琢也たち五人は廊下の突きあたりにある、黒髪の女が飛び出してきた部屋に集まった。


 リビングルームらしい六畳ほどの部屋だった。琢也にとっては初めて訪れる家族以外の女性の部屋。にもかかわらずあまり緊張感を覚えないのは、家主が見知らぬ女だということよりも、部屋の済みに積まれたゴミ袋の山が原因のようだった。ちょっとやそっとの可愛らしいゴミの山ではない。つつけば即座に雪崩を起こしそうな大層な名山である。あまり見続けるのも悪いと思い、琢也はさりげなく目を部屋の真ん中に置かれたソファに移す。


 五人は各々適当な場所に腰を下ろし、向かい合う。琢也と司とで、いまだ容疑が晴れない白石を挟むようにした。


 リビングの壁にかけられた時計は、間もなく午前三時を指そうとしていた。


 窓の外は黒い。夜明け前の一番暗い空なのだろう。そして夜と同じように、五人を巡る一連の騒動もまた、佳境に差し掛かっていた。


 黒髪を肩の下まで伸ばしたメガネの女こそがこの部屋の住人で、彼女は自らを猫田珠紀と名乗った。都内の大学に通う学生で、YouTuberでもあるのだという。彼女の言葉を裏付けるように、リビングの一角にはパソコンが置かれたデスクがあり、一目で撮影用と分かる機材がいくつも並んでいた。


 ひとしきり自己紹介が済んで落ち着くと、琢也は何から聞こうか考えた。聞きたいことは山のようにあって、何を一番に聞くのが正しいのか分からなかった。そうやってしばらく黙り込んでいると、猫田がおもむろに切り出した。


「いろいろ事情はあるけど、白石さんは悪者じゃないの」


 その言葉は琢也と司の正義感を路頭に迷わせた。


「お二人は初対面、なんですよね」


 琢也は戸惑いながら聞いた。


「うん」


 猫田は頷き、琢也と司の間に挟まれた白石に目を向ける。白石もまた静かに頷いた。


「あの、最初に聞きたい事があるんですけど」


 仁歩がそっと手を挙げた。


「さっきまで別の部屋で拘束されてたのは猫田さん、ですよね?」

「うん。手足を縛られて転がされてた」

「それは自分から望んでですか?」

「望んでではないかな」

「無理やりってことですか?」

「まあ……そうだね」


 猫田は、今はもう自由になった手をぷらぷらと振りながら頷いた。彼女の手を長い間縛り付けていたホームセンターの綿ロープは仁歩と琢也の手によって解かれ、絡まったままローテーブルの上に置かれていた。


「拘束されてたのに、この人のこと危なくないって言い切れるんでしょうか」


 もっともな質問だった。初対面の男に自宅で無理やり拘束され、それでなぜ相手のことを危なくないと言い切れるのだろう。二人の間にはどんな事情があるのだろう。


 ひょっとすると猫田は白石から何かを口止めされているのではないか。そんな思いを抱いた琢也は、自分の隣で神妙にしている白石を半ば睨むようにして見た。


「いろいろと事情があるの」


 猫田がどこか言いづらそうにうつむくと、白石が姿勢を正して口を開いた。


「いいよ、ねこたまさん。僕が説明します」

「ねこたま?」


 不意に出てきた聞きなれない単語に、司が白石をどちらともなく睨みつけた。恫喝ではなく単なる質問である。


「YouTuberとしての私の名前」


 猫田が答えた。


「なるほどな。つまりそれを知ってるってことはお前は」

「は、はい。僕は、彼女のファンです」


 白石は司の視線に怯まず、胸を張って答えた。


「彼女の動画は初投稿のものからすべて欠かさず見ています」

「……ただのファン、ですか?」


 琢也の問いに即答しかけた白石だったが、首を半分ほど振ったところで苦笑いを浮かべた。


「ただのファンと言いたいところではありますが、もう違うかも知れませんね。ただのファンは相手の家に押しかけたりしませんから」

「けど白石さんは──」

「根本的な問題としてお前は何をしていたんだ? この部屋で」


 猫田の言葉に司の鋭い声が重なった。


「掃除です」

「掃除?」


 予想外の答えに司と琢也と仁歩は揃って顔を見合わせる。そういえばさっきそんなことを言っていた気がする。


「えっと、強盗とか嫌がらせではなく?」


 仁歩が訊ねると、


「なんで僕がねこたまさんに嫌がらせを?」


 と心の底から不思議そうな答えが返ってきた。


 琢也は自分の理解が追いつかない状況に戸惑いながら、リビングルームをぐるりと見渡して考える。壁際に土塁のように積み上がったゴミ袋は、確かな掃除の痕跡である。白石が口にした「掃除」という言葉は、少なくとも完全な嘘ではないようだった。


「何のために掃除を? ファンとはいえ、二人は見ず知らずの他人同士ですよね?」


 琢也は単純な疑問をぶつけた。


「そう、ですね。話せば少し長くなりますが」


 白石は曖昧に頷いて言い、正面に座る猫田の顔を窺い見る。彼女は黒髪を揺らしてこくりと首を縦に振った。


 話していい、という合図だったのだろう。白石はもう一度頷いて、


「ここ最近、ねこたまさんの動画がおかしかったんです」


 ゆっくりと語り出した。一語一語を丁寧に探し出して並べていくような話し方だった。


「最初のころの彼女が投稿していた動画は、世の中で話題になっている面白グッズや便利グッズを紹介したり、ちょっとしたチャレンジをしたりするような内容でした。ちょっとしたチャレンジっていうのはまあ、バケツでプリンを作ったり、一人で利きコーラをやったり、そういう感じのです」

「利きコーラなら俺も得意だ」


 司が鋭い目つきをして胸を張る。


「……利きコーラってなんですか?」

「ラベルを見ずにどのメーカーのコーラかを当てるゲームだ」


 世の中には不思議なゲームがあるものだ、と琢也は心のうちで呟いた。

 白石が話を元に戻した。


「──そんな彼女の動画は、毎日仕事でストレスを抱えていた僕にとっての最高の癒しだったんです。舌っ足らずな喋り方とか、台本じみてないトークとかがこう、胸に染み込んでくるような感じがして。家に帰ってお酒を飲みながら彼女の動画を見ていると、目の前に本当に彼女がいて話しかけてきてくれるような気がして、それでその日にあった嫌なことを全部忘れることができたんです。彼女の動画に出会ってから寝つきも良くなりましたし、前日のストレスを翌日に持ち越さないことが多くなりました」 


 彼の言葉を聞きながら、猫田は膝を抱えて座り直し、足の間に顔を埋めた。細い指に外したメガネを引っ掛けて、髪に隠れた顔は見えなかったが、小さく鼻をすする音が聞こえた。


 白石はそんな猫田に心配そうな目線を送りつつ話を続ける。先の言葉を紡ごうとする彼の唇は、微かに震えていた。


「しかし、数カ月ほど前から彼女の動画には異変が起き始めました」

「異変?」


 琢也が言う。


「はい。動画に映っている彼女の部屋が、だんだん汚くなっていったんです。衣類らしきものが無造作に散らばっていたり、コンビニ弁当やスナック菓子の袋といったゴミや通販のダンボールが山のように積み上がったりしていったんです。足の踏み場もない、という表現が相応しいくらいに。それまでの彼女の部屋は、実際の部屋の様子がどうだったかは知りませんが、少なくとも動画に映る範囲は綺麗でした。だから違和感を覚えたんです。けれどもねこたまさんだって人間です。部屋が汚くなることはあるでしょう。中には彼女の部屋の有様を酷い言葉で非難するユーザーもいましたが、僕は深くは突っ込みませんでした。忙しすぎて手が回らないんだろうなくらいに考えてしました。僕も同じ経験がありますし。ですが」


 白石はそこで一端言葉を句切り、深く息を吐いた。壁に掛かった時計の針が確かな音で一秒を刻み、誰かの咳払いが静かな部屋に響く。白石が再び口を開いた。


「──ですが、部屋の汚さが増すにつれて動画の内容もどんどん過激になっていったんです」

「過激に」


 と復唱したのは仁歩。 


「ええ。商品紹介をする動画の本数が少なくなっていき、反対にチャレンジ系の動画が増えていったんです。もちろん最初は彼女が方針転換をしただけだと思いました。新しい視聴者を獲得するための試みだと思ったんです。しかし新しく投稿されていくチャレンジ動画の内容は、これまでとはまったく趣が異なるものでした」

「利きコーラをやらなくなったのか?」


 司は腕を組んだまま白石を見る。


「はい。そういったマイルド、と言いますか、ほのぼのとしたチャレンジ動画はなくなり、どんどんと過激な内容になっていったんです。ワサビを茶碗一杯食べたり、野生の昆虫を調理したり、肌の露出を増やしたり、下手したら大事故になりかねないようなことをしたり。炎上一歩手前とでも言いましょうか、運悪く面倒なユーザーに見つかったら即炎上してしまうような内容でした。動画が過激になるにつれて彼女の部屋もどんどん汚くなっていくようでした。彼女のチャンネルの雰囲気が変わり始めてしばらくしてから、ようやく僕は『何かあったんじゃないか』と思うようになりました。そう思ってから彼女の動画を見直すと、なんだか再生数を稼ぐのに必死になっているような、というより再生数を稼ぐためだけに自暴自棄になっているような気配を感じたんです」


 白石は唇を固く結び、絞り出すように言葉を続ける。


「それ以来僕は、癒しを求めてというよりも、今日こそはいつも通りに戻っているように願いながら彼女の動画を見るようになりました。けれども一向に元に戻る様子はなく、それどころかますます酷くなるような気さえしました。だから、どうにかしたかったんです」


 白石は膝の上に拳を固く握りしめた。


「それで、どうにかしようとした結果、この部屋の掃除に来ることを思いついたと?」


 琢也が問いかけると、白石は頷いた。


「そうです。僕も昔、同じような状況に陥ったことがあったので」

「同じような状況?」

「仕事のトラブルでストレスを抱え、心を病んだんです。身の回りのことに無頓着になり、何をするにも億劫になってしまいました。その結果、部屋が荒れ果てました。片付けを一切しなくなり、カップ麺やコンビニ弁当のゴミをその場に放り捨てていました。次第に部屋には虫が湧いて悪臭が漂い始めました。僕はそんな状況を一切構うことなく生活を続けて、いっそこのままゴミに埋もれて死んでもいいや、と思うくらいに酷い状況になっていました。ある日そんな僕を見かねた友だちが半ば強引に家に押し入ってきて、掃除をしてくれました。部屋をひっくり返すような大掃除でした。そして数時間後に見ちがえるようにスッキリした部屋の真ん中に立ったら、不思議と心が晴れやかになったんです。頭の中のゴミも一掃されたみたいで、気持ちよくなりました。その経験があったから、ねこたまさんも部屋を掃除すれば自暴自棄ではなくなるんじゃないかと、そう思いました。だからここに来ました」


「けどそれでどうして猫田さんを縛ることに?」


 横で話を聞いていた仁歩が首を傾げた。


「それは……」


 白石は一度言葉を詰まらせ、しかし自分に言い聞かせるように頷いた。


「僕はまずねこたまさんとSNS経由で連絡を取りました。しかし返事はありませんでした。考えるまでもなく当然のことです。僕はただのファンでした。ねこたまさん本人とは何の面識もない、数百人のうちの一人です。ねこたまさんの自宅どころか、本名だって知りません。彼女の顔と、動画で語られた数少ない個人情報くらいしか知りません。ねこたまという動画投稿者は知っていても、猫田珠紀という女性のことは知りませんでした。そんな人間がいきなり『部屋を掃除をさせてくれ』とメッセージを送ってきても、無視するのは当たり前です」

「まあ、ですよね。私だっていきなりそんなのもらったら無視しますよ。あ、琢也先輩のは別にして」

「俺のも無視してくれて構わないから。というか俺はお前にそんなメッセージ送らねえ」


 琢也は言いつつ、白石に先をうながした。


「あ、そ、それで。それでですね。僕はねこたまさんと連絡が取れませんでした。彼女にアポを取って自宅に掃除をしに行くことができなくなったわけです。そのときは諦めました。でも、ねこたまさんの状態はいつまでたっても改善されない。部屋はずっと汚いし、動画の中の彼女は見ていて痛々しい振る舞いばかりをしていて、かつての癒しはどこにもない。どうにかして僕は彼女を救いたかった。救うなんて言葉はおこがましいのかも知れません。僕はただ、昔の、丁寧に動画を作っていた彼女に戻ってきて欲しかった。再生数を稼ぐための自暴自棄な動画にはいつかきっと限界が来る。動画にも、彼女自身にも。彼女の動画は長く愛されるものではなく、瞬間的に消費されるだけのものになってしまう。面白半分の視聴者は現れてもファンは残らない。そう思ったんです。自分勝手な意見かもしれませんが、そんなのはあまりに悲しすぎると思いました。過激なことなんてしなくても、彼女が彼女らしい動画を作り続けている限り、時間は長くかかるかも知れないけど、きっと僕のように彼女の動画を好きになる人間は増えていくはずです。だからこのまま雑な動画を作り続けて終わって欲しくなかったんです。そんなふうにしてねこたまさんが終わってしまうのが嫌だったんです。彼女の動画で癒されて救われた僕は、その恩返しがしたかったんです。綺麗事だし余計なお世話だとは分かっていましたが、彼女にはもう一度正しく前を向いて欲しかったから」


 白石が言葉に力を込めて語る横で、猫田は顔を伏せたままずびずびと鼻をすすっていた。


 琢也と仁歩は何も口を挟まず、司も目を閉じて押し黙っていた。


 誰かの服の衣擦れの音だけが、深夜の部屋の中に小さく響いた。


「ねこたまさんの動画やTwitterの投稿を全部見返して、自宅が分かる情報が残っていないか探しました。何年分と遡ってやっと、彼女の最寄りが羽生駅だということが分かりました。でもそれ以上の情報には辿り着けませんでした。なので僕は羽生駅で彼女を待ち伏せすることにしました。一週間ほど駅に張り続けてようやく今日、彼女と遭遇し、家まで後を付けることができました。最初は駅前で声をかけようかと思いました。しかしいきなり声をかけても彼女がすんなり話を聞いてくれるとは思えません。それどころか警戒されてしまうかも知れない。そうなったらもう彼女に近づくことはできない。一発で決めるしかない。悩んだ結果、苦渋の選択で部屋の中に押し入ることにしたんです」

「押し入った? 説得した、とかではなく」


 琢也は眉根を寄せて訊ねた。


「はい、やっていることは完全にストーカーです。強盗です。それは重々承知していますし、反省もしています。ですが、それ以外に方法がなかったんです。思いつかなかったんです」


 ほかに方法はあったはずだ、と琢也は思う。白石一人だけでなくファン数人を集めて連名で猫田に連絡を取るなんてこともできただろう。白石のやり方は強引すぎた。しかし彼の熱い想いを聞いたあとでは、ただ理性的に判断を下すということもできないのだった。


 白石の話を聞きながら、琢也には少なくとも一つ感覚的に理解できたことがあっ

た。白石は悪い人間ではない。正しさや親切さが空回りしているだけなのだ、と。


「彼女が油断して扉を開けたところに踏み込んだあと、あらかじめ用意しておいたロープで手足を縛り、口をガムテープで塞いで近くにあった部屋に入れました。彼女をその部屋の床に寝かせ、僕は言いました。『何も盗まないし傷つけない。ただ部屋を掃除するだけ』と。彼女の身動きを封じたのは、抵抗されて面倒なことになるのを防ぐためです。乱暴だったことは謝ります。申し訳ありませんでした」


 白石は言葉を切り、猫田に向かって手を突き、深々と頭を下げた。猫田は顔を埋めたまま強く首を横に振る。謝罪を拒絶しているのではなく、「そんなことはしなくていい」と言っているようだった。


「僕はただ、ねこたまさんを救いたかった。それだけです」


 白石がそう言って話を終わらせると、部屋の中には沈黙が降りた。窓の外から朝刊を配って回るバイクの音が聞こえてきた。仁歩にふと目を向けられたが、琢也には何も言うことができなかった。この沈黙の中で誰に何を言えばいいのか分からなかった。時間の流れが狂ったような気がした。白石が喋り終えてからもう何時間も経ったような感覚があった。

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