⑪
しばらくして、仁歩と猫田が両手にお菓子の袋や酒の缶をたっぷり抱えて戻ってきた。猫田のストレス解消剤になる予定だったものだという。高カロリー高脂質なそれらは、彼女の心の疲れようを如実に表すラインナップだった。
猫田はローテーブルに置いた菓子の袋を次々と背中から開きつつ言う。
「せっかくだし飲もうよ。金曜日の夜……まあ土曜日の明け方だけどさ」
「いいんですか?」
白石がびっくりしたように彼女の顔を見ると、
「もちろんだよ。というかむしろ私は白石さんと飲みたいな。いろいろ話を聞かせて欲しい。私の動画のいいところ悪いところなんかをね」
「僕なんかでよければ、ぜひ」
「僕なんかでよいよ」
照れる白石に向かって猫田は笑顔で答え、ビールの缶を一つ手にとった。
「白石さんは? どれ飲む? ビールでいい?」
「あ、じゃあ、ビールで」
「コーラはあるか?」
司がテーブルの上に並ぶ缶を睨みながら尋ねた。ただ質問をしているだけなのに、恐喝でもしているかのように見えた。
「コーラはないなー。コークハイなら」
「俺は酒が飲めないんだ」
「えーその顔で?」
猫田は目を丸くしながらストレートに突っ込みを入れる。
「まあいい。あとで下の自販機で買ってくる」
司はコーラの代わりに渡されたスナック菓子をつまみ、琢也の方を見た。
「お前は? 選ばないのか?」
「あ、いや。俺は明日もあるんで、摩天楼に戻ります」
「摩天楼?」
仁歩がチューハイのプルタブに指をかけつつ言った。
「いろいろお世話になった繁華街のバー。朝までそこのソファで寝かせてもらうことになったんだよ」
「明日なんていいじゃないですかー、先輩。楽しみましょ。今日は寝かせないぞ。ほ
らほら」
まだまだ飲む気らしい後輩に呆れつつ、琢也は首を振る。
「んなわけいくか。何のために必死こいて終電後の夜道を歩いてきたと思ってんだ」
「……ばーか。先輩のばーか」
「言ってろ」
琢也が立ち上がると、仁歩が突然話の方向をねじ曲げた。
「そうだ。先輩、うちで寝てきます?」
「新堂ん家で?」
「姉と二人暮らしなんで、ベッド余ってますし。ソファよりはよく寝れると思いますよ」
仁歩の誘い文句は親切心半分、下心半分、といった雰囲気を漂わせていた。少しだけ開いた口の端から、小さい彼女が「おいでおいで」と手招きしているようだった。
「……新堂ん家か」
「あ、やらしいことは」
「しねえよ」
「私が寝てからにしてくださいね」
「しねえって」
指をくわえてわざとらしく身を捩る後輩を一刀両断にし、
「でも本当にいいのか?」
「いいですよ、ぜんぜん。むしろウェルカム」
「そうか……なら寝させてもらおうかな」
琢也は後輩の誘いにありがたく乗ることにした。正直に言えば摩天楼まで戻るのも面倒だった。このまま猫田の家で眠れればそれが最高だと密かに思っていたのだ。
「じゃ、行きましょっか」
仁歩はまだ開けていないチューハイの缶を床に置き、弾むように立ち上がる。
「おう」
飲み始めたほかの三人に挨拶してから、琢也は仁歩のあとをついていって猫田の部屋を出た。廊下を含めてもほんの数メートルの距離を移動し、隣の部屋へ。鍵を開ける後輩の後ろ姿をぼんやり眺めていると、なんだか不思議な心地がしてきた。
案内されるがまま部屋に上がり、琢也は仁歩の寝室だという部屋に通された。
「おお……」
ついそわそわとあちこちを見回す。変わったところは何もない、ごくごく一般的な作りの六畳間。丸森の部屋もこんな感じなのだろうかという妄想が走り出し、頬が緩むのを感じた。
「あ、あんまり見ないで下さい!」
仁歩が恥ずかしそうに言うのを聞き流して、琢也は視線を部屋に泳がせる。女子の部屋という未知の世界がどうしても気になってしまうのだった。
「見ーなーいーでー!」
仁歩は床に落ちていたクマ型のクッションを拾い上げると、それを琢也の顔に押し付けるようにして差し出した。
「分かった分かった。見ねえよ」
琢也は内装から視線を剥がし、クッションを尻に敷いて座る。クマの顔が尻の下でのっぺりと潰れた。このクマは野郎の尻に敷かれることは考えていなかっただろう。潰れた顔はどこか不満げに見えた。座り込むと、これまで忘れていた疲労感がどっと瞼にのしかかる。
「すぐ寝ます?」
仁歩が言った。
「すぐ寝ます」
「ちぇっ」
「眠いんだ俺は」
正直、疲労は限界に来ていた
「ま、明日はおデートですもんね、先輩」
「ああ、悪いな」
「ばーか」
「うるせえ」
「ぐっすり眠れるように私が添い寝してあげましょうか?」
「いらねえ」
ペロリと舌を出した仁歩の顔に向かってひらひらと手を降りつつ、琢也はベッドの方を見た。できることなら今すぐにでもこの淡い黄色のベッドにダイブさせていただきたい。仁歩との会話も、もう切り上げたいくらいだった。
「ベッド貸してくれるの凄いありがたくて感謝してる。だからもう寝ていいか?」
「しょうがないなあ。いいですよ。あ、でもちょっと待って」
仁歩は部屋を出て行き、またすぐに何かを抱えて戻ってきた。
「これ使って下さい」
「なにこれ?」
「姉の前の彼氏が置いていったジャージです。たぶん先輩にちょうど良いサイズだと思うんで」
「至れり尽くせりだな。ありがとう」
確かに山道を歩いてきたこの服装のままベッドに寝るのは気持ちが悪いし、何より家主に失礼だ。琢也は受け取ったジャージにその場で着替えるべく、ズボンに手をかけた。
「乙女の前なんですけど?」
仁歩はさり気なくこちらに背を向けながら言う。
「お、悪い。三秒で済むから」
「ばーか」
「お前今日ばかばか言いすぎだからな」
「ばーかばーかばーか」
約束通り三秒で着替え終え、着ていた服はベッドの下に置いた。それとなく畳んだのは、脱ぎっぱなしの男物の服が女子のベッドの側に落ちていると、何となく、事後感が漂うからだ。もう数時間後には丸森とのデートが控えているというのに、そんなことを考える自分を恨んだ。あまりに変態的な思考をしていると嫌われてデートに失敗するぞ。うるせえ。眠気が限界突破し始めた頭の中で一人芝居をしつつ、抗えない力に引き寄せられてベッドに倒れ込む。
「そうだ。シャワーは浴びなくていいんですか?」
「いい。明日の朝借りる。俺はもうダメだ」
「はいはい」
仁歩は部屋の電気を消して出ていった。
去っていく後輩の足音を聞きながら、琢也はベッドに仰向けになって目を閉じた。長かった夜が、ようやく終わろうとしている。睡眠時間はもうほとんどないが、眠れるだけマシだろう。
しかしなかなか寝付けなかった。
目を閉じれば一瞬で夢の世界に吹っ飛んでいけると思ったのだが、いつまで経っても意識はベッドの上にあった。理想の寝相を探して輾転反側。腹にかかった布団の感触は柔らかくて軽い。頭を乗せた枕からは、決して自分の枕がまとっていない甘い匂いが鼻に流れ込んでくる。
自分は今、女子のベッドの上にいる。それを意識すると余計に眠気が遠ざかっていく。
相手は新堂仁歩だぞ。ただの後輩だぞ。
目をきつく閉じながら言い聞かせるが、相手がたとえただの後輩の新堂仁歩でも、女子に変わりはない。だから身体も頭も妙に緊張してしまっている。丸森鳴乃という想い人がいながら不埒な野郎だと自分でも思う。
「寝れる寝れる寝れる寝れる寝れる寝れる寝れる……」
己に催眠をかけるようにぶつぶつと呟いているとだんだんと眠気が遠くから近寄ってくる気配がした。そろそろ眠れそうだと思ったとき、部屋の扉が開く音が聞こえた。
なんだ、と寝返りを打った琢也の目に映ったのは、ずるずると身を引き摺る巨大ナメクジ。ではなく、布団を担いだ仁歩の姿だった。
「……なにしてんだ?」
暗闇に向かって呼びかけると、仁歩は琢也がもう寝ていると思いこんでいたようで、
「ひゃっ」
と驚きのあまり布団ごと床にひっくり返った。
「ててててっきり寝てるものかと」
「意外と眠れなかった」
理由は言わない。
「ところでお前は何を?」
「私もここで寝ようと思ったんですよ」
「なんでだよ」
「私の部屋ですから」
ごもっともだった。
仁歩は開き直って堂々とベッドの隣に布団を敷いて寝っ転がった。
「隣の部屋に戻らなくていいのか?」
「私ももう眠いんで。それに……」
「それに?」
琢也は問いかけたが、返事はなかった。仁歩は頭から布団をかぶり、琢也の目の前に仁歩の形をした膨らみが出来上がった。
「……」
琢也は反対方向に寝返りを打ち、仁歩に背を向ける。目を閉じ、深く息を吸い、眠気がやって来るのを待つ。後輩と同じ部屋で寝るというイレギュラーな事態に、心臓が再び変な弾み方をし始めた。
相手は新堂。新堂仁歩。ただの後輩。俺には丸森さんがいる。
呪文のように口の中で唱える。
ただでさえ時間がないのだから、一秒でも長く寝なければならない。折角眠くなりかけていたのに、仁歩が部屋に入ってきたせいでそれが再び遠のいた。これでまた眠気を呼ぶところから始めなければならない。その間にも睡眠時間は着実に減っていく。
「先輩?」
固く目を瞑って睡魔を呼ぶ琢也の耳に、囁くような仁歩の声が聞こえた。
「あ?」
微睡みが離れていく。
「起きてますか」
「起きてるよ」
琢也は壁に向かって言う。内心で「話しかけないでくれ」と呟いた。
「すごい夜でしたね」
「ああ」
掴みかけた眠気を再び取り逃がす。
「疲れましたね」
「ああ」
琢也は呻くように頷いた。まただった。折角近寄ってきた眠気が仁歩の言葉で逃げていく。それが少しだけ腹立たしかった。
「……何かこういうのドキドキしますね。むふふ」
「しねえよ」
声を荒げないようにしつつ、それでも全力の機嫌の悪さで返事をした。
いいから黙って寝させてくれ。そう言えたら楽だった。しかし琢也は部屋を貸してもらっている身。後輩とはいえそんな返答ではあまりにも失礼だ。
「あー、疲れた。ねむーい」
「ああ」
なら寝ろよ、と口の中で呟く。
「先輩が終電逃したのって、お酒のせいですか?」
「ああ」
「ですよね」
「お前のせいってことにしとく」
適当に答えて布団の中で丸くなった。
こうなったのは半分は自分のせいだということはもちろん知っている。飲みすぎなければ終電を逃すこともなく、今ごろ自宅のベットで順風満帆に心地よい睡眠を貪っているはずだった。デートのことなど、告白が成功するかどうかだけ心配していればよかった。それが今では、待ち合わせに間に合うかどうかという最低限のことまで心配しなければならない。
「先輩」
「なんだよ」
こうなった原因のもう半分は、酔っ払って猫田の部屋に突撃した仁歩のせいだった。仁歩の突撃がなければ、琢也は今よりももっと前に摩天楼のソファで眠ることが出来ていたのだ。
「私、先輩に言わなきゃいけないことがあるんです」
彼女は明日が琢也にとってどれだけ大事なのかを知っているはずだ。だから早く寝かせて欲しい。もう話しかけないで欲しい。気を利かせて欲しい。言わなければいけないことも、今言わなければいけないことではないだろう。
それでも、ベッドを借りているという負い目を感じて琢也は答えてしまう。
「なんだよ」
仁歩は長いこと無言を貫いていた。寝相を変えながら、「んー」と思い悩むような躊躇うようなくぐもった声が聞こえた。
琢也は瞼を強く閉じながら、仁歩の返事を待った。言いたいことがあるなら早く言え。早く言って終わらせて、俺を寝させてくれ。苛立たしげに布団を固く握っていると、やがて、
「先輩が終電逃したの、たぶん私のせいです」
「……まあお前と飲まなかったら逃さなかっただろうからな」
「違います」
震えているような感じのするその声に、琢也は違和感を覚えた。
違います。
何が違うというのだろうか。
「私のせいってのはそう意味じゃないです」
「そういう意味じゃない?」
「私が悪酔いさせたんです」
何を言っているのかよく分からなかった。
沈黙の中、壁の向こうから酒盛りをする司たちの楽しげな声がかすかに聞こえてきた。五秒近くかけて仁歩の言ったことの意味を理解してから琢也は言った。
「お前、何かしたのか?」
「酒に目薬を入れると悪酔いするっていう噂があるんですよ」
「……いれたのか」
「いれました」
仁歩は正直に告白した。
先輩が終電逃したの、たぶん私のせいです。私のせいで終電を逃した。酒に目薬を入れると悪酔いするっていう噂があるんですよ。
琢也の頭の中で何かが弾けて散った。
近付きつつあった睡魔がまた離れていく。しかも今度はただ離れていくだけではない。代わりに怒りを連れてきた。
琢也は布団をはね除けるようにして上体を起こし、ベッドから立ち上がった。
「先輩?」
仁歩もまた起き上がる。心配するような面持ちが暗がりにぼんやりと浮かび上がる。
「いいよ」
「え?」
「いいって。寝てろよ」
冷たく突き放し、床に畳んでおいてあった自分の服を取って着替える。ズボンが上手く履けず、シャツの袖に腕がうまく通らなかった。苛立ちながらも乱暴に着た。
「あの、先輩」
「黙れって」
もう仁歩の方を見ようともしなかった。
頭に来た。裏切られた。バカにされた。腹が立った。時間を無駄にした。いらない苦労を負わされた。睡眠を奪われた。何もかもダメにされかけた。悔しかった。情け
なかった。
怒りとも悲しみとも落胆ともつかないさまざまな感情が頭の中で渦巻き、混沌としていた。
「帰るわ、俺」
「か、帰るって? 今から、ですか?」
「当たり前だろ。お前、さすがにないわ」
「あ、ご、ごめ」
「いいよ。謝らなくて。いい。じゃあな」
琢也は鞄を引っ掴み廊下に出た。
「先輩、待っ……待って。違くて」
追いかけてくる後輩の足音を無視し、一度も振り返ることなく、廊下の電気を付けることもなく、かかとを踏み潰したまま靴を履いて部屋の外に出た。
「せんぱ──」
聞こえてきた声を断ち切るように扉を閉めた。無機質な金属の音が無音の外廊下にけたたましく響く。がちゃんっという冷たい残響に耳を貫かれながら、琢也はその場にしばらく立ち尽くしていた。
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