振り返った。そういえば司が待ち合わせ場所まで送ってくれることになっていた。だが今は彼に会いたい気分ではなかった。会えば仁歩とのことを聞かれるだろうと思ったからだ。
「というより今さらだけど、なんであんただけ戻ってきたの?」
「……いろいろあったんで」
「いろいろね」
ミヤコは長年の経験から琢也の声のトーンに秘められた複雑な心境を読み取ったのか、それ以上は何も聞いてこなかった。その代わりにバーカウンターの中で滑らかに巨体を動かし、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出すと、グラスに注いで琢也を呼んだ。
「朝食、ってほどでもないけど。飲んできなさい」
「そんな、わざわざ」
「遠慮はしない」
「……はい。いただきます」
琢也はグラスを傾け、中身を一気に飲み干した。冷たい牛乳が頭の中に残っていた最後の眠気を追い払っていく。
「ごちそうさまでした」
琢也はグラスをカウンターの上に戻した。
「司のことは待たなくていいのかい?」
「はい。今の時間に出れば羽生からでも電車で間に合うので」
「もう一眠りくらいした方が楽だと思うけどね」
「大丈夫です。もう目が冷めました」
「そうかい」
ミヤコはグラスを下げつつ、琢也の顔を一瞥した。妙に艶めかしい視線は、寝起きの頭を劇物のように射貫き、危険な活力を与えてくれた。
「がんばんな」
「は、はい。頑張ります」
両頬をぱんっと叩いて弛んだ顔に喝を入れる。
「ありがとうございます。寝床」
「気にするんじゃないよ」
「飲み物代とかその他もろもろ、今度お返しします」
「じゃあ近いうちに店にきて、たくさん飲み食いしなさいよ。誰を連れてくるかは任せるわ」
「はい。絶対に来ます」
誰を連れてくるかなんて決まっている。丸森だ。付き合って最初のデートでもしこんな大人なバーを常連風に紹介したら、株は余計に上がることだろう。寝ぼけた頭にそんな妄想をして、琢也はにへらと笑った。
「それじゃあ」
小さく頭を下げる。ミヤコは肉厚の顔に微笑みを浮かべ、バーカウンターの中から見送ってくれた。
階段を上がって地上に出ると、早朝の飲み屋街の空気が全身を包み込んだ。酒と食べ物の残り香に、生ゴミのすえた臭い。藍色の景色の中で多くの店がシャッターを下ろしている。その前にはボロ雑巾のように伸びている人がいて、それを見てゆらゆらと笑っている人たちがいる。
長い夜が終わった。
ようやく、本当に、終わった。
琢也は強ばった関節と筋肉をボキボキと鳴らしながら、眠り始めたばかりの飲み屋街に一歩踏み出す。小気味よい自家製の目覚ましアラームによって半分くらい覚醒した身体で、羽生駅を目指した。
始発から二本目の車輌はほとんど貸切状態だった。その気になれば椅子に寝っ転がることだってできた。しかし琢也はあくまでマナーを守り、隅っこの席に縮こまっていた。
羽生から新宿までは三十分ほどらしい。現在時刻は五時七分。五時四十分には新宿に着く。そこから最寄り駅まで一時間弱で、最寄り駅から自宅までは徒歩二十分。走れば七時前には自宅に帰ることができる。着替えるなりシャワーを浴びるなりに二十分はかかるだろう。自宅から駅までの移動には自転車が使えるので、帰りよりも早く移動が可能。待ち合わせの十時には確実に間に合う。睡眠不足は間違いなしだが、それよりデートに間に合うことのほうが大事だ。
無事にデートに辿り着けると安堵した一方で、頭に引っかかるのは仁歩のことだった。
自分が愛咲駅まで寝過ごしたのは、彼女のせいだという。彼女が酒に目薬を混ぜたために悪酔いしてしまったのだという。どうりで大して飲んだ覚えがない割に酔いが激しかったわけだ。
仁歩さえいなければこんなことにはならなかったのだった。彼女さえいなければ何事も無く家に帰ることが出来ていたのだ。恐怖に震えながら山道を歩くことも、コンビニで不審者扱いされることも、白石と猫田のトラブルに巻き込まれることもなかった。
すべては後輩が仕組んだ意味の分からないバカげた企みのせいだった。
仁歩のことは後輩として信頼していた。たまにめんどくさいときもあるが、何かにつけてあの明るい調子の声で「先輩先輩」と呼びかけられるのは嫌いじゃなかった。空きコマに飯をたかってきたり、夜中に何の用もないのにメッセージを送ってきたり、突発的に遊びに誘ってきたり、そういうのも全部嫌いではなかった。むしろ慕われているのだと分かって嬉しかった。
だからこそ、今回の出来事が許せなかった。
強固に結びついていた信頼だったからこそ、解けた反動が大きかった。仁歩の部屋を出てきたとき、琢也の頭はほとんど空っぽだった。何も考えられなかった。
窓の外を流れていく早朝の景色を眺めながらため息を吐いた。
部屋を飛び出したのは間違っていないと思う。むしろ正解だったと思う。彼女にどんな思惑があったのか知らないが、酒に薬を混ぜるなんてのは常人の思考回路ではない。派手に酔わせてその様を笑いたかったのかなんなのか。いずれにせよ仁歩は、翌日に大事なデートが控えているということを知っていたのだ。知っていてあの行為に及んだのだ。それは信頼の結び目をすり潰していくような残酷な裏切りに思えた。
ふと思いついてポケットからスマホを取りだした。充電は完了している。画面を開くと三件ほど着信があった。午前四時半が最後。発信者は新堂仁歩。
かけ直すことなくポケットにしまった。彼女がこの電話で何を話そうとしたのかは分からない。素直な謝罪か、弁解か。いずれにしても、連絡はあとでだ。丸森鳴乃とのデートが終わってからだ。それまでに彼女には深く深く反省して欲しい。
電車に揺られてうとうととし始めた頃、電車は新宿駅に到着した。無意識のうちに分単位で眠っていたのか、あるいは数時間後に迫ったデートへの高揚感からか。頭はすっと冴えていた。
早朝でも油断のならない人混みを掻き分けつつ、琢也は電車を乗り換える。
自宅の最寄り駅に着いたのは予想通り午前六時半を少し過ぎた頃だった。目覚め始める商店街を早足で通り抜け、いつもよりも五分ほど早く自宅に辿り着く。シャワーと着替えを済ませて自室の椅子に腰を落ち着けたのは午前八時前。眠る時間はない
が、自室でぼーっとするには有り余っている。
そこへ電話がかかってきた。知らない番号からだった。
「……もしもし?」
『おう、琢也か』
威圧感のある声。司だ。
「あ、おはようございます。すいません、あの、先に店を出てしまって」
『いいさ。気にするな。今どこにいる?』
「家です」
『そうか。無事に帰れたんだな。デートには間に合うのか?』
「大丈夫だと思います」
『よかった。愛が起こした奇跡だな』
「……ええ、まあ」
睡眠不足の頭に司の愛の説法はカロリーが高すぎた。琢也は電話の向こうには伝わらないよう、静かに苦笑いを浮かべる。数秒の沈黙の後、司が言った。
『ところで仁歩のことだが』
「え」
『珠紀の部屋から出ていってすぐ、お前らのどっちかが思いっきり音を立てて部屋の扉閉めただろ? まあ多分お前だろうけど』
「あ、いや」
『なんかあったのか? あの後しばらくして仁歩がこっちの部屋に来たんだが、あいつは何も言わずに急に泣き』
琢也は咄嗟に電話を切っていた。『通話終了』と表示された画面を見つめる。数秒待つと再び電話がかかってきた。琢也は着信をはたき落とすように『拒否』の赤アイコンをタップした。
椅子から立ち上がり、スマホをポケットにしまう。落ち着かない素振りで部屋の中を行ったり来たりした。司はあの後になんて言おうとしていたのだろう。『急に泣き』なんだろうか。
仁歩は泣いていた?
どうして?
悪いのは酒に目薬を入れるというバカなことをしでかした仁歩だ。迷惑を被ったのは主に琢也だ。泣きたいのはこっちだ。なのになぜ仁歩が泣くのか。
寝不足で集中力を欠いた頭には事態がうまく飲み込めなかった。かけ直すか悩んだが、司に何を言われるか分からなくて結局やめた。
部屋でじっとしていても落ち着かないので、待ち合わせ場所に行ってしまうことにした。
自転車を最寄り駅まで飛ばし、先ほどよりもさっぱりした身体で路線を逆戻り。ぼーっとしているとつい仁歩との一件を思い出してしまうので、意識的に今日のデートのことを考え、告白の場面をシミュレートする。
夜景の綺麗なイタリアンを予約してある。席はもちろん窓際で、半個室。個室にしなかったのは相手に緊張感を与えないため。美味しい料理に舌鼓を打ち、この日のために用意してきたささやかな雑学やジョークを交えながら会話を盛り上げていく。そしてその店の名物であるドルチェを食べ終えた後、夜景を見ながら片手で丸森の手を握り、もう片方の手でプレゼントのサボテンを差し出す。それから囁くように言う。
付き合おう、と。
いざその場面になって噛まないよう、琢也は何度も口の中で「付き合おう、付き合おう、付き合おう」と繰り返した。告白の言葉を舌になじませるのだ。
彼女は手を握り返し、澄んだ瞳を夜景から琢也の顔に向ける。小さく、しかしはっきりと頷く。言葉はない。「はい」とか「お願いします」とかそういう言葉はナンセンス。丸森はただ無言で首を縦に振るだけだ。もしそこでキスができる雰囲気になったら、そのときはいく。男らしく、しかしさり気なく彼女の唇を奪う。完璧なプランだ。
新宿駅が近付くにつれて根拠のない自信が胸で膨れあがっていった。かつてないほどのトラブルに見舞われた夜を越えた自分には、もう恐れるものなど何もない。膝の上で拳を握りしめ、丸森鳴乃との幸福な日々を確かな未来として想像する。
新宿駅に到着したのは九時ちょっと過ぎだった。改札を抜けて待ち合わせ場所である東口の地上出口へと向かう。そのままそこで一時間待ってもよかったが、
「……腹減ったな」
一晩でかなり凹んだ気がする腹に手を当てて琢也はひとりごちた。思えば昨夜から相当エネルギーを使っていた。むしろここまで空腹を感じずにやってこれたのが不思議なくらいだ。
琢也は人混みが育ち始めた駅前を離れ、歌舞伎町の方へと歩いて行く。何回か前のデートで丸森から教えてもらったカフェのことを思い出したのだ。モーニングのフレンチトーストが美味しい、『もぐらの寝床』。空腹も満たせて丸森との話の種にもなる。一石二鳥だ。
スマホを出して検索すると、すぐにヒットした。モーニングは十時までのようだから、今から行ってもまだ間に合う。地図で場所を確認すると、歌舞伎町の中ほどにあることが分かった。駅から歩いて十分ほどだ。行きたい場所をネットで探し出し、地図を頼りにそこへ向かう。昨日の夜中にできなかったことができているという当たり前の今が妙に感慨深かった。
カフェ『もぐらの寝床』は野郎一人で入るには少し尻込みするログハウス風の店だった。恐る恐る扉を開けると、愛想のいい定員が小走りに近づいてきてすぐに席へ案
内してくれた。
「ご注文が決まりましたらこちらのベルでお呼び下さい」
「あ、フレンチトーストで」
「かしこまりました」
店員は笑顔で返事をし、水とおしぼりを置いて去っていく。
身体が浸かってしまいそうなほど柔らかいソファに深々座り、琢也は天を仰いだ。温かいおしぼりでぼんやりと手を拭きながら、店内に流れるオルゴールの音に耳を傾けていると、
「……んあ」
思わず眠ってしまいそうになる。琢也ははっとなって瞼をこじ開けた。うっかり寝て遅刻すれば、せっかく苦労して新宿まで辿り着いた意味がなくなる。それにこんな洒落たカフェに間抜けな寝顔を置くわけにはいけない。口コミサイトで店の評価を下げてしまうことになる。
目を覚ますために氷水を頬に当て、周囲の様子を覗いながらおしぼりでさっと顔を
拭う。アロマの香りとほどよい温かさで意識が冴えてくる。オルゴールの甘い音色に意識を奪われないようにと、すぐ後ろの席に座っている客の会話に耳を傾けてみることにした。
「……あーあ、めんど」
気怠げな女の声。
「なにが?」
と返したのはこれまた気怠げな男の声。
「デート」
「俺との?」
「なわけ。今日の」
「あー。やめりゃいいじゃん」
「でもさー、『ファムファタル』連れてってくれるんだよね」
「ルミネの?」
「そ。フレンチ」
「あそこ奢ってくれるって相当な金持ちじゃね。なに? 相手おっさん?」
「んーん。大学の同期。あの飲み会にいた」
「あの飲み会にねー」
「あんたもたぶん話したんじゃない?」
女の声に聞き覚えがあるような気がした。そして同時に、妙な胸騒ぎがした。真剣に会話を聞こうと、琢也は腰を浮かせ、耳をテーブルとテーブルの間にある仕切りに近づけた。
「てかさ、同期に奢らせんの? お前鬼だな」
「いーの。私はデートに付き合ってやってんだから」
「付き合ってやってんだから、って。かわいそ、相手」
「別にー? 陰キャだし、どうでもいいよ」
冷めきった女の声に、男が笑った。
なぜだか琢也の心臓の鼓動は先ほどから不規則だった。無意識のうちにスマホを取りだして、丸森鳴乃とのトーク画面を呼び出していた。画面には『あのね、ルミネに新しいレストランができたらしいの』『フレンチなんだけどね』という言葉が並んでいた。
まさかね、と思う。
しかし嫌な予感は肥大していくばかり。
「あー眠い。てかやりすぎた」
女が言った。
「俺も。腰痛い」
「あんた激しすぎだからね」
「いいじゃん。久々に燃えたんだよ」
何かの単語に琢也は引き金を引かれたように立ち上がった。何を思ったのか、何を感じたのかは自分でも分からない。気がついた時には席を離れ、後ろの席に移動していた。
木の幹そのものを切り出して作りあげたようなお洒落なテーブルには、二つの皿と二つのカップが置いてあった。片方の皿にはまだ半分ほどフレンチトーストが残っていて、そちら側に見慣れた顔の女性が座っていた。丸森鳴乃だった。
「……誰?」
丸森の正面に座っていたのは赤い髪を逆立てた体格のいい男。昨夜のサークルの飲み会に乱入してきた『メロンパンズ』とかいうYouTuberグループの一人で、琢也と友人同然に盛り上がった相手だった。まさかの人物に琢也は驚いたが、表情には一切出さなかった。というより出なかった。感情を司る回路がショートしてしまったみたいだった。
「……なんで?」
しばらくして琢也の口からこぼれ落ちたのは、発した瞬間に消えてしまいそうなほど情けない声だった。
丸森は琢也を見上げて一瞬だけバツが悪そうに顔をしかめた。しかしすぐにそれを引っ込めると、紙のように軽薄な微笑みへと表情を入れ替えた。
「あー、これこれ」
丸森は手にしていたフォークで琢也のことを指し示し、赤髪の方を向いて気怠そうに言った。
「今日の私のデート相手。藤野くん」
「あーこれが」
赤髪は哀れむような笑みを作り、
「ども。いやーなんか、ごめんね」
とすぐにでもどこかへ飛んで行ってしまいそうなほど軽い謝罪を口にした。
ちょうどそのとき、店員が琢也の席にフレンチトーストの乗った皿をテーブルに置きに来た。三人の様子を覗いながら発せられた「ごゆっくりどうぞ」という店員の言葉は、琢也の耳には届かなかった。
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