あとがき

あとがき

 


 ブー、ブー、ブー

「はーい。もしもーし」

『あ、近藤さん。本田です』

「わかってますよ。表示されますから。どうかしました?」

『ホワイトデーのお返しを渡そうと思いまして。空いてる日ってありますか?』


 そう本田さんに呼び出されたのは、今度はあのバーではなく、地上十七階のホテルのカフェのテラス席でした。高級ホテル内のカフェに行くのなんて初めての事でしたから、うきうきしながら行ったのを、よく覚えています。霧に囲まれているので高さは見えませんが、吹く風が地上とは違いますから、なんとなく高所だと分かり、わずかに緊張するものです。

 そこで本田さんから、花音さんとのこと、それから学校を辞められたことを聞きました。あの日、私が本田さんに辞めたらどうだ、とけしかけたことはよく覚えています。酔って軽はずみにあんなことを言ってしまいました。本当に反省しています。私がそう謝ると、本田さんは私のせいじゃないよ、と慰めてくださいました。私が言っていなくても、いずれはそうなっていた。むしろ言ってくれたことで、最良のタイミングで辞めることができた、と。

 その言葉で慰められ落ち着きを取り戻した私は大事なことに気が付きました。ほんの二回会っただけの(傘を私が貸してあげた雨の日を入れれば三回)、それも一つ年下の小娘に言われて仕事を辞めるような人、いるわけないですよね? そう気づくと随分肩の荷も下りて気が大きくなり、この話を小説にしていいかと打診するとなんと快諾していただきました。

 そこからは根掘り葉掘りの取材です。お二人がまだ付き合っていたころから、いや本田さんの生まれから聞いていましたね。取材に集中してポッドの紅茶が冷めきることさえ気になりませんでした。

 取材をさせて頂いている間、本田さんは今でも花音さんのことがお好きなご様子でした。未練があるのとは違います。元に戻りたいという気持ちはあるでしょうけど、それは言葉通り、本当に過去の、楽しかった二人の関係に戻りたい、という意味で、ヨリを戻したい、という意味ではなさそうでした。

 さて、取材を終えて書き始めようとすると、一つ困ったことに気が付きました。この小説の主人公は本田さんに間違いないのですが、登場人物としてどうしても私が出てきてしまいます。傘を渡しただけならまだしも、相談に乗り、学校を辞めればとまで言ってしまっています。ターニングポイントにいる人物を話から消し去る訳にはいきませんし、では私ではない架空の人物に置き換えようとすると、どうもしっくりきません。

 なので、仕方なく私も端役として登場せざるを得ませんでした。私自身を小説の中に書くのは初めてのことでしたので、やや気恥ずかしかったですね。本田さんから見て、あまりに可愛すぎる、好きになりそう、くらい書きたかったのですが、それでは脚色が過ぎますから、泣く泣くカット。残念です。

 あ、そうそう。この小説を書くにあたって調べたのですが、昨今、職場内恋愛でのトラブルが増えているようですね。私のバイト先でもありました。やはり霧のせいでSNSが出来なくなって、出会いは減りましたからね。本田さんの身に起きた出来事自体はそれほど特殊なことじゃないのかもしれません。

 霧に包まれてからもう六年ですか。すっかりなじんで、適応した気になっていました。ですが、恋愛ひとつとっても、霧の影響は絶えずちらついています。わたしたちがこの生活に完全に慣れるのはいつのことになるのでしょう。

 さて、ここまでにしておきましょうか。みなさん、『君は霧中』いかがでしたか? 楽しんでいただけたら嬉しいです。

 最後に、取材に付き合って頂いた本田さん(仮名)、編集の田所さん、他ブックデザインや校閲の方々、それから、一文引用させて頂いた夏目漱石先生、ほんとうにありがとうございました。



   令和八年六月十日  近藤 玲




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君は霧中 杜松の実 @s-m-sakana

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