第3話
7、
「妃殿下、お加減はもうーー?」
「レイナアル妃殿下! 御身に大事はございませなんだか?」
「レンサは……父王様は……一体、何を考えておられるのか!」
王妃への気遣いと、聞いている病状との齟齬と、耳にしたばかりの窮状とで、一同の口吻は錯綜した。
しかし、口々に詰めよらんとした面々は、逆にレイナアル妃の視線に居竦められ、口を噤むことになった。それは到底、衰弱した病身の眼光ではあり得なかった。然りとて、元来の、快活な生命力に溢れたそれとも異なる。熱っぽく潤んだ双眸は、まるで人が違ったようにギラギラとした熾火めいた煌めきを孕んでるのだった。
「
ムラーブ王の詞は、丁重だが、冷めた響きがあった。
「はい。もうすっかり
レイナアル妃の応えもまた、取り澄ました形式的なものに感じられる。
「丁度よかった。今、カムポール卿の報告を聞いていたところだった。そなた、ふるさとの動向のわけを知ってはおらぬか?」
「はい。存じております。その為に、まかりこしましてございます」
「ほう……それで?」
「わたくしが、父王にゴルゴスへの出兵を進言いたしました」
レイナアル妃は、キッパリと断言し、
「ふん……」
王の態度は、もはや隠しようもなく、冷え冷えとしている。
「なにゆえなのか、そちの
矛先が、永年の近習に及んだ。密命を下した者と、下された者の視線が交差した。ナート卿は、しっかりと主を見返して云った。
「仰せのままにーー」
*
「
ナート卿は落ち着いた口調で語りだした。
「災厄が、正体不明の
喘ぐように、ゼアラ卿が呟いた。
「〈アルカニルの鏡〉か!」
「まさに」
苛々した様子で、ムラーブ王が割って入った。
「そのことは無論、承知だ。余自身が命じたのだからな。しかし今は、レンサの進攻について問い質しておるのだ!」
「畏れながら陛下、大いに関係があるので御座います」
ナート卿は続ける。
「御下命に際し、陛下は禍霊の
一同は、ギョッとして、目を剥いた。一斉に、恐ろしげに妃殿下を見遣る。
「そのようなことは申しておらぬ」
ムラーブ王は、不愉快そうに、そっぽを向いた。
「各々方も御承知の通り、〈鏡〉は、妖魅の真の姿を顕かにする神器。身どもは、王権の守護者たる円卓会議の一員として、妖魅を突き止め、滅せねばなりませぬ。ーー祖国のために」
武人たちは、その時点で、あらためてナート卿の位置取りに気づいたのだった。それは王妃殿下を護衛するとも、逆に、一刀のもとに切り捨てられるとも云える位置であったからだ。
「それと、これは推測で御座いますが、禍霊の正体は、おそらく妖術師ディ=ヴァマの生まれ変わりに御座います」
馬鹿なという失笑と、ヒッという悲鳴が交錯した。ゴルゴスの民として、どうしても半信半疑の反応になるのだった。
しかし王は違った。悲痛な面持ちになると、レイナアル妃の美しい
「ということは、禍霊ーーいやさ、ディ=ヴァマは、やはり、そこな王妃であったということで間違いないないのだな? だから他国の勢力を手引きしたのか?」
冷たい視線を受けて、王妃の眸に
「陛下ーー」
ナート卿が、痛ましげな表情で云った。
「妖魅に憑かれた者は、必ずしも、自身で自覚しているとは限らないようです。彼奴めは、人の心の僅かな隙間に忍び込み、本人の気づかぬうちに操るのです。さればこそーー〈アルカニルの鏡〉が必要なのです!」
ナート卿の合図で起こったことは、一同の予期できないことであった。聖堂上方の回廊に、忽然と侵入者が姿を現したのだった。戦士とおぼしきその男は、
その男は特異な身体能力を、いかんなく発揮した。回廊の
器用に背嚢から取り出したものを見て、一同はざわめいた。
異種族の男が、高窓の前に〈鏡〉を掲げると、それが起こった。
窓越しの陽光が〈鏡〉に差すや、円盤の
そのときであった。
およそ、人の発する声ではあり得ない、異形の叫びが鳴り渡った。聞く者の心をかきむしり、ときに精神までも狂わすような魂切る声だった。
その声の主は、〈鏡〉の蒼い光を浴びて、まるで自然発火でもしたかのように、突如としてその身が焔で包まれたのだった。此の世のものでない焔は、紅蓮のそれではなく、燐光めいた、蒼白い、熱のない焔なのだった。
不気味な焔を纏って、聖堂の冷たい大理石の床を転げ廻って悶える人物を、一同は茫然自失のていで見詰めた。
ゴルゴス王国の志尊ムラーブ王を。
8、
何より恐ろしく、おぞましいのは、国王こそが獅子身中の虫であったという事実ではなかった。古来、売国王などという蔑称を奉られた王族もないではない。されど、しゅうしゅうと異音を立て、鼻が曲がり涙が出るほど刺激性の
ナート卿のみが、ぐずぐずと不定形なそれが、クセノスで目撃した妖魅の成れの果てと瓜二つであると知っていた。だがしかし、この化け物の首魁は、その使嗾する妖魅とは一癖も二癖も違っていた。身の毛もよだつことに、溶解しつつあるその総身の一部が、
それは、
「陛下!」
そのまま燃え尽きんとする本体の残骸に、レイナアル妃が駆け寄った。
一方、本体から分かれて飛び出した方は、動く水溜りのごとく床を這って行った。明らかに遁走の態勢である。
それを見過ごすような男ーータルスではなかった。高窓から猫族めいたしなやかさで飛び降りると、ナート卿に〈鏡〉を放った。卿が受け取ったのを確認する間もあらば、水溜りに殺到する。
が、化け物は意想外の挙動を見せた。逃走ではなく、参列者のまとまりに向けて、反転したのだ。
運悪く、手近にいた廷臣が犠牲になった。足下から這い上がった〈水〉が、躰を伝って、忽ち頭部に到達した。苦悶の形に曲げられた廷臣の両の指が〈水〉をかきむしるが、粘度のあるそれのように、〈水〉は離れなかった。
やがて、強張っていた両手が、力なく垂れた。鼻腔や耳孔や口蓋に侵入した〈水〉が、廷臣を溺れさせたようであった。が、それで終いではなかった。取り憑いた〈水〉越しの顔貌が、雪が溶け出すかのごとく、見る間に崩れていくのだ。それが、おぞましい〈水〉の消化過程であることは一目瞭然であった。
「退がれ、下郎どもーー」
聴衆を侮辱するかのごとく、下顎がガクガクと揺れる。
「我こそは大魔道士ディ=ヴァマーー。暗黒の魔術の奥義を極めし〈達人〉なるぞーー」
ケッ、とタルスが唾を吐いた。
「死に損ないの食屍鬼が!
「
タルスも、負けずに、せせら嗤う。
「笑止千万! お前が何を成した? 精々が庭師のごとく
タルスの悪態が、図らずも的を得ていたことを誰が知ろう。ディ=ヴァマ本人ですら気づいてはいなかったのだが、彼の者はもはや、身も心も邪な神に冒し尽くされ、邪悪な高次の意思に弄ばれるだけの従属生物になり下がっていた。肉体の組成はこの世のものでない暗黒の物資に置き換えられており、狂った
その憐れな下僕が宣った。
「そこまでにしておけ、下賎の者。先ずは我の前世を傷つけし王の
「ほうれ、そこが既に粗略なことよ」
「何ぃーー」
そのとき、ムラーブ王にすがりついていたレイナアル妃が、すっくと立ち上がった。
「ゴルゴス王家は、絶えませぬ!」
そうして、両の手を下腹に添えた。
「ここに、高貴なる蒼き血筋が在りまする……」
懐妊の告白を受けるや、妖術師は王妃に躍りかかった。しかしそれは、タルス等の誘い水でもあった。いかに毒蛇めいた
狙い済ましたタルスの打突が、
「ゲエエェーー」
声ならぬ声があがった。痛撃を受けた〈水〉が、矢庭に蒼白い火を噴いたのだった。事前にタルスは、大地神ラドーの聖水にて
従って、その一撃が、穢れた
「おおおおおおんんーー」
獣じみた断末魔が聖堂に鳴り響き、やがてそれも消え失せた。妖術師の大怨もまた霧散したのであった。
9、
「斯くて、ゴルゴスの者、妖術師ディ=ヴァマを
と『南方覇王列記』は伝えている。王国を見舞った変事は、はたと止み、ゴルゴスは国勢を盛り返した。レンサ国のいっそうの助力が功を奏したのは云うまでもない。
年代記によれば、そののち、ゴルゴス王国では、レイナアル妃の産んだ御子を王位に据え、妃殿下は王太后となった。円卓会議は王権をよく支え、またナート卿は、幼王の摂政として妃殿下ともどもに仕えたという。
〈アルカニルの鏡〉を携えた異種族の男が国を去る姿を見たとの言い伝えもあるが、真偽のほどは定かではない。
いま、タルスの名はどこにも残っていない。
(了)
アルカニルの鏡 しげぞう @ikue201
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