第2話
4、
よもやナート卿の気迫の籠った
しかし、攻撃が卿に届くことはなかった。到達するより前に、黒い颶風めいた影が、女を見舞ったのだった。
それは、戦士姿の男の体当たりで、その恐るべき突進力ゆえ、何の身構えもなく側面に喰らった女は、四頭立て戦車に追突された歩兵のように、易々と吹き飛んだ。
突進して来た男は、勢いを殺さずに女に迫った。猫族のごとく軽々と跳び上がると、男は
男は追撃の手を緩めない。再び跳躍し、両足を揃えて、上方から思い切り首なし女の胸部を踏みつけた。相手が生身ならばこれで決着がついたであろう。骨が砕け、肉ごと内臓を傷める必殺の攻撃であった。実際、女の動きは沈黙したかに見えた。がーー。
あにはからんや、次の瞬間、弾き飛ばされたのは、男の方だった。
大の男が、幼子に放られた土人形がごとく宙を舞う光景は、到底この世のものとは思えなかった。しかも、その投擲の主はさらに信じがたい有り様に変じていた。
細身の女の上半身だった部分は、毒蛙の
ナート卿は、今度こそはと、水晶瓶の聖水を長剣の切っ先に振りかけた。果たして斯様な化け物に効果があるのか心許なかったが、他に頼れる手立てとてない。おそらく妖魅が受肉せしは、仮初めの実体であり、今のところ、それをどれほど傷つけようと、妖魅自体を害せているようには思えなかった。あとは大地神ラドーの超自然の威力に縋るばかりである。卿は剣先を上に向け、必殺の一撃を浴びせんと、前進しかけた。
「そいつに構うな! 此方だ!」
声の方を見遣れば、今まさに、男がナート卿に向けて女の生首を放り投げたところであった。卿は即座に反応した。
裂帛の気合いとともに長剣が
もし男たちに時の流れを緩める力があったならば、分断された肉片が急速に黒ずんでいったおぞましいさまを目にすることが出来たろう。それは地に着くやグズグズと溶け、異臭を放つ汚泥のような染みとなったのだった。
その変化は、首なしの胴体も同じだった。おおよそは女の姿をしていたそれだが、今や熱を浴びた蝋のようにどろどろになっていた。すぐに、腐肉めいた悪臭を放つ、穢らわしい水溜まりが出来た。
「大したものだな! 魔術というやつか!」
首を放り投げた男が、感嘆しながらやって来た。化け物にあれほど手酷く扱われたのに、少し足を引き摺るくらいで、事もなげに歩いている。おそらくは、何らかの体術を習得しているのだろうと思われた。ナート卿は、聖水の効力に感謝しつつも、独りではこの化け物退治をやりおおせたか危ういものだったな、と承知していた。男の助力が大であった。
その男は、話に聞いていた通り、
よく陽に焼けた膚は赤銅色で元々の肌色は窺い知れない。頭に防具はなく、無造作に刈った黒髪は
「ひょっとして、それが魔法の剣とやらか?」
男は、開けっ広げな顔で、ナート卿の手にしている長剣に興味を示した。そのキラキラと耀く
決して整った相貌ではない。少なくとも、ゴルゴス王国の貴族階級の基準ではそうならざるを得ない。鼻は低く、頬骨は高く、顎は頑丈そうに張っていた。唇はやや厚ぼったいうえ、少し曲がってもいた。特段、男らしく武張っているとも云えず、かといって人が良い風にも見えない。人によっては、小狡そうな鼬を連想してもおかしくはない顔立ちである。
しかし、そういった部分部分の不恰好さにも拘らず、全体は不思議と調和しており、何ともいえない愛嬌を醸し出しているのだった。火遊びの相手に選ばれるかはさておき、宮廷の辛辣な女官たちにでさえ、十人中九人には好印象を持たれると思われた。
「いや、これは左様な業物ではーー」
何気なく答えたことに、ナート卿自身が内心、驚いた。警戒心を解いたわけではないが、自然に口をついてしまったのだった。そうさせてしまう雰囲気を、男は纏っているのだった。
「ほう? 聖水とはな! それは素手にかかっても毒ではないのか?」
求められるまま、水晶瓶を渡すと、男は少量をこわごわ己の手にとって驚嘆しきりである。
「面妖な! 僅かに冷気を感じるぞ」
「待て待て、無駄遣いされては困る。まだ、妖魅がいるかもしれぬからな」
「然りだな」
男は瓶を返すと、だが、と続けた。
「おそらくは、大丈夫だろうよ。あれが化け物の本体さ。無論、用心に越したことはないがな」
「なぜそう云える?」
「ディ=ヴァマの残した〈三つ呪い〉の二つ目だからさ」
5、
男の断言に、ナート卿は期せずして唸りをあげた。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。尤も、それはザレッポスの民なればこそ、
ディ=ヴァマは、三百年前の神官長にして、ゴルゴス王国の二頭体制の一翼を担う祭祀王でもあった。しかし、己れの妖術を恃む思い上がりと、大地神ラドーに敵対する邪な神を祀る信仰に憑かれたため、恐るべき野望を抱いたのだった。異なる次元から、口にするのも罰当たりな妖魅どもを召喚し、その軍勢をもって大陸に覇を唱えようとしたのである。
ところが、妖魅を用いた進攻の行く末が、ゴルゴスの覇権などという穏当なものではなく、焦土と化した汚染された大地しかないと見抜いた智者がいた。身分の低い一兵卒だったその男は、密かに一部の武人を糾合した。そして
死に際して、ヴァマは呪いの言葉を発した。その一つ目の呪いの効果によって、クセノスは密林に呑み込まれた。それは、民人が逃げる間もないほど激烈な速度の緑の伸長であり、当時の首都の人口の半数が、瞬く間に密林の肥やしとなった。
二つ目の呪いは、ディ=ヴァマの邪心を顕かにした〈アルカニルの鏡〉を、余人の手に渡らぬように画策したことだった。さしもの妖術師も神器を破壊力することは叶わなかったが、今際の際、己れの魂を
そして三つ目の呪いだがーー。
「まさか……ディ=ヴァマが復活するというのか!」
呪いの三つ目は、後世、地獄より転生して舞い戻り、必ずやゴルゴスに仇をなすと云うものだった。神々への敬意や超自然のことどもが遠ざかって久しいゴルゴスの民人には、それに備えるのはもはや難しいだろう。男の云うことが真ならばーーいまやナート卿はそれを確信していたーーその呪いは、実現しつつあるのだった。
*
いよいよ双嶺殿に近づくと、あらためてその偉容に、ナート卿は驚嘆せずにはおれなかった。
壁面もまた、乾季のさ中と思えぬほど
神獣で飾り立てられた城門の破風から目を剥がして、ナート卿は同道する男ーー今ではタルスという名の戦士と知ったーーを窺った。タルスによれば、謁見の間は、二つの嶺の狭間の鞍部に当たる位置にあるのだという。彼はナート卿に先行して、すでに双嶺殿に到達していた。タルスの目的もまた、〈アルカニルの鏡〉なのだった。その依頼主とはーー。
「こっちだ」
上方からの声に物思いから引き剥がされたナート卿は、慌てて、正門の短く幅広の
目が利くのかタルスは、すでにずんずんと先に進んでいた。ナート卿も、後に従った。
幾つもの階段と柱廊、控えの間や、美しい弧を描く半円形の天井を持つ大回廊を通り抜けた。その先の、開け放たれた、どっしりとした両開きの大扉の先が、目的地であった。
謁見の間は、巨大な
方形の空間の周囲には、台座にまで抜かりなく浮彫の施された列柱が連なり、その合間にある、いまだ朽ち切っていない壁掛けの精緻な模様が、往古の権勢を偲ばせた。埃の積もった床石から一段高い壇が奥にあって、その上に玉座が設えてあった。
ナート卿は、注意深く何度も見渡したが、どこにも鏡らしき物は見当たらなかった。タルスはというと広間の中央部、ちょうど穹窿の真下にあたる箇所に居て、そこにナート卿を呼ぶのだった。
その場に立って、云われるがままに、首を反らして見上げた。
「あれが、〈アルカニルの鏡〉だ」
「何だと!? まことか?」
「何だ、おぬし、捜し物がどれかも知らずに来たのか?」
余所者に呆れられて、ナート卿は憮然となった。しかし、己れの迂闊さを省みてグッと堪えた。
「ーーして、どのようにあれを取るのだ?」
ふむ、とタルスは
「しかし、それではーー」
云い淀んだナート卿の詞を、タルスが補った。
「貴殿が〈アルカニルの鏡〉を持ち去るかもしれぬ可能性を、どうして俺が等閑視しているかを知りたいのか?」タルスがニヤリと笑う。「なに、我らの目標は同じ。ゴルゴス王宮に〈アルカニルの鏡〉を持ち帰ることだ。それが貴殿か俺かの違いにすぎんのではないのかな?」
斯様にあっさりと云われては、寧ろ、卑怯な振る舞いはしづらくなる。尤も、タルスの言を信じるならば、如何にもその通りなのであった。何となれば、タルスの依頼主というのは、レイナアル妃殿下なのだった。
6、
ゴルゴスの、まさに王国の存否を賭けた決戦は、勇壮な
離宮は主に三つの建屋から成っていた。
その日、離宮にゴルゴスの上つ方たちが蝟集したのは、正妃たるレイナアル殿下が
先般の通り、レイナアル妃殿下はーーというよりその生国レンサの財はーーいまやゴルゴス王国の
*
神官団の病魔退散の祈祷は、
正多角形の聖堂は、中央に乳白色の方解石でできた内陣があって、その聖別された場所の真ん中に黒石の神像が鎮座しているのだった。神官たちは、内陣で像を取り囲むように配置され、各人が経文や香炉を手にして儀式を執り行っていた。また一部は、内陣上方の壁をぐるりと囲む回廊を持ち場として、そこで
南向きの高窓から射す陽射しが、神像の上に注ぐよう慎重に設計されており、今は乾季の強い光が、内陣の場景を、自ずと一幅の荘厳な祭壇画となしていた。
身廊で儀式に参列している者たちは、王であっても、ひとしなみ神像に
聖句を一同が唱和し、儀式は終了した。神官団には、些か安堵の色があった。悪魔祓い師の惨状を思い、内心では怯えきっていたのだった。その証拠に、内陣にいた者たちも、回廊にいた者たちも、そそくさとその場を後にしたのだった。
参列者が移動しようとしたとき、聖堂に駆け込んできた者があった。
「伝令! ムラーブ王陛下に拝謁賜りたし!」
それは、儀式に欠席していた円卓会議の面子のひとり、カムポール卿であった。
「控えろ! 神前なるぞ!」
一喝したのは、円卓会議の長老、ロディヴァマン卿だった。よほど焦眉の急であったか、年若いカムポール卿は略装のままであった。卿は、周章てて跪いた。が、
「よいのだ、ロディヴァマン翁。わたしが赦す」
制したのは、ムラーブ王その人であった。
「そちに頼んでおいた件であろうな? 申せ」
「ですがーー」
「構わん」
ハッ、と短い応えで、カムポール卿は話し出した。
「陛下のご賢察通り、北東の国境線にて、武装したる一団を観取いたしましてございますーー」
ゴルゴス王国の
「鎮まれ!」
今度は、王が一喝した。
「すでに
なんと、と驚きの声があがった。派遣されたのは、沿岸部で海賊討伐に当たっていたグッカ=ワス卿であるという。
「なにゆえ、我等にお知らせくださりませなんだ!」
色をなして王に詰めよったのは、またもゼアラ卿である。慣例では兵を動かすには円卓会議に
すると王は、あっさりと頭を下げた。
「赦せ、卿ら。そなたらを
一転して、泡をくったのはゼアラ卿である。片膝をついてハハッ、と頭を下げた。確かに、誰にも予想し得ないという意味では、意表をついた采配なのは間違いなかった。
「敵、とは如何なる者を思し召しか?」
歴戦のロディヴァマン卿が、落ち着いて場を取りまとめ始めた。
「北東の国境と云うと、レンサ国の方でございます。されど彼の国は王妃殿下の
「それなのだがーー」
そのとき聖堂内に、再びどよめきが沸き起こった。今度の源は、
緊張した面持ちの男は、祈祷に出席していなかった円卓会議のナート卿であった。しかし、一同が驚きの声をあげたのは、ナート卿の後ろから続いて入ってきた人物を見たからだった。それは、病牀に伏せっているはずのレイナアル妃殿下その人であった。
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