「理性的に判断するとな」


 司がおもむろに口を開いた。


「あんたのやったことは強盗と同じだし、立派な犯罪だ。たとえどんな事情があったにせよ、俺は許すべきではないと思う。そうだろ?」


 水を向けられ、琢也と仁歩は揃って首を縦に振った。


「……それはもちろん承知してます。もしも警察に突き出すというのであればそれでも構いません。その覚悟はあります」

「そりゃそうだろうな。覚悟もなくこんなことしてるなら、救いようのないバカだ」


 司の言葉は、その顔つきのせいもあってか相当な厳しさを帯びていた。


 白石がうつむく中、「だが」と司は声音を少しだけ柔らかくする。


「お前をどうするかについて、俺が判断することはできない。琢也も、仁歩も同じくな。判断出来るのはただ一人、猫田珠紀本人だけだ」


 不意に言葉を投げかけられ、猫田が顔を上げた。慌ててメガネをかけ直し、赤く腫れた目で全員の顔を順番に眺めた。


「行き着いた結果がどうであれ、白石は珠紀への愛があった。そしてその愛は紛れもなく本物で、真っ直ぐで、誠実だった。俺はそう考える。だからこの件は、白石の愛を珠紀が受け入れるか否か、それにかかっている」

「愛って、そんな」


 白石が戸惑ったように言うと司は真顔で、


「嘘なのか? お前の行動はすべて猫田珠紀を思っての行動じゃなかったのか?」

「い、いえ。嘘では、ないですけど。確かに僕はねこたまさんを助けたい一心でしたけど」

「なら愛だろ」

「愛っていうのは……なんか、違うような」


 白石は釈然としない面持ちで、救いを求めるように琢也を見た。琢也は何も言わず、首を振った。出会ってたった数時間の関係だが、司が「愛」を語るとき、何を言っても無意味だということをもう理解していた。


 司は鼻をすする猫田の方を向く。


「珠紀、どうする?」

「あ、わ、私。私か。いや、そうだよね」


 猫田は濡れた目元をジャージの袖で拭った。


「……何て言えばいいのかな」


 ぽつり、と呟く。


「正直さ、怖かった」


 当たり前の感想だったが、それでも白石は少しショックを受けたような顔をした。


「だってドアを開けたら知らない人が立ってて、その人がいきなり家の中に入ってくるんだもん。しかも乱暴に手足と口を縛ってくるし。あのときは本当に怖かった。白石さんはしきりに『乱暴はしません。掃除をしに来ただけです』って言い続けてたけど、まあ信じられるわけはないよね」

「……すみませんでした」


 白石は目を伏せた。


「でも、白石さんは本当に何もしなかった。手を縛ったとき以外、指一本触れてこなかった。私のことを寝室に放り込んだあとは、本当にただひたすら掃除だけをしてた」


 猫田は部屋の隅に置かれたゴミの山に目をやり、泣き腫らした顔を少しだけ綻ばせた。


「部屋の扉の隙間から廊下を往き来する彼のことを見てると、だんだん可笑しくなってきたんだよね。意味分からすぎて。だって強盗同然に部屋に入ってきて、やってることが掃除だよ?知らない人が一人で黙々と部屋の中を掃除してんの。冷静に考えたら笑えちゃって、それでなんか安心してきたの。何でか分からないけどね。誰かが自分のために何かをしてくれてるって思ったから、かな。とにかく恐怖感とか不安感とかそういうのは全部なくて、ただただ安心感だけがあったの。それが分かったらあとはもうずっとじっとしてた。まあ手足縛られてたし、口塞がれてたからじっとしてるほかなかったんだけど。それであとはもう白石さんが掃除をする音を聞きながら、ぼーっと壁を見たり天井を見たりしてた。それに白石さんは私に気を遣ってかできるだけ静かに動いてくれててさ。そしたらいつのまにか眠っちゃった」

「寝ちゃったんですか」


 仁歩が驚いた口調で言う。


「うん、寝ちゃった。けどさ、そのとき、いつもよりぐっすり眠れた気がするんだ」

「いつもより?」

「私最近ずっと寝不足でさ、ずっと眠りが浅かったの。ベッドには夜から朝までずっといるけど、そんな中で眠ってる時間は多分一時間とか二時間くらい。全然眠れない日も少なくなかった。なのに、今日はぐっすり眠れた、気がした。まあいろいろあったから睡眠時間はいつもと変わらない一、二時間だったけど、質っていうのかな? そういうのが全然違った」


 猫田は体育座りを崩して胡座を掻き、ぐいっと天井を仰いだ。


「最初は怖かったけど、白石さんにそっと起こされて事情を説明されたら、そんな気持ちどっか行っちゃった。むしろさ、ありがとうって言いたくなってきたよ、私」

「ありがとう、ですか」


 仁歩が不思議そうに猫田を見つめる。


「うん。私のことをこんなに思ってくれる人がいるなんて、そんなこと全然知らなかったから。誰も私のことなんて見てないと思ってて、ずっと」


 猫田は笑顔を浮かべたが、すぐに顔を伏せた。声が少し掠れていた。乱暴に顔を拭った彼女のジャージの袖はいつの間にか斑模様に変わっていた。


「私、憧れてるYouTuberがいたんだ。メロンパンズっていう、グループなんだけどさ」


 どこかで聞いたことがある名前だ。そう思って仁歩を見ると、彼女もこちらを見ていた。それで思い出した。サークルの飲み会に現れた連中だ。


「その人たちみたいになりたくてYouTubeを始めたの。早くメロンパンズくらい有名になりたい、早くメロンパンズみたいにみんなから面白いと思ってもらえるようなYouTuberになりたいって気持ちで毎日動画を投稿してたんだよね。だけどなかなか上手くいかなくてね。全然チャンネル登録者が増えなくて、再生数も伸びなかったの。このままじゃダメだと思って方針転換して、さっき白石さんが言ったように過激な動画を撮り始めたんだけどさ、結局はそれもあんまり意味がなかった。それどころか最初の頃から私のことを見ていてくれた人の中には離れていった人もいたみたいで、再生数やチャンネル登録者数は徐々に減っていったんだ」


 猫田は湿った声で懸命に話を続ける。涙がこぼれ落ちるのを堪えるように、唇を力

強く結びながら。嗚咽を必死に堪えながら。


「私の動画は面白くないんだ。こんなものを作っても何の意味もないんだ。そう思いながら、それでも動画を投稿するしかなかった。自分でも面白いと思わない動画を撮り続けて何の意味があるんだろうなって、毎日虚しさばっかり募らせてた。それでも、行き先が真っ暗でも前に進むしかないと思って動画を投稿し続けた。だけどそのうちYouTubeそのものが嫌いになり始めたの。サイトを開けば真っ先に私の物よりも遥かに面白い動画が目に飛び込んでくる。私が動画を投稿しなくても、世の中にはこんなに楽しい動画で溢れてる。それに毎日のように新しいクリエイターが生まれてくる。半月くらいで私のチャンネルの規模を追い越していった人もいた。そのたびにお前なんかいらないって思われてる気がして、すごい、怖くなったんだ。前は毎日毎日サイトを開いて動画を漁るのが楽しかったのに、それが苦痛になっちゃった。動画投稿を止めようと思ったことは何度もあったけど、やっぱり好きだから止められなかった。好きで好きでたまらなくて、どうしても叶えたい夢だから諦められなかった。夢ってさ、呪いみたいなもんだよね。人生に希望を与える物だけど、少し間違えると人生の重しになっちゃう。そんなことを考えながら毎日過ごしてたらなんか生きてる心地がしなくなってきたの。正直に言うとさ、白石さんが家に来たとき、半分くらいは『あ、別にいっか殺されても』って思ったんだよね。私には動画を作るくらいしか能がないけど、誰も私の動画は見てない。だったら別にもういっそ殺された方が楽なん──」

「ねこたまさん!」


 白石は今まで一番強い口調で名前を呼ぶと、両脇に座っていた琢也と司を押し退けるようにして膝頭一個分だけ前に飛び出した。猫田が驚いて顔を上げる。白石は危うく転びかけた体を立て直しながら、両膝の上に固く拳を握りしめ、彼女の顔を真剣な二つの眼差しで射貫いた。


「僕はあなたの動画が好きです」


 まるで愛の告白のようだった。


「僕は優しいあなたの声に癒されています」


 猫田は白石の真っ直ぐな言葉に面食らったような表情をした。白石は前のめりになり、言葉をつまらせながらも一生懸命に続ける。


「上司にいびられた日も、顧客に文句を言われた日も、同僚に笑われた日も、見ず知らずの人間に因縁をつけられた日も、僕にはあなたがいた。あなたの動画があった。歯を食いしばって一日を乗り越えて、家に帰ってサイトを開けばあなたの笑顔に会える。そう思ったら仕事も頑張れました」

「………うん」

「動画の内容もいつも楽しみにしてます。気取らず作らずありのままの姿を見せてくれるあなたの動画をいつも楽しみにしています。あなたに紹介されたことで買った日用品とかお菓子とか漫画とか、いくつもあります。これ、これとか」


 白石はそう言ってポケットから自分のスマホを取り出す。そこにデザインされていたのは片耳が折れたウサギの絵。前人未踏ウサギだ。見れば猫田の部屋のあちこちに関連グッズがあった。


「たまに舌を嚙むところも、話が続かなくて黙るところも、かと思いきやトークが脱線しがちなところも、全部好きです」

「……うん」

「僕はあなたの動画が好きです。面白いと思っています。無意味なんかじゃない。だから『殺されてもいい』なんて悲しいことを言わないで下さい。少なくともここに一人、あなたの存在を無意味に思っていない人間がいます。あなたの動画に出会えたおかげで、毎日を楽しく過ごすことができている人間がいます。あなたにありがとうございますと声を大にして伝えたい人間がいます。だから、だから」


 憧れの動画投稿者にありったけの思いを伝えようと興奮した白石は、いよいよ口の動きを熱意が上回り、先に続ける言葉を見失ってしまう。ぱくぱくと唇を動かし、先を続けようとしていると、


「わ、私の方こそ!」


 猫田が白石に負けじと強い声を出した。何度もこすって赤くなった目に再び涙を溜めながら、何度も首を横に振った。


「私の方こそ、ありがとう、ございます。私の動画を好きだと言ってくれて、ありがとう。無意味じゃないって思ってくれてありがとう。そう言ってもらえて、すごく嬉しい、です」


 目尻から溢れかけた涙を手の甲で拭い取り、猫田は少しだけ明るくなった声で言う。


「今日まで少し脱線してたけど、白石さんのおかげで元に戻れる。明日からはちゃんと、自分らしい動画が撮れるような気がする。ううん、自分らしい動画を撮る、絶対に。そしたら白石さん、見てください」

「も、ちろんです! 楽しみにしてます、ねこたまさん!」


 二人は頭を上げてお互いの顔を見つめ合った。奇妙な数秒間がゆったりと流れ、やがてどちらからともなく笑みがこぼれた。琢也はほっとため息をつき、仁歩は小さく手を叩き、司は浸るように目を閉じていた。目の前の二人の関係がちょっと前まで強盗と被害者だったなどとは、この場にいる五人以外誰も分からないだろう。


 一滴の蟠りなく和解した二人は、しばらくしてから琢也たちに向かって揃って頭を下げた。


「いろいろご迷惑をおかけしました」

「すみません」


 そんな二人の言葉を受けて、


「愛の勝利だな」


 と司は目をつぶったまま満足げに頷いた。


 事態が何事もなく解決し部屋に安堵の空気が流れ出したところで、不意に仁歩が首を傾げた。


「というか私、なんでここにいたんですか?」

「えっと、それはですね」


 白石はことのあらましを端的に説明した。電話口で琢也に話していたのとまったく同じ内容だった。彼は何一つ嘘をついていなかった。


 仁歩の言い分も踏まえて状況を整理すると、彼女は酔っていたせいで自分の部屋に帰るつもりが、間違えて一つ隣の猫田の部屋に入ってしまった。そのとき白石はちょうど廊下の掃除をしていた。慌てて隠れようとすると彼女はそのまま三和土にへたり込んで吐き、眠ってしまったらしい。白石は流石に見過ごせないと思い、彼女を部屋に運び込んでソファに寝かせたとのことだった。


 失っていた記憶を取り戻した仁歩は、愕然とした顔でリビングの床に手をつく。そしてふと気がついたように自分のシャツの裾の部分を引っぱった。


「あの、もしかして私が着てるこの服って」

「あ、それ僕のです」

「白石さんの?」

「ええ。新堂さんはこの部屋に入ってきたときの粗相で服がかなり汚れたので……迷

ったんですが無視することができなくて取り替えました。洗面台の所で洗って、乾かしてあります。まだ乾いてないとは思いますけど」

「ととととと取り替えた???」


 仁歩は金髪を全部逆立てるくらいの勢いで慌てふためいた。


「はい。すみません、僕なんかの服を着せちゃって。でもねこたまさんのクローゼットを漁るのはちょっと気が退けて……に、においますか?」


 白石は頭を掻きながら申し訳なさそうに言ったが、仁歩の動揺の源泉は白石の服を着せられたことではない。


「あのあの」


 仁歩の視線は宙に溺れかけていた。


「取り替えたってことはぬ、ぬぬぬぬぬ脱がせたってことですか?」

「あ!」


 そこでようやく白石はことの重大さに気がついたのか、ほのかに赤面した。


「そそ、そうですね。でもあの! 目は閉じてたんで。閉じてましたから! 見てはいけないものは見てません! 絶対にそれは嘘じゃありません! 国家権力に誓います!」

「ぬ、ぬぬぬ脱がされた。初対面の男性に」


 そこで仁歩は琢也をちらりと見て、


「あぶぶぶぶぶぶぶぶぶ」

「すみませんすみません。でも放っておくこともできなくて。ちなみに下着は脱がせてないのでそこは安心してください! 服だけです!」


 仁歩は顔を真っ赤にして床に突っ伏した。


「およめに行げない……」

「ごめんなさい……」


 呻いた仁歩に向かって、白石はどうしようもなくしょんぼり頭を垂らす。


 花ものけぞるうら若き乙女が初対面の男の前で粗相をした挙句そのまま服を脱がされると言うのはなんとも悲しい事件だったが、原因は全て仁歩側にあるので仕方のないことだった。


 見かねた猫田がくすりと笑い、立ち上がって仁歩の手を取る。


「仁歩ちゃん、おいで。服は洗濯して、乾燥機かけよう。ついでに私の服貸してあげる。その服は白石さんに返そう」

「……あい……」


 ずるずると引きずられていく仁歩の姿にはなんとも形容しがたい哀愁が漂っていた。


 リビングに野郎三人で残されると、白石は琢也に向かって頭を下げた。


「あの、信じてください。本当に僕は仁歩さんに何も」


 心底申し訳なさそうなその口調に、琢也は慌てて顔の前で手を振る。


「いやいや俺に謝らなくていいっすよ。白石さんのことはもう疑ってないですし。確かにまあ新堂のことは可哀想だなとは思いますが、原因はあいつにあるんで」

「でも、彼氏的にはあまり快くないですよね」

「何か誤解してますね?」

「違うんですか?」

「あいつはただの後輩ですよ」


 ため息混じりにそう言うと、横から司が肩を叩いた。


「誰もが誰かに憧れる。熱烈な愛を燃やし、夢中になり、その誰かに追いつきたいと思い悩む」

「はい?」

「愛は人生の希望であると同時に、呪いでもある。一度抱いた愛を失った人間は脆くなり、壊れやすくなる」


 司は、廊下に消えていった猫田に向かって語りかけるように言った。


「だからこそ、自分を愛してくれる人間を忘れてはいけない。誰かへの愛を焦がすあまり、自分への愛を見落としてはいけない。前を向き続けるのではなく、ときどき立ち止まって後ろを振り返る。そして自分を追いかけてきてくれる愛の姿を見つめ直す。その尊さに気がつくことができれば、人は強くあれる」

「そ、そうっすね」


 琢也は曖昧に頷くことしかできなかった。

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