挿話②

 時間は少し戻る。



 男の部屋から飛び出した仁歩は、目の前に広がっていたのが見慣れた自宅アパートの廊下だったことにあまり驚かなかった。うすうすそんな気はしていたのだ。男の部屋の間取りが自分の部屋と似ていたのは偶然ではない。同じアパートの部屋だからだ。


「ちょっ……待ッ──」


 部屋の中から男が呼ぶ声。仁歩は扉の取っ手を掴み、ありったけの力で閉じた。激しい音が廊下に響き渡る。近所迷惑など知ったことではない。こっちは貞操、あるいは命の危機なのだ。


 廊下を走って階段へ向かった。中高と運動部で鍛えた脚力を遺憾なく発揮し、屋上まで数段飛ばしで駆け上がる。部屋の中に琢也のボディバッグを置いてきたことを思い出したが、取りに戻るわけにはいかなかった。


 仁歩が住むアパートの屋上は基本的に立ち入り禁止だ。扉は固く施錠されていて、そのうえチェーンロックまでかけてある。なんでも、子どもが遊び半分で忍び込むからだという。


 しかし仁歩は抜け道を知っていた。


 まず、チェーンロックの番号は「6741」。「むなしい」と覚える。それから扉の鍵は、すぐ近くの壁に張り付いた消火器ケースの底にテープ止めされている。管理人が昔なくしたのを誰かが見つけ、以来一部の住人で秘密裏に共用しているのだ。


 手早く突破した扉の裏側に隠れ、再び鍵を掛けたときだった。誰かの足音が聞こえた。恐らくは男の足音だった。扉の前まで来て止まったかと思うと、ガチャガチャとノブが回される。心臓が鼻から飛び出しそうになって仁歩は顔面を両手で覆った。


「くっそ、足音したと思ったのに! 下か!」


 舌打ち混じりの声を残し、男の足音が扉の前から去っていく。


 仁歩は胸を撫で下ろした。一旦危機は去ったらしい。とはいえ油断はできない。あの男がこのアパートから立ち去らない限り、扉の外に出るなんてことは不可能だ。


 だから屋上へ向かった。


 頼りないフェンスに縁取られた殺風景な正方形の空間。午前二時の冷たい風に晒されて、初夏だというのに腕が粟立つ。だがこれはおそらく寒さだけのせいではない。


 足音を立てないようにフェンスの方へすり寄っていき、身を乗り出して下を覗き込んだ。街灯に照らされた、アパート前の路地が見下ろせる。黒猫が一匹、街灯の下を影のように過ぎった。不吉な予感に仁歩は冷たいフェンスの手摺りを強く握りしめる。


 地上を見下ろし、逃げた自分を追いかけてアパートからあの男が出てくるのを待った。アパートから出てどこかに自分を探しに行ったら、自室に戻って隠れようと決め

ていた。


 男はなかなか現れない。


 まさか戻ってくるのを待ち構えているのだろうか。そんなはずはない、と信じたい。


 もどかしく思いながら地面を覗き込むこと十分ほど。ようやく男の姿が現れた。彼はアパートの前の道を左に折れ、小走りで去っていく。駅の方に向かったようだった。


「いそげいそげ」


 来た道を戻り、扉を元通り施錠し、二階へ。念のため廊下に誰もいないことを確認してから、仁歩は自分の部屋に滑り込むようにして入った。二つある玄関の鍵を間違いなく掛け、普段は使わないドアチェーンまで閉めて万全の防御態勢を作りあげる。そこまでして不意にコンセントプラグが抜けたみたいに暗闇に崩れ落ちた。


 玄関に仰向けに寝転がると、屋上まで駆け上がった疲れが今になって太ももに押し寄せてきた。心臓の鼓動は恐怖と疲労とで乱れまくっている。


 あの男は誰なのだろう。あの部屋に転がっていたのは誰なのだろう。何のために転がされていたのだろう。そもそも自分は何であの部屋にいたのだろう。どうして隣の部屋だったのだろう。自室の天井を見つめても答えは出ない。アルコールのせいで記憶が曖昧なのが腹立たしい。


 思い出すのを諦めてゆっくりと身体を起こし、仁歩は扉を見つめた。


 ここまで来ればさすがに安全だろうと思う。あの男は仁歩が隣の部屋の住人だとは思わないだろうし、もしそれがばれたとしても部屋は三重にロックしてある。破られる可能性はほとんどない。ほとんどない、はずだ。


「……これから、どうしよう」


 問題はそこだった。


 こうして部屋に逃げ込んだのはいいものの、根本的には何も解決していない。隣の部屋ではまだ誰かが縛られたままでいる。あの男はいずれ戻ってくるだろう。そうなったときに隣の部屋にいた誰かがどうなるかなど想像もしたくない。


 仁歩は立ち上がり、キッチンへ行って水を飲んだ。知らぬ間に喉が枯れ果てていた。給水器から流れる水の音は、暗くて広いこの2DKの部屋にやけに大きく響いた。姉がいないことがたまらなく心細かった。


 後悔していた。後悔しなければならないことがあった。あのとき無茶な飲み方をしなければ。あのとき先輩と一緒に電車を降りていれば。そもそも酒を飲まなければ。馬鹿なことを考えなければ。もしかしたらこんな目には合っていなかったのかもしれなかった。


 頭が後悔で詰まってしまう前に、グラスに水をもう一杯注いだ。一気に飲んで後悔を喉の奥に流す。もう取り返しはつかない。悔いても過去は変わらない。だから今は隣の部屋の人をどうやって助け出すかを考えなければ。


 真っ先に思い浮かんだのはもちろん、警察に通報することだった。


 ──知らない男にアパートの一室に連れ込まれました。私は無事に脱出出来ました

が、まだ捕まっている人がいます。助けて下さい。


 それが一番手っ取り早くて確実な方法なのは間違いがない。だが、


「……スマホ……ない」


 頭を抱えてしゃがみ込んだ。どのポケットを探してもスマホが見つからなかった。

家に固定電話はない。電話がなければ警察に通報はできない。


「あるとしたら……」


 玄関を振り返り、自分で自分に問いかけた。スマホは隣の部屋にある可能性が高い。探しに行くなら、男が自分を探しに出ている今だけだ。しかし考えるまでもなくそれは危険な行為だった。いつ火が点くか分からない爆弾に飛び込んでいくようなものだし、仮に男が戻ってくるのが遅れたとしても、スマホが見つかるとも分からない。


「というかそれならいっそ私が助け出した方が早い、よね」


 落ち着きなく部屋の中を歩き回り、仁歩は逡巡する。


 助け出すと意気込むのは簡単だが、実際に助け出すのは困難に決まっていた。助けている途中に男が帰ってきたら。自分だけなら逃げ出せても、誰かを連れて逃げ出すのは無理だ。相手が一人で歩けないようなケガをしていたらなおさらのこと。男に仲間がいる可能性だってある。もしも仲間を連れて戻ってきたら、ますます逃げ出すのは困難になるだろう。


 賭けに出るか、危機が去るのをじっとここで待ち続けるか。


 二つの、難しすぎる選択だった。


 隣の部屋の誰かを見捨てることはできない。だが、危険を顧みないで人を助けるような勇気もない。他人のために自分を犠牲にすることができる人間などフィクションの中だけの存在だ。


 迷っているうちに部屋の外から数人分の足音が聞こえてきて、仁歩の全身に瞬時に緊張が走った。


「……帰ってきた?」


 仁歩は玄関から遠ざかり、キッチンの隅に丸くなった。男が帰ってきた。帰ってきてしまった。それも嫌な想像の通り、仲間を引き連れて。


「……先輩」


 目を閉じ、唇を引き結び、無意識のうちに琢也に助けを求めていた。


「先輩、助けて」


 来るわけがない。助けに来てくれるわけがない。そんなことは分かっているのに、逃げるように助けを求めてしまう。恐怖と心細さに削られて、自分がどんどん小さくなっていくようだ。


「せん、ぱい」


 声は静けさに飲まれて消える。蛇口に残っていた水滴がステンレスの流しに落ちて弾けた。


 部屋の外から小さな話し声が聞こえた。何を言っているのかは分からなかった。すると、


「マジか。俺の、バッグ!」


 一際大きな声が聞こえた。深夜のアパートには相応しくないその声に仁歩は反応した。


 聞き覚えのある声だった。それも身近な人の声。


「……先輩?」


 聞こえた声を何度も頭の中で繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、それは琢也の声であるような気がした。


 キッチンの隅から這い出て、音を殺して玄関に近寄っていく。耳を澄ませると隣の部屋のインターホンが鳴り、扉が開く音が聞こえた。


 慎重に扉の内側に張り付き、ドアスコープを覗き込んだ。丸く歪んだ廊下がレンズに映る。そこには誰の姿も見えない。玄関灯がぼんやりと白い光を放っているだけ。まだ話し声は聞こえるが、その内容も声の主も琢也であるかどうかも分からない。


 しばらくして隣の部屋の扉が閉じられた。足音が仁歩の部屋に近付いてくる。息を止め、髪の毛一本動かさない気持ちでドアスコープを覗き込む右目だけに意識を集中させた。


 男が一人横切った。


 黒い髪をオールバックにした、思わず叫びそうになるくらい凶悪な人相の男だった。


 仁歩はドアから剥がれるようにして玄関にへたり込んだ。全身から力が抜けていく。無理に決まっていた。あんな男が仲間にいるならば、隣の部屋に助けに行くなんて無理だった。


 仁歩は恐怖で一歩も動けなくなり、冷たい玄関にうずくまった。


 このまま何事も無く時間が過ぎていくことを願った。無事に朝が来てくれることを願った。隣の部屋の人のことを考える余裕などもうなかった。


 あの男が部屋の扉を蹴破って押し入ってくることを想像してしまう。それは心臓が握りつぶされるほどの恐怖だった。あの男が部屋に入ってきたら自分はどうなるのだろう。暴力を振るわれたり殺されたりするのだろうか。あるいは拉致されてどこかに売られてしまうのだろうか。どう想像を巡らせてみても、頭に明るい未来は浮かんでこなかった。


「先輩……助けて……先輩……先輩」


 せめて最後に琢也に会いたい。死ぬ前に、拉致される前に、せめて最後に一度、顔を見たい。


 そんな願いが通じたのだろうか。


「──!」


 声が聞こえた気がした。琢也の声が聞こえた気がした。


「──司さん! 待って下さい」


 確かに聞こえた。琢也の声だった。


 仁歩は顔を上げ、片足ずつゆっくりと立ち上がり、今にも涙がこぼれそうな目をドアスコープに押し当てる。


 廊下に琢也が立っていた。見間違いではない。奇跡だった。起きるはずのないことが起きた。


 気がついた時にはすでに扉を開けていた。


「せん、ぱい」


 隙間から震える声で呼んだ。琢也がこちらを振り向き、驚いたように、


「新ど」

「せんぱい!」


 仁歩は喜びの声とともに琢也の胸に向かって発射した。

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