「せんぱいせんぱいせんぱい! うわあ、怖かったあ……よかったあ! 死ぬかと思った……会いたかったあ! 助けてえ! うわあああああああ、どうしよう!」

「落ち……落ち着……新堂、おい……うるせ……」


 後輩が胸に顔面を押しつけてくるのを、琢也はそれなりに本気で押し退けた。


「ぼぁああああ、せんぱいいいいい! よがったあああああ! 死んだあああ」

「落ち着けって。感情が事故ってるぞお前!」


 手のひらに着いた鼻水だか涙だか分からないものを本人の服に擦り付け、狂ったスピーカーのように叫び続ける仁歩の口を塞いだ。


「いったん黙ってくれ。いろいろ起きてる。お前も当事者だろうけど」


 仁歩は首を激しく縦に振った。


「落ち着いたか?」


 仁歩がもう一度頷いたのを見て、琢也は手を離した。


「ぷはっ。先輩の手の匂い………嗅いでしまった」

「やめろ気持ち悪い」


 琢也は手にこびり付いてしまったであろう仁歩の鼻息を拭いた。


「とにかく無事でよかったよ新堂。ケガとかはないか?」

「あ、はい。ケガはないです。先輩、なんでこここに?」

「お前こそ何で」

「私はあの、変な男に捕まって。隣の部屋に連れ込まれたんです」


 震えている後輩の肩を、琢也は少し強引に掴んで引き寄せた。


「本当に連れ込まれたのか?」

「え、あ、それは……分かりません」

「分からない?」

「き、記憶がなくて……あの、先輩ちか」


 顔を赤らめながら言う後輩に、琢也は思わずため息が漏れる。


「……ああ、だろうな」


 自分もそうだが、やはりお互いに飲みすぎたらしい。酒なんてクソ食らえだった。


「本当に連れ込まれたかどうかは分からないんですけど、でも、目が覚めたら知らない人の部屋にいて」

「それは知ってる」

「え?」


 仁歩は再びぽかんとした顔になる。


「俺はお前の空白を埋めることができるかもしれないが」

「かもしれないが?」

「今は面倒なので後回し。とりあえず、無事か? なんともないか? ケガは?」

「えっと、まあ、はい。無事です。ケガもないです」

「よかった」

「先輩が私の無事を心配してくれるなんてっ」


 今にも飛びついてきそうな仁歩の両肩を、琢也は先回りして押さえつけた。そこへ白石の部屋のインターホンを押す直前だった司が廊下を引き返してくる。


「琢也、どうした? 後輩か?」

「あ、そうっす。これが後輩の新堂で」


 す、と言おうと思って仁歩を見ると、彼女は腰を抜かしたような格好で琢也の背後に回り込むところだった。


「なんだお前?」

「えっと……その、先輩、この人は?」


 怯えたような声で訊いてきた。後輩の正直すぎるその反応は、初対面の人間に対しての反応として正しくはないが、司に対しての反応としては真っ当だった。


「どうした?」


 司が首を傾げる。傾げた拍子に浮かべた笑みが、まるでこれから殺戮に及ぶ芸術家気取りの殺人者といった感じでなおさら怖い。


 琢也は後輩の無礼をごまかすため、苦笑しつつ振り返る。


「この人は司さん。ここに来るまでいろいろ助けてくれた恩人だよ。確かに見た目は怖いけど、中身は優しくて親切な人だから。というか親切すぎるくらい」

「……ホントですか? 人とか食べてそうですけど……日常的に」


 仁歩はさらりと辛辣な、しかし分からないでもない言葉を口にする。


「んなわけあるか」


 背後の後輩を無理やり司の前に押し出しつつ、紹介した。


「とりあえずコイツが後輩の新堂仁歩です」

「ああ、よろしく」


 司は未だに怯えまくっている仁歩に手を伸ばす。


「よ、よろしくほねがいします」


 握手を交わしたことで仁歩はようやく司のことを受け入れたらしい。恐る恐るではあるが琢也の後ろから出てきた。


「可愛い子じゃねえか、琢也。お前はこんな子がいながら別の女に手を出そうとしてんのか」

「ほうッ」


 司と握手を繋いだまま仁歩が素っ頓狂な声をあげた。


「仁歩、お前は琢也のことが好きなのか?」

「す、好き? え、えっと……」


 仁歩は照れと怯えと動揺とが渾然一体になった表情を浮かべ、


「す、すすすす好きですよ、そりゃあもちろん!」


 といきなり告白した。


 琢也はその言葉に思わず肩を跳ねさせた。いつもの冗談だろうと言い聞かせてみても、心臓はたしかに反応していた。俺には丸森さんが俺には丸森さんが、と胸を押さえながら呪文のように唱えていると、


「愛してるか?」


 司が再び燃料を投下。


「あ、あい……愛、愛、愛してます!」

「な、何口走ってんだお前は!」


 いい加減見かねた琢也は、己の胸中でぶくぶく泡立つ動揺を押さえ込みながら突っ込む。


「いいか、よく聞け琢也。大事だぞこういうのは」


 後輩の頭に手を乗せながら、司の悪人面が糾弾するようにこちらを向く。


「だから、俺には丸森さ──」


 言いかけて、止める。今はそれどころではない。


 仁歩はこうして無事に現れてくれたが、まだ白石が残っている。本題は解決していない。仁歩が見つかったからとはいえ、ここまで来て白石を無視することはできなかった。やつが居座っている部屋の住人に、何かが起きたのかも知れないのだから。


「司さん、どうしましょうか」

「とりあえず乗り込む。それしかねえだろ」

「けど無闇に乗り込むのは危険ですよ。何考えてるか分からない人間が相手なのに」

「こっちは二人、相手は一人だ。それにあいつは俺たちを追い返したと思って油断してる。やるなら今しかない」

「確かにそうかも知れないっですけど」 


 気弱そうな白石の顔を思い浮かべる。司のようなタイプの人間よりも、ああいう気弱そうなタイプが本気で怒ったときの方が怖いという話をよく聞く。何をしてくるかが未知数だからだ。


「あの、先輩。何が起きてるんですか今」


 困惑した様子の仁歩に事態をかいつまんで説明すると、


「あの部屋にはまだ人がいるっぽいですよ」


 と半ば予想していた答えが返ってきた。


「住人以外に、だよな?」


 琢也は波立つ恐怖心を押さえつけながら、出来る限り冷静に聞き返した。

「詳しい事は分かりませんけど、人が一人縛られていました」


 仁歩は右手で左手の袖を強く掴みながら、絞り出すようにして言った。


「司さん、俺、警察を呼んだ方がいいかと思ってましたけど」

「それじゃあ手遅れになるかも知れねえな」


 琢也と司は静かに白石がいる部屋に近付いていった。捕らわれている人間がいるならば悠長なことはできない。


 相手は一人、こっちは二人。


 白石が飛び道具でも持っていない限り分はこっちにある。琢也はそう自分に言い聞かせた。


「先輩、私が囮になりますよ」


 後ろから仁歩が小声で言ってきた。


「んなことやらせるか」

「やらせて下さい。私の方が向こうも油断すると思うんです」

「お前が危険な目にあうだろ」


 琢也が言うと、仁歩は笑いながら首を横に振る。


「大丈夫ですよ」


 それに少しだけ苛立ちを覚えた。


「大丈夫じゃねえって」


 軽々しく囮になると言い出す仁歩に対し、言葉は自然と少し強くなった。


「大事な後輩を白石の野郎に近づけられるわけないだろ」


 彼女は琢也の言葉に虚を突かれたように目を丸くし、それから薄く微笑んだ。


「インターホン越しにやり取りするだけです。ドアの前には先輩か司さんに立ってもらいます。相手は油断して出てくると思うので、そこをやっちゃって下さい」

「……インターホンだけか」


 それなら安全だろう、と琢也は納得した。


「インターホンで会話したら絶対にすぐ隠れろよ」

「もちろんです。先輩の後ろに隠れます」


 そうして仁歩は、すっすっすっとインターホンから自分の後ろに回り込むシミュレーションをしてみせる。軽快なフットワークだった。


「よし、扉が開いたらまず俺が中に入る。フォロー頼んだぞ」


 インターホンのカメラの死角に入りつつ、司が囁いた。


「分かりました」

「心配するな、お前らの愛は俺にも力を与えてくれている」

「はい」


 適当に頷いた。


「司さん、ぶっちゃけ喧嘩の経験って」

「生まれてから一度も負けたことはない」


 司は不敵に口角を釣り上げ、


「勝ったこともないけどな」

「喧嘩したことないってことすか」

「人と争ったのは運動会の騎馬戦くらいだ」


 心配になってきたがもう遅い。仁歩がインターホンのボタンを押した。廊下に響く空虚な呼びだし音に、緊張が高まっていく。あと数十秒後には白石の部屋に乗り込んでいるのだろうか。


『……はい?』


 白石がインターホンに出た。


「あ、あの私、です。新堂と言います。さっき勢い余って部屋から飛び出した者なんですけど」

『あ、ああ! 新堂さん! さっきの! ちょっと待っててください、今行きます』


 通話が切れる。仁歩はシミュレーション通りに琢也の背後に回り込み、ぐっと親指を立てた。


 扉の向こうから白石のものらしき足音が近付いてくる。司を先頭に、三人は扉の前に立つ。鍵を開ける音。ノブに手がかかり、扉が軋みながら開かれていく。


 司は扉の隙間に素早く手を差し込み、勢いよく手前に引いた。反動でつんのめった白石が、気弱な顔いっぱいに驚きを浮かべて外廊下に出てくる。それを狙い、司が白石の腰の辺りにタックル。


「うあっ」


 白石が呻きながら部屋の中に押し戻されていった。琢也と仁歩はその後に続いて部屋の中に乗り込む。絡み合った白石と司は騒々しく壁や靴箱にぶつかりながら、最終的にフローリングの廊下に築かれたゴミ山に着地した。


「な、なにするんですか衣笠さん!」

「黙れ。言い訳は通じない。俺たちはお前が何をしたのか全部分かってる」


 揉み合う二人に踏み潰されたゴミ袋が破け、中身がフローリングにこぼれ出す。ダンボールが崩れ、埃が舞い上がる。


「ああ! 折角掃除したのに!」

「何勝手に他人の家掃除してんだお前は! 自分の家ってのは嘘だったな!」

「えっ!」

「とぼけても無駄だぞ」

「……それは。それは、説明を省くためにそう言ったのであって! 嘘を吐いたことは謝りますが、事情は全部説明しようと思っていましたし、それにこんな乱暴なこと──」


 二人の取っ組み合いはだんだん収拾が付かなくなってきた。相手を傷つけたくはないが、押さえつけたい。傷つけずに抑えるためにはどうすればいいのか。暴力に不慣れなせいでどっちも決定的な動きが決められずにいる。


「……どうしよ」


 琢也は呟いた。仲裁に入るにはこの争いは激しすぎる。とりあえず白石を押さえ込むのが先かと思って踏み込むと、


「ちょっと! なに! 待って! はぁ!?」


 廊下の突きあたりにある部屋から、五人目の声が聞こえてきた。


「なにしてんの? ねえ、ちょっ」


 転がりながら廊下に出て来たのは、メガネを掛けた黒髪の女だった。


 廊下で揉み合う二人に女は慌てて近寄ろうとしたが、両手を縛られていたせいでバランスを失ったのか、スタートダッシュの勢いのまま廊下の壁に激突する。その音が騒動を決着するゴングとなり、その場は嘘のように静まりかえった。

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